パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

私は大原麗子を見たか?

2009-08-09 16:06:04 | Weblog
 先週起きたことで大原麗子の訃報が抜けていた。

 大原麗子は一度か二度見たことがある。

 一度はお茶の水の聖橋のたもとで映画かなにかの撮影をしていて、その休憩中に木陰で小さくなって休んでいるところだった。

 後ろ姿しか見えなかったが、通行人が「大原麗子よ」とかなんとか囁いているのが聞こえたので、ああ、そうかと思ったのだった。

 非常に「小さい人」という印象があった。

 白いハンカチか手拭を日よけにして、通行人に背を向け、うずくまっていた。

 子猫みたいだった。

 もう一回は、定かでないのだけれど、『さらば宇宙戦艦ヤマト』の試写会である。

 私は、『さらば~』のファン倶楽部の機関誌の編集をアルバイトで行なっていたので、誰か有名人を見かけたら写真に撮っておいてくれ、と言われていたのだが、その一人が大原麗子だった。

 そう教えてくれたのは、ファン倶楽部のスタッフの女の子で、「ほら、あそこにいる! 早く撮って」と言われたのだが、どれが大原麗子だか、全然わからない。

 「え? わからないよ~」

 と答えると、「ほら、そこそこ…すぐそこよ、ほら目の前…あ~いっちゃった」

 というわけで、私は彼女を見つけることができなかったのだった。

 そういうわけで、「一度か二度」と書いたのだったが、ともかく、彼女の実物は極めて普通に見える人ではなかったかと思う。

 でも、そういう人が映画や舞台に出ると、俄然、オーラを発揮するのだけれど。

 テレビで見る彼女の住んでいた家は相当立派で、売り払うなりなんなりすれば、ホスピス施設に入って至れり尽くせりの世話を受けることができたはず。

 大原麗子はそれが嫌だったのだろう。

 だから、彼女の死を「悲劇」扱いするのはよくないと思う。

 田中康夫が、「新党日本」の選挙マニフェストとして、「ベーシックインカム制度」の導入を宣言していた。

 話が少し飛ぶけれど、イギリスなどで、「就労支援制度」として、だいたい若者が中心なのだが、失業中の人間に就職に必要な職業訓練を施し、それを受けている間、生活費を国が援助するような試みを行なっているようで、NHKはこの政策が好きらしく、なんども、若者が洗濯機を修理しているところなどを放映していた。

 しかし、私に言わせればこれはまったくナンセンスだと思う。

 そもそも技術を習得したからといって、じゃあ、すぐに就職できるのか?

 手に技術を持っていても就職できない、それで問題になっているのではないのか?

 この政策で確実に潤うのは、そこで「技術」を教える先生、そして、その段取りを整える官僚だ。(「先生」も多分、官僚がなるのだろう)

 この政策は、人間を「労働力」とみなし、その「労働」の多寡、質によって給料が払われ、それで生きていくという、近代特有の価値観,倫理観を前提にしている。

 つまり、貧困問題を、雇用問題として考え、雇用を増やすことで解決しようとしているわけだが、ベーシックインカムは、このような構図に根本的に異議を唱えているわけだ。

 要するに、ベーシックインカム制度の元では、「労働」は、「より豊かに生活したい人」か、労働そのものに「生き甲斐」を求める人が行なうことになる。

 それ以外の人、ベーシックインカムが保証する生活レベルで充分である、そして、自分の「生き甲斐」(あるいは、人間自身の生産性)は、「労働」ではなく、たとえば、詩を書いたり、絵を描いたり、あるいはボランティア活動に求めようという人は、あえて働かなくてもいいことになる。

 このことをどのように説得性を持って主張できるか。

 また、ベーシックインカムという制度は、健康保険から、年金まで、従来の福祉政策をすべて、国が支給する「基礎的収入」に一本化しようという制度でもある。

 つまり、今の福祉制度では、そこに投入する金の2,3割は役人の懐に納まってしまうので、ベーシックインカム制度は、それを劇的に減らすことができる。

 ということを田中康夫は強調するといいと思うのだが…そこまでズバッと言えるかどうかだな、問題は。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿