「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」 の内、「眼」から
「鼻」 までは、成程そうかとうけがえると思いますが、
「意(心)」 だけが、「眼」 や 「耳」 の働きのように
その場限りでは終わらないものです。
何故かというと、何かしら 「意(心)の働き」 というのは
執着をしたり、分別心を起こしたり、善悪をつくったり
しているように見えます。
しかし、「意(心)の働き」 を 「考える道具」 だと思ってみて
下さい。
考える道具ならば様々なことを思います。
好きだ嫌いだ、善いだ悪いだ、損だ得だ、迷いだ悟りだ
というのは、全部 「意(心)の働き」 そのものではありませんか。
「眼」 や 「耳」 の働きは、迷いとか執着などとは言わないと
思います。
「只」 というものさえ考えないくらいに聞こえて来る、見える
ということではないでしょうか。
「意(心)の働き」 をそういうものであると知(識)りさえすれば
「成る程そうか、このままでよかったのか」
ということも自分でよく分かると思います。