パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

漱石とフォークナー

2009-09-26 17:11:22 | Weblog
 俳優さん、なかんずく声優さんの「声」が一般人より「若い」件については、ジンマーマンという、心理学者だか哲学者だか知らないが、そういう著名な学者がすでにちゃんと理論化しているらしい。

 すなわち曰く、俳優という職業は、擬似的とはいえ、色々な職業(人生)を生きる。

 つまり、一つの職業に、擬似的とはいえ、縛られない。

 ジンマーマンは、これを「俳優的自由」と呼んだのだそうだが、この一つの役柄に縛られない俳優的「自由」が、俳優をして、通常、一つの役柄しか持たない一般人よりも「若く」見せるということらしい。

 漱石の『坑夫』、フォークナーの『赤い葉』、コンラッドの『青春』を読む。(なかなか渋いラインナップだろ)

 読み終わって感じたことは、漱石の、最下層に生きる人々(坑夫)に対する、あまりと言えばあまりな「同情心の欠如」だ。

 コンラッドの『青春』は、「私」が二等航海士としてはじめてアジア航路に乗り出した時の冒険譚で、作中、「水夫」に対して「愚か」だとか、「怠惰」だとか散々悪口を言わせるのだが、そこには何か連帯心のようなものがほの見えて、「悪口ばかり」ではないことがわかる。

 実際、お話のクライマックス(船火事)では、彼ら、怠け者の水夫たちは命令もないのに立派に自分たちの役割を果たす。

 フォークナーの『赤い葉』の場合は、インディアンの首長に奴隷として買われ、首長の死とともに「殉死」を求められる黒人の話だけれど、この可哀想な運命の黒人に対するフォークナーの目は、「同情心」を遥かに越えている。

 冒頭、「殉死」を避けて逃げ出した黒人奴隷を探している二人のインディアンの会話から始まるのだけれど、インディアンはこう言う。

 「昔は奴隷居住区もなければ、黒んぼもいなかったよ。そのころは、人間の時間はその人自身のものだったんだ。自分の時間を持っていたんだ。ところがこの節ときたら、人は時間の大部分を、汗を流して仕事をするのが好きな奴ら(この会話においては、端的に「黒人奴隷」)に仕事を見つけてやるためにすごさにゃならんのだよ」

 フォークナーにとって黒人奴隷とは、「汗をかく以外に、奴らを満足させるものなんかない」ような存在、つまり、近・現代人そのものの存在様式の象徴なわけだ。

 漱石には残念ながら、このフォークナーのような、幅の広い、深い認識はみじんもない。

 ただ悪態をつくだけだ。

 もちろん、『坑夫』は、ただ悪態だけで終始して終わるような作品ではないけれど。

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