クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

日本とは何か(3):融合こそ日本の力

2012年07月15日 | 侵略を免れた日本
◆『日本とは何か (講談社文庫)』(堺屋太一)

今回は、「日本文化のユニークさ」(4)(6)に関連する事柄を考えたい。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(6)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。

堺屋は、他のアジア・アフリカ諸国に先がけ、なぜ日本だけが真っ先に欧米の近代文化と工業技術を取り入れることができたのかと問い、それはやはり、日本の伝統、明治以前の文化や社会気風が深く関係していると考える。彼は、そのもっとも深い根が神道にあると捉えているようだ。

神道における八百万の神とは、雷や台風などの自然現象、山、滝、大石などの自然物であり、それに先祖崇拝の習俗が重なって出来上がっている。このような自然崇拝的な宗教は、かつて世界中のどこにも広がっていた。しかし、そのような自然崇拝的な宗教が、聖典も戒律もないままに、高度に産業化された現代の社会にまで生き続けたことは、きわめて珍しいことだ。

この事実も、日本文化の特徴を語るうえでこの上なく重要なことだ。そして、日本発のポップカルチャーが世界中で関心を呼ぶ一因もまたここにあるのようだということは、これまでにこのブログで何度か指摘してきた。

堺屋は縄文時代に直接触れてはいないし、縄文時代という言葉もまったく使っていない。しかし、自然崇拝的な宗教が縄文時代にその源をもつことは明らかである。縄文時代の自然宗教から生まれた神道は、明確な規則や原則、 戒律などももたない。だからこそ朝鮮半島から仏教がもたらされたとき、一時の抵抗はあっても比較的おだやかに受け入れられていったのである。

仏教導入は、蘇我・物部の戦いという宗教戦争を引き起こしたが、これが日本史で唯一の宗教戦争だったのである。聖徳太子は、推古天皇の摂政として、仏教と天皇制との両立させる道を発見する。それは、天皇家の家系的な根拠である神道神話を否定せぬまま、仏教をも認めるという「神仏習合」への道だった。

その結果、日本に深刻な宗教対立はなくなった。厳格な宗教論理も戒律もなくなった。聖徳太子のおかげで日本人は、世界ではじめて「宗教からの自由」を得たともいえるのだ。そうした自由があったからこそ日本人は、宗教的戒律にとらわれずに外来文化を受け入れ、すべての文化の都合のよいところだけを身につけた。宗教という、いい加減さがもっとも許されないはずの領域においてさえ「いいとこどり」をするとなれば、他の文化は先方の体系的整合性など無視してつまみ食いすることはごく自然な成り行きだろう。そしてこれこそが、他の非西欧諸国に先がけて日本が近代化できた一要因だといわれる。

確かにそのような意味で聖徳太子は独創的な思想家だったのだろう。しかし、それ以前に縄文人と弥生人がほとんど平和的に融合してったという事実がなければ、聖徳太子の独創性も生まれなかったのではないか。大和政権を担ったのは弥生系の人々であったが、彼らは縄文的な自然崇拝の色彩を色濃く残した形で、神道を自分たちの支配イデオロギーとしていた。ここにすでに縄文文化との「習合」があった。そうした背景があるからこそ、大陸から新たに渡来した仏教の受け入れも「神仏習合」という形で実現したのではないか。

日本列島では、大陸からやってきた異民族が、その圧倒的な軍事力で土着の人々を征服し、自分たちの宗教を押し付けるという状況は起こらなかった。弥生人は、自分たちの文化と縄文人の文化とを「習合」させたからこそ、新たに大陸からもたらされた仏教をも、スムーズに「習合」させることができたのであろう。

そしてこの「原体験」は、その後、大陸の高度な文明を受け入れる際にも、圧倒的な西欧文明の受容の際にも繰り返されるのである。軍事力による制圧と強制なしに、平和裏に、先方の文明の中の自分たちに役立つところだけを、自由に自分たちの文明に「習合」させていくことができたのである。

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日本とは何か(2):城壁のない都市

2012年07月13日 | 侵略を免れた日本
◆『日本とは何か (講談社文庫)』(堺屋太一)

「日本文化のユニークさ」4項目目は、次のようなものである。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

これに関係する事柄は、『日本とは何か』の中でも多く語られている。

もし、日本と中国大陸や朝鮮半島を隔てる海がドーバー海峡ほど狭かったら、「日本の歴史はまったく違った経過を辿り、日本人は別の文化を持っていたことだろう」と、堺屋も指摘する。先進文明との距離と国土のまとまりという点で、日本は他に類例のない条件を持ち、それが日本の歴史に決定的に影響した。

日本と大陸との間は、古代の技術では渡航困難なほど広くはないが、大規模な移民や軍事攻撃を組織的に行うにはあまりに広すぎた。もし渡航したとしても、軍団はばらばらとなり、統一行動がとれない可能性が高かったであろう。

つまり、大陸との間に交流はあり、文化や知識は流入したが、大量の移民が押し寄せたり、大規模で組織的な軍事攻略が行われたりすることは不可能だったのである。これは多くの識者が指摘することであり、日本文化の形成を語る上でもっとも基本的な事実のひとつだろう。

《関連記事》
日本文化のユニークさ07:ユニークな日本人(1)
日本文化のユニークさ08:ユニークな日本人(2)
日本文化のユニークさ09:日本の復元力
日本文化のユニークさ11:平和で安定した社会の結果

大量の移民が一度に押し寄せることが無理だったという事実は、日本文化の形成のもっとも基層の部分でも重要な意味をもっていた。一度に大量の渡航がなかったからこそ、縄文人が弥生人に駆逐され圧殺されることなく、両者の文化が融合したのである。もちろん堺屋は、縄文時代を視野に入れていない。しかし弥生人と弥生文化の渡来が、縄文人にとって恐怖と不幸だけの体験ではなかったことが、その後、日本が外来文化を受け入れていく上での「原体験」になって、のちのちまで影響を与えているのではないか。異質な文化や物を、自分の社会に抵抗なく取り入れて自分のもにしてしまう混合文化社会の大元は、この「原体験」にあったのではないか。

大陸から「狭くない海」で隔てられていたことは、日本を異民族との戦争のない平穏な社会にした。それは弥生人の渡来時にすでに始まっていたのであり、この事実が、その後の日本文化を特色づける重要な一因になっているのであろう。

一方、人類が大陸の大河の流域などで農業を始めた頃、その周囲には多くの遊牧民が徘徊していた。農耕民は、何よりもこれらの遊牧民から生命と財産を守るため、強いリーダーの下に結集する組織と、攻撃を防ぐ施設を備えなければならなかった。つまり、城壁で囲まれた都市国家が生まれていったのである。

ところが日本には、険しい山と狭い平野で構成されていたため遊牧に適さず、海を越えて遊牧民が攻めてくることもなかった。それどころか渡って来たのは、稲作という先端文明をもった弥生人だったのである。そして恐らく縄文人と弥生人は過酷な抗争をすることなく、混血・融合していった。つまり日本列島の住人は、縄文時代はもちろん、弥生人の渡来時にも、それ以降にも、異民族との過酷な戦争を経験していないのである。だからこそ日本人は、「城壁のない都市」をつくった世界唯一の民族なのだ。

堺屋も指摘するように、中世以前の都市は、アテネ、ローマ、ロンドン、パリ、フランクフルト、バグダッド、ニューデリー、北京、南京など、すべて堅固な城壁で囲まれていた。ただ日本だけが城壁で囲まれた都市がなく、城下町はあっても城内町は存在しなかったのである。

国土学再考 「公」と新・日本人論』(大石久和)は、大陸ではシュメール文明という源流の時代から、都市に城壁を築いて暮らしていた指摘する。つまりそれほどに民族間の闘争に対して常時、防衛体制をとることが必要だったのである。。実際、ユーラシア大陸の至るところ、つまり中国、朝鮮半島、インド、ロシア、西アジア、ヨーロッパにおいて、都市といえば外敵から身を守るための城壁都市(都城)をおいてほかはありえなかった。日本だけが城壁にかこまれない都市をもつことができた。つまり日本の歴史は、異民族同士の闘争や農耕民と遊牧民との闘争とは無縁だったということだ。

日本文化の特徴を語るうえで、こうした事実の意味を強調して強調しすぎることはないだろう。日本人の民族としての性格の多くが、この事実に関係して論じうるといっても過言ではない。それでいながら、日本人はこの事実を意外と知らない。この事実を盛り込んだ歴史教科書も、ほとんど見かけないのである。

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日本とは何か(1):奴隷制度と牧畜

2012年07月10日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
◆『日本とは何か (講談社文庫)

堺屋太一のこの本は、1991年に出版されている。私は1993年に読んでいるから、ざっと20年前だ。最近読み直してみて、私が「日本文化のユニークさ」7項目として取り上げてきたこととかなり重なることを改めて感じた。私がこの本から直接影響を受けていた部分もあるだろうが、それよりも、こ本に書かれた内容がある程度、共通認識になっており、間接的にその影響を受けた面もあるだろう。日本文化論や日本人論において、それだけ影響力のあった本だと思う。

ただし、この本にも限界はある。それは、狩猟時代の文明は「今日の文明を考えるうえでどの程度の影響力を持つかは疑問だ」とし、農耕以前の時代を視野に入れていないことだ。したがって、日本とは何かを考える上で縄文時代が持つ意味についてもほとんど考慮しない。しかし私にとっては、「日本文化のユニークさ」を考える上で縄文時代が果たした役割は、ますます重要だと感じられるようになっている。そうした視点の違いからこの本を考え直してみたいと思った。

この本の第一章「平成の日本」は、今から20年以上前の日本の状況を語っており、抱える課題も現代とだいぶ違うので触れない。第二章「平和と強調を育てた『風土』」で歴史的な視点からの日本論が始まるが、その最初の節の見出しは「稲作からはじまった日本文化」である。この見出しからしてすでに縄文時代からの視点がない。したがって堺屋には、「日本文化のユニークさ」7項目のうち、

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

のような視点はない。7項目のうちまず関係するのは、「(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した」である。

日本は温暖湿潤で、険しい山地と狭い平野によって構成されているので、水田稲作には向いているが牧畜には不向きだ。日本の歴史には牧畜が存在せず、厳密には有畜農業の経験も乏しい。だから日本の歴史と文明は、牧畜を飛ばして稲作とともに始まったと堺屋はいう。稲作は、面積当たりの収穫量が高いが、一方で労働投入量も非常に高く、しかも家族の単位を超えた共同作業を必要とする。村落共同体による勤勉な共同作業が、勤勉で集団志向という日本人の基本的な性格を作ったというのは確かなことだろう。

稲作を始めたあと、牧畜や有畜農業をほとんど知らず、家畜とのかかわりが少なかったことが日本人にどのような生命観を持たせたかは、このブログでもすでに詳しく触れた。

日本文化のユニークさ04:牧畜文化を知らなかった
日本文化のユニークさ05:人と動物を境界づけない
日本文化のユニークさ06:日本人の価値観・生命観

堺屋が指摘するのは、牧畜や有畜農業からは奴隷制度が発達しやすい条件が生まれるということである。家畜を使役するとは、意思をもった相手を制御することだ。そこに支配・被支配の関係が生まれる。そこから、意思ももった相手を支配する技術と、それを正当化する思想が生まれる。キリスト教がその正当化のためどう機能したかは、上にリンクした記事で詳しく検討した。そして日本人は、意思あるものを支配した経験が乏しく、そのせいか、大規模な奴隷制度が発達しなかったのである。

このブログでは、牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本を、ユーラシアの文明に対し、次のような特徴をもつものとしてまとめた。→日本文化のユニークさ40:環境史から見ると(2)

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
③遊牧や牧畜と密接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
④遊牧や牧畜を背景にした、人間と他生物の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。

ここでは詳述しないが、これらは多かれ少なかれ縄文時代以来の日本の文化を抜きにしては語れない。たとえば、日本列島に有畜農業がほとんどなかったのは、弥生人が持ち込まなかったのか、縄文人が取り入れなかったのかという問題もあるわけで、少なくともはじめから縄文文化を無視して論じるべきではない。また、日本にキリスト教がほとんど浸透しなかったのは、私たちが無意識に持っている縄文的な生命観とキリスト教とのそれとの間にに大きな隔たりがあることも一つの理由だろう。→日本文化のユニークさ02:キリスト教が広まらなかった理由

なお、堺屋は日本の特殊な気象と地形から、牧畜と大規模な奴隷制に加え、都市国家をも持つことがなかったという。稲作は、大量の労働力を必要とした。そのため隣の土地を支配した「王」は、そこの住民を殺すよりも働かせた。それゆえ住民もまた、堅固な城壁に立てこもってまで抵抗することはなかった。つまり城壁を巡らせた都市国家を作る必要を感じなかったのである。

こうして日本人は、強烈は支配・被支配の関係を嫌う「嫉妬深い平等主義者」になったという。
コメント (8)
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日本人の強さと弱さ(4)

2012年07月07日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

続けて「日本文化のユニークさ」7項目に沿って検討する。とくに(4)と(5)に注目したい。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(5)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

まずは(4)から。異民族による侵略、征服がほとんどなかったということは、日本文化や日本人の性質を語るうえでかなり重要なことである。このブログでも何度も触れてきたが、かんたんに要約しよう。

民族相互の争いに明け暮れる悲惨な歴史を繰り返してきた大陸の人々は傾向として、常に相手からつけこ込まれたり、裏切られたりするのではないかと怯え、基本的には人間を信頼しない。つねに警戒すると同時に、どうやったら相手を出し抜き、ごかませるかと、攻撃的、戦略的に身構える。そこには前提として人間不信がある。

一方日本のように平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが可能だったし、それを育て守ることが日本人のもっとも基本的な価値感となった。その背後には人間は信頼できるものという性善説が横たわっている。

加えて日本人は、人口の8割以上が農民だったので、田植えから刈入れまでいちばん適切な時期に、効率よく集中的に全体の協力体制で作業をする訓練を、千数百年に渡って繰り返してきた。侵略によってそういうあり方が破壊されることもなかった。

礼儀正しさ、規律性、社会の秩序、治安のよさ、勤勉さ、仕事への責任感、親切、他人への思いやりなどは、こうした歴史的な背景から生まれてきたのであろう。

(5)についても何度か語ってきた。異民族間の戦争の歴史の中で生きてきた大陸においては、信頼を前提とした人間関係は育ちにくい。戦争と殺戮の繰り返しは、不信と憎悪を残し、それが歴史的に蓄積される。一方日本列島では、異民族による殺戮の歴史はほとんどなかったが、自然災害による人命の喪失は何度も繰り返された。

しかし、相手が自然であれば諦めるほかなく、後に残されたか弱き人間同士は力を合わせつつ、忍耐強く生きていくほかない。こうした日本の特異な環境は、独特の無常観を植え付けた。そして、人間への基本的な信頼感、優しい語り口や自己主張の少なさ、あいまいな言い回しは、人間どうしの悲惨な紛争を経験せず、天災のみが脅威だったからこそ育まれた。

以上のような日本人の特質は、東日本大震災後の混乱状態のなかでも保たれ、世界の人々を強く印象付けた。それは、戦後も失わなかった日本人の特質だが、齋藤のいう「精神」が戦後失われてしまったのだとしたら、失われたものと失われなかったものとの違いは何か。

太古の昔から地理的・歴史的条件の中で自然に身についてしまった文化の基盤は、そうおいそれとは失われない。しかし、それはあまりに自然に生きられてきたので、自分たちの特質として自覚されにくく、ましてや共有される「精神」とはなりにくい。

齋藤のいう武道「精神」や儒教「精神」は、江戸幕藩体制に組み込まれ、強化されてきたという側面もあり、それらの「精神」を伝えていく教育方法もしっかりと確立していた。しかし、その教育制度を断ち切られてしまうと途絶えてしまうもろさも持っていた。それは比較的新しい教育方法の上に成り立っていた「精神」だからである。逆に言えば、その教育方法を取り戻せば復活しうる「精神」だともいえる。

一方、(4)や(5)のような地理的・歴史的条件によって育まれた日本人の特質は、おそらく日本の歴史とともに古く、あまりに当然のものだったので、それを誇りに思うことも、共有財産として自覚的に生きようとすることもなかった。しかし、共有財産として自覚するようになれば、それは「精神」となる。何らかの教育によってそれを次世代へ伝えていこうする自覚が生まれ、「精神」としてさらに強化される。そうなったとき、心がもろくなったと言われる日本人にとって、心の大きな支えになることは間違いない。

子どもたちの視点から言えば、自分たち日本人の礼儀正しさ、規律性、社会の秩序、勤勉さ、仕事への責任感、親切などが、日本の地理的・歴史的条件の中で育まれてきた大切な財産であることを自覚する学びとなり、その学びが誇りともなる。ときに震災などによる犠牲をともないながら日本人が守り育ててきたかけがいのない財産であることを学ぶのである。そして、それを守り、未来に伝えていこうとする「精神」をともに生きることは、子どもたち一人ひとりの心にとっても、何よりも力強い支えとなるはずである。
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日本人の強さと弱さ(3)

2012年07月06日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

齋藤がいう「精神」がどんな意味をもっていたのか、もう少し具体例を挙げて見てみよう。

たとえば戦前なら、悟りを得るのは無理にしても、禅がどういうものか感覚的に分かる人が多かったという。生活習慣の中に禅的な発想が入り込んでおり、普通の暮らしが多かれ少なかれ禅的な「精神」につながっていた。武道はもちろん、茶道、華道、書道‥‥などを通して禅的な生き方が生活の中にあふれ、それが心の支えになり、日本人の心の強さを形づくっていた。

かつての日本人は、精神の領野と身体(習慣)の領野を切り離せないものとして発達させていた。禅の修行でも、座禅ばかりではなく、作務と呼ばれる日常の作業のなかで無心を学ぶことが大切だといわれる(日常工夫)。また、手作業が心を和らげることは、最近の研究でも実証されつつあるという。体内にあるセロトニン神経系が、リズムカルな運動によって活性化され、心を安定化させるというのだ。

職人の仕事もそれぞれに固有のリズムを持っている。職人気質で一つの仕事に徹する人生も、人の心に深い安定を与える。それが○○道として自覚されれば、禅的な求道の「精神」を生きることになり、心の安定はさらに深まる。職人がその「道」を究めようとする姿勢は、日本文化の深い「精神」に通じており、これも日本人の心の強さを形づくっていた重要な要素だ。

前回挙げた『論語』などの素読も、リズムカルに声を出す「作業」であると同時に、古典の「精神」を呼吸することにつながり、日本人の心を強くしていた大切な要因で、これはとくに齋藤が強調する方法だ。彼の本『声に出して読みたい日本語』はベストセラーになったから知る人も多いだろう。

このように、それぞれの「精神」を生きる手段を豊富にもっていた日本人は、もともと強い心を持っていた。だったらそれを取り戻せばよい。一昔前の日本人がふつうに実践していたことを復活させればよい。それだけで日本人は元通り強くなれると、齋藤はいう。私もこの点は、大いに賛同する。

一方で、「日本文化のユニークさ」7項目で見てきたような特色は、「精神」として自覚され共有されるほどにはなっていないが、GHQの政策など関係なく、途切れずに受け継がれている。では、それらは齋藤のいう「精神」とどのように関係し、日本人の心にとってどのような意味をもつのか。それが私にとっての新たな問いになったのである。

まず、前回指摘したようにそれらは、齋藤がいう「精神」の層よりは古い層に属し、日本列島という独特の地理的、風土的条件の中で長い年月の間に育まれたものである。そして日本は、豊かな森や自然に恵まれ、他にもいくつかの条件が重なったため、現代の高度産業国家にしてはめずらしく、太古的な母性原理を保ったまま現代に至っている。以上を確認したうえで個々の項目を見ていこう。まずは最初の二つ。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

かつて『ケルトと日本 (角川選書)』の中の「現代のアニミズム-今、なぜケルトか」(上野景文)という論文を紹介したことがある。この論文では、日本人や日本社会の思考、行動様式を以下の7つの特質にまとめる。

イ)自分の周囲との一体性の志向
ロ)理念、理論より実態を重視する姿勢
ハ)総論より各論に目が向いてしまう姿勢
ニ)「自然体的アプローチ」を重視する姿勢
ホ)理論で割り切れぬ「あいまいな(アンビギュアス)領域」の重視
ヘ)相対主義的アプローチへの志向(絶対主義的アプローチを好まず)
ト)モノにこだわり続ける姿勢

これらの特質の根っこに共通の土台として「アニミズムの残滓」が見て取れると、論者はいう。たとえば、ロ)やハ)についてはこうだ。自然の個々の事物に「カミ」ないし「生命」を感じた心性が、今日にまで引き継がれ、社会的行動のレベルで事柄や慣行のひとつひとつにきだわり、それらを「理念」や「論理」で切り捨てることが苦手である。それが実態や各論に向いてしまう姿勢につながる。ホ)やヘ)も、一神教に対して多神教やアニミズムの傾向を多分に反映している。そしてこれらすべてが、父性原理というよりは母性原理の特質を示している。

日本人は、こうした傾向を自分たちの長所と見るよりも短所ととられる傾向がある。実際には長所でも短所でもあるのだが、長所の面を日本人が分かち持つ共通の「精神」として、自覚的に生かしていくべきなのだ。そのとき、上のような性向を個々人が自分の短所として思い悩む度合も減るだろう。長所として自覚的に生かすとき、短所としての面への対処の仕方も自ずと違ってくる。

この中でニ)とト)は、日本人に共有される「精神」として、充分に自覚化されてきた伝統がある。「自然体的アプローチ」は、禅の精神と結びついて日本人の人生哲学のひとつとなっている。つまり、意識的、作為的に何かを「する」より、自然で計らいのないあり方を善しとする哲学である。ト)は、すでに上に述べたようなモノ作りの「精神」、職人気質という「精神」に流れ込んでいる。

いずれにせよ、日本人はGHQの政策ぐらいでは消すに消せない、何千年の歴史の中で育まれた無自覚の心性を生きている。ただしそれらは、日本人の心を支える本当の意味での「精神」になるのを待っている。
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日本人の強さと弱さ(2)

2012年07月04日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

齋藤は、さきの敗戦こそ日本人が心と精神と身体のバランスを崩したターニングポイントだという。戦後、日本人は精神という言葉に強いアレルギーを持つようになった。それは、軍国主義に少しでも結びつくものは排除しようとするGHQの政策とも深く結びついていた。たとえば武道が日本人の強い精神の柱になっていると考えたアメリカは、武道とその精神を徹底的に潰しにかかった。そうしたアメリカの意向を日本人自身が喜んで受け入れた面もある。

また、戦前の日本人の精神性を圧倒的に担っていたのは儒教だっという。戦前の教育の柱とされた「教育勅語」にも「父母に孝に、兄弟に優に、夫婦相和し、朋友相信じ‥‥」など、儒教的道徳観が盛り込まれていた。過度に神聖視され国家主義体制のために利用されたが、内容的には道徳心を説いた部分が多い。ところが戦後になると、過去の「忌わしい記憶」として全面的に排除され、これに限らず日本古来の「精神」はおしなべて国家主義と批判された。

しかし、言うまでもなく儒教的精神そのものが好戦的でナショナリズムに結びつくわけではない。儒教的道徳心が浸透していた江戸時代が軍国主義だったわけでもない。江戸時代の子どもたちは寺小屋で『論語』を素読し、その精神を感じ取っていた。が戦後は、素読自体が頭ごなしの非民主的な教育とされた。『論語』を中心とする儒教教育全体を捨てたことは、精神の半分以上を捨てたことになり、儒教教育の喪失は日本人にとってマイナス面の方が大きかったと齋藤はいう。

儒教や武術のように古来から精神の形成に一定の役割を果たしてきたものを禁じられると、その結果、個人の感情や気分が一気に肥大化する。共有できる精神を持たない民族は弱い。それが露わになったのが、経済成長が一段落した1970年以降だという。戦前の教育を知らない世代は、精神や身体といった土台が緩んでしまい、その分、心が膨らんでしまった。日本人は概しておとなしく、不安定な心を抱えるようになったというのである。

ここまで読んで読者はどのように感じられるだろうか。私は、日本人が共有できる古来の精神を復活させることが肝要だという齋藤の主張に共感する。しかし同時に「ではなぜあのようなことがありえたのか?」という疑問が生じた。前回このブログでも触れたように、東北大震災の際に日本人が見せた忍耐強さや落ち着きやいたわり合いの精神は、戦前から、いやもっと古い時代から日本人に受け継がれてきたものではないのか。確かに戦後失われた、共有の精神もあるだろうが、連綿と受け継がれ、少しも損なわれていない日本人の精神もあるのではないか。私は、失われずに受け継がれている日本人の精神の方に、より強く関心が向かう。このブログでもそのような面を強調してきた。

では、失われたものと受け継がれたものとの違いとは何なのか。これはかなり重要な問いだと思う。齋藤の本に刺激されて私の中で生まれたのはこの問いであった。その違いは日本文化の中の母性原理の部分と父性原理の部分に深く関係していると思う。

GHQの政策によってかんたんに失われてしまう精神とは何だったのか。戦後日本人が失ったという武道精神にしても、儒教精神にしても、日本の長い歴史の中では、比較的新しい時期に成立したものである。たとえば剣道は、15世紀後半の室町後期に成立した「神道流(新当流)」「陰流」「中条流」の三源流が、江戸時代には200余流まで分かれ、また、禅仏教や儒教の影響を受けて武士の精神修養の道ともなったものだ。また、『論語』を中心とする儒教の精神が庶民にも学ばれるようになったのは、寺子屋が爆発的に増加した江戸時代の後半だろう。それらは、日本文化の層でいえば、比較的新しい層、上層に属するものである。だからこそ、GHQの政策によって忘れてしまうこともできたのである。

しかし、日本人がはるか縄文時代から受け継いできた古い層は、GHQの政策ぐらいで潰されるものではない。その古い層とは何か。もちろんこのブログでこれまでずっと考察してきた「日本文化のユニークさ」7項目にかかわるものである。日本人はそれをほとんど無自覚のうちに生きているので、武道精神や儒教精神のように「これがその精神だ」とは自覚しにくい。自覚的にその「精神」を生きるといことはしにくい。しかし、日本人の心の中には確実にそれが生きており、危機的な状況下では日本人の強さとして表面ににあらわれるのである。

「日本文化のユニークさ」7項目は、縄文時代以来の豊かな自然に育まれた母性原理的な「精神」である。それは、精神というにはあまりに自覚しにくく、だからこそ逆にそうかんたんには消えない。日本人が日本人であることの底流を形づくってきたし、今の日本人の心にも底流として流れている。

これに対して武士道精神や儒教精神は、日本文化の底流を土台としながらも、大陸文化の強い影響下で出現した。そしてどちらかといえば父性原理的な「精神」であり、江戸幕藩体制の中で日本人の心に定着していった比較的新しい「精神」である。だから外圧によってその伝統を断ち切ろうとすれば、ある程度可能だったのである。

もちろん、自覚的にそれを生きることができるような江戸時代以来の「精神」を復活させることは、心が肥大化してしまった現代日本人にとって充分に意味のあることだろう。母性原理と父性原理とのバランスをとるという意味でも、それは必要なことかもしれない。しかし同時に、私たちの心の中には、縄文時代以来、断絶せずに底流としてながれている「精神」もあるのだというこを自覚化する努力も欠かすことはできない。無自覚にそれを生きるのではなく、日本人に共有される「精神」として自覚的に生きるならば、それは日本人にとって本当の強さとなるであろう。
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日本人の強さと弱さ(1)

2012年07月03日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

齋藤孝の書いたものは好きで、かなり読んでいる。最近は仕事の関係もあって彼のコミュニケーション論を集中的に読んでいた。『コミュニケーション力 (岩波新書)』や『偏愛マップ―キラいな人がいなくなる コミュニケーション・メソッド』などである。他の著者の類書に比べ、はるかに実践的に有効な創意工夫に満ちており、仕事の面でも大いに参考になった。

今回とりあげるこの本は、日本人論として、このブログのテーマにとって参考になればと思って読んでみた。この本の主旨には大いに賛同する。しかし私の思考は、この本を足がかりに本の主旨とは別の方向に深まった。その点も含めて書いてみたい。

まず齋藤は、戦前に比べ日本人の心は格段に弱くなったと主張する。たとえば自殺者は、もう13年連続で3万人を超えている。その背景の一つには、心の肥大化があるのではないか。この本の副題は精神バランス論である。心の肥大化とは、心と精神と身体(習慣)のバランスが崩れて、心の働きが相対的に大きくなり過ぎたことをさす。

心と精神はまったく別物だと齋藤はいう。心は個人的だが、精神は、共同体や集団によって共有される。民族の精神のような大きなものもあれば、会社や学校の精神もあり、多かれ少なかれその精神は、所属する個人に内面化される。人間は、心と精神と身体(習慣)の三つにより成り立ち、それらがバランスよく伸びることで真っ直ぐに成長できるという。

ところが昨今は、心の問題がバランスを欠いて大きくなり、思い悩んだり仕事が手に付かなくなったり、体調を崩してしまうことも多い。逆にいえば、それだけ日本人は、精神と身体が弱っているのだ。精神や身体もしっかり機能していれば、心だけが異様に大きくなって余計なことで思い悩むことは少なくなる。共同体に共有される精神や、身体に身に付いた習慣にまかせておける部分が大きいからだ。つまり心の土台がしっかりするからだ。

日本人の心が肥大化したのは、敗戦を境にして、かつての精神や身体の継承が途絶えたからだとよくいわれる。「日本的なるもの」の多くが捨て去られ、以前は共同体によって共有されていた諸々の精神は失われ、個人的な心が肥大化した。頼るべき精神がなく、悩みやストレスばかりが大きくなるところに日本人の心の危機がある。

残された道は、精神と身体の復活しかない。日本古来の伝統を学びなおしたり、地域や会社という所属共同体を見つめなおしてみることが大切だ。これが本書での齋藤の主張であり、本の後半ではそのためのノウハウがいろいろ紹介されている。ただこの本は、コミュニケーション論など他の齋藤の著作に比べると、具体的な方法の部分が少し魅力に乏しい感じがする。他の本では、これはと思えるような画期的なノウハウがいくつも紹介されているが、この本にはそれが少ないのだ。

しかし、この本は私にとって別の面で大いに刺激となった。その点に触れつつ次回もう少し突っ込んで本の内容を紹介したい。
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