☞ Do You Bear Fruit? - Paul Washer (John 15)
45分16秒から54分52秒まで。
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キリストは、くり返しくり返し、ひとつの偉大なる真理を私たちに思い起こすように求めています。
キリストから離れて、私たちは何もできない。
キリストに依存して、私たちは何でもできる。
キリストにとって、困難なことは何もない。
難しいことは何もない。
福音宣教をする時言うことがあります。
「一人の人と聖書を与えて下さい。そうすれば、私は膝を屈めて、この国を得るだろう。」
以上の理由から、山上の垂訓は、霊の貧困から始まります。
「霊において貧しい者は幸いです。」
以上の理由から、私たちの弱さを私たちに指し示すために、神の摂理は絶えず働いておられます。
これが、あらゆる試練、あらゆる艱難の理由です。
分かりますか。
あらゆる試練、あらゆる艱難、人生におけるあらゆる逆風は、あなたの無能性、あなたの弱さを、あなたに指し示すためにあるのです。
そして、神の懐に戻るようにとあなたを駆り立てます。
さあ、ご一緒に見ていきましょう。
ヨハネは置いておいて、第2コリント4章7節を開いて下さい。
私たちは、この宝を土の器の中に持っている。というのは、この測り知れない力が神から出たものであって、私たちから出たものでないからである。
パウロが使っていることばに注意しましょう。
自分の人生や宣教活動において、パウロは計り知れない力を認めています。
しかし、同時に、その力が神からのものであって、自分自身からのものではないことも認めています。
ここで、間違わないようにして下さい。
パウロが言っているのはこういうこと、つまり「私の内で激しく働く力。」
それ故、聖霊の選びのもとで、恵みの領域において前進することができるのです。
そして、行ないがなされる時、その者の肉体は、文字通り征服されます。
それ故、多くの人たちは言っているように、私もイアン・マーレ―を信じます。
彼を間違って引用をしたくはありませんが、それが真のリバイバルが継続してはいない理由です。
それは次から次へと続いてはいません。
何故なら、人間の体も精神もそれに耐えることができないからです。
確かにそうであり、疲弊してしまうでしょう。
数分間の神の臨在、それがどのようなものか分かりますか。
それは、EF5級の竜巻からわずかに1m離れてひざまずいているようなもの。
パウロは言います、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」
パウロの言っていることが分かりますか。
全てのことは神のみ旨の働きであり、パウロ自身の中には何一つ希望を与えないようにご計画されているということ。
再度パウロの知性について、聖書研究者たちを論駁しようと思う。
これは本当に馬鹿げたことです。
使徒パウロが自分の知性について話している箇所が1カ所でもあるだろうか。
ありません。
それでいながら、何故私たちは、パウロの偉大な業績をパウロの知性によると考えるのでしょうか。
パウロが言っていることとは次のようなことです。
パウロが求めていたことは神の事々を無視しようとしていたのではありません。
自身の知的努力から自身を解放しようとしていたのです。
パウロは、自分のことばで話すよりもはるかに善いことを話すことができました。
人の確信は自分の知力にあるのではなく、神の力にあるという仕方において、パウロは語りました。
第2コリント12:10を見てみましょう。
第2コリント12:10
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(直訳)私は弱さに十分満足している。
ここで、質問です。
あなたがたは弱さに十分満足していますか。
これは、私がもがいていることでもあります。
あなたがたは苦慮なくこの箇所を読み過ごすことができるでしょう。
何故なら、あなたがたはここに書かれていることが分かっていないからです。
多くの人たちは怒り、また苦々しく思うに違いありません。
何故なら、そういう人たちは自己中心的であり、予期せぬことであるからです。
人々はそんなふうに生きたいし、そうならないと怒るのです。
弱さに満足すること、あなたがたの体における弱点、問題、試練、苦悩に満足すること。
そのようなことに満足すること、恥辱、苦難、迫害、艱難に満足すること。
キリストのために。
しかし、何故パウロは満足できるのか。
「私が弱い時、私は強いから」とパウロは言います。
パウロは、「自分が強くなるように自分を弱くしてくれる武具があり、それらの武具は祈祷会の主題から外すべきである」と言っているのです。
大抵の祈祷会では、そのような主題は避けるべきです。
あるいは、そのようなことが行われているとすれば、直ちに止めるべきです。
何かを学んだがゆえに、「それらの只中にいて、私は満足している」とパウロは言っているのです。
すべての希望が途絶えた時、主イエスキリストへと向かい、主の力を引き出し、そして真に真に強くなるのです。
そうではないですか。
神の御用に使われたいと願う時(私はこれをギデオンの召しと呼んでいます)、ギデオンの召しという神の手順を踏んでいく必要があります。
ギデオンの召しとは何でしょうか。
「ギデオンよ、あなたはミディアン人から私たちを救い出そうとしている。」
ギデオンが選んだ人たちを見てみましょう。
ある男が、ぶどう畑に隠れていることを恐れる。
神は「ギデオンよ、軍を徴集せよ」という。
ギデオンは兵を募るが、神はギデオンを止める。
問題があった。軍が大きすぎた。
あなたは、自分の問題は何と言いますか。
「私にはこれはできません」と言う。
何故そう言うのか。
「私はあまりにも取るに足らなさ過ぎる」「私には才能がない」「これがない」「私には知恵がない」「私には・・がない」「私には・・がない」
神はこれらを利点と見ています。
神はギデオンに言います、「この軍隊を選りすぐる必要がある。」
何故こう言ったのでしょうか。
率いる軍隊の大きさは問題ではない。
ミディアン人を打ち破ることはできない。
何か事を行なう時、何かに信頼を置くのは望ましくはない。
何がひどかったのでしょうか。
神から出たことだと人々が考えるあらゆる可能なことを神が行ない、ギデオンはそれとは何ら関係がないとしても。人々はギデオンを神に仕立て上げようとします。
私たちも同じことをするのです。
そこにあるのは、神の力のみであります。
私が望もうと望むまいと、あなたがたはみな私の家に来るでしょう。
私のファミリーに会うために。
私の家族についていろいろと知りたいと思っているから。
しかし、それはあなたがたが知るであろうことではない。
私の妻はまじめなクリスチャンだと思う。
私たちな偽善者ではないと思う。
私たちはキリストに栄光を与えたいと思う。
その通りです。
私たちはそれぞれ家庭に決まり事を持っています。
私たちは子供たちを教えます。
このようなことを皆実行しています。
自分の家族に不従順であろうなどとは思いません。
しかし、最も注目すべきことは、私たちの抱える問題は共通しているということです。
あなたがたを悩ませていることは私たちを悩ませます。
あなたがたの問題は私たちの問題でもあります。
あなたがたは信仰生活ができないと言っているのではありません。
否、できます。
私たちは信仰生活を送ることはできるし、クリスチャン家庭を持つこともできます。
あなたがたに分かって欲しいことは、私たちは平凡な人々であるということです。
私たちはみな同じ問題を抱えています。
とるに足りないことをあれこれ議論します。
私たちはただの人です。
しかし、神の力は私たちの弱さを通して働きます。