Parables of the Kingdom (Mark 4:21–33) — A Sermon by R.C. Sproul
訳出時間枠:14分43秒から19分45秒まで
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「この光を消すことは絶対にできない」とイエスは言いました。
今秘密にしていることで、秘密のままでいることはない。
今隠されているあらゆること、今秘密にされているあらゆることは必ず明らかにされる。
イエスが話しているのは、最後の日における、ご自身の本性とご自身の王国の完全なる現れであります。
さらに続けて言います、「耳ある者はこれを聞きなさい。」
「私の言うことを聞きなさい。私が言っていることに注意しなさい。私は神のランプ。私は明らかにするためにやってきた。私が言っていることを聞きなさい。私の教えを理解したか。」
「聞いていることに注意せよ」とイエスは言います。
あなたが使う同じ計りで、あなたのために計り返されるであろう。
聞くあなたに、より多くが与えられるであろう。
ややことばの遊びがありますが、イエスが言っているバスケットは計るために使うバスケットだからであります。
ここでイエスが言っていることとは、このランプを覆うバスケットと同じバスケットで、私はあなたを覆い隠すであろうということ。
私の光を完全に覆い隠すなら、あなたがどんな光と持っているにせよ、それは取り去られるであろう。
しかし、あなたが私のランプを明らかにする同じ計りで、私はあなたの中に私の栄光を現わすであろう。
これは驚くべきことであります。
私たちがその光の子らと呼ばれるということ、私たちの周りの死につつある世に対して、私たちがキリストの光を明らかにするために召されているということ。
イエスは言いました、「あなたは聞けば聞くほど、注意を払えば払うほど、あなたが係われば係わるほど、この俗世にいるあなたがその光を持っていようといまいと、神の王国が完全に出現する時、すべてのものはそれ以上にあなたに与えられるであろう。」
これはタラントのたとえに似ています。
しかし、あなたがそのタラントを取り、地面に埋めてしまうのであれば、あなたがその光を取り、バスケットで覆い隠すのであれば、あなたが持っているものは何であれ、それはあなたから取り去られるであろう、永遠に。
イエスはもうひとつのたとえを話します。
神の国とは、まるで一人の男が地面に種を撒いて、夜には寝て朝には起きるようなものです。
さてここで、イエスは、種を撒く人のたとえに関する隠喩全体に話を戻します。
前回、私たちはマルコの福音書をともに学びました。
そこでは、種を撒く人のたとえを見ました。
イエスは、そのたとえと接する部分を切り取り、種が蒔かれる土壌の違いについては話してはいまぜん。
その代わり、私たちが常に経験する最も注目すべき自然の特性について語るのであります。
一人の男が種を蒔いて、寝床に行く。夜に寝て朝に起きる。寝ている間、この男は何もしない。ぐっすり寝ている間にも、蒔かれた種は働いている。精力が与えられている。種はすでに地中にある。私が寝ている間に雨が降る。地は最初に葉を与え、次に実を成らせ、熟して収穫となる。刈り入れのためにかまを準備する。
イエスは言います、「これがまさに神の国である」と。
とっても小さな種が地面に置かれる。あなたは寝る、寝ている間に、気づかれずに、不思議な方法で、種は命を得る。
私が神学校にいた時のこと、聖書のあらゆる箇所を批判する皮肉癖と無神論を擁護する大変厄介な学者たちの話しを聞かされたことがあります。
教授の一人は、極めて不快な批判について、「私はこんな男たちの傲慢性を信じることはできない」と言いました。
どういう意味なのかと私はその教授に尋ねました。
「2000年以上も昔から生えているその草花を彼らは見ているはずだ」と彼は言う。
たとえその場にいたとしても、彼らは絶対にそれを見ることができない。
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