みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#86 終末預言 by R.C. Sproul

2022年04月21日 | 終末預言 

Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul


訳出時間枠:7分23分から10分56秒まで

◇◇

私の隣人を私自身のように愛することになっていると書いてあるが、この律法は一体どういう意味なのだろうか。

力を尽くして、心を尽くして、思いを尽くして、神を愛するとはどういうことか私は理解している。

しかし、私の隣人を私自身のように愛するとはどういうことなのだろう。

私の隣人とは一体誰なのだろうか。

そこで、イエスは彼に観念的な質問をしました。

恐らく観念的な答えなら、彼は答えることはできたのではないだろうか。

彼はこう答えたのではないか、「隣人とは、隣の家に住んでいる人のことでしょう。」

あるいは、あなたが住んでいる通り沿いで暮らしている人、さらに広い意味では、あなたの家の近くに暮らしている人。

近隣に住んでいる人なら皆、あなたの隣人と解釈してもよいでしょう。

さて、ユダヤ人の間では、特にパリサイ人の間では、隣人とは誰かについて、大変狭い意味の定義がなされていました。

彼らにとって、隣人とは、ユダヤ人男性、恐らく他のパリサイ人のような義なるユダヤ人男性のことであります。

彼らは、義なる集団である自分たちと土着の人々(身分の低い人々)とを区別していました。

実際、イスラエル国家の外部にいた人々は、神の近隣の外部と考えられていました。

ユダヤの近隣の外部の人々の中で、最も軽蔑されていたのがサマリア人だったのです。

捕囚の間、サマリア人の中には、無神論者と近親結婚した人たちや、セミ・ユダヤ人と称される混血ユダヤ人がいたのです。

サマリア人はゲリジムに自分たちの寺院を持っていました。

彼らは、その寺院をエルサレムの寺院礼拝以上に愛していたのです。

イエスと論じた井戸にいた女性、つまりスカルの女のことを思い出したのではないでしょうか。

ユダヤ人が捕囚から戻り、寺院を再建しようとした時、サマリア人は建設中の土地に死んだブタを投げ込んで、ユダヤ人を侮辱したのです。

聖なる地は汚染され、汚された。

彼らは再度の清めのために2週間を費やし、また、この侮辱行為を処理する間、工事を止めなければなりませんでした。

それで、ユダヤ人とサマリア人との間には強い悪感情があったのです。

ユダヤ人はサマリア人と商取引をしませんでした。

事実、ユダヤ人が習慣としていた遠回りのルートを通らずに、目的の地に行くためにサマリアを通り、ユダヤからガリラヤへと旅をしたイエスに人々はショックを受けたのでした。

そこで、あのストーリーを語りながら、イエスは隣人に関する質問に答えます。

イエスはひとりの男の話しをします。

その男とは、たぶんユダヤ人で、エルサレムからエリコへと向かう途中でした。

その地は、城壁が倒壊した、あの旧約聖書に登場するジェリコではありません。

この地は、新約聖書のエリコであり、エルサレムから17マイル離れた町であります。

17マイル遠方のかなり寂れた田舎町であります。

新約聖書のエリコは、訪れたことのある人ならご存じと思いますが、大きなオアシスに囲まれ建設された町です。

当時は大変魅力的な所でありました。

 

 

 

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