Parable of the Good Samaritan: The Parables of Jesus with R.C. Sproul
訳出時間枠:19分49秒から最後まで
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話し終えた後、イエスはその法律家に言います、「この3人の中の誰が、強盗に襲われた男にとって隣人であったと思いますか。」
これは神学#101です。
この質問は、その法律家が答えるには極めて簡単な質問でした。
この3人の男の誰が隣人であったと思いますか。
その法律家は間違いませんでした。
「彼に慈悲を見せた人です。」
彼は単に同情心を感じたのではなく、同情心を示したのでした。
このたとえにおいて、イエスは、傷ついたり、怪我したり、慈悲や哀れみを必要としている人々を手当するように勧めているのではありません。
このたとえの要点は、「誰が私の隣人か」という疑問に答えることであります。
制限はないとイエスは言います。
神の国の隣人関係にとって、民族的制限も地理的制限もない。
神はわれわれ全人類の父であり、われわれ人類はみな普遍的に兄弟姉妹であるという19世紀のリベラル思想を聞いたことがあると思います。
そうではありません、これは間違い。
私たちは普遍的に兄弟姉妹ではありません。
新約聖書において、兄弟姉妹とはキリストにある人々によって限定的に構成された集団のみであります。
キリストは父なる神のただ一人の御子であり、私たちの長子であります。
この兄弟姉妹の関係へと入るための唯一の方法は、相続を通してのみであります。
イエスを信じない人々は、この兄弟姉妹の中に入ることはありません。
つまり、普遍的な兄弟姉妹の関係というのは存在しないのです。
しかしながら、普遍的隣人の関係というのは存在します。
すなわち、神のイメージにおいて創造された人はだれでも私の隣人なのです。
それは、この地上にいる全人類を自分自身のように愛するために、私は召し出されているということを意味しています。
兄弟姉妹ではなくても、信仰の家族ではなくても、その人はやはり私の隣人であります。
私はこのことを最近ある教会のメッセージでお話しました。
必要に迫られている人を見た時、どうしてそうなったのか聞くことはありません。
私たちの務めは溝に落ちた人に「どうしてこうなったのか」と言って、責めることではありません。
溝に嵌まっている人がいれば、その人を溝から救い出すことが私たちの務めであります。
何故?
なぜなら、同様の苦境に陥った場合、私たちも助けて欲しいと願うからであり、その人は私の隣人だからであります。
自分を愛するように、私の隣人を愛することになっているのです。
イエスは言います、「これをしなさい。そうすれば生きる。」