ダニー・チュー氏は、日本のアニメと出会うことで日本に魅了され、日本語を独学で学ぶようになった。その熱中ぶりは半端なものではないが、それだけ日本への思い入れが強烈だったのだろう。日本への熱き思いが彼の日本語学習のエネルギー源だった。その努力が、憧れの日本への道を切り開いていく。以下は、『日本文化との出逢いが僕の人生を変えた理由』からの要約である。
彼は、独学する上で自分にゴールを設けようと思い、日本語能力試験に申し込んだ。試験に向けて一年中勉強した。4級に合格して、その次の年には2級に合格した。日本語能力検定を受けたある日、テストセンターの外でチラシを配っている日本人男性2人がいた。そのチラシの内容とはロンドンで開かれているランゲージ・エクスチェンジ・クラブについてのことだった。そのクラブ「アクセル」では、現地の人と日本人が会話し合っていた。アクセルでは友達がたくさんできて、彼らとクラブ以外でも頻繁に集まっておしゃべりしたり、一緒にディナーに行ったりした。この時の日本人の友達はそれまで知り合った中では最高の友達だった。家に招待してスナックをつまみながらカラオケを楽しんだりした。
アニメとマンガに対して燃えるような情熱は高まるばかりだった。これらに関連する何らかの仕事につきたいという思いがつのった。日本語学習、アニメ、マンガ、ゲーム、日本人の友人達との交流を通し、ますます日本文化に惹かれ、ジャパニーズドリームを掴みたいと強く思うようになった。
その頃、紅花という日本料理レストランでもアルバイトをやっていた。日本人のお客さん達と日本語で話す機会があったからだが、日出ずる国へのチケットを購入する資金を溜めたいという理由もあった。日本へのチケット代を蓄えるのには一年も要した。ちなみに彼は、その後このバイト先で、やがて結婚することとなる女性とも出会っている。
紅花で働き、資金をためたかいあって、遂にアニメ、マンガ、雑誌、ドラマで見て憧れた日本に初めて訪れる日がやって来た。彼にとってこの旅は「滞在中のほぼ全ての日の出来事を思い出せる程に、とても感動的な時間だった」という。「コンビニの自働ドアのセンサーの感触、天ぷらの味、ジメジメした夏の熱気の匂いや周囲を飛び交う日本語などが僕の全ての感覚をオーバーロードさせた。」
イギリスに戻った後、部屋の周りにスピーカーをセットし、渋谷で録音した音源を流し、目を閉じた。その瞬間に渋谷に戻った気分になった。渋谷の音を聞いているととてもやる気が上がり、日本語を勉強している間、いつもその音を流していた。
彼にとって日本に住み、働くことはぜったいに実現させたい夢だった。壁に貼ってある新宿の黄昏のポスターを見ては、毎日繰り返し自分にこう言い続けていた。「絶対に僕は日本に行く」、「僕は日本に行くんだ」‥‥
日本で働くことに近づくためのステップとして、日本語を大学で勉強する必要があると感じた。これまで独学で勉強してきたが、彼の日本語は話し言葉に過ぎなかったので、大学で自分の日本語能力を磨き上げずには日本社会で成功することはできないと思った。ロンドン大学の学士課程に入学した。4年間のコースだったが、編入試験を受かり、直接2年生に入学した。
やがて日本食レストランでのバイトを辞め、日本航空のバイトを見つけた。そのバイトではロンドン空港で日本人観光客を案内したりした。そして大学を卒業した。イギリス全国の10%の大学生しかとれない「1st Class」をとれた。以前は落ちこぼれそうな生徒だったが、日本への強い情熱が彼の能力を開花させた。
しかも卒業後、日本航空は正社員にならないかと誘われ、日本航空のコンピュターエンジニアとして働くことになった。それはもちろん満足できる職場だったし、スタッフの何人かは日本人だったので、日本語を話す機会も多かった。しかし、その職場では、日出づる国に住み、働くというジャパニーズ・ドリームは実現できなかった。
それから彼は、ネットで仕事を探し始めるようになり、ある日ついに目を引く求人広告を発見した。仕事は東京に拠点を置き、内容は「東南アジアでのウェブマーケティング。日本語/中国語に堪能でインターネットができるネイティブの英語話者求む」というものだった。
数日後、応募先の会社ネイチャージャパンから面接の連絡が届き、イギリスでの一次面接を受けた。その結果、今度は東京にあるネイチャージャパン本社に一週間に及ぶ面接と試験を受けに来てくれと言われた。もちろんは航空運賃と宿泊代は会社もちだった。
彼は東京に向かい、市ヶ谷にあったネイチャーの事務所に一週間通い続けた。事務所では今迄経験した事のない売り上げ予測を立てる課題が出されたりした。試験と面接が詰まった一週間も漸く終わりが訪れた。面接担当者は、「東京に来てくれてありがとう。君がイギリスに帰ったあとに結果を伝えるよ」と彼に伝えた。
しかし彼は、この先12時間、飛行機の中で返答内容を心配する自分の姿を想像し、担当者に「採用の可否を心配するあまり、手足の指を全部噛み千切ってしまいそうです。可能であればイギリスに戻る前に結果を教えて頂けると嬉しいです」と打ち解けた。担当者は笑い、週明けに電話すると言ってくれた。
彼はホテルに戻ると、心配のあまりストレスに苛まれました。しかし、やれる事は全てやったという思いはあった。こういうチャンスのために日本語だけではなく、パソコン技術も勉強し、巡って来たこの機会を使ってベストを尽くした。なにが何でも日本に住み、働くために。その夜、彼は、こみ上げる思いに泣き崩れながら眠りについた。
そして、雨が降っていた翌日の日曜の朝、ホテルの電話が鳴った。結果は採用決定だった。1999年7月、彼はすでに結婚した、紅花で出会った女性とともに日本に旅立った。ついに夢が叶ったのだ。
「僕は日出ずる国で働き、暮らしに行くのだ。過去何年の苦労が報われた。情熱を発見し、生きていけば結果は自ずとついてくる……いつだってそうだ。絶対にあきらめない。自分自身に壁を作ってはいけない、そして特に他人が自分に対してその道を遮るような壁に自分を止めさせてはいけない。自分の心に耳を傾け、ひたすら前に進め。」
以上が、彼が日本にたどり着くまでの道のりだ。彼が、「日本」への熱情をもち、「日本に住み、働く」という夢を実現させていった過程は、多くの人々の共感を呼ぶだろう。私も要約しながら、思わず「すごいな」と感嘆してしまった。ただ、感嘆すればするほど、もう少し深く知りたいこともある。それは、アニメを通して知った日本のどこに、そんなに魅力を感じたのか、日本の何がそんなに素晴らしいと思ったのかということだ。この点については、もしチャンスがあれば彼に直接会って聞いてみたいところだ。
ところで、日本にたどり着いた後の彼の道のりにも、かなりの紆余曲折がある。それを経て、現在の活躍に至るのだが、それについて触れるのはまたの機会としたい。
彼は、独学する上で自分にゴールを設けようと思い、日本語能力試験に申し込んだ。試験に向けて一年中勉強した。4級に合格して、その次の年には2級に合格した。日本語能力検定を受けたある日、テストセンターの外でチラシを配っている日本人男性2人がいた。そのチラシの内容とはロンドンで開かれているランゲージ・エクスチェンジ・クラブについてのことだった。そのクラブ「アクセル」では、現地の人と日本人が会話し合っていた。アクセルでは友達がたくさんできて、彼らとクラブ以外でも頻繁に集まっておしゃべりしたり、一緒にディナーに行ったりした。この時の日本人の友達はそれまで知り合った中では最高の友達だった。家に招待してスナックをつまみながらカラオケを楽しんだりした。
アニメとマンガに対して燃えるような情熱は高まるばかりだった。これらに関連する何らかの仕事につきたいという思いがつのった。日本語学習、アニメ、マンガ、ゲーム、日本人の友人達との交流を通し、ますます日本文化に惹かれ、ジャパニーズドリームを掴みたいと強く思うようになった。
その頃、紅花という日本料理レストランでもアルバイトをやっていた。日本人のお客さん達と日本語で話す機会があったからだが、日出ずる国へのチケットを購入する資金を溜めたいという理由もあった。日本へのチケット代を蓄えるのには一年も要した。ちなみに彼は、その後このバイト先で、やがて結婚することとなる女性とも出会っている。
紅花で働き、資金をためたかいあって、遂にアニメ、マンガ、雑誌、ドラマで見て憧れた日本に初めて訪れる日がやって来た。彼にとってこの旅は「滞在中のほぼ全ての日の出来事を思い出せる程に、とても感動的な時間だった」という。「コンビニの自働ドアのセンサーの感触、天ぷらの味、ジメジメした夏の熱気の匂いや周囲を飛び交う日本語などが僕の全ての感覚をオーバーロードさせた。」
イギリスに戻った後、部屋の周りにスピーカーをセットし、渋谷で録音した音源を流し、目を閉じた。その瞬間に渋谷に戻った気分になった。渋谷の音を聞いているととてもやる気が上がり、日本語を勉強している間、いつもその音を流していた。
彼にとって日本に住み、働くことはぜったいに実現させたい夢だった。壁に貼ってある新宿の黄昏のポスターを見ては、毎日繰り返し自分にこう言い続けていた。「絶対に僕は日本に行く」、「僕は日本に行くんだ」‥‥
日本で働くことに近づくためのステップとして、日本語を大学で勉強する必要があると感じた。これまで独学で勉強してきたが、彼の日本語は話し言葉に過ぎなかったので、大学で自分の日本語能力を磨き上げずには日本社会で成功することはできないと思った。ロンドン大学の学士課程に入学した。4年間のコースだったが、編入試験を受かり、直接2年生に入学した。
やがて日本食レストランでのバイトを辞め、日本航空のバイトを見つけた。そのバイトではロンドン空港で日本人観光客を案内したりした。そして大学を卒業した。イギリス全国の10%の大学生しかとれない「1st Class」をとれた。以前は落ちこぼれそうな生徒だったが、日本への強い情熱が彼の能力を開花させた。
しかも卒業後、日本航空は正社員にならないかと誘われ、日本航空のコンピュターエンジニアとして働くことになった。それはもちろん満足できる職場だったし、スタッフの何人かは日本人だったので、日本語を話す機会も多かった。しかし、その職場では、日出づる国に住み、働くというジャパニーズ・ドリームは実現できなかった。
それから彼は、ネットで仕事を探し始めるようになり、ある日ついに目を引く求人広告を発見した。仕事は東京に拠点を置き、内容は「東南アジアでのウェブマーケティング。日本語/中国語に堪能でインターネットができるネイティブの英語話者求む」というものだった。
数日後、応募先の会社ネイチャージャパンから面接の連絡が届き、イギリスでの一次面接を受けた。その結果、今度は東京にあるネイチャージャパン本社に一週間に及ぶ面接と試験を受けに来てくれと言われた。もちろんは航空運賃と宿泊代は会社もちだった。
彼は東京に向かい、市ヶ谷にあったネイチャーの事務所に一週間通い続けた。事務所では今迄経験した事のない売り上げ予測を立てる課題が出されたりした。試験と面接が詰まった一週間も漸く終わりが訪れた。面接担当者は、「東京に来てくれてありがとう。君がイギリスに帰ったあとに結果を伝えるよ」と彼に伝えた。
しかし彼は、この先12時間、飛行機の中で返答内容を心配する自分の姿を想像し、担当者に「採用の可否を心配するあまり、手足の指を全部噛み千切ってしまいそうです。可能であればイギリスに戻る前に結果を教えて頂けると嬉しいです」と打ち解けた。担当者は笑い、週明けに電話すると言ってくれた。
彼はホテルに戻ると、心配のあまりストレスに苛まれました。しかし、やれる事は全てやったという思いはあった。こういうチャンスのために日本語だけではなく、パソコン技術も勉強し、巡って来たこの機会を使ってベストを尽くした。なにが何でも日本に住み、働くために。その夜、彼は、こみ上げる思いに泣き崩れながら眠りについた。
そして、雨が降っていた翌日の日曜の朝、ホテルの電話が鳴った。結果は採用決定だった。1999年7月、彼はすでに結婚した、紅花で出会った女性とともに日本に旅立った。ついに夢が叶ったのだ。
「僕は日出ずる国で働き、暮らしに行くのだ。過去何年の苦労が報われた。情熱を発見し、生きていけば結果は自ずとついてくる……いつだってそうだ。絶対にあきらめない。自分自身に壁を作ってはいけない、そして特に他人が自分に対してその道を遮るような壁に自分を止めさせてはいけない。自分の心に耳を傾け、ひたすら前に進め。」
以上が、彼が日本にたどり着くまでの道のりだ。彼が、「日本」への熱情をもち、「日本に住み、働く」という夢を実現させていった過程は、多くの人々の共感を呼ぶだろう。私も要約しながら、思わず「すごいな」と感嘆してしまった。ただ、感嘆すればするほど、もう少し深く知りたいこともある。それは、アニメを通して知った日本のどこに、そんなに魅力を感じたのか、日本の何がそんなに素晴らしいと思ったのかということだ。この点については、もしチャンスがあれば彼に直接会って聞いてみたいところだ。
ところで、日本にたどり着いた後の彼の道のりにも、かなりの紆余曲折がある。それを経て、現在の活躍に至るのだが、それについて触れるのはまたの機会としたい。