パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「先生」、フー?

2006-10-20 22:19:47 | Weblog
 ドアを開け放してパソコンをいじっていたら、いきなり、「先生!」という声がした。振り返ると、中年おやじが五、六枚の何かの招待券のようなものを扇状にこちらに向けて広げ、「差し上げます」と言う。なんだろうと思ったが、貰えるなら貰おうと手を出したら、「新聞、とって下さい」。
 なんだ、新聞勧誘か。どこの新聞かは知らないが、コンビニで買うからいいよ、と断ると、男は、「先生、先生は何の研究をしているのです?」と言う。「い、いや別に……」と言葉を濁すと、「量子力学ですか?」と言う。多分、本棚にナツメ社の「図解雑学シリーズ」の、宇宙とか量子力学なんてのが並んでいたので、それを目敏く見つけておだてにかかったのだろう。まことに光栄なお見立てだが、私を「先生」と呼ぶ人は他にもいる。大家さんだ。いや、どうも……。

 と、おだてに乗って、古本屋で、ハイゼンベルクの「部分と全体」を見つけて買った。以前、豪徳寺の古本屋で見たが、難しそうで買わなかった。しかし、おだてられたもので……いや、まだ、最初の「原子学説との最初の出会い」という章しか読んでいないが、実にわかりやすく、かつ面白い。

 ハイゼンベルクは物質の最小単位である素粒子の世界では観測によってその状態を確定的に知ることは決してできないという経験的事実を、「不確定性原理」という「原理」として確定したことで有名な物理学者だが、若い頃から登山が好きで、まだ二十歳にならない前、同好の友とハイキングをしているとき、我々が与えられている教科書には一個の炭素原子と二個の酸素原子が「ホックと留金」で結び付けられて、炭酸ガスの分子となっているが、「ホックと留金」って、あれは何を意味しているのだろうと言った。この「問いかけ」から友達との問答がはじまるが、その結論は、「我々はそれを見ることは決してできず、ただ、その働きを知るだけだろう」と、後年の量子力学の原理を予見するような結論を得ている。友達ともども、ツゴイ。

 ちなみに、ハイゼンベルクの「部分と全体」は稲垣足穂がもっとも「執着」した本で、「ハイゼンベルク変奏曲」という未刊の原稿を残しているそうだ。なぜ、未刊かというと、その内容がほとんど「部分と全体」そのものだからだそうだ。もちろん、未刊だから我々はそれを見ることができないが、「ハイゼンベルク変奏曲」の第一章のタイトルは、「ホックと留金」だそうで、内容もなんとなく想像がつくような気がする。たしかに、「ホックと留金」とは、いかにも足穂らしいが、彼がどこまで量子力学を理解していたかはわからない。なんたって、図解雑学シリーズがなかったからなあ(笑)。いや、あれは、実にいいシリーズだ。

 ところで、同じ古本屋で、植草甚一スクラップブック「ハリウッドのことを話そう」を購入。植草甚一スクラップシリーズは全部で44巻もあり、その多くは無名時代の原稿らしい。「ハリウッドのことを話そう」もそうで、一番新しいので1969年の「話の特集」掲載原稿。一番古いのは1949年、ほとんどは1950年代で占められている。これは年齢的なものもあるだろうが(1908年生まれ)70年以降のいわゆる「ニューシネマ」は、あまり肌に合わなかったのかもしれない。
 いずれにせよ、無名時代の古いものも、アメリカの雑誌や小説の紹介引用という、植草スタイルだ。それも、どこからどこまでが引用なのか、よくわからなくなったりするが、うまいものである。もちろん、ただうまいだけではなく、どこを引用するかが重要で、ここですべては決まってくるが、それがさりげないのでつい気がつかない。読み手が「気がつかない」のでは、しょうがないではないかと思ったりするが、実は、そこが植草甚一の「粋」なところ。
 たとえば、1969年の原稿は、日米合作の「トラ・トラ・トラ!」について、こんな風に書いてある。
 プロデューサーがスタッフを集めて、こう言った。「これはとても大事なことなので、忘れないようにしてもらいたいが、たとえばシカゴに男がいたとする。頭の程度は普通だ。その彼が世界地図を開いて日本を見たとすると、日本は、彼の左側にある。したがって、映画でも、日本の爆撃機は必ず、左から飛んでこなければならない。それを、我がアメリカの戦闘機が右から現れて左へ追い返すのだ。ともかく、左から右に飛んでいる飛行機があれば、それは日本機だとすぐにわかるようにしなければいけないんだ」

 阿呆みたいだが、映画では大事なことだ。何故なら、映画とは観客の主観で見ているわけだから、日本軍の飛行機が右から現れたら、アメリカ人の観客の頭の中の世界地図と合わず、混乱してしまう。もちろん、ドッグファイトの場合は別だが、その場合は、必ず、たとえば「うしろを振り返って驚く米軍パイロットの顔」といったシーンがインサートされなければならない。そしてこれが厳格に守られるのがハリウッド映画なんだ。

 なんか植草調になってしまった。