(昨日、未完成のまま気づかに記事をアップしてしまったことをお詫びします。)
引き続き、安田善憲の『縄文文明の環境 (歴史文化ライブラリー)』を取上げながら、日本文化のユニークさ8項目の1項目目と触れ合う部分を中心に検討していきたい。今回は、この本で、縄文文明の原理のひとつに挙げている「②平等主義に立脚した社会制度を有していた」についてである。
縄文時代は戦争などによる集団殺戮がほとんどなかった。それは縄文時代が平等主義に立脚した社会だったからである。三内丸山遺跡から整然とならべられた墓がいくつも発見されたが、大小の差はほどんどなく副葬品にも差がなかった。縄文文化は、土器と貝や骨の装飾品、魚や動物を捕獲するための石製品はあるが、金属器をもたない。そして、どこの博物館にも人を殺すための武器は見つからない。人が集団で人を殺し合うことがめったにない世界が1万年以上続いたのである。
戦争がなかったのは、縄文時代がおおむね平等な社会だったからだ。エジプトやメソポタミアのように、巨大な権力をもった王は現れなかった。たしかに縄文中期以降は、階級差を示唆するものも存在するが、巨大権力が生まれなかったのは、階級社会の装置を文明原理に取り入れない、平等性を保つ何らかの独自の社会制度があったものとみなされる。生産物の貯蓄が容易なため貧富や階級差が生まれやすい穀物農業を受容することを回避する何らかの力が働いていたのであろう。
実際に、縄文時代終末期になるまでと稲作は定着しなかった。それはなぜか。第一に、ドングリやクリあるいは豊かな海の幸、そしてイノシシやシカなどに依存する社会が、稲作を必要としないほどに豊かだった。第二に、稲作をもたらした人々が、当初の段階ではきわめて少数であり、コロニーを作って稲作を行うほどの力がなかった。第三に、女性中心が重要な役割を担い、男性の指導性に依存しない縄文社会にあっては、男性指導型の稲作を実施に移すのが困難であったなど。
問題は、1万数千年も続いた、ほとんど階級差のない平等な社会であった縄文社会の影響が、現代にまでどのように続いたかということである。この問いは、縄文文化の他の要素、自然への畏敬を基礎とする宗教的な心性や母性原理の文化が、なぜ現代にまで影響を与えたかという問いと重なる。これらと合わせて、追ってまとめて考えてみたい。
とりあえず、これまでに書いてきた記事をもとに、かんたんにまとめると以下のようになるだろう。
①縄文時代から弥生時代への移行が、弥生人による縄文人の征服、縄文文化の圧殺という形で行われたのではなく、両者の融合というかたちで進んだので、縄文文化が濃厚に引き継がれたということ。→日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
②日本列島は、国土の大半が山林地帯だ。水田稲作の長い歴史があるが、その特徴は狭小な平野や山間の盆地などでほぼ村人たちの独力で、つまり国家の力に頼らずに、灌漑設備や溜池などを整備してきたことだ。つまり巨大な権力やそのイデオロギーによって縄文時代以来のアニミズム的心性や平等主義、母性原理の文化が圧殺されにくかったということ。→日本文化のユニークさ22:宗教的一元支配がなかった(2)
③大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺な体験をもたず、また自文化が抹殺されることもたなかった。そのため、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかく、縄文時代以来の、自然への畏敬と生命の再生と循環の思想を基にする文化が生残ったのである。
大切なことは、世界のほとんどの地域で失われてしまった、農耕文明以前の森の文化が、暴力的な圧殺を免れて生残ったのは、ほとんど奇跡に近いような稀なことだということである。それは、奈良・平安から江戸時代へと至る長い日本の歴史のなかできわめて洗練されていった。しかも、高度に文明化されたハイテクノロジーの社会の基盤にそれが流れているのである。私たちは、そのユニークさをこれまでほとんど自覚してこなかったが、今こそしっかりと自覚すべきときだろう。
《関連記事》
現代人の心に生きる縄文01
現代人の心に生きる縄文02縄文語の心
平等社会の根は縄文か:現代人の心に生きる縄文03
縄文の蛇は今も生きる:現代人の心に生きる縄文04
《関連図書》
☆文明の環境史観 (中公叢書)
☆対論 文明の原理を問う
☆一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
☆環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
☆環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
☆蛇と十字架
引き続き、安田善憲の『縄文文明の環境 (歴史文化ライブラリー)』を取上げながら、日本文化のユニークさ8項目の1項目目と触れ合う部分を中心に検討していきたい。今回は、この本で、縄文文明の原理のひとつに挙げている「②平等主義に立脚した社会制度を有していた」についてである。
縄文時代は戦争などによる集団殺戮がほとんどなかった。それは縄文時代が平等主義に立脚した社会だったからである。三内丸山遺跡から整然とならべられた墓がいくつも発見されたが、大小の差はほどんどなく副葬品にも差がなかった。縄文文化は、土器と貝や骨の装飾品、魚や動物を捕獲するための石製品はあるが、金属器をもたない。そして、どこの博物館にも人を殺すための武器は見つからない。人が集団で人を殺し合うことがめったにない世界が1万年以上続いたのである。
戦争がなかったのは、縄文時代がおおむね平等な社会だったからだ。エジプトやメソポタミアのように、巨大な権力をもった王は現れなかった。たしかに縄文中期以降は、階級差を示唆するものも存在するが、巨大権力が生まれなかったのは、階級社会の装置を文明原理に取り入れない、平等性を保つ何らかの独自の社会制度があったものとみなされる。生産物の貯蓄が容易なため貧富や階級差が生まれやすい穀物農業を受容することを回避する何らかの力が働いていたのであろう。
実際に、縄文時代終末期になるまでと稲作は定着しなかった。それはなぜか。第一に、ドングリやクリあるいは豊かな海の幸、そしてイノシシやシカなどに依存する社会が、稲作を必要としないほどに豊かだった。第二に、稲作をもたらした人々が、当初の段階ではきわめて少数であり、コロニーを作って稲作を行うほどの力がなかった。第三に、女性中心が重要な役割を担い、男性の指導性に依存しない縄文社会にあっては、男性指導型の稲作を実施に移すのが困難であったなど。
問題は、1万数千年も続いた、ほとんど階級差のない平等な社会であった縄文社会の影響が、現代にまでどのように続いたかということである。この問いは、縄文文化の他の要素、自然への畏敬を基礎とする宗教的な心性や母性原理の文化が、なぜ現代にまで影響を与えたかという問いと重なる。これらと合わせて、追ってまとめて考えてみたい。
とりあえず、これまでに書いてきた記事をもとに、かんたんにまとめると以下のようになるだろう。
①縄文時代から弥生時代への移行が、弥生人による縄文人の征服、縄文文化の圧殺という形で行われたのではなく、両者の融合というかたちで進んだので、縄文文化が濃厚に引き継がれたということ。→日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
②日本列島は、国土の大半が山林地帯だ。水田稲作の長い歴史があるが、その特徴は狭小な平野や山間の盆地などでほぼ村人たちの独力で、つまり国家の力に頼らずに、灌漑設備や溜池などを整備してきたことだ。つまり巨大な権力やそのイデオロギーによって縄文時代以来のアニミズム的心性や平等主義、母性原理の文化が圧殺されにくかったということ。→日本文化のユニークさ22:宗教的一元支配がなかった(2)
③大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺な体験をもたず、また自文化が抹殺されることもたなかった。そのため、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかく、縄文時代以来の、自然への畏敬と生命の再生と循環の思想を基にする文化が生残ったのである。
大切なことは、世界のほとんどの地域で失われてしまった、農耕文明以前の森の文化が、暴力的な圧殺を免れて生残ったのは、ほとんど奇跡に近いような稀なことだということである。それは、奈良・平安から江戸時代へと至る長い日本の歴史のなかできわめて洗練されていった。しかも、高度に文明化されたハイテクノロジーの社会の基盤にそれが流れているのである。私たちは、そのユニークさをこれまでほとんど自覚してこなかったが、今こそしっかりと自覚すべきときだろう。
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《関連図書》
☆文明の環境史観 (中公叢書)
☆対論 文明の原理を問う
☆一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
☆環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
☆環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
☆蛇と十字架