みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#80 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月13日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:25分52秒から32分45秒まで

◇◇

このことについて疑問に思ったことはなかったでしょうか。

私はこの世論調査に注目しました。

そして、人々がその世論調査にどのように答えたかなどいろんなことに注目しました。

道徳的問題や神学的問題に関して、世論調査にしっかりと聖書的に反応している人は、常に極めて少数であること、ふつうは10%以下ではないかと思われます。

このような世論調査を聞いて、驚くべきことに、何故それほど多くの人々が間違っているのか疑問に思ったことはないでしょうか。

世の中にある何が、世の外にある一体何が、そのような人々に起きているのでしょうか。

この地球上で生きてきた人々の大多数が天国に行くのか、それとも残りのごく少数のみが天国に行くのか。

今生きている人々の大多数は天国に行くのでしょうか、それとも地獄に行くのでしょうか。

友人や亡くなった女王の葬式に行くと、その疑問に対する唯一の答えが見つかります。

この地球にいる、または今地上を去ろうとしている無数の人々は確かに天国に行くのでしょう。

ヒットラーやスターリン、イディ・アミンのような人々や、人間性を無視した残虐行為の限りを尽くした者たちも天国に行けるのでしょうか。

私は行ったこと一度もありませんが、葬式に参列すると、牧師は「可哀そうな兄弟が地獄で、今火であぶられています」と言いました(笑い)。

こんなことを聞いたことありますか。

アメリカの崇高な義の教理は、信仰による義でも行ないによる義でもなく、死による義なのです。

天国に行くためにしなければならないことは死ぬこと、なのです。

何故なら、明らかに、あまりにも多くの人々が大風呂敷を広げて、神の御慈悲だ、大いなる祝福だと言っているのです。

ほとんど全員が天国に行くのです。

本当にそうですか、イエス様?

それとも、少数の人々、いや極めて少数の人々だけが天国に行くのでしょうか。

私たちの主イエスは、その疑問に何と答えたでしょうか。

主は2通りの方法で答えておられます。

「救われる人は少ない。努力して広い門から入りなさい」と主は言いましたか。

その広い門には大変多くのスペースがあり、その道は大変広いので、混みあうことがありません。

滅びに向かって、私はじわじわと前進しているでしょうか(笑い)。

主が言っているのはそういうことではありません。

主は「努力して狭い門から入りなさい」と言いました。

さて、並行記事があります。

主イエスが山上の説教で語った記事であります。

良く知っていると思います。

(その個所を教えてもらい、感謝する師。私は良い教会にいますが、座席が良くありません。
マタイ7章13章)

マタイ7:13
狭い門から入りなさい。というのも、その門は広く、その道はたやすい。その道は滅びへと通じています。そこから入る人は多い。というのは、その門は狭く、命にいたる道は険しい。それを見出すものは少ない。

これは私に意見ではありません。

これは主イエスの教えであります。

主は弟子たちの前に2つのコントラストを置きます。

狭い道と広い道。

つまり、狭い門の中にある真直ぐな道と、広い道と広い門。

もう一つのコントラストは、それぞれの道を進む人々の数であります。

破滅にいたる広い道を行く人々は多い。

狭い門に続く真直ぐな道を行く人々は少ない。

これが主イエスが言ったことであります。

人類のほとんどは、圧倒的大多数ではないにせよ、あなたがたは知っており、私も知っていますが、地獄の途上におり、そして今夜死ねば地獄に行くでしょう。

統計学的に言えることですが、今この部屋におられるあなたがたのかなりの人は、今夜死ねば
地獄で目覚めるでしょう。

何故なら、その人々は滅びにいたる広い道にいるからです。





#79 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月12日 | 創世記
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:22分24秒から25分52秒まで

◇◇

さて、このような考え方は、大学や科学分野に影響を与えただけでなく、多くの面で教会にも影響を与えました。

人々が広い意味で福音主義的(broadly evangelical)であると言われたり、言ったりしているのを良く耳にします。

このことばを聞いたことはありますか。

広い意味で福音主義的(broadly evangelical)とはどういう意味でしょうか。

うまく定義しようと思うが、なかなか難しいことばです。

なんとか突破して、風穴を開けてみようと思う。

「広い意味で福音主義的」とうことばの概念に対する定義ですが。2つの可能性があると考えます。

ひとつは、太っている福音主義者という意味。

そうであれば、私は広い意味で福音主義者であります(笑い)。

もう一つは、偽クリスチャンを記述するための矛盾語法という定義の仕方です。

偽クリスチャンを記述するための矛盾語法であると定義する理由とはこうです。

もしも、あなたがクリスチャンであり、クリスチャンのように考え、そしてクリスチャンとして信じているならば、あなたは狭い考え方の人と定義されます。

今日の文化的基準によれば、狭い考え方の人とは癖の悪い人となりますが、真理の受肉という尺度からすれば、それは神の完璧なる長子のことであります。

次に、ルカ書には、こう書いてあります。エルサレムへ向かう途中、町々や村々を通りながらイエスは教えたり旅をした。

主はご自身の死へと向かう途上にいました。

エルサレムで生贄とされる神の子羊として、ご自身の任務を成し遂げる途上におりました。

しかし、神の国を宣言するためのあらゆる機会を失うことがないように、ガリラヤにおいて時間を取っていたのです。

そして、エルサレムへ向かう途中、主はあらゆる村や町に立ち寄ったのでした。

病人を癒し、神の国について教えていた。

そして、ルカは私たちにこう語ります。

旅をしている時、ある人が主の下に現れ、興味深い質問をしたのです。

その質問を聞きましょう。

私がその質問をする前に、質問をもう一度言って下さい。

それを聞いて、自問して欲しいのです。

というのも、メッセージの後半で居眠りして欲しくないからであります(笑い)。

少し時間を取り、自分に問うてみて下さい。

私はその質問にどのように答えるでしょうか。

誰か私のところに来て、その質問を私にした時、私は何と言うでしょう。

その質問とは何でしょうか。

ある人が来て、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と聞いた。





#78 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月10日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:17分29秒から22分24秒まで

ここまでが前置き。

ようやくnarrowとbroadということばが登場した。 Sproul師が語ってきた無神論哲学史を踏まえつつ、聖書テキストにおいて使われているnarrowとbroad (gate)の意味を正しく理解したい。無神論世俗主義にもnarrowとbroad (mindedness)があるのと同様にクリスチャンの世界にも、ということ。

◇◇

その揺り動かすことができない2つの事のために、カントは悩み、不穏な日が続いたのです。

彼に付きまとっていた2つの事とは、頭上に輝く星空と内在する道徳律でありました。

断定的絶対性に関する自身の有名な研究と、後に執筆する実践理性批判という自書において、天上には何も存在しないこと、根本的に道徳原理に関する規範は存在しないということが分かったとカントは示唆しています。

もし神が存在しないとするならば、何でも許されてしまうだろうとドストエフスキーは述べています。

しかし、神は、そのような内在する道徳律に対する忘れがたい感覚を捨て去るようなことはなさらない。

或いは、物理学者として、頭上に輝く星空という驚愕すべき衝撃と飾りつけられたように見える絶妙な装飾をも神は捨て去ることはしません。

しかし、哲学史を追いかけてみると分かるように、ある思想学派がある問題を解くと、新しい学派が隆盛し、新しい問題が次の哲学学派によって解かれ、その学派は解決されない例外を残し、そしてまた、次の学区が現れて、それを改善していく。

しかし、カントが登場して、その進化樹のようなものをひっくり返してしまいました。

そして、哲学の全系統が生み出されたのです。

そこには、マルクス主義、ヒューマニズム、論理的実証主義、実存主義、相対主義、多元論が含まれます。

それらはみな世俗主義であり、異なる主義主張であり、異なる特徴を持ち、どれも他の主義主張から派生しているのです。

しかし、それらはみな一つのことを共有しています。

その共通点とは、超自然、つまり神の存在に関して猜疑的であるということであります。

すなわち、それらはみな、物質的自然論において明確化される現象学という共通の前提を分かち合っているのです。

そのことに関しては、モーラー博士とマイアー博士が見事に検証してくれました。

要点とはこうです。

もしも、この均衡状態から神を取り除いてしまうと、究極的真理へと至る方法を失ってしまいます。

この場所、そして今現在にのみ満足しなければならないのです。

真理はあると言うが、真理はありません。

目的はあると言うが、目的はありません。

実在はあると言うが、実体はありません。

人間と言うが、人間性はありません。

そうなってしまうのです。

その結果、現れてきたのがある種の相対主義でした。

西洋における神学思想史上、無神論が蔓延るあらゆる時代において、無神論は相対主義へと至り、双子である多元論へと流れていきました。

絶対的真理が存在せず、すべての真理が相対的であれば、すべての真理は等しく有効であるか、または無効であります。

故に、多元論とは、真理のない哲学なのであります。

多元的な真理はあります。

しかしながら、排他的真理を主張できる権利を有する人は存在しません。

排他的に真理を主張することは、最も酷い政治的過ちを犯しています。

すなわち、狭い心(narrow-mindedness)なのです。

対して、相対主義と多元論の最上の価値とは、広い心(broad-mindedness)であります。





#77 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月09日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:13分54秒から17分29秒まで

◇◇

カントが言っているのは、もし神がおられるとしても、私たちはそのことについて何も知ることができないということ。

何故なら、私たちは本質世界へと至ることができないからです。

かつて、劇作家レッシングは言いました、「知覚世界と本質世界との間には架橋できない深淵がある」と。

これはレッシングの溝として知られています。

その溝は広すぎるために渡ることができない。

それは深すぎて下りることもできない。

この2つの世界の間に横たわる深淵を渡る方法はない。

次に、このことを論証しようと思います。

神の存在に関する古典的、伝統的、知的な批判が数多くありました。

そのような議論は、中世の大学において、大学間の接触を促す接着剤の役割を果たしていました。

当時、神学は科学の女王であり、一方哲学はその女中と言われていました。

しかし、神聖さにおいて、女王の権威は押しのけられただけでなく、基本的に追放へと追いやられたのでした。

数多くの人々が満足いくように、大学は議論に議論を重ねました。

神の存在に関する古典的な議論、宇宙論的な議論、目的論的議論、存在論的な議論、神の存在に関する道徳論的議論など、超越的現実に関する真の知識を得ようとする試みはすべて失敗に終わりました。

それは革命的なことでありました。

何故なら、それに先立ち、全世界の人々が有神論者ではなかったけれども、ヨーロッパの大学の教授全員が神の存在を認めていたからでした。

神の存在を否定することは、政治上間違っていたのです。

何故なら、神の存在に関する議論は、当時の人々の注目を浴びていたので、理性のある、学識ある人はそれらの議論に決着を付けようと思い切って挑戦したのです。

カントが純粋理性批判を提唱したが故に、私は今日ここに来て彼を誉めるか、あるいは葬り去ろうとしているのです。

しかしながら、この偉大な分岐点を指摘して、さらに話を続けていく前に、一言言っておきたいことがあります。

私に言わせれば、確かにカントは自分が提唱した批判は正当であると確信していたようです。

スティーブン・マーヘルに依頼して、カントの疑いという本を書いてもらいました。

というのも、カントは2つの点について疑いを持っていたのです。

忠告:

巷でも噂となっているようだが、帯状疱疹と癌の頻度が激増している。
あれのせいで自然免疫がズタズタにされているためではないか・・。
ついに始まったかという印象。
血反吐が出るくらい祈るべき時ではないかと思う。















#76 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月03日 | 終末預言 
R.C. Sproul: Post-Christian Christianity

訳出時間枠:9分46秒から13分54秒まで

◇◇

これを成し遂げるために、彼が行なったことは、神学的思考の歴史において、極めて重要な違いを見出すということでした。

彼は、現実世界を2つの領域に分けた。

一つは、究極的形而上学的領域、カントはこれを本質領域と呼び、下層領域(知覚領域)と区別しました。

カントが知覚領域という時、驚愕的という意味のphenomenalではありませんでした。

彼が意味する知覚的世界というのは、目や耳、そして手などの5感によって相互反応することができて、科学的研究や実践によって、分析、評価、予測、操作できる現実世界のことであります。

心や感覚を持っている人間として、私たちはこの知覚的世界の現実の意義ある理解に到達できると彼は考えたのです。

この知覚的世界は、私たちの感覚に対して開かれた領域であります。

しかし、彼はもう一つ別の世界があると考えました。

それは、超越的世界であり、物理学や形而上学の領域を超える領域であり、私たちはこの領域を超自然的領域と呼び、私たちの洞察能力を超越している世界であります。

カントは、本質世界には3つの事々があると考えました。

本質世界において、カントは、神(God)、自己(the self) 、そして、内部実質(the thing in itself) の3つを記述した。

内部実質とは一体何なのか分からないし、関心もないと言う人も多いと思うが、哲学者は、多くの年月と経て、外観のみならず物事の本質を探し求めてきたのです。

単に木を見ることができるというだけではなく、木そのものの意義を理解するということ。

何故どんぐりが、象ではなくて、オークの木を生み出すのか。

そのどんぐりの中に何か本質的なものを見出すことができるのです。

DNAのようなもの、あるいは知的形成デザインのようなもの。

私たちは物事の本質的レベルを理解することはできないとカントは考えていました。

しかも、合理的確実性をもってしてでも自己の性質以上のことを知ることはできないとも考えていました。

自己とは、私たちが当然と考えているもの、私たち自身、人格、心であります。

しかし、心を測ることはできません。

誰も心を顕微鏡でのぞき込むことはできません。

人間という個別的存在の非肉体的側面が心であります。

科学的研究によって知ることはできません。

それまではあまり良い状況ではなかったのですが、科学的研究範囲を超える本質世界における究極的問題が、神の位置づけとともに浮彫となってきたのです。

再度言いますが、カントは神は存在しないとは言っていません。

参考:

以前も類似の動画を挙げたが、今の世界の状況を理解する上で重要な情報。
ノンクリスチャンの方がはるかに探究心があり、地道に知識を積み上げ、懸命に突破口を探っている。
努力している。

特番『ウクライナ危機。世界の支配構造を理解せよ!グローバリストと共産主義者に誘い込まれたプーチン その1』ゲスト:近現代史家 林 千勝氏

In Christ Alone