Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

共・有時試論 補遺その1

2011-10-03 23:16:52 | 異形の滓
辛うじて文章化したものを補遺としてアップしますが、分かりづらいことは否めませんので、初めにお断りしておきます。

因果律

問うことに意味がないは、その問いが初めから問われなかったことになります。
この非論理を論理的と考えることを強います。

また、

対象は、認識、見る、観察、意識等により対象自ら性質を規定する、その性質の現れ方は確率にしか過ぎません。

と、同じことが言えます。

過程の真ん中が欠落していますが、何が欠落しているのか問うことが出来ません。

ですから、敗戦後から、維新後から、戦国後から、大化の改新後から、縄文、石器、人類誕生、恐竜等から現在の社会を貫く歴史的イデオロギーに普遍性を定義づけることには、二重の誤謬が覗いています。



テーブルに林檎があります。
小一時間前にスーパーで買ったものです。

ここに、消費、貨幣、商品、流通、労働等を見るのでしょうか。
林檎そのものを考えると、生産、品種、改良、原生種、伝播、また色、形、味、歯触り、香り、また、スケッチ跡、食べられることなく腐敗、家庭菜園の肥料として大地に。

これらの一部分を、任意に、恣意的に、偶然に切り出し、法則を、また、この事を問うことの無意味を、問いがそもそも無かった、と。

このように、量子(力)学の難解で面白い混乱の質があります。


辛うじて論理は止揚だけが、保持されていると考えます。

つづく