私達衆生は、いつからか “ものを二つに見る (相対的にものを見る)” 癖がついてしまいました。
これを「無明 (むみょう)」といっています。
道元禅師の場合「自分というものを認めてしまった」ために、それが「無明」となってしまったのです。
無明が隔てを作っているので、それがそれと【わからない】のです。
ですから「坐禅は坐禅なり」というのが分からないのです。
しかし、よく考えてみると「無明、無明」といっても「無明」とすべきもの (塊) は何も【ない】のではないでしょうか。
それでは、何がいったい「無明」なのかという事になってきます。
ですから、「ものを二つに見る癖」「ものを隔てるその様子」を無明と覚えて下さい。
言い換えれば、それは「自我」の事です。
ですから大切な事は、自我を忘れて【認識する以前の状態に戻る】事です。
【煩悩や菩提が生じる以前の様子】が必ずあります。
そういうことを「祗(只)管 /しかん」 とか、「只」といっている訳です。