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侵略に晒された韓国と侵略を免れた日本

2015年06月17日 | 侵略を免れた日本
本ブログでは、日本文化のユニークさを「日本文化のユニークさ8項目」の視点から論じている。その4番目は次のようなものであった。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

これまで、こうした日本文化の特性を、他のどこかの国と比較して論じるということはほとんどなかった。今回は、日本と文化的な関係の深い韓国と中国をとりあげ、上の視点から比較して論じてみよう。まずは韓国である。

◆『侮日論 「韓国人」はなぜ日本を憎むのか (文春新書)

著者は、済州島出身で今は日本に帰化している呉善花氏である。彼女の本はこれまでにも何冊か取りあげてきた。たとえば『日本の曖昧力』などである。日本での深い異文化体験を根底に、洞察力に満ちた日本文化論を展開している。『侮日論』は、タイトルからいわゆる「嫌韓本か」と思われるかも知れないが、そう一括りにされる個々の本は、読んで見れば真摯な態度で韓国の歴史や文化を論じているものが多い。この本も、韓国の歴史や社会を見る目は深く、また誠実で、考察は鋭い。

著者によれば、韓国人は好んで「手は内側に曲がる」という。手は内側の何かをつかみ取るようにしか曲がらない。内側とはつまり、家族、親族、血縁である。家族や親族を守るのは当然だが、韓国人の場合は、何が何でも家族、親族、血縁を最優先するのが人間だという強い思いがあるらしい。それが民族規模になれば、「民族は一家族だ」という身内意識に強く支配されるという。それは強い情緒的な反応であり、反日教育が徹底されれば、強い反日情緒が生まれるわけだ。

韓国は、強固な血縁集団を単位に社会を形づくり、それを基盤とした伝統的価値観がしっかりと根付いた。それは「身内正義の価値観」だ。「身内=自分の属する血縁一族とその血統」が絶対正義であり、その繁栄を犯す者は絶対悪だという家族主義的な価値観だといえよう。

彼らは、民族を一家族と見なし反日を軸にしてまとまる面がある一方、内部では自分の一族の党派的な主張が唯一の正義になる。それゆえ、党派を超越して国家のために連帯するという発想がなく、その歴史は一族間のすさまじい闘争に終始したという。国家への忠誠よりも血縁集団への忠誠が優先されるのだ。一族の利益のためには社会全体の利益を損なうことさえ辞さない極度に排他的な傾向をもっている。大統領とその一族さえその傾向を免れなかった。

韓国人が、家族、親族、血縁を最優先するのは、「信じられるのは家族だけ」という意識が強いからでもある。そうした意識の背景には、外国から繰り返し侵略された歴史があるともいえよう。異民族間の抗争・殺戮が繰り返され、社会不安が大きければ大きいほど、血縁しか頼るものがないという意識が強くなる。もともと「中華文明圏」では、宗族(そうぞく:男子単系の血族)が半ば独立した有機体のように散らばり、社会はその寄せ集めによって成り立ってといってもよい。宗族は、倫理的には儒教の影響を受けた家を中心とした家族観の上に成り立ち、強力な血縁主義でもある。血縁だけしか信じられるものはないという社会のあり方は、異民族との抗争の歴史と裏腹なのだともいえよう。

一方、日本のように、異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが可能だったし、それを育て守ることが日本人のもっとも基本的な価値感となった。その背後には人間は信頼できるものという性善説が横たわっている。さらに大陸から海によって適度な距離で隔てられていたため、儒教文化の影響をもろに受けることもなかた。宗族社会と違い日本はイエ社会であり、男系の血族だけでは完結しない。それは、婿養子のあり方を見ればわかるだろう。その分、社会がフレキシブルになっているのだ。

韓国では李氏朝鮮も、外国からの侵略という危機に際し、強固な国家支配体制を強固な家族主義の道徳規範で支えることを説く儒教、とくに朱子学を採用して乗り切ろうとした。崩れかけていた「血縁村落」を再び強化することで、さらに国家的な団結力も強化しようとした。韓国では、国にとっての敵に対しては、「一つの家族」という意識が前面に出る。とくに近年では対日本でそうした傾向が異常に強い。しかし、国内では我が家族や一族以外は容易に信じてはならないという、二面的な傾向をもつようだ。

また韓国独特の「恨(はん)」の感情もまた、異民族による支配の歴史を反映している。日本では怨恨というときの怨も恨も似たような感情だが、韓国人の「恨」は独特な意味をもっているという。それは、「我が民族は他民族の支配を受けながら、艱難辛苦の歴史を歩んできたが、それにめげることなく力を尽くして未来を切り開いてきた」という歴史性に根ざす「誇り」を伴う感情のようだ。個人のレベルでは、自分の悲運な境遇に対して恨をもつのだが、それを持つからこそ、それをバネに未来に向けて生きることができる、という前向きな姿勢につながるのが恨だという。まるで凝固したかのような恨をどこまでも持ち続ける、それが未来への希望になるというのだ。韓国人にとっては、生きていることそもののが恨なのである。

こうして見ると、韓国の社会や文化が異民族による侵略に常に悩まされるなかで形成され、そうした歴史に深く影響されていることがわかる。朝鮮半島と日本列島は距離的には近く、その文化も影響し合った面があるが、一方でその地政学的な条件に根本的な違いがあり、それがお互いの社会文化の形成に決定的な違いを生み出していることも明らかなのだ。

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日本文化のユニークさ11:平和で安定した社会の結果
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その他の「日本文化のユニークさ」記事一覧

《関連図書》
☆『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
☆『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)
☆『日本の曖昧力 (PHP新書)
☆『日本人はなぜ震災にへこたれないのか (PHP新書)
☆『世界に誇れる日本人 (PHP文庫)
☆『日本とは何か (講談社文庫)

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アマテラス:『神話と日本人の心』を巡って(3)

2015年06月07日 | 現代に生きる縄文
◆『神話と日本人の心

第四章「三貴子の誕生」(続き)

《アマテラスとアテーナー》
ギリシアの神々のなかで、日の女神アマテラスにもっとも類似するのはアテーナーではないか。アテーナーも父から生まれている。

ゼウスの正妻はへーラーとされるが、それ以前に女神メーティスがいた。聡明な女神だったが、大地と大空がゼウスに忠告した。二人の間に生まれる子は、もし男子なら父親を凌ぎ、神々と人間たちの君になるだろう、もしゼウスが永遠に統治権を握りたいなら、適当な処置が必要だ、と。ゼウスはその意見にしたがい、メーティスが懐妊したとき、彼女を自分の腹の中に呑み込んだ。その胎児がゼウスの頭の中で成長し、やがてゼウスは大変な頭痛を覚えたので、斧で頭を打ち割らせた。するとアテーナーが武装して雄たけびをあげて飛び出してきた。彼女は軍事にも携わったが、機織りにも長けていた。(アマテラスの機織との共通性)

日本神話との違いは、ゼウスが自分の統治権を守ろうとしたのに対し、イザナキは、自分の統治権をあっさり娘に譲り、自分は身を隠してしまうことであり、この差は大きい。

アメリカのように極めて父権意識の強い国では、女性の地位は長く低く見られてきたが、それに対しウーマン・リブ運動が起こり、女性も男性と同等の能力をもつと主張した。その結果、多くの職業に女性も進出し、女性の社会進出は成功した。しかし、その成功の陰で自分たちの「女性性」が犠牲になり、傷ついていると感じる女性も多かった。成功の一方、女性に固有なアイデンティティ、女性的な価値が失われるのは、西洋では、女性の価値が男性との関係でのみ決定されることが多いからではないか。ユング派の女性分析家は、そんな自分を「父の娘」と呼ぶ。

アマテラスはアテーナーに似て「父の娘」だが、ギリシアではあくまでもゼウスが主神である。一方日本ではアマテラス自身が主神である。彼女は、母を知らないという意味で地母神ではない。イザナミは黄泉に行き、地下の神となり、アマテラスは天上の神となる。もしアマテラスがイザナミの娘であれば、見事な母権制の社会ということになるが、そう単純ではないところが日本神話の特徴である。(注)

(注)無意識は、意識化された自我の一面性をつねに補償する働きをもつ。そのような無意識の世界を自我に統合していくプロセスが、ユングのいう「個性化の過程」だ。ユングの患者たちは、キリスト教文化圏の人々だから、彼らの無意識から産出される内容は、正統キリスト教の知を補償するものであることが多かった。

父なる神を天に頂く彼らの意識を補償しようするのは、母なるものの働きである。ユングはそのような観点からヨーロッパの精神史を見直し、正統キリスト教の男性原理を補うものとして、ヨーロッパ精神の低層に、グノーシス主義から錬金術に至る女性原理の流れを見出していった。

西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。

唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出される。これに対して日本神話の場合はどうか。例えばアマテラスとスサノオの関係は、それほど明白でも単純でもない。スサノオが天上のアマテラスを訪ねたとき、彼が国を奪いにきたと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るための誓いではスサノオが勝つ。その乱暴によって天界を追われたスサノオは抹殺されるどころか文化英雄となって出雲で活躍する。二つの極は、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される。

男性原理と女性原理の対立という点から見ると、日本神話は、どちらか一方が完全に優位を獲得し切ることはなく、一見優勢に見えても、かならず他方を潜在的に含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性を持つ。著者はここに日本神話の中空性を見る。何かの原理が中心を占めることはなく、それは中空のまわりを巡回しながら、対立するものとのバランスを保ち続ける。日本文化そのものが、つねに外来文化を取り入れ、時にそれを中心においたかのように思わせながら、やがてそれは日本化されて中心から離れる。消え去るのではなく、他とのバランスを保ちながら、中心の空性を浮かび上がらせる。(河合隼雄『中空構造日本の深層 (中公文庫)』)

非ヨーロッパ世界のなかで日本のみがいちはやく近代文明を取り入れて成功した。男性原理に根ざした近代文明は、その根底に先に見たような危機をはらんでいる。日本の文化は、近代文明のもつ男性原理や父性原理の弊害をあまり受けていないように見える。それは、日本が西洋文明を取り入れつつ母性的なものを保持したからだろう。しかし単純に女性原理や母性原理に立つのではなく、中空均衡型モデルとでもいうべきものによって、対立や矛盾をあえて排除せず、共存させる構造をもっていたからではないのか。

日本が、男性原理の上に成り立つ近代文明を取り入れ成功しながら、なおかつ男性原理の文明のもつ弊害を回避しうる可能性を隠すことが、今後ますます重要な意味をもつかも知れない。

(付録)シャーロット・ケイト・フォックスへのインタビュー
別所 日本の女性とアメリカの女性との違いは?

シャーロット 米国では「パワフル」「ストロング」「セクシー」、この三つが合わさって「彼女はビューティフル」になるんです。「キュート」って言われると、見下されているように感じます。だから私も当初、日本で「かわいい」と言われると戸惑いました。でも、「かわいい」には、英語の「キュート」にとどまらない、いろんな意味が含まれていることが分かってきました。

ここ日本で「美しくあること」って難しい。米国と全く違いますから。一方で、自分の内面に向き合い直すよい機会だとも思っています。自分の内面を再考察するといえば、言葉を発する前にまずきちんと考えてみることですね。米国では必要以上に感情が高まったり、あまりにも直接的なものの言い方になってしまったりするんです。感情の起伏が激しくなってしまうんです。特に人を愛することに関しては。
別所 日本女性の長所って見つけましたか?

シャーロット 日本女性のパワーの源を学んでいるところです(笑い)。米国の女性と違うんですよね。内に秘めたパワーというか。本当にとても強いパワー。まるで魔法のようです。私の友人は優しくて、嫌われずして得たいものを得るんです。不思議です。(毎日新聞-2015/03/26)

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三貴子の誕生:『神話と日本人の心』を巡って(2)

2015年06月02日 | 母性社会日本
《日本神話を読む》
現代人は「科学の知」に圧倒されて「神話の知」の獲得が難しい。現代人の生き方を支えてくれる神話はないのか。結局は各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていくほかなく、解決は個人にまかされるのか。集団で神話を共有した時代は、神話による支えが集団として保証されたが、その代償として個人の自由が束縛された。今われわれは、各人にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのであろう。

生きることそのものが神話の探求であり、各人が自分にふさわしい個人神話を見出すことが生きることにつながると言うべきだろう。日本人としては、かつて人類がもった数々の神話、そしてとくに日本の神話を学ぶことは不可欠だろう。

日本の神話は、『古事記』(712)、『日本書紀』(720)によって現在に伝えられている。この時代に神話が記録されたのは、当時の日本が、外国との接触によって統一国家としての存在を示すとともに、その中心としての天皇家の存在を基礎づける必要に迫られていたからだ。

神話と日本人の心』の著者の河合隼雄は、日本神話を深層心理学の立場から研究する。つまり、人間にとって神話がいかに必要であり、それが人間の心に極めて深くかかわているか、という観点から、神話のなかに心の深層のあり方を探る。そこに日本人の心のあり方を探り、我々の生き方のヒントを得ようという立場だ。ユング派の分析家として日本人の心の深層にかかわる仕事を続けてきた経験から、日本神話の世界にひたりきることによって得たことを述べるというのである。このブログでは、この河合隼雄の著書を参考にしながら『古事記』を読んでいきたい。

前回、アマテラスの話から始まっているので、ここでは上の本の第四章から見ていくつもりである。

第四章「三貴子の誕生」

《父からの出産》
日本神話のなかで三貴子と呼ばれる、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲは極めて重要なトライアッドである。その誕生について『古事記』に従って見よう。

イザナキは黄泉の国より逃げ帰り、きたない国に行ってきたので、みそぎをする。このとき、冥界の汚垢(けがれ)によっても神が生まれ、それを「直す」ための神も生まれる。これらの「神」はキリスト教のゴッドとは大いに異なる。これらひとつひとつにヌミノースな感情(超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものに触れることで沸き起こる感情)が湧き、それを神と名付けたのだろう。

続いて、イザナキが左目を洗うとアマテラスが生まれ、右目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノヲが生まれる。そしてアマテラスには「汝命は、高天の原を知らせ」、ツクヨミには「汝命は、「夜の食国を知らせ」、スサノヲには「汝命は、海原を知らせ」と命じた。
ここで最も貴いとされる三柱の神があえて父から生まれたと語るのはなぜか。

人間がすべて女性から生まれる、その神秘に感動した人々は、まず神として大母神(だいぼしん)を想定したと思われる。ヨーロッパでもキリスト教以前は地母神(ちぼしん)が中心であった。日本の縄文時代の土偶にも地母神は多い。これに対し、父性原理の優位を押し出すユダヤ・キリスト教は、アダムの骨からイヴがつくられる。

日本の神話ではこれに対して、大母神イザナミがつぎつぎと国土も含めて、ほとんどすべてを生み出す。圧倒的な母性優位である。ここで極端な母性の優位性を、父性の強調によってバランスさせる。こうした巧妙なバランスが日本神話の特徴である。

イザナキが三貴子を生んだことで父性の巻き返しがあったが、彼の後継者として高天の原を知らしたのはアマテラスであった。しかしこれで女性優位がすんなり確立するわけではない。

《目と日月》
アマテラスとツクヨミ、つまり日と月はそれぞれ父親の左目、右目から生まれている。日と月が神の目だという主題は世界の神話のなかにかなり広く見られる。しかし、右と太陽、左と月が結びつくのが一般的で、日本神話や中国の盤古の例のように左と太陽、右と月が結びつくのは珍しいようだ。人類は右利きが圧倒的に多いので、一般には右が左に対して優位と考えられる。

西洋の伝統的な象徴性の考え方では、右―太陽―光―男―意識というつながりに対して、

左―月―闇―女―無意識というつながりが対立していて、前者が優位性をもつようだ。

日本の神話では、左―太陽―女という結びつきが見られ、西洋の一般的な象徴パターンとは異なる。強調すべきは、太陽―女性の結びつきという日本の特異性である。(注)

(注)上田篤氏(『縄文人に学ぶ (新潮新書)』)は、縄文時代が長く続いた理由のひとつを妻問婚に見る。縄文時代の妻問婚が古墳時代へと引き継がれていったというのだ。

妻問婚は、男が女のもとに通うことで婚姻が成立するが、それは一過性のものである。夫婦としての男女の同棲を伴わず、男が通わなくなることも多い。父は、自分の子ども  が誰かに頓着しないが、女にとっては、父が誰であれ、産んだ子は等しく自分の子であり、平等に自分のもとで育てる。

子を持つ女たちは、食糧の採集に明け暮れた。いつくるか分からない男たちはあてにならない。そうした社会では母子間の絆は強くなる。そして氏族の先祖は、母から母へとさかのぼり、ついには「一人の仮想上の女性」に至りつくだろう。それが元母(がんぼ:グレートマザー)だ。縄文時代に作られた土偶は、何かしら呪術的な使われ方をしたのだろうが、それは元母の面影をもっている。縄文社会は母系社会だったと思われ、しかも豊かな自然を「母なる自然」として敬う宗教心は、元母への畏敬とも重なっていく。

縄文人の遺跡には、貝塚などの遺跡と並んで石群や木柱群がある。上田氏は、石群と木柱群が「先祖の祭祀」と「太陽の観測」という二つの機能をもつと考える。縄文人は、太陽と先祖の二つを拝んでいた。そして火は、太陽の子であった。ところで太陽と先祖とはどのように結びつくのか。縄文人は、氏族の先祖を遡ったおおもとに元母のイメージをもっていただろう。その元母と太陽の両方の性格をそなえていたのは、女性神アマテラスである。元母の根源にアマテラスを見ると、先祖信仰と太陽信仰は完全につながるというのである。つまり縄文人の宗教心は、母系社会の先祖信仰と「母なる自然」への信仰、その大元としての太陽信仰とが結びついていたのではないか。

父系社会では、力の強い男が多数の女を抱えてたくさんの子どもを産ませ、「血族王国」を作りたがる。その結果、権力をめぐって男同士の争いが始まる。ところが母系社会では、男に子どもがない。女の産む子どもの人数には限りがあり、しかも女は子供を分け隔てなく育てるから争いも起きにくい。母系社会では、母はすべての子とその子孫の安寧を平等に願う傾向があるから、血族集団は争いなく維持され、社会は安定した。ここに縄文時代が一定の文化とともにかくも長く続いた秘密のひとつがあるのではないか。

こうして縄文時代は女性中心の時代であり、その伝統は後の時代に引き継がれた。父系性の結婚制度に移行したあとも、家の中での女性の力が比較的強かったのは、その伝統を受け継いでいるからだろ。「刀自(とじ)」「女房」「奥」「家内」「お袋」「主婦」などの言葉は、多かれ少なかれ家を管理する意味合いを持つ。日本では今でも主婦が一家の家計を預かるケースが多いが、欧米ではそのようなことはないという。
日本列島に生きた人々は、農耕の段階に入っていくのが大陸よりも遅く、それだけ本格的な農耕をともなわない縄文文化を高度に発達させた。世界でもめずらしく高度な土器や竪穴住を伴う漁撈・狩猟・採集文化であった。それが可能だったのは、自然の恵みが豊かだったからだろう。母系社会であり、母なる自然を敬う縄文文化がその後の日本文化の基盤となったのである。しかもやがて大陸から流入した本格的な稲作は、牧畜を伴っていなかった。牧畜は、大地に働きかける農耕よりも、生きた動物を管理し食用にするという意味で、より自覚的な自然への働きかけとなる。つまりより男性原理が強い。そして牧畜は森林を破壊する。

日本では、1万数千年という長きに渡る縄文時代がその後の日本社会を形成する上で、無視できない強固な基盤となった。父性原理の大陸文明を受け入れるにしても、自分たちの体に染みついた縄文の記憶(母性原理に基づく宗教心や生き方)に合わない要素は、拒絶したり変形したりして受け入れていった。こうして中国文明から多くを学んだが、科挙や宦官や纏足は受け入れなかった。西欧文明は受け入れたが、キリスト教信者は今でも極端に少ない。私たちは、たとえ自覚はなくとも、縄文の記憶をいまだに忘れていないようだ。私たちの社会と文化の根底には母性原理が息づいているのである。現代日本の女性も、その遠い記憶に根ざしているから強いのかもしれない。

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