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日本人はなぜキリスト教を信じないのか

2015年03月11日 | キリスト教を拒否する日本
このブログでは「キリスト教が広まらない日本」というカテゴリーを設けている。なかでも キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01   という記事はよく読まれているようだ。前回少し触れた、日本で曹洞禅の住職となったネルケ無方氏は、同じ本に「日本人はなぜキリスト教を信じないのか」という一章を設けて、この問題を語っている(『日本人に「宗教」は要らない (ベスト新書)』)。彼の考えを紹介しよう。その上で私の考え方を振り返ってみたい。ネルケ無方氏の挙げる理由は次の三つである。

①先祖崇拝を基本とする日本社会では、「キリスト教徒になって自分が救われても、先祖が救われないのでは意味がない」と考えられた。

②キリスト教の「一神教」と日本人の宗教観がうまく折り合わなかった。他宗教を認めず排除するキリスト教は、日本人はシンクロできない。

③キリスト教と国家権力とがうまく結びつかなかった。欧米では、ローマ法王が宗教界のトップで、各国の権力者は時に権力争いをしても、基本的に法王を否定しなかった。日本の場合は、キリスト教を導入すると、ローマ法王と天皇の関係に整合性がつかなくなる。

それぞれなるほどと思わせるものがあるが、しかし日本人がキリスト教を受け入れない根本的な理由に触れていないように思われてならない。たとえば①については、現代日本では先祖崇拝が江戸時代以前よりは薄れていると思われるが、それに伴ってキリスト教徒が増加しているわけではない。相変わらず1%を切る低い水準である。これが説明できない。また日本より儒教的な先祖崇拝が強いと思われる韓国ではキリスト教徒ははるかに多い。

②について。キリスト教が他宗教を認めず排除する傾向は、日本以外のどの地域でも同じであったはずだ。なぜ日本だけが受け入れなかったのか。日本人の宗教観とうまく折り合わなかったのは事実だろうが、それはどのような宗教観であり、それがキリスト教を受容しない理由になるのは何故なのか。こうした根本的な問題については何も答えていない。

③について。これは豊臣秀吉から徳川時代初期の歴史的な事情としては正しいであろう。しかしこれも、現代の日本で相変わらずキリスト教徒が少ないことの根本的な説明とはならない。

させ、上の主な理由の他に著者はこんなことも言っている。キリスト教には、父なる神と、その子・イエスと、精霊の三位一体説がある。イエスの母・マリアはカトリックでは大事にされるが、プロテスタントではマリア信仰は認めない。いずれにせよキリスト教の中心にあるのは、「厳しい父なるもの」であり、これに対し「優しいお母さん」が、日本人の精神世界の中心をなしている。だから子供が聖書を読んでも違和感を覚えるのではないか、と。

私にはこれが、日本人がキリスト教を受け入れない根本的な理由に関係しているのではないかと思われる。これまでこのブログで何度も指摘してきたような日本文化の「母性原理」が一神教的な「父性原理」と相容れないのだ。これは、価値観の相対手主義と絶対主義の違いともいえるだろう。すべてを受容する母性原理と、絶対的な原理に合わないものを排除する父性原理と。

以前このブログで書いた、日本にキリスト教が広まらなかった(現在も広まらない)要因を、「母性原理」という観点を加えながら再び紹介しよう。

(1)現代日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、多神教的な(全体として強力に母性原理的な)傾向が、無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教など(父性原理の強い)一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。多神教的な相対主義を破壊するような一神教的な絶対主義が受け入れがたい。

(2)キリスト教は、遊牧民的・牧畜民的な文化背景を強くにじませ、それに関係するたとえが多用される。牧畜文化を知らない日本人にとって根本的に肌に合わない。絶対的な唯一神とその僕としての人間という(父子関係をモデルとする)発想、そして人間と動物とを厳しく区別する発想の宗教が、(母なる自然や大地を崇拝し、人間と他の生物の区別が曖昧な)縄文的・自然崇拝的心性には合わない。

(3)ユーラシア大陸の諸民族は、悲惨な虐殺を伴う対立・抗争を繰り返してきたが、それは宗教やイデオロギーの対立・抗争でもあった。その中で、強固な宗教による一元支配(父性原理・絶対主義)が統治や防衛上も必要になった。キリスト教、イスラム教、儒教などは多少ともそのような背景から生じ、社会がそのような宗教によって律せられることで「文明化」が進んだ。

しかし、日本はその地理的な条件から、異民族との激しい対立・抗争にも巻き込まれず、強固なイデオロギーによって社会を一元的に律する必要もなかった。したがって、日本文化には農耕・牧畜文明以以前の自然崇拝的な心性(母性原理・相対主義)が、圧殺されずに色濃く残る結果となった(神仏習合など)。

私たちが自覚していると否とにかかわらず、日本の文化には母性原理的・相対主義的な成り立ちや仕組みがあって、それと根本的に相容れないものは、受け入れてことなかった。キリスト教はそのようなものの一つであったのだろう。

《関連記事》
母性原理が優位な日本文化という見方の詳細は、以下の記事を参照されたい。
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01
これまでこのブログで行った「なぜ日本にキリスト教が広まらないか」についての記事については、
★「キリスト教が広まらない日本」というカテゴリーを設けている。
コメント (1)
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周囲とのシンクロが得意な日本人

2015年03月10日 | 相対主義の国・日本
前回とりあげたような「間人主義」的な日本人の行動の特徴は、具体的にはどんなところに見られるだろうか。日本人自身はあまり意識しなくとも外国人の目には際立って見える面がある。たとえば、ドイツ人でありながら日本で曹洞禅の修業をし、日本の禅寺の住職になったネルケ無方氏は、「日本人は人に合わせ、人とシンクロする性質がある」という(『日本人に「宗教」は要らない (ベスト新書)』)。欧米人は、そもそも他人とシンクロしようという意識がない。日本人のように人に合わせる、動作や気持ちにまで合わせるというのが苦手のようだ。

日本人が時間に厳格で正確なのも、日本人のシンクロしようとする性質によるのだろう。「空気を読む」というのも同じ性質によるもので、そもそもドイツ人には「空気を読む」とうような発想も概念もないという。日本人にとって空気を読めないということは、本人にとっても周囲の人にとっても苦痛であり、そこにいじめの一温床があるかもしれない。日本人のいじめは、「間人主義」の良さと裏腹の関係にあるのだろう。

日本人が移民の受け入れに後ろ向きなのも、以上のような日本人の特徴と関係があるようだ。日本人の社会は、他者とのシンクロを前提としている。シンクロするためのセンサーも敏感である。そこへ、そうしたセンサーやアンテナを備えていない人が大量に入り込んだらどうなるか。日本人の敏感なセンサーが、その危険さをキャッチしているからこそ、移民受け入れに消極的になっているというのだ。

浜口恵俊氏の『間人主義の社会日本』では、西欧的な「個人主義」を、①自己中心主義、②自己依拠主義、③対人関係の手段視、によって特徴づけ、一方、日本人の「間人主義」を、「人と人との間に位置づけて初めて"自分"という存在を意識する」あり方として特徴づけた。それは、具体的には①相互依存主義、②相互信頼主義、③対人関係の本質視、として表されるという。

ところで少し前にこのブログで、金谷武洋氏の『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』に触れ、「日本語は、共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉」であり、英語が「人間に注目する」のに対し、日本語は人間よりもその周りの舞台や背景、つまり「場所に注目」するという見方を紹介した(→世の中を平和にする日本語と縄文時代)。日本語の発想法の特徴が、日本人の「間人主義」とみごとに対応しているといえるだろう。このように、それぞれの分野で行われている議論がどのように関係するかを確認し、そこに通底する構造を明らかにし体系化する作業こそが今後、必要だと思う。

『間人主義の社会・日本』の著者・浜口氏は、この本の「はじめに」の中で、日本論を代表するものとしてべネディクトの『菊と刀』、中根千枝の『タテ社会の人間関係』、土居健郎の『「甘え」の構造 [増補普及版]』など、すぐれた理論がたくさんあるとしながらも、それらはいずれも、「日本人の社会的行為を規制している基底的な原理を不問にしたまま日本を論じている」と批判している。

ここでいう「基底的な原理」とは、人間が本来どのような社会文化的存在と見なされているかという「人間観」であり、その人間が織り成す間柄についての人々の考え方、すなわち「人間関係観」などのことである。それを著者がどのようにとらえていたかは、前回かんたんに紹介した。その研究は優れたものであり、私も興味深く読んだ。

一方で私自身の関心は、では著者の「間人主義」の人間観をもとにした理論と、「タテ社会の人間関係」や「甘えの構造」はどのように関係するかということである。その関係については、著者はもちろんほとんど何も触れていない。私の関心をもう少し一般化して述べよう。

これまでに日本人論、日本文化論といった類の本は、ほとんど無数といえるほどに生み出されている。本の題名に日本の二文字がなくとも、中身は日本人、日本文化とは何かを問うものも多い。もちろんそれらのすべてを読むのは不可能だが、おそらく何百冊とその関係の本を読んできた。それでいつも感じるのは、このテーマを巡る各分野からの数多くの優れた研究成果が、相互の関連が確認されながら蓄積されて、日本人の共有財産となっているという感じがしないのだ。

今、求められているのは、各分野からの日本論の多くの優れた成果をつきあわせて、相互にどのような関係や共通性や違いがあるのかを問い、それらを体系的に整理することではないか。私には、各分野からの研究の多くが、深いところで通底しているように見える。それらが、どのような類似性や共通性をもっているかを確認し、これまで先人が蓄積してきた日本人や日本文化についての議論を、いわば国民の共有財産とすることこそが求められている。私も、ささやかながらそんな作業の一助となれればと思う。

《関連記事》
日本文化のユニークさ43:タテ社会と甘え(1)
日本文化のユニークさ44:タテ社会と甘え(2)
日本文化のユニークさ41:甘えと母性社会(1)
日本文化のユニークさ42:甘えと母性社会(2)

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