みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#129 終末預言 by R.C. Sproul

2022年07月19日 | 終末預言 

Parables of the Kingdom (Mark 4:21–33) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:14分43秒から19分45秒まで

◇◇


「この光を消すことは絶対にできない」とイエスは言いました。

今秘密にしていることで、秘密のままでいることはない。

今隠されているあらゆること、今秘密にされているあらゆることは必ず明らかにされる。

イエスが話しているのは、最後の日における、ご自身の本性とご自身の王国の完全なる現れであります。

さらに続けて言います、「耳ある者はこれを聞きなさい。」

「私の言うことを聞きなさい。私が言っていることに注意しなさい。私は神のランプ。私は明らかにするためにやってきた。私が言っていることを聞きなさい。私の教えを理解したか。」

「聞いていることに注意せよ」とイエスは言います。

あなたが使う同じ計りで、あなたのために計り返されるであろう。

聞くあなたに、より多くが与えられるであろう。

ややことばの遊びがありますが、イエスが言っているバスケットは計るために使うバスケットだからであります。

ここでイエスが言っていることとは、このランプを覆うバスケットと同じバスケットで、私はあなたを覆い隠すであろうということ。

私の光を完全に覆い隠すなら、あなたがどんな光と持っているにせよ、それは取り去られるであろう。

しかし、あなたが私のランプを明らかにする同じ計りで、私はあなたの中に私の栄光を現わすであろう。

これは驚くべきことであります。

私たちがその光の子らと呼ばれるということ、私たちの周りの死につつある世に対して、私たちがキリストの光を明らかにするために召されているということ。

イエスは言いました、「あなたは聞けば聞くほど、注意を払えば払うほど、あなたが係われば係わるほど、この俗世にいるあなたがその光を持っていようといまいと、神の王国が完全に出現する時、すべてのものはそれ以上にあなたに与えられるであろう。」

これはタラントのたとえに似ています。

しかし、あなたがそのタラントを取り、地面に埋めてしまうのであれば、あなたがその光を取り、バスケットで覆い隠すのであれば、あなたが持っているものは何であれ、それはあなたから取り去られるであろう、永遠に。

イエスはもうひとつのたとえを話します。

神の国とは、まるで一人の男が地面に種を撒いて、夜には寝て朝には起きるようなものです。

さてここで、イエスは、種を撒く人のたとえに関する隠喩全体に話を戻します。

前回、私たちはマルコの福音書をともに学びました。

そこでは、種を撒く人のたとえを見ました。

イエスは、そのたとえと接する部分を切り取り、種が蒔かれる土壌の違いについては話してはいまぜん。

その代わり、私たちが常に経験する最も注目すべき自然の特性について語るのであります。

一人の男が種を蒔いて、寝床に行く。夜に寝て朝に起きる。寝ている間、この男は何もしない。ぐっすり寝ている間にも、蒔かれた種は働いている。精力が与えられている。種はすでに地中にある。私が寝ている間に雨が降る。地は最初に葉を与え、次に実を成らせ、熟して収穫となる。刈り入れのためにかまを準備する。

イエスは言います、「これがまさに神の国である」と。

とっても小さな種が地面に置かれる。あなたは寝る、寝ている間に、気づかれずに、不思議な方法で、種は命を得る。

私が神学校にいた時のこと、聖書のあらゆる箇所を批判する皮肉癖と無神論を擁護する大変厄介な学者たちの話しを聞かされたことがあります。

教授の一人は、極めて不快な批判について、「私はこんな男たちの傲慢性を信じることはできない」と言いました。

どういう意味なのかと私はその教授に尋ねました。

「2000年以上も昔から生えているその草花を彼らは見ているはずだ」と彼は言う。

たとえその場にいたとしても、彼らは絶対にそれを見ることができない。

◇◇

賛美:

Soldiers of Christ, Arise

 

 

 


#128 終末預言 by R.C. Sproul

2022年07月17日 | 終末預言 

Parables of the Kingdom (Mark 4:21–33) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:11分50秒から

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

ふと時計を見ると、ダラス時間で10時10分を指していました。

それはスタンフォード時間の11時10分に相当し、セントアンドリュースの第2礼拝がすでに始まっていることを意味していました。

こんな所にいるよりも、今すぐにでもそこに行ければいいのにと思いました。

というもの、エンターテインメントの流れの中で、ステージに上がって説教するというのはあまり気持ちの良いものではありませんでした。

福音派の指導者たちに、神のご性格を隠蔽するようなことや礼拝をエンターテインメントの場とすることを止めるように要請するメッセージを行なおうとしている時だったのです。

今朝礼拝メッセージの準備をしていた時、先週のことを思い出さざるを得ませんでした。

イエスは言います、「私が来たのは、牧師による世俗心理学の挿話によって、或いは時代の社会的・政治的問題に関する意見交換をする牧師によって、隠されるためでも隠蔽されるためでもない」と。

「私が来たのは、世の光となるため。」

親愛なる友よ。

そのランプを取り、バスケットを取り除き、それを目立つ場所、神と長子の真理を見極めることができる場所、イエスが教えを語り続けることのできる場所に置くこと、それがあらゆる世代における教会の義務であり、すべての牧師の義務であり、全クリスチャンの義務なのです。

イエスは言います、「私が暗闇の世に持ってきたランプゆえに、明らかにされずに隠されているものはない。今は秘密にされているが、必ずやすべて明らかにされるであろう」と。

ヨハネは私たちに教えます、「闇はそれを打ち負かすことはできなかった。光が在る時、闇は光を消す力がない。

私たち人間は闇を好む世で生きていることをイエスは理解していた。

秘かに生きることを好む世、すなわち、まさに初めて最初の罪を犯した世は堕落した人々を好み、神から隠されたところへと遠ざかって行った。

そして、私たちをさらけ出しす、私たちを裸にする、私たちが辱められる光が現れると、世はその光を恐れた。

そして、福音の純粋な光を覆い隠そうとするほどに堕落しているのが、私たち人間の本性なのです。

◇◇

賛美:

Master, the Tempest is Raging

 

 


#127-2 終末預言 by T.Tomii

2022年07月15日 | 終末預言 

☞ グローバリストから日本を守ってくださいと祈るしかない

◇◇

異端やリベラルによる荒らし行為対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
◇◇ 


われわれが唱えている自由主義と、新自由主義者が唱えているそれとの間には、決定的な違いがある。

われわれは、通貨の一元管理を否定する。不換紙幣を否定する。万人が平等のスタート地点に立つべきだと唱える。

しかし、新自由主義者は、今の中央銀行制度のもとでの自由主義を唱える。

今の中央銀行制度のもとで規制を撤廃し、自由にしたら、中央銀行制度に連なって利権を得られる人々が勝利するのは当然である。

中央銀行及び銀行で不換紙幣を発行できる人々は、偽札を作る権利を与えられている。

金や貴重金属の裏付けのない札は偽札である。それを発行し、それに基づいてお金を貸すことができたら、単なる紙が価値を生み出すことになる。

たとえば、あるコンビニに偽札を作る権利が与えられたとする。

そこに行けばお金が借りられるので、人々が来る。

コンビニの店長は、適当に新聞の広告の裏に100万円との数字を記入し、ハンコを押した紙を客に渡す。100万円を得るのに要したエネルギーやコストは3円程度である。

客はその100万円札で買い物をしたり、事業をしたりする。

そして、期日までに100万円に10万円を添えて返す。

コンビニの店長は3円のコストで10万円を手に入れることができる。

これでどうしてそのコンビニが繁盛しないわけがあるだろうか。

まったく労働せずに富が得られる。

今の銀行の信用創造はこれと同じである。

コンピュータの端末に数字を打ち込むだけでお金を貸せる。

最初から、圧倒的に不平等なシステムの中で、規制緩和したらどういうことになるだろうか。

今の新自由主義者がやっていることは、中産階級の処刑である。

中央銀行制度という圧倒的な不平等なシステムの中で、政治的にかろうじて守られてきた中産階級は、政治家と結びついて利権を持つ銀行や大企業につぶされるのは目に見えている。

これは、市場原理主義ではない。

それは「平等の徹底化」ではない。

逆だ「不平等の徹底化」である。

イルミナティは世界政府を実現するために、中産階級を処刑し、極端な貧富の格差を生み出している。

自民党に新自由主義者が混じっている限り、われわれは自民党を信用できない。

しかし、売国者の民主党も信用できない。

だから、祈りしかない。

グローバリストから日本を守ってくださいと祈るしかない。

 

 

2013年4月22日

 

 


#127 終末預言 by R.C. Sproul

2022年07月13日 | 終末預言 

Parables of the Kingdom (Mark 4:21–33) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:8分8秒から11分50秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

私が来たのは、バスケットで覆われるためではないし、テーブルの下に隠されるためでもない。

もう一度、ここでイエスが言及していることは、当時の人々の共通する経験から引き出されています。

夜にオイルランプによって照明された家。

たまたま、今朝私はランプをひとつ持ってきました。

この小さな陶磁器は2000年以上前の物であります。

つまり、聖書の時代にさかのぼります。

あまり加工されていない道具。

どんぶりのような形状をしていて、2つの縁があります。

これが古代からの典型的なオイルランプであります。

油がこのボールに注がれて、ボールのこの部分が両側で捻られており、そこにランプの芯を浮かせます。

そして、この芯がここから出てきて、ランプから油の中へ浸ります。

ランプの芯は炎で点火され、この小さなランプが部屋に光を放つのです。

そして、あなたがこのようなランプを持って来なければ、その上にブッシェルバスケットを置くなら、部屋は光で満たされることは期待できません。

また、その光を消してしまうか、あるいはこのような小さなランプを取ってテーブルの下へと置くと、光は遮断されるか覆い隠されてしまうでしょう。

しかし、イエスははっきりと言います、「このようなランプを取り、光を発するものを家の何処からでも明瞭に認識できるような場所へ置きなさい。」

国際宗教放送局大会の方針を決定する目的で、先週日曜日の朝、私はダラスに赴きました。

その時の私のメッセージは、「現代における神の隠蔽」でありました。

その説教において、私たちの周りにある世俗文化の力による神の隠蔽に加えて、教会内部における神の隠蔽に関する問題と危機についてお話をしました。

ある影が太陽や月を通り過ぎる時に、その影は太陽や月を破壊することなく遮蔽する時に起きるのが日食月食であります。

その日の朝、この2時間の礼拝サービス説教のために、私は前列に座っていました。

万事準備がなされ、礼拝の次第がアナウンスされて、私が説教を始めるまで20分間、音楽の時間がありました。

この音楽の時間は、礼拝の一部と紹介がありました。

一方で、神のことばを聞くことが礼拝の一部ではないかのような印象を受けたのです。

私は座ってステージに上がる時を待っていましたが、私の心が徐々に徐々に落ち込んでいくのが分かりました。

◇◇

賛美:

BE THOU MY VISION 

 

 

 


#126-2 終末預言 by T.Tomii

2022年07月11日 | 終末預言 

☞ 御霊の賜物を生かして地上を御国に変えるために働こう

◇◇

異端者による荒らし行為対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
◇◇ 
 

1.

預言は、法的な宣告である。

神は預言者を送って、王や権力者に御言葉を告げられる。

神の言葉は絶対なので、その言葉が発せられたときに生まれる「法的現実」は「実際的現実」になる。

日本では、被告に対して最高裁が「上告棄却」と述べたら、そこで刑は確定する。

死刑が確定したら、必ず死刑になる。

裁判官の言葉による「法的な現実」は、「実際的な現実」になる。

戦争などが起きて日本が滅亡しない限り、この流れは止まらない。

絶対者なる神が宣告したら、それは絶対に起きる。


そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ55・11)

2.

今、日本も世界も、時代の転換点を迎えようとしている。

これまで、政治はマスコミの情報操作で動いた。

情報発信を独占していたマスコミは、自らの操作で選挙民の意見を自由に変えることができた。

インターネットによってマスコミが流したウソがすぐにバレるようになった。

とくにtwitterとYouTubeの影響力は大きい。

それゆえ世論操作をもくろむ人々は、これらの内部に入り込んで意に沿わない情報を遮断しようとしている。

もしこれらが真実を伝えられなくなったら、人々は別の手段を構築して真実を発信するだろう。

BAN祭りとかやっても、無駄である。イタチごっこ。

インターネットによって、実質、バベルの塔は崩壊したのである。

虚偽と操作によって築かれるはずの塔は、真実発信の手段としてのインターネットの登場により、崩れた。

騙されているのは、インターネットをやらない世代だけであるが、時間の経過とともに消えていく。

3.

インターネットを通じて、われわれは聖書に記されている真理を伝えている。

1で述べたように、神の真理は法的宣言であり、それは、必ず現実化する。

それゆえ、われわれが聖書の真理を伝えた瞬間に、それが現実化することは確実であり、この流れを変えることはできない。

4.

これまで教会は敵の情報操作によって虚偽を吹き込まれてきた。

教理が不純になった。

アルミニウス主義とディスペンセーション主義、モダニズム、バルト主義などにより、世俗思想が混入した。

しかし、このような時代も終わろうとしている。

聖書的ではない教えは、必ず捨てられる。

神の御心ではない教えは、滅びる。

毒麦は必ず捨てられて、燃やされる。

5.

神は天地を創造され、人間を作って「地を従えよ」と言われた。

人間の使命は、天で神の御心が行われているように、地でも行われるようにすることである。

「いわゆるキリスト教」が広まっても、「いわゆるクリスチャン」が増えてもダメである。

「御霊によって生まれ変わった人々」が増えなければならない。

超自然的に復活した人々が増えなければならない。

なぜならば、生まれながらの人間は御霊を持たず、「肉の動機」で生きるからである。

肉は神の国を求めることができない。

考えることすべてが「自分の王国建設」のためである。

御霊によって生まれ変わった「本物のクリスチャン」はひたすらに神の国を求める。

神の国を地上に打ち立てることにしか関心がない。

なぜならば、「本物のクリスチャン」の内側におられる御霊がひたすらに神の国を建設しようと望んでおられるからである。

6.

イエスは「律法と預言者(旧約聖書)を成就するために」来られた。

そして、十字架上で「完了した」と宣言された。

つまり、紀元1世紀に、律法と預言者は成就したのである。

「地を従えよ」との命令は成就した。

古いアダムが失敗した使命は、新しいアダムであるイエスによって成就した。

これは「法的成就」である。

当時、まだ世界は「実際的には」反キリストの状態にあり、地は従えられていなかった。

しかし、法的現実は実際的現実に必ず変わるのであるから、イエスが人間の使命を成就されたことは、実際に成就されたことを意味する。

紀元1世紀の「法的な神の国の成就」は、歴史を通じて徐々に現実化する。

神は、時代時代において、必要な人を起こされ、神の国の前進のために用いられる。

7.

神の国建設に召された人は、それを行おうとする内的な衝動を抑えられない。

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ20・9)

預言者として選ばれた人は、預言しないではいられない。

自分で違う道を選んでも、いずれもとの場所に戻される。

神の国の前進は、神の計画であって、人間の願望は、この計画に対して無力である。

8.

神の国建設のために、すべての「本物のクリスチャン」には御霊の賜物が与えられている。

自分にはどのような賜物が与えられているか理解し、それを生かすべきである。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。
みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。(1コリント12・27-31)

神の国は人体のようなものであり、構成員は、互いに有機的に関連し合っている。

自分が目なのか、耳なのか、腕なのか・・・、判断していただきたい。

そして、自らに与えられた使命を果たし、地上を御国に変えるために働こう。
 

 

2019年9月30日

 

 

 


#126 終末預言 by R.C. Sproul

2022年07月10日 | 終末預言 

Parables of the Kingdom (Mark 4:21–33) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:4分04秒から8分8秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

甚だ微力とはいえ、あ●まに対抗せんとする勢力が台頭してきたことは歓迎すべきことではないかと思う。

今回の選挙戦を見てみると、やはり国体のバックボーンにあるのは、良きにせよ悪しきにせよ、宗教や哲学であるということがよく分かる。

残念ながら、これまでのこの国の政治は、強制的にこの国を弱体化させるための「あ●ま教」が国体となって運営されてきた。

目新しいことはあまり主張してはいないが、大変正直にこの国の実情を暴露している。命がけの「大和魂」こそが、この国の国体としてあるべき宗教であるという主張。キリスト教のこともちらりと演説の中で語られるが傾聴すべきレベルではない。食や教育などに関する主張は大変参考になる。

◇◇

神によって容認された国家を暴力革命によって破壊せんとするのが共産主義思想だから、ここでは考える必要はない。

問題とすべきは、今の国家が人間教を国体とするバベルの塔であるということ。

「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るのであれば、国家は聖書を国体として掲げ、万物の創造主である神を中心に国家を運営すべきであるとする考え方に立つのが当然ではないだろうか。

いや、教会が神の国であり聖書を法の規範として運営されていると考える人もいるだろう。

考えてみて欲しい。神の国が拡大していけば国家規模へと近づいていき、最終的には国家を飲み込んでしまうという理想が現実化する。

しばらく離れてはいるが、The Institutes of Biblical Law, Rousas John Rushdoony には、そうなっていくための具体的な考え方や制度設計、政治のあり方が書かれている。


◇◇


Is a lamp brought to be put under a basket or under a bed ?

この文章が私を困惑させる理由とはこうです。

この翻訳では、定冠詞ではなく不定冠詞が使用されています。

つまり、ランプという概念は、一般的な意味合いにとどまっています。

一方、ギリシャ語原典では、明らかに定冠詞が使われており、ランプはその文章の主体を成しており、この箇所において原典に忠実に訳出すると次のようになります。

does the lamp come in order to be put under a basket or under a bed ?

一見違いはないように見えるのだが、どうして私がそれなりに困惑したのでしょうか。

福音記者が資料を編集していたその時代にさかのぼって、このわずかな違いを十分に理解する必要がああります。

彼らは単に頭に浮かぶことを紡いでいたのではなく、ほとんど確信に満ちた結論(今私たちが持っているような)が当初から流布していたのです。

それらはロギアと呼ばれるイエスの格言集、つまり福音書の大筋を手掛けた記者たちが自由に使えたイエスのことばや教えの数々であり、これらのロギアの中には、直喩や格言、たとえなどのリストが含まれていました。

一方、福音書の記者たちは、イエスが語ったことばをどのテキストに配置するかを決定する権威と機会が与えられました。

彼ら福音書記者たちは、福音書の中に自分たちの主張を随所に盛り込みたいと考えていました。

ブッシェルますの下やテーブルの下に置かれるランプに関する直喩は、3つすべての福音書の梗概に見出されます。

マタイやルカは定冠詞を使用していないのにマルコは定冠詞を使っているという事実を、現代翻訳家たちはあまり深く考えてはいないのではないかと思います。

そこで、問題とは何か。

問題とはこうです。

一般的に、部屋に持って来てバスケットの下やテーブルの下に置いてしまうあらゆるランプと考えるのであれば、ここでマルコが言っていることの意義が失われてしまいます。

マルコが言っているのは、ランプであれば何でもということではありません。

彼が言っているのは、ついでに持って来てバスケットやベッドの下に置かれるランプのことを言っているのではありません。

マルコが言っているランプとはこの説教の主体であります。

そのランプがやって来てブッシェル枡の下に隠されることはないと、イエスは言っているのです。

では、そのランプとは何でしょうか。

イエスが言っていることをより適切に言うと、そのランプとは誰かと尋ねるべきでしょう。

何故なら、聖書的範疇によると、神ご自身、特に神の法はランプと呼ばれます。

神の国のブレイクスルーとともに世に入ってくる光について、イエスは言っているのです。

ランプであるお方はイエスご自身であります。

主が言っていることとは、私がここに来たのは、隠されるためにでも秘密のままにでもない。

暗闇に棲む万物に対して、私がもたらす光が突然現れて明確に自身を啓示するために、ランプスタンドに置かれるべきランプとして私はここにやってきたと言っているのであります。

 

 

 


#125-3 終末預言 by T.Tomii

2022年07月08日 | 終末預言 

☞ 狭い門から入れ

◇◇

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全文転載する。
 
◇◇

ケネディ大統領暗●事件の真実

われわれクリスチャンがこの国を守るためにできること・・。

◇◇

ある教団のトップは、ブランチの教会の牧師を追い出して会堂を乗っ取った。

ある牧師は、自分の子供の問題を長老会で取り上げようとした長老を追い出した。

あるクリスチャンは、ブログ上に、別のクリスチャンの事実に反し、なおかつ、その人の名誉を傷つけるようなことを書いている。

彼らは救われるだろうか。

死後、天国に行ってイエスとともに永遠の祝福にあずかることができるだろうか。

ノーだ。


あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6・9-10)

無条件の救いは、間違いである。

「正しくない者…不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」は、神の国を相続できない、つまり、契約から追い出され、永遠の刑罰にあう。

正しくなければ、クリスチャンとして救われることはない。

ディスペンセーション主義が教会にはびこってから、イエスを信じれば、行いとは無関係に救われるという考えが広まった。

ディスペンセーション主義は、律法の時代と恵みの時代を分ける。

そして、現在は、恵みの時代であって、律法を守るかどうかは関係ないとする。

クリスチャンは、この考えによって、無律法主義に陥った。

何をしても赦されると。

だから、今のクリスチャンで死後、自分が救いの中にいなかったことに愕然とする人は多いと思う。

そんなときに、叫んでも遅い。

神は「『正しくない者は神の国を相続できない』と聖書にちゃんと書いてあるではないか」と言われるだろう。

聖書に記された命令に意図的に違反するならば、絶対に救われない。

悔い改めの意思がない人は、革命家であるから救われない。

知識がある人は、それだけ要求が厳しくなる。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12・47-48)

神の御心を知りながら、そのために働かないクリスチャンなどありえない。

そういう人は、聖霊を受けていない。

聖霊を受けていれば、必ず神のために熱心に働くはずである。

自分のうちにおられる聖霊は、自分の心を動かし、いてもたってもいられなくするだろう。

聖霊を受けていながら、正しい聖書的な教えを聞いて、心が動かない人はいない。

正しい教えを聞いたら、聖霊は必ずその人に確信をお与えになる。

正しい教えを聞きながら、誤謬にとどまり、頑固に反対するのは、もはや聖霊が去ったとしか思えない。

「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。
すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」(ルカ13・24-30)

 

 

2012年11月3日

 


#125-2 終末預言 by T.Tomii

2022年07月06日 | 終末預言 

☞ 信仰義認は契約にとどまり続けることまで保証しない

◇◇

荒らしや異端対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
◇◇ 

以下の記事とはややニュアンスの異なる考え方を持っている。

私は神を捨てたことがあるが、神は私を見捨てなかった。

神の国を追い出されたが、また入国することができた。

結論:神の救い(の予定)は決してぶれることがない。

◇◇

以下の記事であるが、「後半部分で耳が痛くなる内容が語られている」と指摘したSproul師の諸説教と重なる部分がある。

努力して狭い門から入りなさい(ルカ13:24)。

この聖句の「努力して」を「雄々しく」と解釈すべきだという記事をネット上で見つけた。ギリシャ語云々とかヘブル語云々とか持論を展開する前に、正統(改革派)神学の諸文献、注釈書、コメント集、諸教会の意見など徹底的に調べ上げて、その解釈が真理であることを実証する必要がある。

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しない。

◇◇

 
イエスは、救われるためには、律法を守れと言われた。


もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。(マタイ5・29)

イエスは彼に言われた。「・・・もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」 (マタイ19・17)

これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 (マタイ22・38-40)

これは、われわれが教会で教えられている「信仰によって救われる」と矛盾するように見える。

パウロは、「行いによるのではなく、信仰による」とはっきり述べた。

人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ3・28)

この2つをどう調和すべきだろうか。

イエスは、「救われるには、行え」と言われ、パウロは「行いによらず、信仰のみによる」と言う。

どちらも聖書の御言葉であるから、同時に成立するはずだ。

答えはこうだ。

人間は、信仰によって救われるが、神の主権を認め、服従し続けなければ、救いの中にとどまることはできない。

病院のようなものだ。

入るには、病気以外に資格はいらない。誰でも入れる。

しかし、入った以上は、「治ろう」と努力しなければならない。そうじゃなければ、追い出される。

神の国、契約、教会、キリストの体。

救いはいろいろな言葉で表現される。

クリスチャンになって救われるということは、神の国に入ることである。契約に入ることである。教会に加わることである。

入るには資格はいらない。

ただ「イエスが自分の身代わりに十字架上で死に、よみがえり、そして昇天され、世界の王、主である」と認めるだけでよい。

しかし、入った以上は、そこにとどまり続けなければならない。

そのためには、「戒めを守る努力を続けなければならない」。

同じパウロが次のように述べた。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。 (ヘブル10・28)

律法を無視する人は排除される。

あっちゃこっちゃ向いているような人は追い出されるということだ。

まっすぐ前を見て、自分の救いを達成するために努力すること。

御心に服従すること。

失敗したら悔い改めて立ち返ること。

悔い改めることもせず、立ち返ることもしたくないなら、追い出される。

神の国から排除され、御体の中から切り捨てられるから、枯れて、あとは燃やされるだけ。

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6・8-10)

「正しくない者」は、救いからもれる、とはっきりと言われている。

だから、ホモのクリスチャンなんてありえない。

偶像礼拝するクリスチャンなんてありえない。

姦淫をするクリスチャンなんてありえない。

人のものを貪るクリスチャンなんてありえない。

万引きをするクリスチャンなんてありえない。

人をインターネット上でそしるクリスチャンなんてありえない。

人の施設を乗っ取ろうとするクリスチャンなんてありえない。

よっぱらいのクリスチャンなんてありえない。

こういうことをしている人は、いくら洗礼を受けたとしても、教会のメンバーであったとしても、長老であったとしても、牧師であったとしても、神の国から追い出される。

つまり、地獄である。

永遠の刑罰である。

ディスペンセーション主義に騙されているクリスチャンたちが、倫理にもとることをやって平気でいるが、救われるわけがない。

いつも罪を御前に告白して、悔い改め、やり直す人以外救われない。
 

 

2011年5月27日

 

 


#125 終末預言 by R.C. Sproul

2022年07月05日 | 終末預言 

Parables of the Kingdom (Mark 4:21–33) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:最初から4分04秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

今朝、再びマルコ福音書の学びに入ろうと思います。

マルコ福音書第4章21節から33節までを朗読します。

みことばの朗読をしますので、会堂の皆さんはご起立お願いします。

マルコ4:21~33
またイエスは弟子たちに言われた。「かごの下やベッドの下にランプを持ってくるだろうか。ランプスタンドの上に置くのではないだろうか。というのも、明らかにされずに隠されているものは何もありません。あるいは、隠されたままのものはなく、必ず明るみに出される。聞く耳のある者は聞きなさい。また弟子たちに言った。「聞くことに注意せよ。あなたが使う同じ度量で、それはあなたに測り返される。聞くあなたに、より多くが与えられる。というのは、持っている者は誰でも、より多くが与えられる。しかし、持っていない者は誰でも、持っているものを取り上げられる。」

イエスは言われた。

「神の国とは、まるで、人が地面に種を撒き、夜には寝て、昼には起きて、種が芽を出し、成長する、そのようなもの。種を撒いた人はどうしてか分からない。というのは、地は独力で作物をもたらす。最初に葉、次いで穂、その後、穂に十分な穀粒。しかし、実が熟すと、直ちに人はかまを入れる。何故から収穫が来たから。」

さらに言われた。

「神の国を何になぞらえたらよいか。それをどのようなたとえで描いたらよいか。それはからし種のようなもの。地面に撒かれる時は、地上のあらゆる種よりも小さい。しかし、成長すると、あらゆる野菜おりも大きくなる。そして、大きな枝を次々に伸ばし、空中の鳥たちがその日陰に巣を作ることができる程になる。」

弟子たちが聞くことができるように、多くのたとえを用いてイエスは彼らに話をした。しかし、たとえなしで彼らに話すことはなかった。

弟子たちだけだった時、イエスはあらゆることを彼らに話した。

もう一度、聞く耳のある者は、それらのことを聞きなさい。

お座りください。

お祈りしましょう。

主よ。あなたが教え下さったたとえの意味が理解できるようにお導き下さい。聞くことができる耳をお与え下さい。主の口から出る一言一言に対して、私たちが深く信頼し、従うことができますように。主の御名によってお祈りします。アーメン。

今朝、マルコ福音書4章の学びを始めますが、今回の箇所は翻訳がやや難しい箇所であります。

私はその謎を解くための持論を持っています。

その理由を説明します。

私が使用している英語訳やあなたがたが持っている翻訳の多くは、21節を次のように翻訳しています。

Is a lamp brought to be put under a basket or under a bed ?

 

 

 


#124-2 終末預言 by T.Tomii

2022年07月03日 | 終末預言 

 

☞ 救われる人の特徴は「分裂」である

◇◇

荒らしや異端対策のためにリンク先に飛べない仕掛けがしてある。
全文転載する。
 
◇◇ 

以下の記事において、「律法」を「十字架」と置き換えても同じように意味がとれる。

十字架とは、律法の成就であると同時に、預言(イザヤ53章)の成就でもあることが分かる。

◇◇


私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ7・14-25、8・1)

神の御言葉の宣教は、行動のための宣教であり、生活の中で結果を生み出すための宣教である。

母親が、言うことを聞かない子供の耳をねじるならば、どうして、神は、御言葉である聖書の教えに注意を払わない者を大目に見るだろうか。

(R・J・ラッシュドゥーニー、A Word in Season, Vol. 6, p. 82)

われわれは、この世界に生きている限り、御言葉を完全に実行したいと思う。

しかし、それは、単なる口先だけのことであり、現実はまったく違う。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」

われわれは「聖書に従えば、最善の結果を得られる」という原理を知っている。

もっとも幸福な一生を送るためにも、できるだけ神に対する罪を犯したくないと思う。

罪を行う生き方は、愚かで、無駄な努力であることも知っている。

しかし、現実には、それと逆の生活をする。

自分の願いと、自分の行動とが、決定的に乖離している。

「善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することが」ない。

「自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なってい」る。

われわれは分裂している。

それゆえ、われわれは次のように結論する。

「私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪である」と。

われわれのうちには、別の自分がいて、その別の自分が、われわれの真の願望とは異なることをさせている。

われわれは、2つの要素から成り立つ矛盾した生き物である。

つまり、1.善を愛し神の律法に仕える心と、2.罪の律法に仕える肉と。

われわれは自分をコントロールできない「ほんとうにみじめな人間」である。

しかし、われわれは幸いである。なぜならば、救いがあるから。

われわれの「死のからだ」は、「私たちの主イエス・キリスト」によって救い出される。

「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決して」ない。

心が神の律法を喜んでいる者は、いかに肉がそれに反することを行っても、救われる。

しかし、心が神の律法を嫌っている者は、救いがない。

救われる人の特徴は「分裂」である。

別の自分が、心と逆のことを行っていると自覚している人は、救われる。
 

 

2017年10月15日