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逆襲するさらりーまん

ーやっとこさ英検1級、通訳案内士試験合格。しかし英語の道は長い。基本的にやり直し英語+その時々に思うことなど。-

食わず嫌いを変えられないか? その6

2013年03月23日 10時58分50秒 | 旅行記

さて前回の記事の続きです。

カイロからアレキサンドリアに向かう砂漠の一本道で、代理店の社長のベンツのタイアがバーストし、派手に 2 ~ 3 回スピンして、スペアタイアもジャッキも積んでいないので、他の車が通るまで、待つしかありません。

幹線道路ではなく、砂漠の中の裏道なので、中々車は通りません。

・・・・ 1 時間半ぐらい待ったでしょうか? ようやく 4 駆のピックアップ・トラックが通りかかったので、道路の真ん中に出て、手を振って止まってもらいました。

社長はなにやらアラビア語で、ピックアップ トラックの運転手と話しています。

どうやら、ピックアップ トラックに積んでいるスペアタイアを売ってもらったようです。

どう考えても社長のベンツとピックアップ トラックのタイアのサイズは違うはずなのですが、そんなことはお構いなしです。

ピックアップ トラックにはジャッキも積んであり、運転手もベンツのタイア交換を手伝ってくれました。

ようやく再出発出来ることになりましたが、そんなこんなで、もう太陽も西に傾いています。

社長は、『 インシャーラ 』 (アラーの神のおぼしめすまま、という意味らしい。)と言いながら何食わぬ顔で、ベンツを運転しています。

アレクサンドリアに着いたのは、夕方近くでしたが、この街は騒々しいカイロと違って実に美しい街でした。地中海風に民家の壁は鮮やかな赤や青で彩色されています。

ここへ来るまでのタイアのバースト事件は忘れてしまいました。

カイロへ戻るのは、さすがに車で戻るのはこりごりだったので、飛行機にしました。エジプト航空の国内線です。これがまたひどく機体は 25 年ぐらい経っていそうです。タイヤはほとんどすり減っていて、それこそバーストしそうです。

また、通常ハイジャック対策などで、コックピットへの扉は閉まっているのですが、大きく開け放たれていて、パイロットが新聞を読んでいるのが目に入ります。

しかし、中東へ来てまだ 2 日しかたたないのに、もう少々のことでは驚かなくなっていた僕は、まあいいか、とあまり気になりませんでした。

次はクエートとヨルダンに向かいました。クエートは当時からオイルマネーでリッチな国で、特に印象には残っていません。

ヨルダンは色々あるのですが、長くなりましたのでまた次回書きます。

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食わず嫌いを変えられないか? その5

2013年03月15日 21時35分38秒 | 旅行記

花粉と黄砂と PM 2,5 が飛び交っていて、花粉症持ちの僕にはつらい季節です。

さて、またまた前回の記事の続きです。

エジプトの代理店の社長に 『 ピラミッドを見に行こう。』 と言われ、二つ返事で、行こう、行こうと答え、車でカイロの市街を抜けて、ギザに向かいました。

それにしてもカイロの市街の喧騒ぶりはすごいですね。車線もあってないようなもので、あちこちから他の車が割り込んできます。この街で車を運転するのは相当のドライブテクニックが必要です。

しばらく行くと遠くの方に、4 角錐のピラミッドが 3 つ見えてきました。生まれて初めて見る本物のピラミッドに少し興奮しました。しかし、近づくにつれ、非常に臭い。馬かラクダの糞があちこちに散らばっています。

ピラミッドも、遠目に見ると、きれいな方錐をしていますが、近くで見ると 2 m 程の高さの岩のごつごつした積み重ねです。建てられた当時は、そのごつごつを埋めるため、大理石が貼られていたそうです。

 

登ろうと思いましたが、岩を二つぐらい登って、諦めました。

ラクダにも乗りましたが、ラクダはかがんでいると背が低く見えますが、人を乗せて立ち上がるとずいぶん高く、怖くなりすぐ降りました。糞の匂いが強く、とてもロマンチックなものではありませんでした。

ピラミッドを見た後、カイロ博物館に行きましたが、有名なツタンカーメンの黄金のマスクなどがセキュリティも甘く、無造作に展示されていました。

次の日、またいい加減な時間にやってきた代理店の社長は、『 アレキサンドリア の俺のお客さんを訪問しよう。』と言ってきました。

好奇心の旺盛な僕は、これも二つ返事で、『 行こう。行こう。』ということになり、社長の白いベンツに乗りこみました。

カイロからアレキサンドリアは 200 km ほど離れていたと思いますが、砂漠の一本道を時速 160 km ぐらいの猛スピードで、砂煙を上げながらベンツは走っていきます。

その時、パーンという音がして、ベンツが2 ~ 3 回スピンし、砂漠の中に止まりました。タイアがバーストしたのです。周囲が木も何もない砂漠の一本道だからよかったようなものの、もし木立があれば、激突して僕はこの世にいないでしょう。後で考えるとぞっとしました。

しかし、社長は、こんなことはよくあるのか、平然として、他の車が通るのを待とう、と言います。『 おいおい、スペアタイアもジャッキも積んでいないのかよ。』と思いましたが、実際積んでいません。

砂漠の一本道は通る車も少なく、1 時間ぐらい待っても車は通りません。後できいた話では、カイロからアレキサンドリアは高速道路もあるが、社長は私に砂漠の景観を味あわせようと、わざと砂漠の道を選んだようです。

ーーー長くなりましたので、続きはまた次回書きます。----

 

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食わずぎらいを変えられないか? その4

2013年03月09日 00時21分10秒 | 旅行記

急に暖かくなってきましたね。

さて、また前回の記事の続きです。

香港見物を終えて、啓徳(カイタック)空港に何とか戻ってきた僕は、バーレーン行きのキャセイ・パシフィック航空の受付カウンターで、チェックインしました。

いよいよこれからは中東です。キャセイパシフィックは、当時シルクロードかキャセイと言われていて、中東へ入るには、最も便利でした。

確かに、定刻に出発し、定刻にバーレーンに到着しました。もう夜中の 1 時近くです。暗いため、景色は全然見えません。通算 30 時間ぐらいロクに寝ていない僕はさすがに眠たくなりました。しかし、まだ大仕事があります。トランジット・ビザを空港内で申請して、今夜のねぐらのホテルまで行かなければなりません。

バーレーンへの入国は、48 時間以内の滞在であれば、空港で申請すれば、トランジット・ビザが出ます。

眠いのを我慢してトランジット・ビザを取得し、ようやく空港の外へ出ました。夜中で真っ暗だったので、外の景色がどうなっているかはわかりません。

ホテルへの移動は、料金メーターのないタクシーに、最初に払う金額を交渉して乗り込み、ホテルにチェックインして、死んだように眠りました。

・・・翌朝、目が覚めて窓の外を見てみると、外は沖縄のような透き通った海です。
沖には木造の漁船もちらほら見えます。ペルシャ湾はタンカーの通り道なので、結構汚染されていると思っていましたが、当時のバーレーンはほとんどビルのない、漁村でした。

バーレーンからエジプトのカイロに入りました。空港からすぐホテルに行き、ホテルで代理店の社長と待ち合わせるつもりでしたが、午後 10 時の約束ですが、待てど暮らせどやって来ません。午前 11 時 45 分ぐらいになって、ようやく白いベンツに乗って代理店の社長がやって来ました。

『 遅いじゃないか  』と怒ると、『 まだ午前中じゃん。』 という返事です。どうも中東では時間感覚が、朝と昼と夜の 3 つしかないらしい。朝の約束ならば、午前中にくれば OK ということらしい。

代理店の社長が『 昼飯を食いに行こう。』 と街に出ましたが、そこいらの屋台に並んでいる魚を自分で選んでレストランで調理してもらう方式らしい。ナイル川で獲れるのか、鯉に似た赤い鮮度の悪そうな魚が並んでいます。

魚を 3 匹ほど選んで、焼いてもらい、食べました。僕は代理店とはいえ、大事な“お客様”ですから、お客様が薦めるものは、なんでも腹一杯食べるのが礼儀だと思っていましたので、その時も 3 匹をぺろりと平らげました。(後ほど、サウジアラビアで羊の脳味噌を食べさせられました。羊の脳味噌はサウジアラビアの最高のもてなしらしい。この時もぺろりと食べました。何か日本の豆腐に似た味がしました。)

3 匹も平らげたので、『 日本人で 3 匹も平らげたのはお前が初めてだ。』 と妙に代理店の社長に気に入られてしまいました。あとで聞いた話ですが、僕の前にこの代理店の社長の“歓待”を受け、同じ魚を食べた日本人は、急性赤痢になったとのこと。

僕もその晩、少し下痢をしましたが、寝込むことはありませんでした。思えばあの時が僕の体力の絶頂期でしたね。

社長のオフイスで少し商談をしたあと、『 ピラミッドを見に行こう。』 というので、待ってました!エジプトと言えばピラミッドじゃん。と思っていた僕は、『 行こう、行こう。』 と 2 つ返事で答えました。中東の旅はまだ始まったばかりでした。。。

ーーー 続きはまた次回書きます。ーーー

 

 

 

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食わず嫌いを変えられないか? その3

2013年03月03日 12時22分41秒 | 旅行記

暖かくなったと思ったら、寒さが逆戻りして、気温の変化が激しいですね。こういう変化を繰り返して、だんだん春になっていくのでしょう。

さて、また前回の記事から 1 週間経ってしまいましたが、前回の記事の続きです。

中東 10 か国出張の前夜、目が爛々としてほとんど眠れませんでしたが、飛行機に乗り遅れては大変と、かなり早く成田空港に行きました。

当時 (1987 年)の成田空港はまだ第一ターミナルしかない小じんまりした空港で、羽田空港はまだ国内線専用でした。

当時、中東に入るには、南回りしかなく、僕はまず香港にいって、そこでトランジットしてバーレーンに入るルートを選びました。

当時の香港の空港は、ビルの間を 90 度旋回して着陸しなければならない、啓徳 (カイタック)空港しかなく、一説によれば、腕に自信のあるパイロットが、どうすれば自分の技量を披露できるか試すために、着陸しがいのある空港でした。(日本の伊丹空港と状況は似ています。)

香港でのトランジット・タイムは 8 時間あり、初めての海外旅行で興奮していた僕は、8 時間も空港でウダウダしているのはもったいない、ということで、香港の市街に出ることにしました。

列など全然並ばない、雲霞のように人が集まっているパスポート・コントロールをようやく抜けて、空港の外に出ました。

香港といえば、100 万ドルの夜景だろう、と思いこんでいた僕は、バスの乗り方などまるで分からないので、空港の外に並んでいる ”的士”と書いてあるタクシーに乗り込み、”Victoria peak, please." と運転手に言いました。

僕の乗ったタクシーは、九龍サイドから、地下トンネルを抜けて、香港サイドに入っていきます。しかし、かなり長い時間走っても一向に peak らしきものは見えてきません。

さすがにおかしいな、と感じた僕は、『 ビクトリア・ピークに行きたいんだ。夜景、夜景。』とカタコトの英語で運転手に言いました。5 回ぐらい言い続けたあと、ようやく運転手は、『 ああ、Victoria peak.  Victoria park かと思ったよ。』としらっとしています。おそらく、ボラれたのだと思います。

ようやく、『 ここだよ。』とタクシーの止まったところの外を見ると、古ぼけたケーブルカーの乗り場があるだけです。またボラれてはたまらないと思った僕は、『 ここはどこ? 』と訊くと、運転者は、『 俺が来れるのはここまでだ。あとはこのケーブルカーに乗って、peak に登るのだ。』と言い残して、かなり沢山の香港ドルを受け取って、タクシーは走り去っていきます。

さて、古びたケーブルカーの停車場にポツンと一人残された僕は、それでもここまで来て peak に登らないのはバカだと思い、ケーブルカーに乗ろうとチケットの販売窓口に行きましたが、次の発車まで、30 分以上もあります。

仕方がないので、ぽつんと一人、30 分あまり、ケーブルカーの発車を待ちました。

ようやくケーブルカーがゴトゴトと不気味な音を立てて発車します。(後で聞いた話ですが、そのケーブルカーの路線は、出来て 150 年ほど経ち、いつブチ切れてもおかしくないが、不思議なことに、今まで一度も事故を起こしたことがない、とのこと。)

ようやく、ケーブルカーが peak に着きました。空港を出てから、なんだかんだで 2 時間経過しています。ケーブルカーを降りてしばらく歩くと、眼前には、香港の 100 万ドルの夜景が広がっています。香港に来たら誰でも見る観光地ですが、初めての海外旅行で、自分一人でたどり着いた(?)ので、その美しさはひときわ感動的でした。 10 年ほどあとで、ニューヨークのエンパイア・ステートビルからニューヨークの夜景を見ましたが、この時の香港の夜景の方が、ずっと印象的でした。

当時の香港はまだ英国領で、Victoria peak には、英連邦からの観光客が沢山来ます。僕も、カナダから来た母娘と知り合いになり、写真を撮ったり、撮られたりしました。『 香港の後はどこへ行くの ?』 と訊かれたので、『 バーレーンやエジプトやヨルダンやクウェートやサウジアラビアやシリアやUAEやオマーンなどです。』 と答えると、驚いたように、へえ~っという顔をされ、”Take care of yourself."  とマジで心配そうな顔で言われました。

しかし、昨夜ほとんど寝ていないにもかかわらず、初めての海外旅行ですっかり興奮している僕は、その時はその意味するところを理解していませんでした。

その母娘とは、お互いの住所を交換し、後で写真などを送りあいました。

その時感じたのは、日本人は礼儀正しい民族だが、気軽に挨拶したり、言葉を交わすのは、自分の利害関係がある人か、親しい人だけだな。一方欧米(加豪も含む)の人は初対面の人とも、今までなんの利害関係も面識もない人でも、気軽に声を掛け合い、親しくなってしまうのだな、ということです。個人差もあり、どちらがいいとかは一概に言えませんが。

帰りは、またケーブルカーに乗り、peak を下りて香港のダウンタウンに出て、街を歩き回りました。peak から見ると、香港の街は近代的でしたが、街に出て一本路地を入ると、鳥かごに入った鶏が生きたまま売られていたり、豚足が吊るされていたり、湯気がもうもうと立つ屋台がズラリと並んでいたり、活気に満ちていて、刺激的でした。

帰りはさすがに当時は香港には九龍サイドに空港が一つしかなかったので、タクシーにボラれることもなく、無事に空港に帰ってきました。

キャセイ・パシフィック航空のバーレーン行きのフライトまで、あと 1 時間半でした。

ーまたまた長くなりましたので、続きは次回書きます。ー

 

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食わず嫌いをかえられないか? その 2

2013年02月24日 13時59分47秒 | 旅行記

今日も寒い一日ですね。

さて先日の記事からあっという間に一週間経ってしまいましたが、今日はその続きです。

前回の記事にも書きましたが、高校時代は、強いて勉める ”勉強”は拒絶反応を示し、自分の好きな世界史(と現代国語)しか得意科目がありませんでした。当時は、そして今でもそうかもしれませんが、数学(今にして思えば、数学の基礎をベースにした解答ドリル)と英語(単語と文法主体の暗記)は大の苦手でした。

主要 2 科目が不得意ですと、相対的な成績は下位になりますね。 思えば “数学”と ”英語” は学年の順位や、偏差値、はたまた入れる大学や学部や学科にまで直接的に即決してしまうので、現実を直視するのが嫌な僕は、何となく想像をかきたてる世界史や現代国語の世界に逃避していたのだろうと思います。

一浪してようやく滑り込んだ第 3 志望の大学でも、その嗜好は続きました。しかし、演劇と映画が好きで、英語劇を少し齧ったので、英語に対してはアレルギーはなくなりましたが、それでも大学の英語の成績はよくなかったです。

さて、29 歳 (1987 年だったと記憶しています。)に中東 10 か国へ出張に行くことになりましたが、当時は、そして今も中東は日本人にとって危険地帯。しかも、僕はそれまで海外に行ったことがなかったので、パスポートさえ持っていない始末です。

当時はインターネットなどなかったので、先輩社員に訊いて、ひいこら外務省の旅券課までいって、パスポートを手に入れ、そこから中東諸国の入国ビザを日本から要請するのですが、これがまた大変です。当時の中東諸国は、バーレーンなどを除き、ビジネス上の現地のスポンサーが身元を保証した上での商用ビザでしか入国出来ませんでした。特にイスラム宗主国のサウジアラビアの入国ビザの取得は厳しく、申請から在日サウジアラビア大使館でビザを取得するまで、3 ヶ月ぐらいかかったと思います。

当時は、日本人は、中東でアラブにシンパシーがあるにせよ、ないにせよ過激派のイメージがあり、中東諸国は日本人にとって警戒すべき印象を持たれていたことと、イスラム諸国では、平日でもビザ発給の役所は午後 3 時までしか仕事をせず、断食月のラマダンに入ると、ほとんど仕事すらしなくなるので、ビザ発給に時間がかかったのだと思います。もちろん一般の観光客には、観光ビザはおりません。

また当時の航空券は、冊子のようになった航空券をチェックインカウンターで一枚ずつちぎって搭乗券に交換する方式で (随分後で行ったロシアでは”来た者順の自由席”で搭乗券すらありませんでしたが。) 10 か国回るとなると、ちょっとした束のようになります。この束について、僕は何をするのかもわからず、先輩社員に、『 この束をどうすれば、飛行機に乗れるようになるんですか?』と当たり前のようなことを尋ねたりしました。

よくチェックインカウンターでは、間違えて 3 枚分ぐらいちぎってしまうことがありますので、係員のちぎり方には注意して観ておかなければなりません。

そんなこんなで、パスポートの取得から、それぞれの訪問国の入国ビザの手配、航空券とトラベラーズ・チェック (現地ではクレジットカードなどはまだ普及していなかった。)の準備などで、出張準備に 4ヶ月ほどかかったと思います。(それぞれの国の在日大使館に、パスポートを提出すると、アラビア語の切手を巨大にしたようなビザをべったり貼るか、でかいスタンプを押してパスポートを返してくれます。(パスポートに張りつけられる当時のビザの典型的な写真は↓。個人情報部分は読めなくしていますが、当時のUAEの入国ビザです。今はUAEは国際金融センター化していますので、もっと楽に入国出来ます。)大体それぞれの大使館にパスポートを提出して、ビザを付けて返してくれるまで、3 日~ 4 日かかった。パスポートは一つの国の大使館に提出中は、他の国の大使館には提出出来ないので、非常に効率が悪い。)

日本から出国するときは、当時は成田空港は第 2 ターミナルがなく、第 1 ターミナルだけでした。また、羽田空港は、国内線だけでした。
出張前だけの準備がかなり煩雑でしたが、ようやく日本で出来る準備はなんとかやり終え、出張前夜は、まだ見たこともない国への期待と、それと同じぐらいの不安で、眠れぬ夜を過ごしました。

Uaeー長くなりましたので続きはまた次回書きます。-

 

 

 

 

 

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食わず嫌いをかえられないか ? その 1

2013年02月17日 22時00分47秒 | 旅行記

また寒さがぶり返してきましたね。こういう気温の上下をもう 2 ~3 回繰り返して春になっていくのでしょう。

最近は一日に 1 時間ほど、ぼちぼちと米国公認会計士の勉強をしています。もともと自分の好きな分野ではないと思っているので、集中の密度は高くないですね。勉強の時間も少なく、かつ集中もしていないので、なかなか成果は上がりませんね。

米国 (英語)での会計の勉強でなければ、好きなことしかしない、飽きっぽくて気分屋、根性無しの僕は絶対に 1 日にわずかの時間でも続けていないでしょう。今の時代、働いて、稼いで、家族の面倒をみるだけでも大変なことです。生きていくだけでも大変です。生きて、働いているだけでも褒められるべきかもしれません。

以前にも書きましたので、詳しく書きませんが、高校時代は英語も大嫌いでした。数学はもっと嫌いでした。強いて勉めると書いて勉強と読みますが、数学も英語も高校時代に成果を出そうと思えば、徹底してパターン・プラクティスをしなければならない、強いて勉める ”勉強科目”だったので、飽きっぽく、粘りと根性のない僕はまっさきに嫌いになりました。主要 2 科目が嫌いでは、当時は大学受験では圧倒的に不利でした。(今でもそうだと思います。)完全に劣等生の僕は一浪しても志望校には入れませんでした。

好きだったのは、高校の科目の中では、現代国語と歴史(特に世界史)で、現代国語は根性のない僕でも強いて勉めなくともよかったから、歴史は、暗記科目で、強いて勉める科目でしたが、好きだったので、教科書を離れた色々な本も読んで、歴史の大枠を掴んでいたことと、好きだったから少々の暗記も苦にならなかったことがあります。

社会人になってからは、数学とは完全におさらばしてホッとし、英語は相変わらず嫌いでしたが、世界史が好きだったので、世界を駆け回り、自分の目で見ることが出来る部署に自ら志願して異動(実は今の会社に入社しようと思ったのも、世界中に製品を輸出していたからという単純な理由)したら、なんか英語の流暢な人や英語好きな人、英語の達人のような人ばかりで、英語が半公用語みたいに飛び交っていたので、嫌でも英語を使わなければ仕事にならず(自分が志願して来た部署でもあるし)仕方なくぼちぼち英語のテープを聴きはじめました。

多少英語に対して、好きにならないまでも、すこしは面白いな、と思い始めたのは、29 歳の時に初めて中東に出張した時のことです。エリート社員は当時は欧米を担当していましたが(今でもどの会社でもその傾向がありますが)、その部署で半公用語の英語も出来ず、完全に落ちこぼれの僕はあまり人のやりたがらない(身に危険の多い)中東を担当させられました。

ー長くなりましたので、続きは次回書きます。ー

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ヨーロッパ出張

2010年02月23日 23時07分17秒 | 旅行記

一昨日欧州出張から帰ってきました。

オランダ、ドイツ、フランスに行きました。
日本も寒かったと思いますが、欧州も異常に寒かったです。アムステルダムはあまり雪は積もらないのですが、今年は雪が残っていました。Photo_3

フランスまでくると雪はなかったですが、エッフェル塔も寒そうです。

いつも思うのですが、アムステルダムのスキポール空港もパリのシャルル・ドゴール空港もどうしてこうだだっ広いのでしょうね。ゲートに行くまで1kmは歩かなければなりません。年配や身体のご不自由な方には大変でしょうね。

 

Photo_4 今回の出張で唯一よかったのは、左のパリの『ポール』のクロワッサンです。1個1.3ユーロですが、しっとりとしておいしいですよ。

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