クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

日本文化・逆説の魅力

2013年11月15日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
◆『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展 (NHKブックス)

引き続き、上の本でも語られている梅棹生態史観に触発されて思ったことを語るが、その前に今読んでいる、まったく毛色の違う本に少し触れる。櫻井孝昌・上坂すみれ共著の『世界でいちばんユニークなニッポンだからできること 〜僕らの文化外交宣言〜』だ。この本について詳しくは、追って取り上げるつもりだが、この中でも櫻井は、日本のポップ・カルチャーが世界に広がるとともに世界でいちばん知られるようになった日本語が「カワイイ」であることを強調している。

私はかつて、日本の「カワイイ」文化は、おそらく一神教的な父性原理の文化とは正反対の、アニミズム的ないし多神教的な母性原理の反映であり、一表現ではないかと指摘したことがある。「かわいがる」という動詞からも連想されるように、「カワイイ」という表現の大元には、母性愛的な感情がある。遠く縄文時代に源を発する母性原理的な文化が日本に息づいていることと、現代の「カワイイ」文化の広がりとはまったく無関係とはいえない。少なくとも父性原理が強い文化のもとで、「カワイイ」文化が生まれ育つことはあり得なかったはずだ。

日本が、農耕文明以前からの母性原理的な文化を破壊されず、それを基盤としながら、一方で西北ヨーロッパとよく似た歴史的な歩みを経て独自に近代を準備し、西洋との接触をきっかけに速やかに近代化を達成したことは、人類の歴史上でも、奇跡的なことなのかもしれない。そこに日本文化の逆説と魅力がある。

ユダヤ・キリスト教を基礎とした父性原理の文明とは最も遠いところに位置しながら、一方で他の非西洋諸国に先がけて近代化していった日本。そういう奇跡的な基盤の上に「カワイイ」文化も花開いたのろう。縄文的な心性を現代にまで残してきた日本文化のユニークさは、世界のどの文明もかつてはそこから生れ出てきたはずの、農耕・牧畜以前の文化の古層を呼び覚ますのだ。

さて、ではなぜ日本では、農耕以前的な母性原理の文化が破壊されず、現代にまで引継がれてきたのか。この問いについては、日本文化のユニークさ8項目のうちの、以下の項目に関する記事で追求してきた。それぞれの項目についての代表的な記事をリンクしておくので参照されたい。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。
 →日本文化のユニークさ40:環境史から見ると(2)

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。
 →異民族による征服を知らない民族:侵略を免れた日本01

(7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。
 →森の思考と相対主義(日本文化のユニークさ総まとめ04)

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。
 →キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01

《関連記事》
日本文化のユニークさ8項目
日本文化のユニークさ04:牧畜文化を知らなかった
日本文化のユニークさ05:人と動物を境界づけない
日本文化のユニークさ06:日本人の価値観・生命観

《関連図書》
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ユダヤ人 (講談社現代新書)
驚くほど似ている日本人とユダヤ人 (中経の文庫 え 1-1)
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)
旧約聖書の誕生 (ちくま学芸文庫)
蛇と十字架・東西の風土と宗教
森のこころと文明 (NHKライブラリー)
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)

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日本文化のユニークさ・本当の理由

2013年11月14日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
◆『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展 (NHKブックス)

梅棹忠夫は、日本は地理的にヨーロッパから遠く隔たった極東に位置するが、歴史的にはヨーロッパにきわめて似ているという。それは日本がヨーロッパ文明を模倣した結果ではなく、独自に発展した結果がヨーロッパと似た性質の文明になったということである。ヨーロッパと日本の地理的・歴史的な条件の類似性が、類似の文明を作り上げる結果になったのである。

ヨーロッパは、ローマ帝国の辺境としてローマ文明の影響を強く受けた。島国日本も、漢帝国など中華文明の大きな影響ももとに国家形成を行っている。どちらも中世においてはよく似た封建制を経験し、その頃から巨大帝国とは別の独自の道をあゆみはじめた。それが可能だったのは、内陸乾燥地帯から出撃してくる遊牧民の破壊力の犠牲にならずにすんだという生態学的な共通性も無視できない。

さらに梅棹は、徳川政権をフランスのブルボン王朝に対比できる絶対主義王制とみている。また、その200年間に近代日本のほどんどの基礎がつくりだされたという。経済面では、全国的な農地の開墾、鉱山の開発、治水、道路網の発達、手工業、マニュファクチャーの発展、全国的な流通機構の発達など。また江戸は18世紀後半に人口100万を超え、世界最大の都市となった。それにともない社会面では、行政組織の完備、教育機関の発達などが顕著であった。19世紀初頭の日本人の識字率はおそらく世界最高であった。こうした事実からも、日本の近代化が明治以前から始まっていたと考えるのは、むしろ当然のことであろう。

さて、私自身は、梅棹の日本とヨーロッパの歴史的な平行進化説は充分に説得力があると思う。しかし、このように類似性が高いからこそ、逆にその違いも際立つし、違う面に注目することの意味も大きいと感じている。違いとは、このブログで探ってきた日本文化のユニークさ8項目そのものである。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

日本とヨーロッパとは、ユーラシア大陸の両極に位置にしながら、その地理的気候的共通性や生態学的条件から、よく似た歴史的経過をたどった。ともに遊牧民による徹底的な破壊を免れた。しかし、一方で遊牧民とのかかわりにおいて決定的な違いもある。

いちばん重大なのは、ヨーロッパ文明が、砂漠や遊牧を基盤とする一神教の決定的な影響を受け、それを一つの根にして発展したということである。一神教を全面的に取り入れることで、砂漠的・遊牧民的な思考の深い影響下に入るのである。砂漠は厳しい環境で、右にオアシスがあるかも知れないが、左は灼熱の砂漠が続き死んでしまうかも知れない。だから判断を早くするため、話し合いで結論を先延ばしするのではなく、指導者格の一人が決断をしなければならない。一神教的なリーダーシップにより右か左かの二分法的な思考法が必要とされるのだ。それは父性原理の思考法である。

また遊牧民のリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

善悪を明確に区別し相対主義を許さない父性原理に対し、自然崇拝的な森の思考は、多様なものの共存を受け入れる女性原理、母性原理を特徴とする。一神教を中心とした父性的な文化は、対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。母性原理は逆に相反する極をともに受容する。

かつてヨーロッパからアジアにいたる広大な領域に、森林に根ざす母性原理的なケルト文化が広がっていた。ケルト人は、牧畜・農耕を営んでいたが、都市は発達せず、森との共生の中に生きていた。しかしキリスト教という一神教の拡大に伴いそのほとんどが消え去ってしまった。ただオーストリア、スイス、アイルランドなど一部の地域にはその遺跡などがわずかに残っている。とくにアイルランドはケルト文化が他地域に比べて色濃く残る。ローマ帝国の拡大とともにイングランドまではキリスト教が届いたものの、アイルランドに到達したのは遅れたからだ。

一方、日本の縄文文化は、一部農耕を取り入れながらも、狩猟・漁労・採集中心の豊かな文化で、それが約1万5千年も続いた。しかもその精神的な遺産が、強力な統一国家やそれに伴う、強力な宗教などによって圧殺されずに、現代にまで日本人の精神の中に生き生きと生き続けている。世界がほとんど忘れ去ってしまった、文明の古層が、現代の日本人および日本文化の中に息づいているのだ。

日本文明は、一方でヨーロッパとよく似た歴史的な経路をたどり、非ヨーロッパ世界でもっとも早く近代化したにもかかわらず、他方では一神教的なヨーロッパ文化からは最も遠い側面ももっている。つまり、農耕文化以前の文明の古層、自然崇拝的な多神教の性格をもつ文化の特色を色濃く残しているのだ。この二つの側面のギャップの中に、日本文化のユニークさの、もっとも深い基盤があるように思える。

《関連記事》
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日本はなぜ速やかに近代化した?

2013年11月13日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
◆『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展 (NHKブックス)

著者・梅棹忠夫は主著『文明の生態史観 (中公文庫)』であまりに有名な文化人類学者であり、その文明学は今もなお強い影響力をもっている。本書は、その二十年を超える比較文明学のエッセンスを、アメリカやフランスなどで講演した内容を中心にまとめたものである。時間に限りのある講演なので彼の主張がコンパクトにまとめられており、梅棹文明学への本人自身による良き入門書にもなっている。

さて、私はこのブログで日本の文化を他地域の文化と比較して、「日本文化のユニークさ8項目」の視点から探ってきた。とくに西洋文化との違いを強調してきた。一方で梅棹は、日本と西洋との、歴史的展開の共通性を打出し、独自の文明論として内外から注目されたのである。私自身、この論が、両地域の歴史展開の深い真実をついていると思う。梅棹が指摘するような共通性が確かにある。しかし、一方で大きな違いもある。その違いのひとつが、遊牧文明や牧畜文明とのかかわりからくる違いである。いずれにせよ梅棹文明学は、ここで取上げるにはきわめて興味深い題材である。

梅棹はまず、日本文明をどのように捉えるかを三つの説に整理する。

ひとつは模倣説である。日本人は模倣の才能に優れ、この1世紀間ひたすら西洋文明を模倣した結果、今日のような一見西洋化した文明を作り上げることができたという説である。もう一つは、転向説とでもいうべきものだ。日本は古来、独自の文化をもって発展した国であるが、19世紀に西洋からの衝撃を受けて、そちらの方向に進路を変更した。トインビーは日本を、伝統的原理をすてて西洋的原理に乗り換えた、文明の「改宗者」と呼んだ。これも一種の、日本「転向者」説である。

模倣説も転向説も、現代の日本文明を西洋文明の一変種としてとらえている点では、視点が同じである。いずれも、日本はいちじるしく西洋化することによって近代化に成功したひとつの例であるとみている。日本文明は、西洋文明という先行者の追随者という関係でとらえている。

梅棹自身は、これらの説をとらず、いわば「平行進化説」というべきものを主張する。日本はもちろん西洋文明の模倣を多かれ少なかれおこなったが、それは全面的なものではなく、一定の方針のしたがっての取捨選択である。その一定の方針こそ、長年の歴史の中で培われた日本文明の基本的デッサンである。ただ、この事実はこれまでも多くの人々が指摘してきたことだ。梅棹の主張が新鮮だったのは、近代日本が、かならずしも明治以来の西洋化の産物ではないことを事実と理論に基づいて明確にしたことである。

ペリーの来航する半世紀も前から、日本には近代社会への胎動が見られた。土地開発がすすみ、手工業的工場が各地に現れ、交通通信ネットワークも完備し、教育は普及した。前近代的な要素をのこしながらも、全体として「近代」の入り口まで来ていた。西洋の衝撃を受ける以前に、そのような事実があったことに注目すべきである。日本の近代化は、西洋文明によってもたらされたのではなく、明治以前から独自の路線による近代化が進行していた。西洋文明の衝撃によって、それがさらに促進されたにすぎないのである。

日本文明は、西洋文明とは独立に、独自に発展してきた別種の文明だ。他にも別種の文明はあるが、西洋文明の衝撃を受けも、多くは挫折か停滞を余儀なくされた。じょうずに近代化に成功したのは日本文明だけだった。それはなぜなのか。

梅棹は、この問いに答えて、西北ヨーロッパと日本の文明には、歴史的にみて様々な共通性があったからではないかという。どちらも古代において、ローマ帝国と秦・漢・唐の帝国という巨大帝国の周辺に位置した。中世においてはこの二地域だけが、軍事封建制という特異な制度を発展させた。その中から絶対王制(梅棹は徳川期を絶対王制の時代とみる)をへて、近代社会が生まれた。つまり、日本の近代化は、模倣説や転向説では充分説明できない。それはいわば、平行進化説によってこそ正しく説明できる。西北ヨーロッパと日本とは、ユーラシア大陸の両極にありながら平行進化をとげてきた。それが西洋の衝撃によっていち早く近代化できた大きな理由である。

ではなぜこのような平行進化が生まれたのか。その基盤にあるのは、西北ヨーロッパと日本との、生態学的な位置の相似性だという。両者は、適度の降雨量と気温にめぐまれた温帯にある。またアフロ・ユーラシア大陸をななめに走る巨大な乾燥地帯から適度な距離で隔てられている。この乾燥地帯が人類にとって果たした役割は大きいが、とくにそこにあらわれた遊牧民の存在が、その後の人類史において繰り返し強力な破壊力をおよぼした点が重要である。西北ヨーロッパと日本との共通性は、その破壊力からまぬがれて比較的平穏に文明を展開できたという点にも見出されるという。

わたしがとくに興味を持つのはこの点である。西北ヨーロッパと日本とは、遊牧民の破壊力からまぬがれたところに共通性があるという。それは事実であろう。しかし、このブログで探っている「日本文化のユニークさ8項目」の中には次のような項目がある。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

ユダヤ・キリスト教は、父性的な宗教であるが、その性格は砂漠や遊牧民との関係が密接である。そして、遊牧民や牧畜民ともっとも関係の薄い文明のひとつが日本文明なのだ。次回は、この点と梅棹の主張とを比べながら検討をすすめたい。

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一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)
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もののあわれとアニミズム:神話と日本人の心(5)

2013年11月10日 | 現代に生きる縄文
◆『神話と日本人の心

私は、この本を読み、日本神話の特徴が、その後に展開する日本文化の特徴にも深く関係するという点に注目し、そのいくつかを取上げて考えてきた。今回はまだ触れていなかった項目に簡単に触れたい。

②自国内よりも外国に基準を求める態度

古事記の成立は、712年。日本書紀は720年。この時代に日本人の国家意識が以前より強まり、大陸に対して日本という国の存在や基盤を示そうとする意図が強まった。国家の中心である天皇家の地位を明確にする意図も働いた。日本書紀の方が古事記よりそういう意図を強く打ち出しているのは確かだろう。そのためか日本書紀は、天地のはじめについても、最初から日本のこととして語るのではなく、中国の『三五歴紀』や『淮南子』の記述から借りた一般論から入り、「したがって」として日本のことを語り始めているという。

自国の神話さえも、他国のものを借りて一般論とし、それによって自国の話を強化しようとする姿勢は、神話としては珍しい発想だという。この事実は、国家成立の当初から自国の外に文明の規準を求めようとする姿勢があったということであり、日本人の辺境意識の根深さをうかがわせる。常に海外を意識しするこのパターンは現代の日本人にまで受け継がれているといえるが、一方で近年日本人にはそのような傾向から抜け出す動きも見える。これについては、

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が

以下で詳しく語ったので、下の《関連記事》を参照されたい。

④人間がその「本性」としての自然に還ってゆく、自然との一体感という考え方
⑤日本人の美的感覚である「もののあわれ」の原型が認められる

これらは互いに深く関連しているのでいっしょに見ていこう。

人間は、自然の一部であると同時に反自然の傾向をも強くもっている。この矛盾にどのように折り合いをつけるかという問いとそれへの答えが、各神話にも読み取れる。旧約聖書においては、アダムとイヴが禁断の木の実を食べる話にこの問題が反映されている。彼らは木の実を食べたあと、自分たちの自然のままの姿を恥じて、いちじくの葉をあてがった。つまり反自然へと一歩踏み出したのである。神はこれに対し、「原罪」を負わせて楽園から追放する。ここでは、神・人・自然の分離が明確に表現されている。

日本神話では、神が人に何かを禁じるのではなく、「禁止」が神々の間で行われる。黄泉の国でイザナミはイザナギに、自分の姿を見ないようにと禁じたが、禁を破ってイザナギが見たのは、死体のおぞましい姿であった。ホヲリ(山幸彦)は、妻トヨタマビメの協力もあり、兄ホデリ(海幸彦)を屈服させた。その時、トヨタマビメは既にみごもっていた。ここでも妻は、出産する自分の姿を見ることを禁じたが、ホヲリは禁を破って、妻が本来の鮫の姿にたちかえっているところを見てしまう。その姿を見られたことを恥じた妻は、子を残して故郷に去る。このどちらにも共通しているのは、人間が結局「自然の一部」であることを知ったということだと著者は指摘する。

ここで注目すべきは、女性の本当の姿を見たときの男性の態度である。イザナギの場合は「見畏(みかしこ)見て」、ホオリでは「見驚き畏みて」と表現されている。つまりそこでは、いずれも本来の姿に接したときの「畏敬の念」が表現されている。畏敬の念は、宗教体験の基礎となる感情であり、神・人・自然が深いところで一体のものとしてとらえられていることを示している。

ところでイザナミは、禁を犯したイザナギに対して怒りに近い恨みをもってあとを追いかける。一方、ホヲリに禁を犯されたとトヨタマビメの場合はどうか。恨みの感情を抱くが、それでも恋しい心に耐えられず、妹のタマヨリビメに託して歌を贈る。ホヲリも歌を返し、互いに慕う気持ちが表現される中で、恨みは消えていく。これは、恨みが美的な形のなかに解消されていく「葛藤の美的解決」という方式といえよう。

このとき美の背後には深い悲しみの感情が流れており、これらを全体として日本人は「もののあわれ」と呼んだ。神話の世界にすでに「「あわれ」の原型が存在していたのだ。著者は、このような根源的な悲しみを「源悲」と呼ぶことを提案する。ユダヤ・キリスト教文化の根源に「原罪」がある。一方、人間と自然のつながりを切ることのない文化の根源には「源悲」があるというのだ。人間が自然と異なることを強調するときには「原罪」の自覚が求められ、人間がその「本性」として自然に還っていく、自然との一体感が大切にされるときには「源悲」の感情が働くという。

ここで、これまでこのブログで何回か語った私の主張を付け加えよう。「源悲」の感情は、おそらくアニミズム的な宗教をもつ文化にかなり共通するだろうことは著者も指摘するところである。とすれば、ヨーロッパでもキリスト教以前にあったケルト文化などにも共通するかもしれない。現に、アイルランドの昔話は日本のものと類似性が高いという。現代の日本で生み出される小説やマンガやアニメはどうだろうか。それらも、多かれ少なかれアニミズム的な要素や「源悲」の感情を引きずっているのではないだろうか。つまり人類のきわめて古い記憶の層が、日本の文学やポップカルチャーにも受け継がれているのではないか。そして、人類の古い記憶の層を断ち切ってしまった文化から見ると、それが不思議であると同時にきわめて魅力的なものとして映じるのかもしれない。

《関連図書》
中空構造日本の深層 (中公文庫)
母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)

《関連記事》
『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

日本のポップカルチャーの魅力(1)
日本のポップカルチャーの魅力(2)
子供観の違いとアニメ
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
マンガ・アニメの発信力の理由01
マンガ・アニメの発信力の理由02
マンガ・アニメの発信力の理由03
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1) 
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1) 
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(3)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(1):「かわいい」
マンガ・アニメの発信力と日本文化(2)融合
日本発ポップカルチャーの魅力01:初音ミク
日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義
マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(5)庶民の力
マンガ・アニメの発信力:異界の描かれ方
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(3)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)
マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

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リーダーの不在:日本人と神話の心(4)

2013年11月04日 | 現代に生きる縄文
◆『神話と日本人の心

今回は、日本神話の特徴で、その後に展開する日本文化の特徴にも深く関係すると思われる8つのポイントのうちで、⑦に関連するものを見ることにする。

⑦明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう「中空構造」

古事記によれば、スサノオはアマテラスとの誓約に勝ったことを誇るあまり、大いに暴れまわる。その乱行を見たアマテラスは、岩屋に身を隠ししてしまう。その結果、世界は闇に包まれ、永遠に闇が続くかと思われた。多くの災いが起こり、こまった八百万神が対策を練るために集まった。そして、それぞれの神々が、問題解決のために様々なことを行う。

神々がこのように力を尽くしていたとき、もちろんアマテラスは岩屋のなかで何もしていない。スサノオとの対決ののちのスサノオの無茶な実力行使に対して、アマテラスは闇に身を隠すことでまったくの無為の状態にとどまるのである。他文化の多くの神話では、このようなとき主神が手勢を率いて悪に立ち向かい勝利するパターンが多いが、アマテラスは徹底的に受動的で、逆にそれが八百万の神々の活性化を促したとも言える。

しかも神々のめざましい活躍にもかかわらずそこにはリーダーが存在しない。中心になるリーダーなしに神々の相談はうまくまとまり、準備も整って、アメノウズメが登場する。そして例の裸踊りが始まる。日本と同じく多くの神々が活躍するギリシア神話では、主神ゼウスが調整役を務めることが多い。日本神話ではこのような危機的な場面でも明確なリーダー役が存在しない。それでもことがうまく運ばれていくのだ。

著者は、このように強力なリーダーなしにことが運ばれていく特徴は、「中空構造」という一種のバランス構造をもとにしているという。そして、古事記神話においてもっとも重要なのがこの中空構造であるという。

日本神話において重要な三つのトライアドも、やはり中空構造になっている。

1)タカムスヒ――アメノミナカヌシ――カミムスヒ
2)アマテラス(天)――ツクヨミ――スサノオ(地)
3)ホデリ(海)――ホスセリ――ホオリ(山)

第一のトライアドでは、それぞれ父性原理、母性原理を象徴する神を両側に配し、その中心はアメノミナカヌシである。第二のトライアドでは、天を示すアマテラス、地を示すスサノオを両側にして、その中心は無為の神・ツクヨミである。第三のトライアドでも、中心にやはり無為の神・ホスセリがおり、その両側にそれぞれ海と山を代表するホデリとホオリがいる。ちなみに二人はそれぞれ海幸彦と山幸彦とも呼ばれる。

このように日本神話は、相対する両極をもちながら、その中心を無為の存在が占め、全体としてのバランスをとるという「中空均衡構造」を大切にしている。確かにアマテラスは神々の中心のように見えるが、アマテラスとスサノオは互いに相手を相対化し、その中心には無為の神ツクヨミがいると見たほうが妥当だと著者はいう。

この構造は、たとえば『旧約聖書』のようにな、中心に唯一神をもちそれに敵対するサタンは徹底的に神に拒否されるという構造とは大きな違いである。このような日本神話の構造は、日本人の、あるいは日本人の集団のあり方と深く通じるものがあるのではないか。

かつて私はこのブログで、なぜ日本でキリスト教が広まらなかったのかをいくつかの面からまとめたことがある。もしこの「中空均衡構造」が日本人の心の深層に生きているとすれば、一神教的な構造が受け入れにくいのも不思議ではない。

キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01
最もキリスト教から遠い国:キリスト教が広まらない日本02

それを全面的に受け入れれば日本民族の特性が失われ、日本が日本でなくなると言ってよいほどの要素がキリスト教にあったからこそ、日本人はこの宗教を受け入れなかったのだろう。一神教は、日本文化の根底にある「中空均衡構造」と相容れなかったともいえよう。

最近、権威を嫌う知的な大衆:「日本的想像力」の可能性(3)というエントリーで、社会を営むためには権威や権力は尊重されるべきだと考えている人の割合が、日本人の場合は、世界と比較して極端に少ないというデータを紹介した。もしかしたらこの傾向は、神話の時代からあったのだろうか。

《関連記事》
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01

《参考図書》
中空構造日本の深層 (中公文庫)
母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)
「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
続「甘え」の構造
聖書と「甘え」 (PHP新書)
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)

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原始の根を保つユニークさ:神話と日本人の心(3)

2013年11月03日 | 現代に生きる縄文
◆『神話と日本人の心

この本を読んで興味深かったことは、日本神話の特徴が、その後に展開する日本文化の特徴にも深く関係するということであった。それは、ざっと挙げると以下のようなものである。

①男性原理とのバランスを取りながらの女性原理
②自国内よりも外国に基準を求める態度
③文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている
④人間がその「本性」としての自然に還ってゆく、自然との一体感という考え方
⑤日本人の美的感覚である「もののあわれ」の原型が認められる
⑥何らかの原理によって統一するよりも原理的対立が生じる前にバランスを保とうとする調和の感覚
⑦明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう「中空構造」
⑧恥の感覚の重視

これまでに2回にわたって①について見てきた。③についてもかんたんに触れたが、少し付け加えたい。前回指摘したのは、男性原理が女性原理に取って代わるのではなく、両原理がバランスをとりながらも女性原理優位の状態を保っていくという連続性であった。河合隼雄自身は、もっと具体的な別の面から③の特徴を指摘している。それは、神々の連鎖という特徴である。

記紀においてイザナキ、イザナミは国造りの主神だが、それ以前に「神世七代」と称される神々の名が連鎖的に告げられる。なぜ国造りの前に多くの神々の名が告げられるのか。その意味は、フォン・フランツの『世界創造の神話』が見事に解き明かしているという。

彼女によれば、ポリネシアやニュージーランドなどで重要な位置を占める神・タンガロアの創造神話は、まさに神々の連鎖だという。この地域の神話の特徴は、神々の連鎖のなかでだんだんと神々の姿が明確になっていき、それが人間へつながっていくことだ。日本の神話も、人間に至るには長い間があるが、やがて人間の世界へとつながる。つまり日本神話は、ポリネシアなどと同様に「原始的な根」をもち、その根との連続性を保っているというのだ。日本は、現代において「先進国」と呼ばれる国々の一つだが、その中で唯一、古代から現代に至る不思議な連続性を保っている国なのである。他の先進国はすべてキリスト教文化圏に属し、強烈な唯一神を中心とする父性原理的な宗教の力によって、「原始的な根」からほとんど切り離されてしまったのである。

このブログで探求している日本文化のユニークさ8項目のうち、一番目と二番目は次のようなものであった。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

これまで見てきたところからも明らかなように、これらの特徴は、日本の神話、とくに古事記の中にはっきりと読み取れるのである。そして(1)と(2)は、相互に深く結びついている。

先進国の中で日本が唯一、文明の「原始的な根」から切り離されていないということについて、現代の日本人はほとんど自覚すらもっていないかもしれない。いや、近年日本人は日本の伝統の大切さに少しずつ気づき始めたかに見える。しかし、日本人が「原始の根」から切り離されていないことの意味は、私たちが考えるよるもはるかに重要なのかもしれない。

日本文化に出会うことで、忘れられていたヨーロッパ文化の古層を思い出していった人物の一例をあげておこう。トマス・インモースは、スイス出身だが日本に在住するカトリック司祭であり、日本ユングクラブ名誉会長でもある。彼はその著『深い泉の国「日本」―異文化との出会い (中公文庫)』で、「神道とヨーロッパの先史時代とは共通のものを分かち合っている」という。スイスは、ケルト文明のひとつの中心地であった。それで、縄文的な心性が現代に残る日本という土地で、少しずつスイスの過去に出会うようになった。日本という「深い泉」に触れることで、自分自身のルーツのより深い意味を見出していったというのだ。「日本という土地の上で、私は少しずつ、スイスの過去に出会うようになった。バラバラだったものがひとつにまとまり、私は自分自身の過去も知るようになった。自分を理解するようになった。」

私たちは、日本文化の最も重要なこのような特徴を失ってはならない。そのためにはまず、この特徴をしっかりと自覚することが大切なのである。

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日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)

日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

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日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理


《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架

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アマテラスとスサノオ:神話と日本人の心(2)

2013年11月02日 | 現代に生きる縄文
◆『神話と日本人の心

この本を読んで印象深いのは、すでに日本神話の中に、その後に展開する日本文化や日本社会の特徴が色濃く現れているということであった。その一つが、「①男性原理とのバランスを取りながらの女性原理」であった。引き続きこの特徴を見ていこう。今回は、これと関係し「③文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている」という特徴にも触れる。

イザナギは、死んだイザナミを追って黄泉の国へいったが、逆にイザナミに追われてこの世に逃げ帰る。イザナギは、禊(みそぎ)をして黄泉の国の穢れを払い、自ら三柱の神を産む。左目を洗った時にアマテラス、右目からはツクミヨ、鼻からはスサノオが産まれる。アマテラスとツクヨミは、父の命令のままに、それぞれ天井と夜の国を治めた。ところが、海を治めろと命じられたスサノオは、命に服さず泣き叫ぶ。

イザナギが理由を尋ねると、母に会いに根の堅洲の国に行きたいという。アマテラスが「父の娘」であるのに対し、スサノオは父から生まれたにもかかわらず「母の息子」である。イザナギは、怒ってスサノオを高天原から追放しようとする。スサノオは、それならと姉アマテラスのところへ挨拶に行くが、アマテラスはそれを自分の国を奪おうとして来たと誤解、武装して待ち構える。

スサノオは、来訪の真意を説明するが、アマテラスは信じない。つまり日本神話では、アマテラスは最高神でありながら間違いを犯すこともある神として描かれている。次の誓約の場面ではスサノオが勝つのだが、今度はスサノオが勝利に有頂天になりすぎて失敗する。つまり、日本神話では誰かが絶対的優位に立つことはできず、優位にあると思った間もなくすぐに転落する。では中心はないのかと言えば、実は何もせずにただそこにいるだけのツクヨミこそが真の中心なのである。これが前回挙げた「⑦明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう『中空構造』」そのものであるが、詳しくは追って触れることになるだろう。

ところで、スサノオが勝利した誓約とは、スサノオの身の潔白を証明するため各々が子を産むという提案だった。スサノオはアマテラスの勾玉によって五柱の男神を産み、アマテラスはスサノオの剣によって三柱の女神を産んだ。アマテラスは、産まれた子はその材料の持ち主のものと判断し、スサノオは女神を産んだことを理由に潔白を宣言した。男女どちらを産んだら勝ちとあらかじめ決めていたわけではないので、女を産んだから潔癖だと宣言するのは、背景に女性優位の立場があるからだと著者はいう。

以上は古事記による物語だが、日本書紀ではこの話に多くのバリエーションがあるという。ただ日本書紀では、本文と付記されたバリエーションとのすべてで、古事記とは逆に男子を産んだことで清い心が証明されたとされている。その上で、互いの持ち物を交換し相手の所有物から子を産むという状況で、どちらをどちらの子にするかという判断が混淆する。

この日本書紀の記述に対する著者の結論は、母性原理と父性原理のどちらに優位を置くかに混乱ないし迷いがあったのだろうといことである。が、どちらかと言えば古事記は、母性原理優位でほぼ一貫しており、おそらくこれが古代日本の姿で、日本書紀は中国などへの対外的な意識から父性優位になっているが、父性原理だけで整合性を保つことにかなり難しさがあったということである。

この本で著者は、神話と歴史的な事実や背景との関係についてはほとんど全く触れていない。ユング派の心理療法家として、あくまでも神話と深層心理との関係という観点から論を深めている。著者は歴史家ではないから、それは当然の態度であろう。一方私としては、これまでのこのブログの流れからも、縄文文化と弥生文化との関係という視点から、母性原理・父性原理の問題に簡単に触れておきたい。

以前この問題については、日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)で論じたことがある。これをかんたんに振り返りながら進めよう。

紀元前1500年ごろから、シリア北西部で天候神バールの信仰が盛んになった。バール神は太陽の力をもち、嵐と雨の神、豊穣と多産の神でもあった。この天候神バールが、大地の女神のシンボルである蛇を殺す。シリアに残るバール神の彫刻は口ひげをはやした男神で、右手に斧を振り上げて、左手に握った蛇を殺そうとしている。

バール神は、ヘブライ人(ユダヤ人)の一部も信仰していた。やがてヤハウェのみを神とする一神教を確立するが、ヤハウェとバールはどちらも、これまでの蛇をシンボルとしする大地の豊穣の女神とは対決する性格をもつ男神であった。

日本の稲作技術は、気候の寒冷化をきっかけとして大陸からやってきた環境難民によって最初にもたらされ、弥生時代以降も、大陸から大量の人々が渡来した。こうして新たにやってきた人々は、蛇殺しの信仰をもっていた。こうした神話は、稲作と鉄器文化が結びついて伝播した可能性が高いというのが著者の推論だ。

日本神話でその蛇殺しの神話を代表するのがヤマタノオロチの伝説だ。スサノオが、オロチに酒を飲ませ、酔って寝込んだすきに、剣を抜いて一気にオロチの八つの首を切り落とする。この物語は、バール神が海竜ヤムを退治した物語によく似ている。スサノオノ命は荒れ狂う暴風の神であり、この点でもバール神を思い起こさせる。

バール神の蛇殺しもスサノオの蛇殺しも、ともに新たな武器であった鉄器の登場を物語っている。バール神がシリアで大発展した紀元前1200年頃は、鉄器の使用が広く普及した時代でもある。日本の弥生時代も鉄器が使用されはじめた頃だ。こうしてみると、蛇を殺す神々の登場の背景には、鉄器文化の誕生と拡散とが深く関わっており、殺される大蛇たちは、それ以前の文化のシンボルだったのだと著者はいう。

しかし、日本神話に関してはスサノオが大蛇を退治したから、それ以前の文化を葬り去った新時代の神だと言えるほど単純ではない。アマテラスが縄文以来の地母神を受継ぎ、スサノオが稲作と鉄器をもたらした新時代の神だとは割り切れないのが日本神話の興味深いところだ。スサノオは、女神を産んだことで身の潔白を宣言し、勝ち誇って大暴れをする。アマテラスの田の畔を壊したり、機織場の屋根を破って血だらけの馬を投げ入れ、驚いて逃げた機織女が、機織に御陰を刺して死んでしまう。

アマテラスが住まう稲作の地を破壊するのがスサノオなのだ。しかも大暴れをしたスサノオは、「根の国」に追放されてしまう。つまり男神が女神に敗北しているのだ。女神や蛇に象徴される古い文化が、鉄器をもった男神によって葬り去られるという単純な図式では整理できないのが、スサノオの物語だ。

ではどう考えればよいのか。母性原理と男性原理とのバランスが働く構造、アマテラスとスサノオのどちらが圧倒的な優位に立つわけではないという構造、そしてアマテラスは縄文時代以来の地母神を受け継ぐと見えながら一方で稲作に携わり、スサノオはアマテラスに追放されながら、大蛇を退治し新時代を代表するとも見える。
この単純に割り切れない構造をどのように理解すればよいのか。

私は、ここに日本人の原体験のひとつが反映していると考える。世界の多くの地域では農耕の広がりとともに農耕以前の文化は消えていく傾向にあった。男神による蛇殺しがそれを象徴した。おそらくそれは、古い文化を担う人々の抑圧や消滅を伴っていた。ヨーロッパでは、キリスト教が支配的になるとそれ以前のケルト文化はほとんど抹殺された。新しい文化が古い文化を完膚なきまでに葬り去ってしまうことが多いのだ。

西アジアの大草原で人類が農耕を開始したころ、東アジアの日本列島では、ブナやナラの落葉広葉樹の森で、狩猟・漁撈採集民としての生活を開始していた。日本列島の森の中は食べ物が豊富だったので、本格的な農耕を伴わない高度な新石器文化を形成し、一万年を超えて洗練することができた。そこへ大陸の人々が、稲作や鉄器を携えて渡来したとしても、一度に多人数が渡来できたわけではないから、人数の上でも縄文人を圧倒するほどの勢力にはなり得なかった。

つまり弥生人は、縄文人を一方的に追放したり、ましてや抹殺したりしたのではなく、せめぎ合いながらも、他方で和合したり協力したりして、縄文的な要素を大幅に取り入れながら最終的には溶け合っていったのである。その過程では様々な配慮や調整が必要な場面もあっただろう。異質なものを互いに受け入れ、配慮しあいながら融和していく。これが日本人の原体験になったのではないか。そして日本神話は、その原体験を反映する特質を持つに至ったのではないか。日本神話が、構造的に調和やバランスの感覚を大切にする(後に詳述)のも、この原体験に根ざしているといえよう。

以上からも、日本神話が「③文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている」という特徴をもっていることも納得できるだろう。日本人の原体験は、「文明の原始的な根」を断ち切るところにあったのではなく、「原始的な根」と調和し、バランスを取り、受入れていくところにあったのだ。それは、「文明の原始的な根」に生き続ける母性原理を受け入れることでもあった。同時に、父性原理的な行為によって根を断ち切るのではなく、母性原理的な行為によってそれそれを受け入れることでもあった。

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