みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#14 聖書信仰を堅持する

2020年11月24日 | 聖書信仰
初めに

4.両者の譲歩

p15~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

「ヴァンティル教授が“共通の基盤”に関する問題の重要性を詳細に示すために、この下りを引用した。」と、彼は付け加える。

Kuyperはそのようなことを信じていたので、トマスの自然神学へと向かう傾向があると非難されている。」

しかし、彼は次のようなことも付け加える。

「ヴァンティル教授はこの点を容認しているような素振りを見せることがある。

例えば、「それに関してある程度までは真実であるこの世に関する非常に多くの知識を、ノンクリスチャンは持っていることをわれわれは認識している」と彼は言っている。

つまり、ある意味で、われわれはノンクリスチャンの知識の価値を認めるべきだということ。

これは常に難解な論点となってきた。」

Kuyperは共通の基盤を信じており、私もそれを信じているとOrlebeteは認めている。

彼はここで止めずに、Kuyperに対する私の批判について言及する。

Orlebekeの論点は、Kuyperは知識・資格(qualification)のない共通領域を信じている一方で、私は知識・資格のある共通領域を信じているということ。

しかしながら、次のページから、オールベック(Orlebeke)は、知識・資格のある共通という観念について取り扱っている。

彼は、私の著作において存在する「曖昧」を解決しようとしている。

「曖昧」とは、一方で非信仰者の知識の価値を認め、他方で「罪人は現実を正しく理解できない」という考えを固持している点だ。

「信仰者と非信仰者の両者は、花のような単純な物体に関して持っているような、もちろん私も持っているような知識」について、彼は次のように述べている。

もしある人がこの花を欠くことのできない正確さで知っているとすれば、彼は、神の創造物として、神の知恵、神の力、そして神の栄光の明示として、その花を知る必要がある。この究極の論点からすれば、「自然の人」は、その花のことを本当に知っていることにはならない。同様の究極の論点からすれば、クリスチャンはすべてのことを本当に知っていることになる。しかし、上述からすれば、究極の観点からという場合を除けば、非信仰者の知識は何から何まで間違いということにはならない。つまり、花Bに対する花Aの空間的関係に関して、非信仰者は、限局的な場合において、真の知識を持つことができる。そして、信仰者はその空間的関係の限りにおいては、間違いを犯しうる。もしクリスチャンが花Aと花Bとの距離を偶然誤認するとすれば、それが当てはまるだろう。

コメント:

ややこしいことが書かれているので、若干解説を加えておく。

クリスチャンは、花Aが神によって創造されたと信じている。よって、これは究極の観点(神が存在するという観点)からすれば、クリスチャンは花Aに関して正しい知識を持っている。一方、神の存在を信じていないノンクリスチャンの花Aに関する知識は根本的にすべて間違いということになる。

花Aと花Bの空間的位置関係に関して言うと、当然だが、究極的観点(神の存在)云々が問題となることはない。つまり、非信仰者でも花Aが1階にあり、花Bが2階にあると正しく言い当てることができる。一方、クリスチャンと言えども、花Aが2階にあり、花Bが1階にあると言い間違いをする可能性がある。


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