パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

オレが括約筋だった時……イエイ

2008-02-05 19:26:28 | Weblog
 先週の金曜日、満員の京浜東北線に無理矢理乗り込んだ。金曜日遅くはいつも超満員なのだが、その日はいつもにまして凄かった。東京で一番混む電車は御徒町上野間だとの新聞記事を思い起こしながら、もうじきここともおさらばだ、チクショーと舌打ちしているうちに、電車は鴬谷に着いたが、ここでは乗る人も降りる人もなく、出口近くに貼り付いて吐き出されそうになるのを頑張って耐えていたところ、背中に微妙な蠕動を感じた。そして、それが少しずつ大きくなる。「ん?」と思っていると、遠くからかすかに「おりま~す」という女性の声が聞こえて来た。そして、先ほどから感じていた「蠕動」運動はますます大きくなり、やがて女性の姿が少し見えて来たので、私は、全身を踏ん張ってその女性のために空間をあけると、その女性は私の前を通り抜け、本当に「スポン」という感じで外に出ることが出来た。
 その時、私は考えた。なるほど、これが、「うんこ」の出るメカニズムだな、と。私を「括約筋」にたとえれば、女性は(若い小柄な、女性だった)「うんこ」だったのだ。

 ところで、世間を騒がせている中国製餃子問題だが、過剰反応ではないかという人がいるが、ちょっと待てよ、と言いたい。いったい、今回の汚染製品の輸出は初犯じゃない。前科何犯になるかわからないが、相当数の「前科」を重ねているじゃないか。また、ある新聞記事には、中国の食品が摘発される率が大きいように感じるが、実際の数字では他の国とそんなに違わないと書いてあったが、たとえば、その「率」を1%とすると、他の国、たとえばタイ産食品の輸入総数を100とすれば、そのうち1個が不適切とみなされるが、中国からの輸入総数は優に10000くらいはあるだろう。だとしたら、中国製品中の不適切な数は100ということになり、したがってわれわれが「やばい」と感じる確率は、中国製品はタイ製品の百倍ということになる。「感じる確率」というのも変な言い方かもしれないが、要するに、「実感」のことだ。仮に、摘発率そのものは同じでも、中国製食品と他国産の食品の絶対量が桁違いなんだから、「実感」は異なるし、それは無視していいことではないだろう。

 それに、たしか中南米のどこかの国だったか、去年、中国の原材料を使った風邪薬で100人以上の死者が出た。ところが、中国は、「まちがった使い方をした方が悪い」で押し切ってしまった。あるいは、幼児向けのおもちゃに不適切な鉛入りの塗料が使われていたとか、これらの事件は、「食品」ではないから、前述の統計には入らないのだろうが、消費者の「感覚」としては、すべて「中国製品はヤバい」という印象となって現れる。これでは、オリンピックは大丈夫なのだろうかという疑念が再び大きくなるのもやむを得ない。オリンピック会場のプールの水は、「飲んでも平気」であると中国の役人が言ったみたいだが、そもそもこんなことが問題になるってことが……。「ある意味、とても楽しみ」とか言っているやつがいたが、正直言って、同感だ。同感しちゃいけないのかもしれないが。

 それにしても朝日新聞言ってくれますねえ。「これを機に雨振って地固まるの精神で」と言わんばかりなのはなんとまあ、呑気というか、お人好しというか……(社説の話)。しかし、これは朝日だけじゃない、産経だって似たようなものだ。曰く、日中両政府がしっかり協力して真相解明に当たれと言っている点では、全マスコミが同一なのだが……まあ、対外的にはこんな風に「お茶を濁す」しかないのはわかるけれど、もう少し、「含みのある文章」というものをかけないものかね、マスコミは。

 今回の毒餃子事件は、要するに中国の「公害」の輸出ということだと思うのだが、一体、中国の公害に対する非難が、全世界共通であまり強くないのはなぜなのかというと、要するに、「日本で解決できたのだから、中国に出来ないはずはない」ということらしい。公害だけでなく、経済全般にそういう見方らしい。つまり、「中国の前途にはむずかしい問題が山積しているが、日本が乗り越えられたのだから、中国ができないはずはない」と。

 外国人から見たら、日本と中国の区別がつかない人が大部分だから、こういう見方になるのだが、中国が公害を解決できないと決めつける積もりはないけれど、少なくとも、「日本式」のやり方で解決できるとは思わない。百%ない。断言する。
 実際、中国にしても「日本式」でことにあたるつもりはないだろう。いや、その前に、「日本式」がどんなものか知らないだろうが……とかいって、実は、私もよくわからない。なんとなく、みんなで一丸となって、国難=公害に対処した、という感じなのだろうが、だとしたら、これは中国人には絶対に金輪際不可能だ。

 そもそも日本人と中国人の区別がつかない最大の理由は、両国とも「儒教社会」だという思い込みがある。しかし、実際には両国の儒教の在り方は全然ちがう。中国の場合は、社会の実体が反儒教的なので、儒教的倫理で縛ろうというものだ。ぶっちゃけて言うと、まず中国は「大家族社会」である。これは親戚一同が集まって暮らすのだが、その目的は「他家に負けないこと」であるため、どうしても徹底した実力主義になる。しかし、実力主義というと聞こえはいいが、家長の交代の際に非常な混乱を伴う。そこでそれを抑えるために孔子が「長幼の序」を厳しく唱えた。これが儒教だ。ところがこの儒教原則は、何故かわからないが、「制度化」されることがなく、ただ「社会の実体が反儒教的なので儒教が必要だ」という発足当初の在り方のまま、現在にいたっている。

 その証拠を、ちょっと前にNHKのドキュメンタリー番組で見つけた。

 ある老夫婦がいる。インテリ風で、財産もそこそこあるようで、息子は既に妻をもち、自立している。その息子から電話がかかり、お茶を送れという。老父は、息子に「お前はちゃんと収入があるではないか。お茶ぐらい自分で買えないのか」と言うと、息子は、「あんたんところにお茶があるんだったら、なんでオレが買う必要があるんだ。」
 これを聞いてびっくり仰天。中国では、父母を敬うこと神のごとしと言うけれど、これは上辺だけ、実際はその正反対なのだ、と言う話はよく読んだり、聞いたりするのだけれど、テレビとはいえ目の当たりにして、「いや、あの話は本当だったんだ」と感激(?)したものだった。

 まあ、日本だって「立っているものは親でも使え」とか言うけれど、まさか、面と向かって(番組では電話だったが)「おまえ、立っているんだから○○しろよ」とは言わないだろう。いや、儒教社会ではない国だって、「父母」が特別な存在であることに変わりはないのだから、「立っているものは親でも使え」を地で行くようなことはしないだろう。というか、絶対に「しない」。

 ともかく、これが中国の儒教社会の「実体」なのだが、日本の「儒教社会」は、この儒教の「上辺」を「制度」として取り入れたものなので、外から見た「上辺」は中国とあまり変わりないように見えるかもしれないが、根本的にちがっているわけだ。

 「公害」の話からそれてしまったが、要するに、「立っているものは親でも使え」を親に向かって直に平気で要求するほどまでに「利己的」な中国人に、そもそも「公害」を解決しなければならないとするモチベーションというか、インセンティブというか、そういう心理的規制があり得るのかどうか甚だ疑問であり、結局、いつもの通り、最後まで突き進んで自壊するしかないのではないかとか思ってしまうのだ。


 「括約筋とう○こ」の話でお茶を濁す積もりが思わぬ長話に。でも、ホントにネタが尽きないなあ、中国って。

 ちなみに、息子にお茶を要求された父親は、反論せず黙ってしたがっていた。これは、自分も若い頃は同じだったから、ということなのだろうか? 

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2 コメント

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Unknown (さくらこ)
2008-02-08 14:21:32
う○こから中国まで。
素敵すぎです、南原さん!
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Unknown (南原)
2008-02-09 21:28:15
いや、まあ…(笑)、でも、本当に北京オリンピックはどうなるのか。もちろんやることはやるんだろうけど。
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