クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

新海誠『秒速5センチメートル』と至高体験

2011年12月31日 | アニメ
◆新海誠『秒速5センチメートル』(2007年)

今日は、このブログの一連のテーマとは少し違うが、この作品のレビューを書きたい。新海誠は、宮崎駿の次の時代を担うほどの才能をもったアニメ作家、映画監督ともいわれた。その息をのむような映像の、詩的な美しさとストーリー展開の魅力は、『ほしのこえ』(2002年)や『「雲のむこう、約束の場所」』(2004年)のときから目立っていた。

とくに2002年公開の『ほしのこえ』は、監督・脚本・演出・作画・美術・編集などほとんどを一人で行った約25分のフルデジタルアニメで、自主制作としては信じられないほどクオリティーの高い作品であった。この作品は、第1回新世紀東京国際アニメフェア21公募部門で優秀賞を受賞し、実行委員会委員長の石原慎太郎都知事から「この知られざる才能は、世界に届く存在だ 」と絶賛を浴びた。

『秒速5センチメートル』は、前二作のようなSF的な要素は消えたが、映像はさらに美しく、物語は詩情にあふれている。

この作品の本格的な評としては、前田有一の超映画批評でのレビューをお勧めしたい。私は、前田有一や他のさまざまなレビューが取り上げていない視点からこのアニメを語ってみたい。

作品は、ある少女を思い続けた男の十数年間を三話構成で綴っている。第一話「桜花抄」は主人公の遠野貴樹と同級生・明里の小学生時代の出会いから始まる。 転校を繰り返した共通の経験を持つ二人は、互いに思いを寄せ合うようになる。明里が、東京から栃木の中学校に進学してからも文通を続けていたが、その後、鹿児島への転校が決まった貴樹は最後に明里に会うため、栃木県の小山の先まで行く決心をする。しかし彼の乗るJR宇都宮線は記録的な豪雪に見舞われ、待ち合わせの駅に着いたのはすでに深夜だった。 明里はその駅の待合室で一人待っていた。

二人は雪の中を外へ出る。あたりは静寂につつまれ誰もいない。大きな樹の下に二人だけがいる。その時の貴樹のモノローグ。

「その瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか分かったような気がした。13年間生きてきたことのすべてを分かち合えたように僕は思い、それから次の瞬間たまらなく悲しくなった。明里(あかり)のそのぬくもりを、その魂をどのように扱えばいいのか、それが僕には分からなかったからだ。僕たちはこの先もずっといっしょにいることは出来ないとはっきり分かったからだ。‥‥‥でも僕をとらえたその不安はやがてゆるやかに溶けていき、あとは明里のゆるやかくちびるだけが残っていた。」

この時、貴樹は一種の「至高体験」をしたのだ。「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか分かったような気がした」という言葉がそれを表している。そしてこの「至高体験」に、彼はその後ずっとこだわり続けることになる。(「至高体験」が何かについては、次のサイトを参照されたい。「覚醒・至高体験の事例集」)

第二話は「コスモナウト」。遠野貴樹は種子島の中学に転校し、その地の高校の三年生になっていた。貴樹をひたすら想い続ける同級生・澄田花苗は、貴樹が卒業後は東京の大学へ行くと知り、自分の想いを貴樹に告げようと決心する。それは、いつも二人で帰る畑中の道でのことであった。彼女が逡巡していたその時、種子島宇宙センターからロケットが発射され、空を割り裂くような轟音と軌跡を残して宇宙に旅立っていく。二人は、ただ黙ってそれを見つめる。

「‥‥ただ闇雲にそれに手を伸ばして、あんな大きな塊を打ち上げて、気の遠くなるくらい向こうにある何かを見つめて。‥‥‥遠野君は他の人と違って見える理由が少しわかったきがした。そして同時に遠野君は私を見てなんていないんだということに私は気づいた‥‥‥。」

ロケットの軌跡を見ながら、同時に花苗は自分の失恋に気づく。遠野君は、気の遠くなるくらい向こうを見つめていて、自分なんか見ていない。それに否応もなく気づいてしまった。では、貴樹が見つめていた宇宙のような遠くとはなんだったのだろうか。それは、一度垣間見た「永遠とか心とか魂とかいうもの」の在りかではなかったのか。「至高体験」ではなかったのか。

ロケットの噴射が描く、大空を引き裂くような美しい軌跡を二人は黙って見続ける。それは、二人の世界の分離を暗示するかのように残酷なほどに美しく空に描きこまれていく。

第三話は映画のタイトルとなった「秒速5センチメートル」。貴樹は、日々仕事に追われ、疲れ果てていく。3年間付き合っていた女性からも、彼の心が彼女に向いていないことを見透かされてしまう。

「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的ともいえるようなその思いがどこから湧いてくるのかも分からずに僕はただ働きつづけ、気づけば日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。」

「貴樹の心は今もあの中学生の雪の夜以来ずっと、彼にとって唯一の女性を追い掛け続けていたのだった…」(wikipedia)というのが、一般的な解釈だろう。しかし、「届かないものに手を触れたくて」、しかもそれが何なのかも分からず、その思いがどこから湧いてくるのかも分からないというのはどういうことだろうか。それが明里だったなら明里だと、彼にもはっきり分かったはずだ。彼が求めていたのは、明里というよりも、明里との間で一度限り体験した「永遠とか心とか魂とかいうもの」の在りかの秘密だったのではないか。それはあまりに幼き日に体験した魂の高みだったからこそ、失われ、忘れ去られて彼を脅迫的に突き上げる得体のしれない思いにまでなっていたのではないか。

私には、遠野貴樹という主人公の名前も、初恋の少女の明里という名前も、雪の夜の「至高体験」を暗示しているように見える。そして、遠くの高い樹(魂の高み)を見つめている遠野君は、私のことなんか少しも見ていないと、花苗は気づいた。空の高みを目指すロケットが打ち上げられるその光景を見ながら。

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新海誠の最新インタビュー、海外での人気の秘密

2011年12月30日 | アニメ
私は、新海誠のかなりのファンで、『秒速5センチメートル』(2007年)は何回も見ている。以前、そのレビューを書きかけたのだが、アップせぬままほとんど忘れていた。これは、追ってアップする予定でいる。

彼の最新作『劇場アニメーション『星を追う子ども』 [Blu-ray]』はまだ見ていないのだが、近々見る予定なの見たらここでも触れるかもしれない。

今日は久々に彼の公式ホームページ『Other voices』を訪れたら、「NEWS23クロス・膳場貴子×新海誠 対談映像配信」というのが最近アップされていたのを発見したので、紹介したくとりあえずアップした。

彼の作品は、その背景の圧倒的な美しさでも評価が高いが、彼がおい育った長野県の小海の自然がその原風景となっているという。また彼の作品は、海外でも評価が高く、韓国では『星を追う子ども』が100館の映画館で上映されたという。そういう海外での人気の秘密を彼なりに、謙虚に分析している部分も面白い。

その一つの理由は、作品のメッセージ性の「曖昧さ」ということだが、善悪を決めつけたり、結末を明確に方向づけないきわめて日本的な特徴が、海外では逆に肯定的に新鮮に受け止められているのではないかということだった。日本文化の性格が、アニメにも自ずと表現され、それが日本アニメのクールさの一要素になっているという事例のひとつかもしれない。

彼は、日本のアニメーション作家にはめずらしく、自分の作品を携えて海外にプロモーションにでることが多いとのことで、作品を上映したり講演をしたりしたあとの、ファンの熱狂的な反応を語る部分もとても興味深かった。

下の動画は、新海誠制作の最新CMのメーキングムービーだ。上の話とは直接関係はないが、彼の映像へのこだわりがよくわかる。

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日本人が日本を愛せない理由(4)

2011年12月11日 | いいとこ取り日本
「日本人の中に、なぜ日本の文化や社会を否定的に見る傾向の人が多いのか」について、今回は少し別の角度から考えてみたい。それは、日本の知識階級のあり方という側面からである。

5~6世紀の昔から、日本の知識人の役割は、大陸の進んだ文明を学んで日本に紹介することであった。書物によって学び紹介するということが多かったが、遣隋使・遣唐使のように危険を冒して、その地に渡って学ぶこともあった。いずれにせよ、自分たちより優れた文明をもつ国が、同時に自国への侵略者でもあるという経験がなかった日本にあっては、学び取られた知識や制度や技術は無条件に尊重され、それをもたらしたり、紹介したりする知識階級の役割も重視された。明治時代になって、学び取る相手が中国から西欧に代わっても、知識階級の基本的な役割は変わりなかった。

このように海外の文物を紹介していさえすれば尊敬された日本の知的エリートにとって、海外の文明がいかに素晴らしいか、それに引き替え日本の文化や社会がいかに劣っているかを強調することはぜひとも必要なことであった。その落差を強調すればするほど、自分の存在基盤が確たるものになり、自分の存在価値が上がるわけだ。そんな情報活動を日本の知識人は、千年以上必死にやってきたのだ。それが多かれ少なかれ庶民の感じ方にまで影響を与えたとしても不思議ではない。

しかし海外の「進んだ文物」を紹介するだけの知的エリートの存在基盤は意外と脆弱だ。世界中のほとんどどの国にも大衆をがっちり支配する知的エリート階級が存在する。しかし日本ではそのような階級はすでに崩壊してしまったか、崩壊寸前だという論者もいる。何とか自分たちの失地を回復したい日本の知的エリートは、日本について悲観論を繰りかえし、大衆を脅しつけることで支配したいのだ。あらゆる格差の中で知的エリートと大衆との間の格差ほど深刻で、根絶するのが難しい格差はない。ところが日本では、この知的能力格差が消滅寸前に近いという。政治家を一種の知的エリートと捉えれば、そのお粗末さは誰もが納得するだろう。 (増田悦佐『格差社会論はウソである』)

確かに海外の「進んだ文明」を紹介しさえすれば知識階級といわれた時代は、すでに終わっている。にもかかわらず、自分たちの存在基盤を失うのが怖い知識人たちは、相も変わらず西欧を崇拝・礼賛し、日本を不必要に貶め続けるのだ。そうしないと不安を打ち消すことができないのだろうか。

日本のマスメディアも自分たちの国を貶めるのに忙しい。マスメディアにかかわる人々もいわゆる「知的エリート」として、上に述べたのと同様の心理を共有している面があるのだろう。

にもかかわらず近年、日本の若者の意識傾向に顕著な変化があらわれているという。以前、このブログで触れたこともある次のような記事がそれを物語る。(詳しくは日本人の誇り、静かに大きな変化が‥‥参照)

★★★~~~~~★★★~~~~~★★★

8割が「日本人」に誇り 5カ国の青年意識調査(大阪日日新聞:2009年3月28日)

内閣府が28日発表した日本など5カ国の青年に対する意識調査結果によると、日本で「自国人であることに誇りを持っている」と答えた人は、6年前の前回調査より9・1ポイント増の81・7%に上り、1977-78年に実施した調査で聞いて以来初めて8割を超えた。

自国で誇れるもの(複数回答)は「歴史や文化遺産」が59・4%で最も多く、「文化や芸術」が44・7%で続いた。一方、自国人が「国際的視野」を身に付けていると考えている人は、日本が27・8%で最低だった(以下省略)

★★★~~~~~★★★~~~~~★★★

こうした変化が起こっている意味を考えていくのも、このブログの課題だと思っている。
コメント (3)
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日本人が日本を愛せない理由(3)

2011年12月10日 | キリスト教を拒否する日本
前回、「日本人の中に、なぜ日本の文化や社会を否定的に見る傾向の人が多いのか」について、日本文化のユニークさ5項目のうち(4)宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかった‥‥に関連させて述べた。しかし読み返してみて、論旨があまり明快でないことに気づいた。

その理由をかんたんにまとめるとこうである。「普遍宗教」に代表される強力な超越的価値(イデオロギー)を持たなかった日本文化は、海の向こうから導入した高度文明が持つ超越的価値と、自分たちの超越的価値とを対決させる必要がなかった。こちら側に対決すべき軸がないのだから、対決のしようもない。しかも、自分たちを征服しようと目論む軍隊も伴っていないから、導入べき文明を安心して理想化し、その分、自分たちの文化を劣ったものとみなすことができたのである。

そして以上のことは、5項目のうち、

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

とも関係する。まず、かつて論じたこと(日本文化のユニークさ03:縄文的基層を残すからキリスト教は広まらなかった)を一部省略して再録する。

縄文文化が基層文化として生き残ったのは、日本が大陸から適度に隔たった島国であるということや、その大半を山岳と森に覆われいたという地理的な条件に負うところも大きいだろう。海で隔てられていたからこそ徐々にしか渡来できなかった。また山と森に覆われていたからこそ、縄文人と弥生人の緩やかな住み分けと共生が一定期間可能であったのである。

その後大陸から仏教がもたらされるが、仏教は縄文的な基層文化に合うように変形され、受け入れられていくのである。それは、神道と仏教が、それぞれの要素を取り入れながら並存していくという形としても現れた(本地垂迹説など)。仏教に対しても縄文的な基層文化は根づよく生き残ったのである。

やがて日本にもキリスト教が伝来する。しかしこの宗教は日本列島にはほとんど定着することができなかった。そのひとつの理由は、この時期に日本がキリスト教国による植民地化を免れたからだろう。つまり暴力的な押しつけができなかった。である以上、キリスト教が日本に広まることは不可能であった。キリスト教は、日本の基層文化にとってあまりに異質なために受け入れ難く、また受け入れやすく変形することもキリスト教の厳密な教義からして難しかったのである。

西洋文明は、キリスト教を背景にして強固な男性原理システムを構築した。それはしばしば暴力的な攻撃性をともなって他文化を支配下に置いた。男性原理的なキリスト教に対して縄文的な基層文化は、土偶の表現に象徴されるようにきわめて母性原理的な特質を持っている。その違いが、日本人にキリスト教への直観的に拒否反応を起こさせたのかもしれない。

一神教は、砂漠の遊牧文化を背景として生まれ、異民族間の激しい抗争の中で培われた宗教である。牧畜・遊牧を知らない縄文文化と稲作文化とによってほぼ平和に一万数千年を過ごした日本人にとってキリスト教の異質さは際立っていた。キリスト教的な男性原理を受け入れがたいと感じる心性は、現代の日本人にも連綿と受け継がれているのである。

ただし私たちは、縄文的な基層文化が私たちの個々の意識や文化の底流として生き残っていることにほとんど無自覚である。その基層文化が、自分たちに合わないものはフィルターにかけて排除する働きをしていることについても無自覚である。しかし実は、海外から入ってくる「高度な文明」にも強力なフィルターをかけられて取捨選択がなされている。近代文明をこれほど素早く受け入れながら、その根っこにあるキリスト教をみごとにフィルターにかけてしまったというのはその最たる例である。

一般に文化が流入するときは、流入する文化との対決が生じ、自分たちの元来の文化をおいそれと卑下はできない。それほど卑下したら、自分たちの文化は本当に消えてなくなるだろう。しかし、日本人は、自分たちの中の強力なフィルター機能に無自覚だから、流入する文化を無条件に崇拝し、それと裏返しの形で、自分たちの文化を安心して貶めることが可能なのだ。自分たちの文化をどれほど貶めても、それが決して多文化によってとって変わられることがないことを、それこそ「無自覚」に知っているからだろう。

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日本人が日本を愛せない理由(2)

2011年12月05日 | いいとこ取り日本
日本人の中に、なぜ日本の文化や社会を否定的に見る傾向の人が多いのか。この問いは結局、これまでこのブログで考えてきた「日本文化のユニークさ」5項目が、多かれ少なかれすべて関係があるかも知れない。日本人には、伝統的に自文化を卑下し、海の向こうの文化を崇める性癖がこびりついているようだ。5項目を再確認しておこう。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺な体験をもたず、また自文化が抹殺されることもたなかった。一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

(4)宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかった。

(5)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

鈴木孝夫が挙げている理由も、多少ともこの5項目にかかわると思うが、いちばん関係が深いのは(3)の前半だろう。かつては中国、明治時代にはヨーロッパと、いずれも大陸の高度な文明に接した日本人は、その負の面を見る必要がなかった。

大陸では、文化の流入は武力的な侵略とともにもたらされることが圧倒的に多い。しかし日本は、大陸から海で適度に隔てられた島国であるため、血なまぐさい侵略や抗争を経ずに、進んだ文化・制度・技術などを取り入れればよかった。自分たちの文化・社会が破壊される危険にさらされることなく、高度な文明のよい部分だけを崇めたてまつって、理想化して取り入れればそれですんだのである。そして、相手を理想化して見るほど、逆に自分たちは劣ったものとして見えてくるし、そう見えた方が、学び吸収するときの効率もよいのだ。これが、日本人が日本を愛せない一つ目の理由と思われる。

理由の二つ目は、5項目のうち(4)と(5)に関係するだろうか。(4)宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかった‥‥ということは、そのようなイデオロギーが必要とされなし、強要もされなかったということである。

かつて日本文化のユニークさ23:キリスト教をいちばん分からない国(2)でも触れたが、猟採集や小規模な農業によって成立する社会は、自然とのかかわりや部族の社会がそれなりに調和していた。それが異民族の侵入や戦争、帝国の成立といった事情の中で崩れ去ると、そこに何らかの秩序を取り戻すために、部族を超えた「普遍宗教」が必要となった。それが一神教であり、あるいは仏教や儒教であった。これらに共通するのは、それぞれの部族が信じていた神々を否定するということであった。

日本の場合は、その地理的な条件のため「普遍宗教」による社会と文化の本格的な一元支配が必要なかった。もちろん儒教や仏教は流入したが、土着の神道的なものと融合した。土着の神々は生き残ったのである。

侵略などによる抗争がからむと、敵に対抗するためにイデオロギーの面でも熾烈な抗争が起こるはずである。侵入してきた他文明を安易に理想化することなどできない。武力による戦いと同時に、イデオロギーの面でも自文化の優位性を主張しなければならない。相手の文化を理想化して自文化を卑下していたら、戦う意欲さえ失うだろう。

しかし日本の場合は、軍隊ではなく、高度文明の文物だけが海を渡ってきたために、海の向こうの文明をいくらでも理想化することができた。その分、自分たちの文化を劣ったものとみなしても何の危険性もなかった。むしろそう思い込んだ方が、高度文明を吸収するのには都合がよかったのだろう。もちろん、吸収するとき自分たちに都合の悪いものは、おのずと排除された。

「日本文化のユニークさ」5項目のうち他の項目にどう関係するかは、次回見ることにしよう。

《関連図書》
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

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日本人が日本を愛せない理由(1)

2011年12月05日 | いいとこ取り日本
昨日『日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書) 』のレビューをアップしたが、実はこれはだいぶ以前に書いたもので、なぜかこのブログにアップしていなかったことに気づき、遅ればせながら掲載した。

先に歴史学者・会田雄次の『合理主義(講談社新書)』に触れて、日本人は自分たちの過去を全否定することで、逆に海外の進んだ文明を驚くべき速さで学び取るエネルギーにしてきた面があることを確認した。

私がこの「クールジャパン★cooljapan」というブログを立ち上げ、考察を続けている理由のひとつは、日本人の、自らの文化や社会を卑下し、裏返しに欧米をやたらに崇拝する傾向が不愉快だからであり、それがいかに日本文化の事実に反する態度であるかを示したかったからだ。ただ、会田雄次が指摘するように、日本人のそのような傾向が、海外の高度文明を吸収するための巨大なエネルギーになってきたことは確かなのだろう。中国やインドは、「自国の高い文明によりかかりすぎ、新しくはいってくる外国の文化ををばかにし、拒否するという態度が強すぎた」のだという。日本人の自虐的な傾向が逆に長所にもなっていたという見方は、いままで私の中になかった。

一方で、これに関連して私の中に問うべき課題が生まれた。ではなぜ日本人は、自らの過去を否定したり、自分たちを卑下したりする傾向が強いのか。それで思い出したのが、『日本人はなぜ日本を愛せないのか』という本であり、調べていたらまだこの本の書評をここにアップしていなかったことに気づいたわけだ。

ところで昨日アップしたレビューを読み直して、著者の鈴木孝夫が「日本人はなぜ日本を愛せないか」というこの問いに結局どう答えているのか、レビューの中でははっきり述べていないことに気づいた。

著者の答えはこうだ。日本は、大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略されたことがない。それゆえ外国の負の面に直面せず、その文化の良い面だけを取り入れて独自の文明を発達させることができた。これを著者は「部品交換型文明」と表現する。それは、外国の文明はなんでも優れているという自己暗示を生み出し、その暗示のため、逆に日本の本当の良さは見えなくなる。欧米の文明は何でも良いとし、欧米の価値観で自己のすべてを判断するならば、自分たちの歴史や文化が劣ったものと見えてきても不思議ではない。

今、この本がどこかにまぎれて見つからず、本にあたって確認はしていないのだが、だいたいこんな理由だったと思う。この考察に私もほとんど同意するが、もう一歩踏み込んだ言い方もできそうな気がしている。この点については、次回に考えてみたい。
コメント (2)
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日本人はなぜ日本を愛せないのか

2011年12月04日 | 現代に生きる縄文
◆『日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
』(鈴木孝夫)

もちろんタイトルにあるように「日本人はなぜ日本を愛せないのか」を、その歴史や地理的な背景にも言及しながら、ていねいに考察している。しかし、それだけではなく、日本が無意識に陥ってしまっている西欧崇拝や西欧中心主義の視点はなぜ生まれたのか、日本が失わなかった伝統的な文化の特色がなぜ今世界に必要とされているのか等々、日本人として自覚しておくべき大切なメッセージが、著者の熱い思いとともに込められた本だ。編集部の質問に答えるという対話体で書かれている。実際は、そういう形式をとって分かりやすく、しかし充分に考え抜かれた構成と内容で書かれた本だと思う。

著者は、日本が指導的大国として世界にアピールできる長所は何かと問いかける。多くの日本人は、それに即座に答えられないだろう。自分の国にそんな長所があるとは思えないのだ。しかし実際には、大いに自覚すべき長所がある。ひとつは、異質な文化や物を、自分の社会に抵抗なく取り入れて自分のもにしてしまう混合文化社会という日本社会の特長だ。世界の多くは、宗教的な制約などで日本ほど自由に文化の取り入れができない。日本は、強調的、混合文化社会という自らの文化の価値を世界に積極的にアピールすべきだ。

ふたつめは、日本文化の深層にあるアニミズム的な生命観だ。一神教的な世界観は、神を最高位に置く人間中心主義が濃厚だが、日本人の場合は、生命のみならず山や森にさえ魂を感じ、人も動物もひと続きの循環構造のなかを巡っているという古代的な生命観が、心の深層に流れている。

今、世界の主導権を握っているのは、強烈な自己主張と他者への執拗な排除攻撃を続ける「動物原理」を基本とするユーラシア文明だろう。その中心が一神教文明だ。しかし、世界は今、行き詰っている。アメリカは、これまでのようなずば抜けた超大国としては破綻する兆しが見えてきた。その代わり中国が台頭してきているかに見えるが、実際は無理に無理を重ねて背伸びをし、中華帝国再興を目指して走り続けている。しかし、中国も突如として内部の山積した矛盾が噴出して大混乱に陥る可能性が高い。

その時、世界は壊滅的な大津波に襲われるかもしれない。その危機に面したとき、これまでのあまりに人間中心的だった西欧的世界観の反省にたって、人類と地球環境の共存を最重視する戦線縮小の時代が始まるだろう。日本人には、元来、人間ももろもろの生物の中の一員として、他の生き物たちの「お陰で」生かされているという生命観があった。そうした生命観を自覚的に捉えなおして、そこに、21世紀の危機を乗り越えるのに大いに貢献すべき大切な何かがあることに目覚める必要がある。それが著者の主張だ。

かんたんに要約してしまったが、このような結論にいたるまでに、本書はじつにていねいに様々な具体例を挙げながら考察する。一神教的で牧畜型のユーラシア文明の欠点や、そのような一神教的世界観に立った西欧世界が、どのような横暴によってアジア、アフリカ、南米などを植民地支配してきたか、日本人がそうした西欧文明の悪の部分にいかに無自覚で、お人よしで、西欧コンプレックスから脱しきれていないか等々、興味がつきない考察が、随所に散りばめられている。

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日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)

2011年12月03日 | いいとこ取り日本
日本人がアメリカを憎まなかった三つ目の理由とは何か。歴史学者・会田雄次の『合理主義(講談社新書)』という本を読んでいて、これもその大きな理由ではないかと思った。

彼はこんなことを言っている。『ベルツの日記〈上〉(岩波文庫)エルウィン・ベルツ』などが指摘するように、明治初期の日本人は驚くべき文化の高さをもっていた。それは明治以前から日本にあったものだという。しかし、中国やインドにもそれぞれの文化の高さがあった。ではなぜ、その当時の中国やインドに科学精神が成立しないで、日本だけに発達したのか。これが会田雄次の問いだ。

彼は、日本の文化の高さに中国やインドになかった一つの特色があったという。それをベルツが経験したこんなエピソードに触れて論じている。ベルツが東京医学校で学生に「江戸時代はどうだったのだろう」と問いかけた。すると学生は、「ぼくたちは、過去をもっていません。過去はいっさい抹殺すべきものだと考えています。これからの日本には、前途があるだけなのです。」

これは、西欧の文明に接した日本の知識人にかなり共通した反応だったのだろう。当時の日本人が過去に多くを負っていながら、その過去を全面的に否定し去ろうしていたことを示すと会田はいう。これは日本人の根深い性癖であり、思考態度の根本に横たわる傾向であり、癖なのではないかというのだ。

この性癖には、良い結果を生む面と悪い結果を生む面の両面がある。良い面は、明治の文明開化の時代のように、日本の過去をすべて否定することによって、ヨーロッパの文明を瞬く間に吸収するエネルギーに変化させてしまうという面である。中国やインドは、自分の文明へのこだわりがあったから日本のように急速に科学文明を吸収することができなかった。

悪い面は、「外国の文化をむやみに尊敬し、自分のもっているものをやたらに卑下する態度」であり、これは現代の日本の知識人も多く見られる態度だ。戦後にもそれが強く出たという。

戦後の日本人も、戦中、戦前までに受け継いできた文化を全面的に否定し、アメリカの占領と同時に入ってきたアメリカの文化を何でも良いものとして受け入れる傾向が出た。これは日本人が過去に、中国やヨーロッパとの出会いで示した態度と共通する。

ここまでが会田氏の考察だが、以上は、日本人がアメリカを憎まなかったもう一つの理由にもなっているのではないか。アメリカは、戦時体制によって抑圧された日本人の「解放者」であったと同時に、これまでの日本を全否定し、新しい日本を生み出すためのモデルにもなったのだ。そのようなアメリカを憎むことはできない。モデルを好意的に受け入れてこそ、そこから必死に学び取ろうとする情熱も生まれる。

こうしてアメリカは、憎むべき対象というよりは、自分たちがそこを目指すべき新時代もモデルとして好意的に受け止められたのだ。
コメント (5)
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日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)

2011年12月01日 | 自然の豊かさと脅威の中で
太平洋戦争は、東京大空襲や沖縄戦、そして広島、長崎で多くの犠牲者を出して終結を迎える。アメリカ軍の攻撃によってあれほどの悲惨な現実を味わったにもかかわらず、日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか? 

このテーマは、少しこれまでの流れと違うのだが、日本文化というより日本人のユニークさを考えるうえで大切なことだと思うで取り上げてみたい。ある本を読んでいたら、その著者が上の問いにこう答えていた。シベリアでのロシア兵の残虐な態度に比べ、進駐軍としてやってきた米兵の態度があまりに良好だったからだと。

私は、この答えはあまりに表面的なもので、本当の答えは、もっと深い、日本人や日本文化の根底にかかわるところにあるのではないかと思った。そして自分なりに考えられる理由として次の二点を挙げてみた。

ひとつは、戦時体制下で押さえつけられ、無理を重ね犠牲を強いられていた日本人ににとって、アメリカがある意味で「解放者」としての役割を果たしたという理由から。これは日本文化の特性とは別の理由なのだが、当時の日本人の多くが一種の解放感をもって進駐軍を迎え、また実際にGHQの指導のもと、戦時体制を打破する多くの改革が次々に行われ、それが日本人にも肯定的に受け入れられたということは見逃せないだろう。GHQの改革のもと日本人は、辛く苦しかった過去を払しょくし、新しい日本を復活させようとした。アメリカを憎むいとまはなかったし、憎んで抵抗することは日本を再生させる妨げになった。

もちろんGHQ主導の改革には、日本を二度とアメリカに刃向えないよう骨抜きにすようとする意図もあっただろうが、当時の日本人には改革による解放感の方が大きかった。

二つ目の理由は、これまで考察してきた日本文化のユニークさ5項目(日本文化のユニークさ26:自然災害にへこたれない参照)のうち

(3)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺な体験をもたず、また自文化が抹殺されることもたなかった。一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

に関係する。

日本人は、異民族によって苦しめられるよりも自然災害によって苦しめられる方が圧倒的に多かったから、戦争によって被害を受けても、敵国を憎むというより、あたかも自然災害によって被害を受けた時のような反応を示してしまう傾向があるのではないか。自然災害の場合は、憎む相手もいない、自分に降りかかった悲惨な状況をただ受け入れ、生き残ったものが協力し合って、未来に立ち向かっていくほかない。戦争の被害の後にも、過去何千年も自然災害に対して繰り返してきた反応を、自然にしてしまうのではなかろうか。

沖縄の人々は、太平洋戦争の最後期にあれほど悲惨な体験をし、大きな犠牲を出しながらも、米兵や日本兵への憎しみがいまだに激しく続いているようには思えない。むしろ、その深い悲しみは昇華され、内面化されて沖縄の人々の穏やかさを形づくっているよいうな気がする。「花」という歌は、その昇華された悲しみを美しく歌い上げている。

沖縄の人々のこのようなあり方は、東日本大震災後の東北の人々が示した態度と似ている。東北の人々は震災後に、家族や知り合いに多くの犠牲者を出しながら、静かに耐え忍んで、残された者同士で励ましあい、前向きに生きていこうとした。そういう自然災害後の東北の人々の態度と、戦争という最大の人災後の沖縄の人々が示した態度には、深い共通点があるようだ。そして東北に人々も沖縄の人々も、縄文の血を受け継ぐ原日本人にもっとも近い。

とりあえず、私が考えた理由はこれだけだったのだが、最近会田雄次という歴史学者の『合理主義(講談社新書)』という古い本を読んでいて、もう一つ理由がありそうだと思った。
これについては、次回論じてみたい。

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