みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#126 終末預言 by R.C. Sproul

2022年07月10日 | 終末預言 

Parables of the Kingdom (Mark 4:21–33) — A Sermon by R.C. Sproul

訳出時間枠:4分04秒から8分8秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

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甚だ微力とはいえ、あ●まに対抗せんとする勢力が台頭してきたことは歓迎すべきことではないかと思う。

今回の選挙戦を見てみると、やはり国体のバックボーンにあるのは、良きにせよ悪しきにせよ、宗教や哲学であるということがよく分かる。

残念ながら、これまでのこの国の政治は、強制的にこの国を弱体化させるための「あ●ま教」が国体となって運営されてきた。

目新しいことはあまり主張してはいないが、大変正直にこの国の実情を暴露している。命がけの「大和魂」こそが、この国の国体としてあるべき宗教であるという主張。キリスト教のこともちらりと演説の中で語られるが傾聴すべきレベルではない。食や教育などに関する主張は大変参考になる。

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神によって容認された国家を暴力革命によって破壊せんとするのが共産主義思想だから、ここでは考える必要はない。

問題とすべきは、今の国家が人間教を国体とするバベルの塔であるということ。

「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るのであれば、国家は聖書を国体として掲げ、万物の創造主である神を中心に国家を運営すべきであるとする考え方に立つのが当然ではないだろうか。

いや、教会が神の国であり聖書を法の規範として運営されていると考える人もいるだろう。

考えてみて欲しい。神の国が拡大していけば国家規模へと近づいていき、最終的には国家を飲み込んでしまうという理想が現実化する。

しばらく離れてはいるが、The Institutes of Biblical Law, Rousas John Rushdoony には、そうなっていくための具体的な考え方や制度設計、政治のあり方が書かれている。


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Is a lamp brought to be put under a basket or under a bed ?

この文章が私を困惑させる理由とはこうです。

この翻訳では、定冠詞ではなく不定冠詞が使用されています。

つまり、ランプという概念は、一般的な意味合いにとどまっています。

一方、ギリシャ語原典では、明らかに定冠詞が使われており、ランプはその文章の主体を成しており、この箇所において原典に忠実に訳出すると次のようになります。

does the lamp come in order to be put under a basket or under a bed ?

一見違いはないように見えるのだが、どうして私がそれなりに困惑したのでしょうか。

福音記者が資料を編集していたその時代にさかのぼって、このわずかな違いを十分に理解する必要がああります。

彼らは単に頭に浮かぶことを紡いでいたのではなく、ほとんど確信に満ちた結論(今私たちが持っているような)が当初から流布していたのです。

それらはロギアと呼ばれるイエスの格言集、つまり福音書の大筋を手掛けた記者たちが自由に使えたイエスのことばや教えの数々であり、これらのロギアの中には、直喩や格言、たとえなどのリストが含まれていました。

一方、福音書の記者たちは、イエスが語ったことばをどのテキストに配置するかを決定する権威と機会が与えられました。

彼ら福音書記者たちは、福音書の中に自分たちの主張を随所に盛り込みたいと考えていました。

ブッシェルますの下やテーブルの下に置かれるランプに関する直喩は、3つすべての福音書の梗概に見出されます。

マタイやルカは定冠詞を使用していないのにマルコは定冠詞を使っているという事実を、現代翻訳家たちはあまり深く考えてはいないのではないかと思います。

そこで、問題とは何か。

問題とはこうです。

一般的に、部屋に持って来てバスケットの下やテーブルの下に置いてしまうあらゆるランプと考えるのであれば、ここでマルコが言っていることの意義が失われてしまいます。

マルコが言っているのは、ランプであれば何でもということではありません。

彼が言っているのは、ついでに持って来てバスケットやベッドの下に置かれるランプのことを言っているのではありません。

マルコが言っているランプとはこの説教の主体であります。

そのランプがやって来てブッシェル枡の下に隠されることはないと、イエスは言っているのです。

では、そのランプとは何でしょうか。

イエスが言っていることをより適切に言うと、そのランプとは誰かと尋ねるべきでしょう。

何故なら、聖書的範疇によると、神ご自身、特に神の法はランプと呼ばれます。

神の国のブレイクスルーとともに世に入ってくる光について、イエスは言っているのです。

ランプであるお方はイエスご自身であります。

主が言っていることとは、私がここに来たのは、隠されるためにでも秘密のままにでもない。

暗闇に棲む万物に対して、私がもたらす光が突然現れて明確に自身を啓示するために、ランプスタンドに置かれるべきランプとして私はここにやってきたと言っているのであります。

 

 

 

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