Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

玉葱の自我 その1

2011-02-13 08:52:27 | 未分類
昨夜、11.01.09 NHK教育で放送の「Q わたしの思考探究 自分とは何か」の録画を見ての雑感です。
始めに「鷲田 清一」「エマニュエル・レヴィナス」の著作はほとんど読んでいないことと、テーマがテーマなので書く内容が、一見支離滅裂に読めてしまうことはご了承ください。

鷲田 清一は、
「自分とは何か(何者か)」の問いは、玉葱一枚一枚剥くようなもので最後まで行っても、「自分」、「核」は出てこない。
つまり、「自分とは何か(何者か)」の問いにより「答」が出ると考えることは、幻想である。

とした上で「自分」と「他者」との視点を提示し、人間は他者と交わる存在で、逆から見れば他者を求める存在である旨を語り、エマニュエル・レヴィナスの「全体性と無限」(未読)を紹介しています。

また、イギリスの精神科医・思想家R.D.レイン(1927~1989)の例題をアレンジした「思いどおりにならない子供(他者)とのつき合い方(関係)」について『母親と子供のやりとり』を事例対応問題として出し、回答を解説しました。(問題は後述で引用)

で、雑感ですが、
「自分とは何か(何者か)」の問いを「玉葱論」で「幻想」と無意味化することの意味が不明(暴論)です。単に「他者論」への導入のためなのか、それにしても安直な比喩です。

玉葱にも、黄たまねぎ、白たまねぎ、レッドオニオン、ペコロス、葉たまねぎ、シャロット等があり、さらに品種改良が進められており、同じ種類でも鱗葉は一枚一枚大きさ厚み形が異なり、味が微妙に異なることを思い起こせば事済むことです。

僕が読んだ限りのレヴィナスの「他者論」について言えることは、「暴力」=「否定のひとつ」であり、所有は物・物(対象)の存在を否定(暴力、暴力的)し、他者について関係、合意、了解においても所有と見なすことが可能であり、他者の存在を否定(暴力、暴力的)する。
ここから(荒ぽっくてすいません。) レヴィナスの「他者論」が立ち上がります。

レヴィナスの意図に反して、裏返せば、体制、組織、価値等を撃つこともできると夢想できます。
レヴィナスに触れながら、他者との関係に暴力(的)が介在することを避けています。
論調が、平穏な誰でもが心地よい人畜無害の意味のない質をばら撒いていると。

事例対応問題として取り上げられた内容です。

息子は学校から駆けてきました。



母は両腕を開き抱きしめようとしますが、息子は立ちすくんでいます。



答えが三つ用意されています。  つづく。(2011.02.09記)