Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul
訳出時間枠:10分56秒から15分19秒まで
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そのため、商人たちは、自分らの商品を売るために、エルサレムからその地へと旅をすることが多かったのです。
その地では、人々はオアシスの恩恵によって生計を立てていたのですが、今日でさえ、追いはぎや泥棒を生業としていた人々にとってはもってこいの場所です。
彼らは、旅行中の人や武器のない商人らを待ち伏せしていました。
岩陰に身を隠して、夕方になるのを待ち、旅人を襲撃して、彼らの商品を収奪していたのです。
つまり、イエスは実際に起こった話を語った可能性があります。
つまり、作り話ではなくて、実話に基づいた例えということ。
イエスは言います、「その男はエリコへと下っていく途中であった。」
道中、その男は泥棒に襲われ、身ぐるみを剥がされ、傷つけられた。
持っていた貴重品は皆盗まれたにちがいない。
そして、激しく打たれ、半殺しの状態で放置されたのです。
泥棒によって打ち叩かれた悲惨な犠牲者は、明らかに誰の助けも得られない状態で放置されたのです。
裸のまま、半殺しにはなるほどに打ち叩かれて、その場で死ぬことは確実だったでありましょう。
話の後半では、この可哀そうな男が通りに横たわっているのを目撃した人々と、彼らの反応はどうだったのかについて語られます。
偶然にも、ある祭司がその道を下ってきました。
そして、彼は半死半生の男を見て、道の反対側を通り過ぎて行った。
その男を見なかったではない。
その男が瀕死の状態でそこに横たわっているのを確かに見た。
明らかに有意な立場にありながら、その祭司はその男が生きているのか死んでいるのか良く分からなかった。
そこで、祭司はその男から十分な距離を置き、道の反対側を歩いた。
さて、何故そうしたのか。
祭司の間に、パリサイ派の間に、レビ人や汚染と清めの儀式に携わる人たちの間に、次のような律法がありました。
死体に触れてはならない。
もし死体に触った場合、祭司の務めを再開するために、あらゆる種類の清めの儀式を経なければならなかった。
そのために、強盗に襲われ男が死んでいると思い、この祭司はできるだけ遠回りとして立ち去って行きました。
祭司職の通常業務を中断せざるを得ない清めの儀式を避けたかったのです。
そのために、彼は道の反対側を通って行ったのです。
レビ人も同様でありました。
レビ人は、神と教えの務めを行なうために全部族から聖別されていました。
彼がその場に着いた時、状況を見て取り、道の反対側を通り過ぎていきました。
このふたりは聖職者のメンバーであり、特別な地位にあり、慈悲の務めを営んでいました。
この男を助けるために立ち止まろうともせずに、そこにいる瀕死の男を横目で見ながら、道の反対側を通って行った。
このふたりは助けようとはしなかった。
もしもその男がまだ死んでいなかったとすれば、結果として、彼に対する聖職者としての奉仕を拒絶したということになるのです。