みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#13 聖書信仰を堅持する

2020年11月18日 | 信仰の防衛
初めに

4.両者の譲歩

p15~
Concessions made
Introduction
The Defense Of The Faith
Cornelius Van Til

◇◇

以下が、その(私ヴァンティルの)一節。

重さを量ること、長さを測ること、普通に理性を働かせることは、ひとつの統合された解釈行為の側面にすぎない。

自称「自律している人」は、自分が考えていることを絶対的非人間的原理として利用しつつ、粗雑で剥き出しの事実として、自分が考えていることの重さや長さを測定する。

一方、信仰者は、自分が神の被造物であることを知っており、神によって創造された事実として、そして神によって創造された法として、自分が考えていることの重さや長さを測定する。

従って、何か物事を見るという時、Kuyperが見込むよりも大きな共通領域を見込むことになる。

この大きな領域はある資格を共有する。

この資格により、われわれは、Kuyperが強調するよう教えてきたアンチテーゼに対して十分な評価を下すことができる。

また、この資格により、トマス・アクィナスの後パターン化された自然神学に堕ちることから守られる。

Kuyperはそれを拒否するようにわれわれに教えている。

コメント:

実に難解なことが書かれているが、流れとしては、主に信仰者と非信仰者の接点と乖離点について論じられている。

自称「自律している人」とは、自分という尺度を用いて自分(の考え)の整合性を判断する人であり、Rushdoonyが言うところの人間教徒(ノンクリスチャン)に類似する。

カントからヒューマニズムへと発展していく流れだ。

一方、クリスチャンは、神の諸事実(=聖書)を基準として、自分(の考え)の整合性を判断する。

ノンクリスチャンにせよ、クリスチャンにせよ、人が何かを見て判断する時は、ある共通(common)の領域(territory)があり、その領域内の知識・資格(qualification)に従って、その何かの整合性を判断する。

共通の領域とは、ノンクリスチャン・クリスチャンそれぞれが別個に共通する領域なのか、それともクリスチャン・ノンクリスチャン問わず共通の領域が存在するのかは、さらに読み進めてみないとはっきりしない。

次に、トマス・アクィナスの後パターン化された自然(natural)神学とは、どのような学問か。

調べてみると

トマス・アクィナス

この中で

トマスは、「物体としての天体は物体としての人間の身体には作用するが、非物体としての人間精神や意志には直接作用することはない。」と解釈してキリスト教神学とアリストテレスの自然哲学を調停した。

とあるので、神学というより哲学のようなものではないか。

さらに、つぎのサイト「トマス・アクィナスとは?『神学大全』や思想、神の存在証明とは?」を見てみると

記事の中に

「神の存在証明」
「キリスト教的価値観に理性という価値観を入れた」

とある。

この2点から、トマス・アクィナス哲学は反聖書的であり、広い意味でヒューマニズムの範疇に入る哲学と考えることができる。

つまり、異端。




#617 神の法第六戒

2020年11月18日 | 神の法
第6戒
死刑

236~
The Death Penalty
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

人間教徒たちにとって、これらの刑罰は重くて不必要のようだ。

実際には、人々を刺激する聖書信仰のように、刑罰は犯罪を減らすために働いた。

ニューイングランドが、矯正不可能な非行少年や両親に暴力を振るう子どもに対して、死刑を要求する法律を通過させた時、死刑執行は必要ではなくなった。

その法は、子どもたちを巧みに制御した。

実行する必要もなく、望みうる効果を保証する法律もあるのだ。

1920年代、Llewellynによって記載された例を引用しておく。

ニューヨーク公立図書館の本は、紛失することが度々あった。これは、若年者非行の分野に特徴的だった。機会は全ての人に開かれていたが、窃盗の代価は、若年者にしか見合わないほど些細なものだった。法令が通過し、図書館のスタンプのある本の展示は違法となった。図書館職員は、都内にあるすべての古本屋がこの法令通告を受けたことを確認した。とたんに、すべての窃盗事件がほぼ消失した。市場は大幅に利益を減らした。法の下で告発はなくなった。必要がないのだ。

このことがいつでも当てはまるわけではない。

人民の宗教的かつ道徳的性格が崩壊している時というのは、法を破る者の数が警察と遵法者の数を上回り始める。

人間教の法秩序の弱体化は、法を守らない人間教徒たちの過激な犯罪癖による。

犯罪者たちに対する寛大な憐れみにもかかわらず、告発された者の80%は罪の言い逃れをする。

残りの20%の中に有罪となる者もいるが、不平を言う一団が有罪率を落としてきた。

Mayerが注目するのは、次のようなケース。

彼氏にめった打ちにされたにもかかわらず、その彼が欲しいと女性に決断させるにいたった若い男のケースが目立つ。

法手続きの渋滞を解消し、遅延や費用の増大を避けるために、有罪判決を受けた一団の多くは減刑を申し立てる弁明が許されている。

警察によって捕まった100例中、50例は有罪の申し立てにより有罪、5例は裁判後に有罪、30例はお咎めなしで釈放、13例は罪状認否後審判前に釈放、2例は裁判後無罪放免。

つまり、誤りを免れない人のシステムにおいて間違いはあるけれども、よくあることではない。

正義はあまり切れ味は良くないが、しかしそれに代わる選択肢がない。

さらに、Mayerがニューヨーク刑事法廷について説明しているように、弁護士は決して帽子を脱がない。

なぜなら、もし刑事法廷ビル内のどこかで帽子を脱げば、だれかがそれを盗むからだ。

犯罪の実践場は、弁護士があらかじめ費用を徴収するための法の一部署。

もちろん、その理由は、彼らの依頼人の過激なほどの不誠実さにある。

参考:

アメリカを支配してきた勢力は反セオノミー、反ポスト・ミレである

間違った教えを異端と呼ぶことについて

白装束の集団とハルマゲドン病