みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#594 神の法第六戒

2020年08月28日 | 神の法
第6戒
殺してはならない

219~
Thou Shalt Not Kill
The Sixth Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

第6戒は、第8テーブル、第10テーブルに簡単な言及にもある(出エジプト記20:13、申命記5:17)。

全く同じ表現で、出エジプト記と申命記に記載されている。

その極めて基本的意味は、カルヴァンによって明確に述べられている。

この戒めの全体は、不当に誰かに暴力をふるってはならないということ。しかしながら、他人を障害すること全般においてわれわれを抑え込むために、神はひとつの特別な形式-人の自然な感覚が嫌悪感を抱く-を提示する。われわれは皆、殺人をひどく嫌うからだ。彼らが手に伝染病を持っているかのごとく、血で汚れた手をもつ者たちから後ずさりするように。

不当な暴力は律法によって禁止されているとカルヴァンが考えていたということは注目に値する。

処刑、遵法的闘争、自己防衛、それらに同等の行為は禁止されていない。

カルヴァンは付け加える。

付随する法律に関する研究を開始した時、より明確となったことがあった。

「殺す」ということばの中に、提喩により、すべての暴力、強打、そして不当な攻撃が含まれている。

今日関連聖句とされている一節において、カルヴァンはさらに指摘する。

別の原則も思い出されるべきではないか。いわゆる負(negative)の教訓が、逆の肯定として理解可能な場合がある。意味が一致しているわけではない。他人を傷つけることを断念することによって、神の法を満たしている人もいるだろう。例えば、子どもさえ抑え込むことができないような臆病者が
隣人に対して指一本も動かさないなら、この者が、第6戒に関して、人の義務を果たしたと言えるのだろうか。否、悪行を我慢するだけでは済まないのが人の常識。この点に関しては、第2テーブルの要約から次のように言えるのではないか。すなわち、神はわれわれが殺人を犯すことを禁ずるのみならず、隣人の命を守ることを真摯に探求すべきであり、隣人にとって大切な人であると宣言すべきであると神は規定しているのではないか。その要約において、もはやネガティブな言い回しは使われてはおらず、われわれの隣人は愛されるべきだということばによって明言される。それ故、以下のことについては疑問の余地はない。愛されるべきであると神が命ずる隣人について、われわれが彼らの命を気遣うように神はお勧めになる。結果として、この戒めには2つの部分がある。第1に、われわれは誰をも苛立たせたり、怒らせたり、また敵意を持ったりしてはならない。第2に、人々と口論などせず、平穏に生活するだけでなく、不当に敵対してくる哀れな者たちに、できる限り援助の手を差し伸べるべきであり、ブラックリストに名を連ねるような乱暴者でない限り、彼らの悪事を忍耐する努力をしなければならない。

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