R.C. Sproul: Post-Christian Christianity
訳出時間枠:36分58秒から最後まで
◇◇
主は言います、「その場所には、泣き叫びと歯ぎしりがある。」
地獄で目覚めると、人は荒れる。
泣き叫ぶことができる程自分の目に水気がないことに気が付かない。
彼らは解決しようともがく、「嗚呼、神よ。ここではありません。嗚呼、神よ。私を憐れんでください。」
彼らは地獄で目が醒めるや、それまで経験したことのないような絶望を経験します。
別の集団もそこにいますが、彼らは決して泣き叫ぶことはありません。
彼らはそこで歯ぎしりをするのです。
歯ぎしりは、聖書的比ゆ表現で、人間の激高を表します。
「よくもこんなことを、神よ。こんなところに置き去るとは。」
永遠に罰せられた者の怒りは見境がない。
当たり前のこと地獄で終わりたくはないと言いましたが、確信をもって私が知っている唯一のことは、もし私が地獄に行くなら、もし私が最近数年間自分自身を欺いてきたとしたら、もし私が「主よ、主よ」と言っている者でありながら、これもしなかった、あれもしていなかった。私から離れて下さい。
私こそあなたのことを知らなかったのだから。
そして、主は私を地獄へと送ります。
一つだけ約束できることがあります。
それは、私は泣き叫ぶ者となるということ、歯ぎしりをする者にはならないということ。
何故なら、私は神学に関してはいろんなことを知っております。
従って、主が私を地獄に送ったとしても、主に対して只の一言も不平を申し上げることはありません。
私は反逆の罪を犯したのですから。
宇宙にとどろくほど大きな反逆罪を犯したのです。
罪を犯す度に、自分の意志の方が創造主のみ旨よりも上にあると主張してきました。
主である神ではなく、私が支配者だと主張したこともあります。
神の国に敵対したこともありました。
私は罪を犯した。
聖であり究極的に義なる存在は、私には何一つ負債を負ってはいないと思う。
もし地獄で目が覚めたなら、私の命が受けるに値したものを受けたと理解します。
残酷でもなければ、不義でもなく、まさに完璧な義。
そのように理解するでしょう。
そこに行きたくもないし、そこへと至る如何なる道も欲しくはない。
堕落した人間でありながら神の尊厳を愛しているとしても、肉において、私の同僚には負けないくらい主を愛しています。
地獄にいる人についても熟慮できるような思いやりはあります。
主イエスご自身によってそれほど明快に教えられるのでなければ、地獄なんて存在しないとは考えない。
主は、天国よりも地獄についてより多くの事を教えているということを知っていましたか。
いずれにせよ、私は地獄(ハルノートの冗句)で終わりたくない。
ここで、聖句を2,3見ていきたい。
ルカの福音書13章18節。
イエスは言った、「神の国は何に例えることができるでしょう。何に比べることことができるでしょうか。それはからし種のようなもの。人がそれを取り、畑に植えると、成長して木になった。そして空中の鳥々がその枝に巣を作った。」
主イエスが神の国について語っているのを聞く時はいつも、主が何を言っているのか、それがどんな話か良く分からないことがある。
究極的に小さな種を植えて、水をやると、地面から小さな頭を突き出してきて、小さな小枝が成長し始めて、広がっていく。藪のようなものではなくて、10から15フィートもの高さの木へと成長していく。枝は手を伸ばすように生い茂り、異なる種類のあらゆる鳥たちがやってきて、枝に巣を作る。
数秒間止まっているのではなくて、そこに巣を作る。
神の国は、気が付かないほどに小さく始まり、花が咲き、成長し、全世界に広がっていく。
死につつある世界にあって、私たちはからし種です。
復興異教主義文化人でもなく、野蛮な文化人でもなく、私たちは神の国の兄弟姉妹であります。
私たちが植えるすべての種を受け取り、私たちが食べ物に入れるパン種を受け取る王の息子であり、娘であります。
それは成長し、広がり、地を満たしていきます。
ゆえに、最後の検討において、世に打ち勝ちたいと思うのであれば、如何に世が強かろうと心配することはありません。
如何に多くの異教徒が向う側にいようとも、心配する必要はありません。
私たちが知っておくべきことは唯一つ、我らの王は誰であるかということ。
我らの王が、この国家、この世界、この国民の運命を決定づけるからであります。
あなたは激しい苦悩の中にいるかもしれません。
それがこの世であるからです。
主イエスは言います、「努力して、狭き門から入りなさい。」
agonということばの意味は、ヘラクレス級の努力を意味します。
恐れをもって自身の救いを達成せよということ。
自身の務めに揺り動かされるなら、神の国に入ることはできません。
しかし、ひとたびそこに入ったら、全身全霊をもって務めを果たさなければならない。
巡礼者のように、嘲りに向かって振り返ってはならない。
如何に数多くの障害があろうとも、如何に数多くの敵がいようとも、如何に多くの反対があろうとも、その先にはドアがある。
当初、クリスチャンはその道の人たちと呼ばれていました。
その道とは、命へと通ずる狭き道だったのです。
今夜、寝床に伏す時、自問して欲しいと思います。
「私は少数の中に数えられていますか、それとも多数の中に数えられていますか。」
当然、あなたの答えは「少数の中に数えられている」でありましょう。
お祈りしましょう。
あなたのことばに感謝します。
あなたはあなたの民を救うと決断されました。
あなたは御子を与えて下さいました。
誰も御子を奪い取ることはできません。
そして、御子は世に打ち勝ったのです。
アーメン。
訳出時間枠:36分58秒から最後まで
◇◇
主は言います、「その場所には、泣き叫びと歯ぎしりがある。」
地獄で目覚めると、人は荒れる。
泣き叫ぶことができる程自分の目に水気がないことに気が付かない。
彼らは解決しようともがく、「嗚呼、神よ。ここではありません。嗚呼、神よ。私を憐れんでください。」
彼らは地獄で目が醒めるや、それまで経験したことのないような絶望を経験します。
別の集団もそこにいますが、彼らは決して泣き叫ぶことはありません。
彼らはそこで歯ぎしりをするのです。
歯ぎしりは、聖書的比ゆ表現で、人間の激高を表します。
「よくもこんなことを、神よ。こんなところに置き去るとは。」
永遠に罰せられた者の怒りは見境がない。
当たり前のこと地獄で終わりたくはないと言いましたが、確信をもって私が知っている唯一のことは、もし私が地獄に行くなら、もし私が最近数年間自分自身を欺いてきたとしたら、もし私が「主よ、主よ」と言っている者でありながら、これもしなかった、あれもしていなかった。私から離れて下さい。
私こそあなたのことを知らなかったのだから。
そして、主は私を地獄へと送ります。
一つだけ約束できることがあります。
それは、私は泣き叫ぶ者となるということ、歯ぎしりをする者にはならないということ。
何故なら、私は神学に関してはいろんなことを知っております。
従って、主が私を地獄に送ったとしても、主に対して只の一言も不平を申し上げることはありません。
私は反逆の罪を犯したのですから。
宇宙にとどろくほど大きな反逆罪を犯したのです。
罪を犯す度に、自分の意志の方が創造主のみ旨よりも上にあると主張してきました。
主である神ではなく、私が支配者だと主張したこともあります。
神の国に敵対したこともありました。
私は罪を犯した。
聖であり究極的に義なる存在は、私には何一つ負債を負ってはいないと思う。
もし地獄で目が覚めたなら、私の命が受けるに値したものを受けたと理解します。
残酷でもなければ、不義でもなく、まさに完璧な義。
そのように理解するでしょう。
そこに行きたくもないし、そこへと至る如何なる道も欲しくはない。
堕落した人間でありながら神の尊厳を愛しているとしても、肉において、私の同僚には負けないくらい主を愛しています。
地獄にいる人についても熟慮できるような思いやりはあります。
主イエスご自身によってそれほど明快に教えられるのでなければ、地獄なんて存在しないとは考えない。
主は、天国よりも地獄についてより多くの事を教えているということを知っていましたか。
いずれにせよ、私は地獄(ハルノートの冗句)で終わりたくない。
ここで、聖句を2,3見ていきたい。
ルカの福音書13章18節。
イエスは言った、「神の国は何に例えることができるでしょう。何に比べることことができるでしょうか。それはからし種のようなもの。人がそれを取り、畑に植えると、成長して木になった。そして空中の鳥々がその枝に巣を作った。」
主イエスが神の国について語っているのを聞く時はいつも、主が何を言っているのか、それがどんな話か良く分からないことがある。
究極的に小さな種を植えて、水をやると、地面から小さな頭を突き出してきて、小さな小枝が成長し始めて、広がっていく。藪のようなものではなくて、10から15フィートもの高さの木へと成長していく。枝は手を伸ばすように生い茂り、異なる種類のあらゆる鳥たちがやってきて、枝に巣を作る。
数秒間止まっているのではなくて、そこに巣を作る。
神の国は、気が付かないほどに小さく始まり、花が咲き、成長し、全世界に広がっていく。
死につつある世界にあって、私たちはからし種です。
復興異教主義文化人でもなく、野蛮な文化人でもなく、私たちは神の国の兄弟姉妹であります。
私たちが植えるすべての種を受け取り、私たちが食べ物に入れるパン種を受け取る王の息子であり、娘であります。
それは成長し、広がり、地を満たしていきます。
ゆえに、最後の検討において、世に打ち勝ちたいと思うのであれば、如何に世が強かろうと心配することはありません。
如何に多くの異教徒が向う側にいようとも、心配する必要はありません。
私たちが知っておくべきことは唯一つ、我らの王は誰であるかということ。
我らの王が、この国家、この世界、この国民の運命を決定づけるからであります。
あなたは激しい苦悩の中にいるかもしれません。
それがこの世であるからです。
主イエスは言います、「努力して、狭き門から入りなさい。」
agonということばの意味は、ヘラクレス級の努力を意味します。
恐れをもって自身の救いを達成せよということ。
自身の務めに揺り動かされるなら、神の国に入ることはできません。
しかし、ひとたびそこに入ったら、全身全霊をもって務めを果たさなければならない。
巡礼者のように、嘲りに向かって振り返ってはならない。
如何に数多くの障害があろうとも、如何に数多くの敵がいようとも、如何に多くの反対があろうとも、その先にはドアがある。
当初、クリスチャンはその道の人たちと呼ばれていました。
その道とは、命へと通ずる狭き道だったのです。
今夜、寝床に伏す時、自問して欲しいと思います。
「私は少数の中に数えられていますか、それとも多数の中に数えられていますか。」
当然、あなたの答えは「少数の中に数えられている」でありましょう。
お祈りしましょう。
あなたのことばに感謝します。
あなたはあなたの民を救うと決断されました。
あなたは御子を与えて下さいました。
誰も御子を奪い取ることはできません。
そして、御子は世に打ち勝ったのです。
アーメン。