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母性社会日本の意味(2)

2020年10月17日 | 母性社会日本
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。今回は、その後半である。

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西洋近代における自然科学の急速な発展は、「近代的自我」の目覚めと無縁ではない。自我を自然対象と切り離し、客観的な観察対象とする姿勢は、観察の意志を持った自律的な主体の成立と分かちがたく結びついている。そして観察者の状況に左右されない「普遍性」をもった科学的な知は、その応用である科学技術と相俟って、全世界を席巻する強大な力となり、その結果、非西欧世界の大部分が植民地化されていったのである。

西洋のような父性原理の一神教を中心とした文化は、母性原理の多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。そして父性原理を背景とする西欧の「近代的自我」も同様の危機をはらんでいると言えよう。それは、ひたすら科学の進歩や経済の発展を目指して突き進む男性像が中心的なイメージとなっている。そのような自我のイメージと相容れない要素が、抑圧され排除される傾向が強いのだ。具体的には、女性的なもの、異質な文化、無意識、そして病や死だ。

これに対し日本人の精神性の根底には母性的なものが横たわり、物事を区分したり一つの極を中心して堅く統合しようとする傾向は弱い。むしろ両極端をも包み込んでいくような融合性、曖昧性を特性とする。父性原理の伝統に根差した近代西欧は、自我を対象から切り離し、客観的に分析する方法を徹底的に洗練させていった。それに対し母性原理の伝統に育まれた日本文化は、融合性や曖昧性、自然との一体性や、仏教で説かれるような宇宙との融合というあり方を洗練させたのである。

このような日本文化や日本人のこころの在り方は、その独特の美学とも結びついている。それが「曖昧の美学」だ。「曖昧」は成熟した母性的な感性であり、母性原理と結びついている。単純に物事の善悪、可否の決着をつけない。一神教的な父性原理は、善悪をはっきりと区別するが、母性原理はすべてを曖昧なまま受け入れる。能にせよ、水墨画にせよ、日本の伝統は、曖昧の美を芸術の域に高めることに成功した。それは映画やアニメにも引き継がれ、一神教的な文化とは違う美意識や世界観を世界に発信している。また日本が、かつては中国文明、さらには欧米の文明をほとんど抵抗なく吸収できたものこの融合性によるのかもしれない。

重要なことは、「日本的自我」の在り方を「近代的自我」と比較し、劣ったものとして批判することではない。むしろ、日本人の自我の在り方の特性を歪めずに、優劣の判断から自由に、事実として正確に把握することである。我々は、すでに西欧で生まれてた科学技術や社会制度を大幅に受け入れ、これからも受け入れ発展させ続けるだろう。それは父性原理も基づく制度を受け入れ、それを枠組みとする社会に生きているということなのだが、自分たちの特性を充分に理解しないまま受け入れたため、あちこちで混乱を生じているのも事実だ。その混乱を少なくするためにも、自らの在り方への十全な自覚がますます大切になる。その自覚によってこそ混乱への正しい対処法が生まれてくるのだ。

また、現代の国際関係は、父性原理の力学で動いているもの厳然たる事実だろう。そこに自らの母性原理を充分に自覚しないまま関わることで無用な混乱や不利益が生じている場合がある。国際関係で不利益を被らないためにも、彼我の違いを明確に認識しておくことが必要だ。先進7ヶ国首脳会議(G7)において、非キリスト教圏からの参加、つまり母性原理の国からの参加は日本だけである。その意味を自覚して行動すべきだろう。さらに言えば、自らの母性原理の在り方を充分に自覚し、それをこれからの世界にどう生かせるか、その積極的な意味を認識することが、今後の日本にとってきわめて重要な課題なのではなかろうか。

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母性社会日本の意味(1)

2020年10月16日 | 母性社会日本
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。

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戦後における日本人論、日本文化論は、R.ベネディクトの『菊と刀』で、日本の文化を「恥の文化」とし、西欧の「罪の文化と比較したのに始まると言ってよよいが、それは同時に二類型による比較文化論の代表例でもあった。この本は今日まで読みつがれ、またこの本に影響を受けたり、それを批判的に乗り越えようとするなどして、その後様々な日本人論が生まれた。母性原理の日本を論じる本稿とこの本の主題は、直接関係しないのでその内容にまでは立ち入らない。しかし、ベネディクトが、日本を「恥の文化」と捉え、西欧の「罪の文化」は内面的な行動規範を重んじるのに対し、恥の文化は外面的な行動規範を重んじるとしたとき、そこに価値判断が忍び込んでいたのは確かなようだ。恥という外面的な行動規範より、罪という内面的な行動規範のほうが優れているという密かな価値判断が見え隠れするのである。さらに言えば、「罪の文化」には、内面的で自律的な行動規範を重視する「近代的自我」に対応し、「恥の文化」は、外面的で他律的な行動規範に影響される「非近代的自我」が対応する。そしてベネディクト以来の、欧米人による多くの日本人論がまた、このような欧米的な価値観を基準にした分析だったのも確かである。

欧米の研究者だけではなく日本人の研究者が日本の社会や文化、そして日本人のこころの在り方を論じるときにも、西欧的な価値基準を絶対視し、それによって日本の在り方を論評するという姿勢から自由になっていない場合がいまだに多い。特に「近代的自我」は、近代民主社会の基盤としてほとんど絶対視される傾向があった。近代的自我を唯一の正しい在り方として捉えるかぎり、日本人の自我の在り方が批判的にしか見れないのは当然であろう。そこから「日本人には自我がない」とか、自己主張が弱く集団に埋没するだとかいう批判が生まれる。

しかし、日本人の自我が西欧人の自我に対して発達が遅れた劣ったものする見方は危険である。すでに見たように日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっている。日本人のアイデンティティは、その個人が所属する「場」によって支えられる傾向がある。そして日本人の自我は、つねに「場」に開かれており、「場」との相互関係のなかで変化する。自他の区別は弱く、自我は曖昧な全体的関連のなかにあり、また自らの無意識との切り離しも強くない。そしてこの事実は、すでに確認してきたように、日本が縄文時代に深い根をもつ母性原理の強い社会を歴史的に形成してたことと深く関係し、この母性原理の社会こそが、日本人の自我形成の基盤となっている。

一方、西洋で生まれた「近代的自我」は、父性原理の一神教、とくにキリスト教の伝統を背景にして生まれたと言えよう。「包含」よりも「切断」を特徴とし、物事を明確に区分する父性原理の思考法は、個の独立という考え方と結びつきやすい。しかし、もちろん最初から個人主義や近代的自我が確立されていたのではなく、キリスト教の伝統が根強かった中世には、個人の意思や欲望が尊重されていたわけではない。父性原理の宗教の基盤の上に、絶対的な神との長い関係と戦いの中で、徐々に人間の自由意志や主体性を確立するに至った。父性原理的な宗教の伝統の中にあり、それに支えられていたからこそ、「個人」の重要性を認識するようになったのだろう。

ここで、本稿の冒頭近くで触れたことをもう一度確認したい。「母性原理」と「父性原理」にしても、あるいは「母性宗教」と「父性宗教」にしても、それは価値的な優劣を意味するものではない。現実の宗教そして文化は、両要素がさまざまに交じり合い融合しており、ともに重要な働きをなしている。どちらが強く働いているかの違いがあるだけである。だとすれば、父性原理をその背後にもつ「近代的自我」を基準として、母性原理に根差す「日本的自我」を一方的に批判するのは、あまり生産的とは言えないでろう。

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「森林の思考」と「砂漠の思考」

2020年09月30日 | 母性社会日本
鈴木秀夫氏の『森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)』については、まだここで論じたことはなかったと思う。最近、母性社会としての日本を論じる論文を書いていて、この本にも触れたので、論文のその部分をここに紹介したい。

地理学者の鈴木秀夫氏は、「森林の思考」と「砂漠の思考」という二類型によって人間の思考の違いを分析する。まずは、人間が周囲の環境を見るさいの「視点」の違いが指摘される。森林では地上に視点を置き、その視点から発想する傾向が強く、砂漠では広域を上から鳥瞰するような視点から発想が強い。森林的思考とは、視点が地上の一角にあり、下から上を見る姿勢であり、砂漠的思考とは上から下を見る鳥の眼を持つことであるという。

森林では、周囲を木々に囲まれる狭い視野から周囲を見渡し、樹林にさえぎられた空を見上げることになる。森林は湿潤地帯であり、食物は比較的豊富で種類も多い。そこでは食物や水をめぐって生死を分けるような重要な決断に迫られることは多くない。全ての物はお互いに相まって存在する。草木が繁茂し、多くの動物が住む森林地帯では多神教が生まれやすい。そして、実が朽ちて土に帰り、また芽生えてくる循環的な輪廻転生の概念も加わる。

これに対し、砂漠で生き残るのに最も重要なことは水を見つけ、食べ物を見つけることだ。そのため、長い距離を移動しなければならず、広範囲を視野に入れて行動する必要がある。遠くの泉に今、水があるかないか、生死を分ける決断をして行動しなければなない。それゆれ砂漠民は、鳥のように上から自分と全体を認識する必要に迫られる。そして、砂漠的思考の「上からの視点」が、天、すなわち一神教の神を生み出したというのである。広大な砂漠の中で人間は、風に飛ばされる砂粒と変わらない。そんな人間と万物を創造し、支配するのが絶対的な神であるという一神教が成立する。時間も空間も含めてすべてが、この絶対神によって創造されたのである。一神教の神のイメージは、砂漠の風土と砂漠民の生活に密接に関係しつつ成立した。
森林の思考とは、極端に言えば「世界は永遠に循環し、続く」という思考であり、砂漠の思考とは、逆に「世界は始まりと終わりがある」というものだ。

こうした思考の違いはやがて、キリスト教的な世界観と、仏教的な世界観のとの違いへと発展していく。しかしそれは、どちらが優れているとか、どちらが正しいとかの問題ではなく、森林あるいは砂漠という、それぞれその風土に生きるために必要な思考から生じた違いである。

こうして、多神教や、さらには仏教を生んだのが森林であり、ユダヤ教やキリスト教そしてイスラム教を生んだのが砂漠であった。歴史的に言えば、人類は狩猟・採集の時代には、圧倒的に森林的な思考が優位であった。森林に囲まれた環境では多神教的な宗教が生まれ、砂漠の環境では一神教的な宗教が生まれる傾向が強い。人類が農耕・牧畜を始めるころから、一神教的な文化の影響が徐々に森林的な思考の世界にも広まっていった。

ただし森林と砂漠とは言っても、必ずしも現在の気候風土とそのまま合致してはいない。いまから数千年前に地球が砂漠化していた頃につくられた思考方法を人類は綿々と受け継ぎ、こうした思考方法が現代の人間に対しても明らかに大きく影響している。森林的思考を代表する地域は日本である。対して砂漠的思考を代表するのは、欧米諸国である。以上の考察から、森林的思考が母性原理の文化に対応し、砂漠的思考が父性原理の文化に対応することは、容易に推察できるであろう。

鈴木秀夫氏が考察した「森林の思考」と「砂漠の思考」の違いは、かつて人類が経験した気候変動と世界史の展開のなかでも、大枠としては確認できるだろう。狩猟・採集の時代には「森林の思考」が優位であり、それゆえ宗教も自然崇拝的で母性的な性格のものであった。やがて人類が農耕を開始しても、豊饒な大地を基盤にする母性的な宗教が支配的であった。

農耕の開始は,大地を母とし,農耕を生殖活動と同じとみなす母性的宗教の世界観と結びつく。世界に広く出土する土偶も,豊饒な母なる大地をあらわす地母神である。それは多産,肥沃,豊穣をもたらす生命の根源でもある。地母神への信仰は,アニミズム的,多神教的世界観と一体をなす。

しかし、古代地中海世界では紀元前1500~1000年頃に大きな世界観の変化があったという。それまでの大地に根ざす女神から、天候をつかさどる男神へと信仰の中心が移動したというのだ。これには紀元前1200年頃の気候変動が関係しており、北緯35度以南のイスラエルやその周辺は乾燥化した。その結果、35度以北のアナトリア(トルコ半島)やギリシアでは多神教や蛇信仰が残ったが、イスラエルなどでは大地の豊饒性に陰りが現れ、多神教に変わって一神教が誕生する契機となったという。

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日本のユニークさの源泉・母性社会(1)

2017年02月16日 | 母性社会日本
このブログでは、日本文化を「日本文化のユニークさ8項目」にまとめて、様々に論じている。そのうち第二の項目、「(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」という特徴は、「母性社会日本」というカテゴリーのもとに論じている。

ところで、この「母性社会」という言葉については、ユング派の心理療法家・河合隼雄が、その著『母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)』で使用し、その視点から現代日本人の心のあり方を深く洞察している。ただこの本については参考図書に挙げたり、短く触れたことはあったが、これを中心にして論じたことはなぜかなかった。ここで一度、この本に沿ってじっくり考える必要があると思った。この本の最初に掲げれられている論文「母性社会日本の”永遠の少年”たち」を中心に見ていくことになる。

人間の心の中に働いている多くの対立する原理のうち、父性と母性という対立原理はとくに重要だと著者はいう。この相対立する原理のバランスの具合によって、その社会や文化の特性が出てくるのだ。心理療法家として登校拒否児や対人恐怖症の人々と多く接した著者は、それらの事例の背景に、母性社会という日本の特質が存在すると痛感したという。これらの事例は、自我の確立の問題にかかわり、それが日本の母性文化に根をもつということだ。

母性原理はすべてを「包含する」特性をもち、包み込まれたすべてが絶対的な平等性をもつ。子供の個性や能力に関係なく、わが子はすべて可愛いのだ。しかし母子一体という包み込む原理は、子供を産み育てる肯定的な面と同時に、呑み込み、しがみついて、時には死にさえ到らしめる否定的な面ももっている。

これに対し父性原理は「切断する」働きを特性とし、すべてを主体と客体、善と悪、上下などに分割する。子供をその能力や特質に応じて峻別する。強い子供を選んで鍛え上げようとする建設的な面があると同時に、切断の力が強すぎて破壊に到る面ももっている。

世界の様々な宗教、道徳、法律などは、この二つの原理がある程度融合して働いているが、どちらか一方が優勢で他方を抑圧している場合が多い。著者は心理療法家としての経験から、日本文化が母性的な傾向が強いと認識するに至ったという。

その事例として著者は、自分が扱った男性患者の夢を挙げているが、ここでは省略する。ただ面白かったのは、それに関連して著者が、親鸞が六角堂参籠の際にみた夢を紹介していることである。夢の中で救世観音は語った、「たとえ汝が女犯しようとも、私が女の身となって犯され、一生汝に仕え、臨終には導いて極楽に生まれさせよう」と。何という母性的な観音だろうか。女犯を徹底的に受け入れ、許し、そして救済する。行為の善悪は一切問題にされず、あるがままに救われるのだ。キリスト教が、父性原理の宗教という特性をもち、神との契約を守る選民こそ救済するが、そうでなければ厳しく罰するのとは大きな違いだ。

ここで、数日前に取り上げた、遠藤周作の『切支丹時代―殉教と棄教の歴史 』(「日キリシタンはキリスト教をどう変えたか)を思い起こしてほしい。かくれキリシタンたちがキリスト教を、自分たちに合う様な母性的なイメージの宗教に変えてしまったこと。そして仏教も日本では長い間に母性的な性格が強くなっていくこと。六角堂での親鸞の夢は、仏教が母性的な宗教の極地至ったことを象徴しているかのようではないか。

さて、著者はこのように日本の社会を母性的な特質が優位な社会と見るのであるが、現代日本の社会的な混乱は、人々が母性的・父性的どちらの倫理観に準拠すればよいか判断が下せぬことにあるのではないかという。というより、その混乱の原因を他にもとめて問題の本質を見失っているところにあるのではないかという。私自身は、母性社会日本のユニークさやその利点を充分に自覚し、その良さを世界にアピールしながら、同時に父性原理とのバランスをとっていくことが大切だとかんがえている。次回以降、さらに著者の論を追いながら、私の立場からの考察も深めたい。


《関連図書》
神話と日本人の心、河合隼雄、岩波書店
中空構造日本の深層 (中公文庫)、河合隼雄
「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
続「甘え」の構造
聖書と「甘え」 (PHP新書)
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)
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キリシタンはキリスト教をどう変えたか

2017年02月11日 | 母性社会日本
日本の文化的・宗教的伝統はどちらかと言えば、父性的な性格よりも母性的な性格が強いのが特徴だ。このテーマについては、「日本文化のユニークさ8項目」のうち、「(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」という項目として、様々な観点から論じてきた。

近代化とは、西欧の科学文明の背景にある一神教的な世界観を受け入れ、文化を全体として男性原理的なものに作り替えていくことだともいえる。近代文明を受け入れた国々では、男性原理的なシステムの下に、農耕文明以前の自然崇拝的な文化などはほとんど消え去っている。ところが日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、その社会・文化の中に縄文以来の太古の層を濃厚に残しているように見える。つまり原初的な母性原理の文明が、現代の社会システムの中に色濃く生残っているのだ。

その事実を、心理学者の河合隼雄は、古事記や日本書紀を読み解きながら『神話と日本人の心〈〈物語と日本人の心〉コレクションIII〉 (岩波現代文庫)』で、古代日本人の心理として語り、また心理療法家の立場から『母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)』で、現代日本人の心理として語っている。また土居健郎は、現代日本人の甘えの心理を『「甘え」の構造 [増補普及版]』の中で分析し、日本人論の名著として名高いが、甘えの心理に見られる日本人特有の人間関係のあり方も、きわめて母性原理的な性格を現しているといえよう。


◆『切支丹時代―殉教と棄教の歴史 』(遠藤周作)
◆「日本人の宗教意識」(遠藤周作)(『英語で話す「日本の文化」 (講談社バイリンガル・ブックス)』)

今回取り上げるこの本は、いわゆる「かくれキリシタン」のキリスト教信仰の特徴に触れ、日本人の文化的・宗教的伝統の母性的な性格を描き出していて、きわめて興味深い。

作家・遠藤周作は、キリスト教への迫害が絶頂に達した頃のキリスト教に強い興味を示している。宣教師は日本を去り、教会も消え、日本人のごく一部がキリスト教をほそぼそと受け継いでいた時代である。宣教師がいないので、信者はキリスト教を自分たちに納得できるように噛み砕くが、それを是正するものはいない。日本人の宗教意識に合うように自由に変形されていくのだ。それがどのように変形されたのかに、遠藤周作の関心は集中したという。彼らが信じたものもはやキリスト教とは言えず、日本的に変形された彼らのキリスト教になっていた。仏教や神道の要素がごった煮のように混じり合い、キリスト教徒がふつうに信じるGODを本当に信じていたと言えるのか疑わしいと言うのだ。

しかも、彼らが役人の目をかくれていちばん信仰していたのは、GODでもキリストでもなく、実は聖母マリアであった。しかもそのイメージは、キリスト教の聖母マリアというよりも、彼らの母親のイメージが非常に濃かった。宗教画に見る聖母マリアというよりも、野良着を着た日本人のおっかさんのイメージであった。

言うまでもなくヨーロッパにおいてキリスト教は、母親の宗教というより父親の宗教という性格を強くもっていた。教えに外れるものを厳しく叱咤し、裁き、罰するイメージが強いのだ。それが日本では、いつのまにか母親の宗教に変わってしまう。もちろん聖母マリアは、カトリック信仰の中ではきわめて重い意味をもっているが、第一位ではない。その聖母マリアが、「かくれキリシタン」にとっては最重要の信仰の対象となってしまう。しかも日本のおっかさんのイメージに変形されてしまうのだ。父性原理の性格を強くもったキリスト教が、日本ではいつのまにか母性のイメージ中心の信仰に変わってしまう。日本文化の基底に、そうさせてしまう土壌があるからではないのか。

このような変化は、他の宗教での日本人の信仰の場合にも見られるという。たとえば、中国・朝鮮をへて日本に入ってきた仏教の場合も似たような変化が見られる。平安時代から室町時代には、仏教も日本人の歯で噛み砕かれ、次第に母性の宗教に変化していったというのだ。阿弥陀様を拝む日本人のこころには、子供が母親を想うこころの投影があるのではないか。

浄土真宗で「善人なをもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」といのも、見方によっては悪い子ほど可愛いという母親心理を表していると言えなくもない。ともあれ阿弥陀様には色濃く母親のイメージが漂っている。仏教も日本に流入して日本人に信仰されるうちに、かなり母性的な性格を強くしていったと思われる。

キリスト教にも仏教にも共通に見られる、日本での変化、つまりより母性的な性格のつよい信仰への変化、これは日本人の宗教意識の大きな特徴を表していると言えるだろう。もちろん母親の宗教という面は、キリスト教の中にもある。日本人だけに特有なのではないが、しかし日本の宗教には、この母性的な性格がとくに強く見られるのではないかというのだ。

遠藤周作のこの指摘は、日本人の宗教意識についてのものだが、それは日本の文化や社会の底流に母性原理的なものが色濃くのこっているという捉え方を、一面から強く補強する指摘だろう。

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三貴子の誕生:『神話と日本人の心』を巡って(2)

2015年06月02日 | 母性社会日本
《日本神話を読む》
現代人は「科学の知」に圧倒されて「神話の知」の獲得が難しい。現代人の生き方を支えてくれる神話はないのか。結局は各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていくほかなく、解決は個人にまかされるのか。集団で神話を共有した時代は、神話による支えが集団として保証されたが、その代償として個人の自由が束縛された。今われわれは、各人にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのであろう。

生きることそのものが神話の探求であり、各人が自分にふさわしい個人神話を見出すことが生きることにつながると言うべきだろう。日本人としては、かつて人類がもった数々の神話、そしてとくに日本の神話を学ぶことは不可欠だろう。

日本の神話は、『古事記』(712)、『日本書紀』(720)によって現在に伝えられている。この時代に神話が記録されたのは、当時の日本が、外国との接触によって統一国家としての存在を示すとともに、その中心としての天皇家の存在を基礎づける必要に迫られていたからだ。

神話と日本人の心』の著者の河合隼雄は、日本神話を深層心理学の立場から研究する。つまり、人間にとって神話がいかに必要であり、それが人間の心に極めて深くかかわているか、という観点から、神話のなかに心の深層のあり方を探る。そこに日本人の心のあり方を探り、我々の生き方のヒントを得ようという立場だ。ユング派の分析家として日本人の心の深層にかかわる仕事を続けてきた経験から、日本神話の世界にひたりきることによって得たことを述べるというのである。このブログでは、この河合隼雄の著書を参考にしながら『古事記』を読んでいきたい。

前回、アマテラスの話から始まっているので、ここでは上の本の第四章から見ていくつもりである。

第四章「三貴子の誕生」

《父からの出産》
日本神話のなかで三貴子と呼ばれる、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲは極めて重要なトライアッドである。その誕生について『古事記』に従って見よう。

イザナキは黄泉の国より逃げ帰り、きたない国に行ってきたので、みそぎをする。このとき、冥界の汚垢(けがれ)によっても神が生まれ、それを「直す」ための神も生まれる。これらの「神」はキリスト教のゴッドとは大いに異なる。これらひとつひとつにヌミノースな感情(超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものに触れることで沸き起こる感情)が湧き、それを神と名付けたのだろう。

続いて、イザナキが左目を洗うとアマテラスが生まれ、右目を洗うとツクヨミが、鼻を洗うとスサノヲが生まれる。そしてアマテラスには「汝命は、高天の原を知らせ」、ツクヨミには「汝命は、「夜の食国を知らせ」、スサノヲには「汝命は、海原を知らせ」と命じた。
ここで最も貴いとされる三柱の神があえて父から生まれたと語るのはなぜか。

人間がすべて女性から生まれる、その神秘に感動した人々は、まず神として大母神(だいぼしん)を想定したと思われる。ヨーロッパでもキリスト教以前は地母神(ちぼしん)が中心であった。日本の縄文時代の土偶にも地母神は多い。これに対し、父性原理の優位を押し出すユダヤ・キリスト教は、アダムの骨からイヴがつくられる。

日本の神話ではこれに対して、大母神イザナミがつぎつぎと国土も含めて、ほとんどすべてを生み出す。圧倒的な母性優位である。ここで極端な母性の優位性を、父性の強調によってバランスさせる。こうした巧妙なバランスが日本神話の特徴である。

イザナキが三貴子を生んだことで父性の巻き返しがあったが、彼の後継者として高天の原を知らしたのはアマテラスであった。しかしこれで女性優位がすんなり確立するわけではない。

《目と日月》
アマテラスとツクヨミ、つまり日と月はそれぞれ父親の左目、右目から生まれている。日と月が神の目だという主題は世界の神話のなかにかなり広く見られる。しかし、右と太陽、左と月が結びつくのが一般的で、日本神話や中国の盤古の例のように左と太陽、右と月が結びつくのは珍しいようだ。人類は右利きが圧倒的に多いので、一般には右が左に対して優位と考えられる。

西洋の伝統的な象徴性の考え方では、右―太陽―光―男―意識というつながりに対して、

左―月―闇―女―無意識というつながりが対立していて、前者が優位性をもつようだ。

日本の神話では、左―太陽―女という結びつきが見られ、西洋の一般的な象徴パターンとは異なる。強調すべきは、太陽―女性の結びつきという日本の特異性である。(注)

(注)上田篤氏(『縄文人に学ぶ (新潮新書)』)は、縄文時代が長く続いた理由のひとつを妻問婚に見る。縄文時代の妻問婚が古墳時代へと引き継がれていったというのだ。

妻問婚は、男が女のもとに通うことで婚姻が成立するが、それは一過性のものである。夫婦としての男女の同棲を伴わず、男が通わなくなることも多い。父は、自分の子ども  が誰かに頓着しないが、女にとっては、父が誰であれ、産んだ子は等しく自分の子であり、平等に自分のもとで育てる。

子を持つ女たちは、食糧の採集に明け暮れた。いつくるか分からない男たちはあてにならない。そうした社会では母子間の絆は強くなる。そして氏族の先祖は、母から母へとさかのぼり、ついには「一人の仮想上の女性」に至りつくだろう。それが元母(がんぼ:グレートマザー)だ。縄文時代に作られた土偶は、何かしら呪術的な使われ方をしたのだろうが、それは元母の面影をもっている。縄文社会は母系社会だったと思われ、しかも豊かな自然を「母なる自然」として敬う宗教心は、元母への畏敬とも重なっていく。

縄文人の遺跡には、貝塚などの遺跡と並んで石群や木柱群がある。上田氏は、石群と木柱群が「先祖の祭祀」と「太陽の観測」という二つの機能をもつと考える。縄文人は、太陽と先祖の二つを拝んでいた。そして火は、太陽の子であった。ところで太陽と先祖とはどのように結びつくのか。縄文人は、氏族の先祖を遡ったおおもとに元母のイメージをもっていただろう。その元母と太陽の両方の性格をそなえていたのは、女性神アマテラスである。元母の根源にアマテラスを見ると、先祖信仰と太陽信仰は完全につながるというのである。つまり縄文人の宗教心は、母系社会の先祖信仰と「母なる自然」への信仰、その大元としての太陽信仰とが結びついていたのではないか。

父系社会では、力の強い男が多数の女を抱えてたくさんの子どもを産ませ、「血族王国」を作りたがる。その結果、権力をめぐって男同士の争いが始まる。ところが母系社会では、男に子どもがない。女の産む子どもの人数には限りがあり、しかも女は子供を分け隔てなく育てるから争いも起きにくい。母系社会では、母はすべての子とその子孫の安寧を平等に願う傾向があるから、血族集団は争いなく維持され、社会は安定した。ここに縄文時代が一定の文化とともにかくも長く続いた秘密のひとつがあるのではないか。

こうして縄文時代は女性中心の時代であり、その伝統は後の時代に引き継がれた。父系性の結婚制度に移行したあとも、家の中での女性の力が比較的強かったのは、その伝統を受け継いでいるからだろ。「刀自(とじ)」「女房」「奥」「家内」「お袋」「主婦」などの言葉は、多かれ少なかれ家を管理する意味合いを持つ。日本では今でも主婦が一家の家計を預かるケースが多いが、欧米ではそのようなことはないという。
日本列島に生きた人々は、農耕の段階に入っていくのが大陸よりも遅く、それだけ本格的な農耕をともなわない縄文文化を高度に発達させた。世界でもめずらしく高度な土器や竪穴住を伴う漁撈・狩猟・採集文化であった。それが可能だったのは、自然の恵みが豊かだったからだろう。母系社会であり、母なる自然を敬う縄文文化がその後の日本文化の基盤となったのである。しかもやがて大陸から流入した本格的な稲作は、牧畜を伴っていなかった。牧畜は、大地に働きかける農耕よりも、生きた動物を管理し食用にするという意味で、より自覚的な自然への働きかけとなる。つまりより男性原理が強い。そして牧畜は森林を破壊する。

日本では、1万数千年という長きに渡る縄文時代がその後の日本社会を形成する上で、無視できない強固な基盤となった。父性原理の大陸文明を受け入れるにしても、自分たちの体に染みついた縄文の記憶(母性原理に基づく宗教心や生き方)に合わない要素は、拒絶したり変形したりして受け入れていった。こうして中国文明から多くを学んだが、科挙や宦官や纏足は受け入れなかった。西欧文明は受け入れたが、キリスト教信者は今でも極端に少ない。私たちは、たとえ自覚はなくとも、縄文の記憶をいまだに忘れていないようだ。私たちの社会と文化の根底には母性原理が息づいているのである。現代日本の女性も、その遠い記憶に根ざしているから強いのかもしれない。

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日の女神の輝く国:『神話と日本人の心』を巡って(1)

2015年04月04日 | 母性社会日本
◆『神話と日本人の心』河合隼雄、岩波書店

ユング派の心理療法家として著名だった河合隼雄のこの本については母性原理と男性原理のバランス:神話と日本人の心(1)以下5回に渡るシリーズとしてすでに取り上げている。ここで再度取り上げたいと思ったのは、この本に学びながら、もう一度じっくりと『古事記』を読んでみたいと思ったからである。この本の内容を章を追って紹介しながら、著者や他の著者の関連する研究やテーマにも随時触れていくという形になるだろう。前回よりももっと長いシリーズで、しかも間隔をあけながら2年から3年かけて終わる長期戦になると思う。さっそく「序章:日の女神の輝く国」から始めたい。

《日の女神の誕生》
数多い日本の神々のなかでアマテラスは、際立った地位を占める。古代日本人が、天空に輝く日輪に女性をイメージしたのは、世界の神話のなかでもかなり特異だ。アメリカ先住民の神話を除いて、ほとんど太陽は男性神である。

イザナギは、死んだ妻を連れ戻そうと黄泉の国を訪れるが果たせず、この世に戻って身のけがれをおとそうとみそぎをし、その際にアマテラスが生まれる。彼女は父から生まれたので、母を知らない女性だ。

男女の区分と太陽と月という区分を考えるとき、男-太陽という結びつきが一般的で、女-太陽とする文化はより女性優位の文化と考えられる。しかし、そう考えるとしても、どうしてわざわざその女性が父から生まれたとするのか。女性が男の骨からつくられたとする旧約聖書と似て、男性優位を物語るともとれる。ちなみにギリシア神話のアテーナーもまた「父の娘」であった。

アマテラスは日本神話のなかで重要な位置を占めるが、その誕生においては「三はしらの貴き子」の一人として生まれ、唯一の貴い神ではない。では中心を占めるのはどの神か。この問題はのちに触れるが、ともあれ日本神話は、世界の神話のなかで特異なところと、他と大いにつながる特性とを備え、一筋縄ではいかない。この問題は、のちに詳しく検討されるだろう。

ここでさっそく、他の研究を参照しなければならないのは、太陽を女性神とするのが本当に日本とアメリカ先住民だけかという点だ。環境考古学者の安田喜憲によると、長江文明の人々は、何よりもまず太陽を崇拝した。そして重要なのは、その太陽が女神だったということだ。それは、日本のアマテラスが女神であることとどこかでつながるのかもしれないという。。漢民族の太陽神は炎帝という男神であったのだ。長江文明の、日本列島への影響について詳しくは、このブログの記事長江文明と日本を参照されたい。これは、日本文化のルーツのひとつとして無視すべきではないだろう。


《神話の意味》
続いて河合隼雄は、神話の意味について語る。ある部族が部族としてまとまりをもつためには、それに特有の物語を共有することが必要だ。その部族がどのように形成され、今後どこに向かっていくのかを物語る「神話」によって、部族の成員は自分たちのよって立つ基盤を得、ひとつの集団として存続していくことができる。「神話をなくした民族は命をなくす」と言われる所以だ。

中村雄二郎は、「科学の知」が対象を細分化し、対象への働きかけも部分的なものにするのに対し、「神話の知」の基礎にあるのは、「私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求」であるという。

「これは先祖様が300年前に植えた木だ」という「物語」は、その物語を共有する一族を「つなぎ」、その木に共通の意味や親しみを与える。木や土地の由来が共有されるとそれが「伝説」になるのだ。伝説が特定の事物や時を離れると「昔話」になる。

神話も人間にとっての物語であるが、ひとつの部族や国家との関連で、伝説や昔話より公的な意味合いをもつ。伝説や昔話が、より素朴な形で人間の深い心のはたらきを示している一方、神話は特定集団の意図が関連している。


《現代人と神話》
現代人は「神話の知」の獲得に大きな困難を感じており、それが現代人の心の問題に深く関係する。「科学の知」がつぎつぎと「神話の知」を破壊し、その喪失に伴う問題が多発するようになった。たとえば援助交際に走る思春期の少女たちの根本問題は「居場所」がないことだという。それは、現代人の「関係性の喪失の病」の一症状ともいえる。「居場所」がない少女たちが、援助交際をきっかけに街の仲間とつき合いを求めていくのだ。

「死」に関する神話も失われ、老いや死は苦痛以外なにものでもなくなる。その苦しみから逃れるには、ボケる以外にないのか。どのような民族もかつて死についての神話をもち、それによって生と死が「つながり」、生者と死者がつながっていた。

一方、自爆テロの犯人は自分の信じる神話によって救われるかも知れないが、犠牲者の苦痛は計り知れない。かつて日本でも、上から押し付けられた神話で多くの人が不幸に陥ったため、神話のもつ負の面を意識しすぎ、戦後は神話を強く否定した。が、それによって困難もかかえるようになった。

では、現代人の生き方を支えてくれる神話はないのか。キャンベルは「各個人が自分の生活に関わりのある神話的な様相を見つけていく必要があります」と述べ、解決は個人にまかされているという。集団で神話を共有した時代は、神話による支えが集団として保証されたが、その代償として個人の自由が束縛された。今われわれは、各人にふさわしい「個人神話」を見出さねばならないのである。

最後に宣伝めくが、私自身、生と死を巡って自分なりにその意味を探求し続けた。その成果としてまとめたのが『臨死体験研究読本―脳内幻覚説を徹底検証』である。多くの臨死体験者が、体験後、人生を劇的にプラスの方向に変えてしまうことに注目して、そこに「科学の知」では割り切れない臨死体験の深い意味を探ったのである。私自身にとっての「神話の知」の復活の試みともいえるだろう。


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縄文に連なる母なる大地

2014年09月13日 | 母性社会日本
このブログは、日本文化のユニークさ8項目のテーマを中心にして、いろいろな側面から考えている。ここ数週間、8項目のうち一番目、と二番目、

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)文化を父性的な性格の強い文化と母性的な性格の強い文化とに分けるなら、日本は縄文時代から現代にいたるまでほぼ母性原理が優位にたつ社会と文化を存続させてきた。

というテーマを多方面から考えるためにいくつかの本を読んでいる。それぞれについて詳しく触れる機会もあるかも知れぬが、ここではとりあえずそれぞれの本がどのような形でこの問題へのヒントを与えてくれるか、かんたんに紹介しておきたい。

★『月と蛇と縄文人―シンボリズムとレトリックで読み解く神話的世界観
今年刊行された新鮮な論考。著者・大島直行氏は考古学者であるが、物質的・技術的研究しかしない従来の考古学の枠を飛び出して、縄文人の精神性に迫ろうとする。彼が取り入れた手法は、ユング心理学の「普遍的無意識と原型(グレートマザー)」、宗教学の「イメージとシンボル」、そして修辞学の「レトリック」などである。これら人文科学の成果を取り入れながら「神話的思考に基づく縄文世界」に分け入る試みが本書である。

著者はドイツ人の日本学者ナウマンにならって縄文人の象徴の中核に月があるという。縄文人にとって、満ち欠けを繰り返す月は幾多の死を超えてよみがえる再生の象徴であり、畏敬の対象だった。さらに脱皮を重ねる蛇も、土偶の身ごもる女性も「死と再生」の象徴であった。身ごもりが月からもたらされる「水」(精液)によることを世界中の神話が伝えている。日本の土偶にも「月の水」が涙や鼻水やよだれとして表現されているという。著者は、こうしたシンボリズムをさらに広げて、縄文土器や竪穴式住居やストーンサークルなど多くの遺物の特徴は、縄文人が「不死」「再生」への願いを表現したものとして説明できる主張する。

縄文人の円形の住居や墓、ストーンサークル、さらに貝塚も子宮のシンボライズであった。子宮は、縄文人にとっても、自分が生まれた場所であり、死から甦る再生の場所でもあった。また子宮をもつ女性の生理は、月の運行周期と同じであり、その月もまた「死と再生」を象徴していた。母なる子宮を象徴とする「死と再生」は、ユングのいうグレートマザーという元型と深く結びついており、それは人類の古層の記憶、普遍的無意識につらなるという。

縄文の遺物を、月・蛇・子宮などのシンボリズムで読み解く試みは従来の考古学にとってはかなり挑戦的だろう。しかしこれもまたこれまでなされてきた解釈のうちの一つであり、飛び抜けて説得力があるとは思えなかった。私にとっては、縄文文化を母性原理との関連でとらえるうえで、大いに参考になったのは確かだが。ひとつだけ気になるのは、縄文人の信仰を「死と再生」の観点だけからとらえるのは一面的ではないかということ。縄文人が豊かな恵みをもたらす母なる大地によって生かされ、それに感謝したという信仰の側面を無視することはできないのではないかということだ。

★『父性的宗教 母性的宗教 (UP選書)
すでに多くの論者が指摘してきたように、日本の文化的宗教的伝統はどちらかと言えば母性的な性格が強いのが特徴だ。それは、「あるべきものより、あるがままのものを、規範的な分離よりも自然的なつながりを、自律的な個性よりも包容的な共同体を強調する傾向」が強い。

世界観の類型には「遊牧文化型」と「農耕文化型」などの分け方がある。著者は、宗教学者として「父性的宗教」と「母性的宗教」という語を用いることで、文化類型の根底にある人間心理の深層にまで掘り下げて考えたいという。それは、比較文化論と宗教心理学を結びつける試みであり、またそこから日本文化の諸問題を分析する手がかりを提示する試みでもある。

母性的な宗教は母性原理に基づいた宗教である。それは人間心理の初期の発達段階、自他が分離せず母や母に代表される世界との一体性の状態に関係する。それはまた人間の原初的な自然、そこに生まれて在る故郷(ふるさと)、あるいは大地に根ざし、無条件の包容性、寛容性を特色とする。そこでは、神が強力な権威をもって人々を特定の目標へ導くというより、共同体の緊張をゆるめ、調和統合をはかる。その自然的な共同体そのものが母性的なものといえよう。

これに対し父性的宗教は、父親の登場によって原初的な母親的世界との分離が決定的となるエディプス期に特に関係するという。父親に対する愛憎のなかで子どもは、父親の権威を超自我として内面化する。それは父親に代表される社会の規範の内面化でもある。こうした原理と結びついた父性的宗教において神は、しばしば強力な権威をもった支配者・超越者として描かれる。

母性的宗教・父性的宗教の違いは、価値的な優劣を意味せず、一種の理念型であり、現実の宗教は両要素がさまざまに交じり合い融合している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は父性的な性格が強く、母性性を抑圧する傾向があるが、カトリックのマリア信仰は母性的な性格を示す。中国の儒教は父性的な要素が強いが、道教は母性的な要素が強く、民衆に広く支持された。もちろん儒教と道教はたがいに影響し合っている。人間の成長の過程で母性的な要素も父性的な要素もともに大切であるのと同じように、人間の宗教・文化にも二つの要素があり、ともに重要な働きをなしているだろう。

著者は縄文時代の宗教には言及していない。しかし私自身の観点から言えば、縄文時代という農耕以前の豊かな自然社会を1万年も経験し、その記憶を断絶なく現代にまで受け継いできた日本人は、母性的な傾向の強い文化のなかに生きている。しかし西欧から取り入れた近代科学や近代社会の原理は、父性的な性格を強く帯びている。そして現代の世界を全体として見れば、父性原理の文明がもつ負の面がかなり色濃く出てきているといえよう。そんな時、私たちは私たちの文化のなかに流れている母性的な一面をしっかりと捉えなおし、現代社会のなかでのその意味を問うことがますます重要になっている。

《関連記事》
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01
日本文化のユニークさ03:縄文文化の名残り
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓
日本文化のユニークさ18:縄文語の心
日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

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母性原理と男性原理のバランス:神話と日本人の心(1)

2013年10月26日 | 母性社会日本
◆『神話と日本人の心

著者・河合隼雄がユング派の心理療法家であり、その立場から多くの著作を残してきたことは周知の事実である。日本人の心の問題をユング派の立場から語る著作も多い。本書は、ユング派の立場から、古事記や日本書紀に代表される日本の神話を語る本である。長年、記紀を読み込み、世界の神話とも比較し、しかも心理療法家の立場から神話の深層をとらえようとする姿勢がみごとに生かされており、読み応えのある重厚な一冊であった。

これまで無数の日本人論や日本文化論が書かれてきたが、それらで指摘された日本文化の特徴の多くは、日本の神話の中にも何らかの形で表れているということが、この本を読んでよくわかった。その意味でもきわめて興味深い本であった。すでに日本神話の中に、その後に展開する日本文化の特徴がどのように現れているのか、そんな視点からこの本に触れてみたい。

著者が指摘する日本神話の特徴で、日本文化そのものの特徴にも深く関係すると思われるものをざっと挙げて見たのが以下である。

①男性原理とのバランスを取りながらの女性原理
②自国内よりも外国に基準を求める態度
③文明の原始的な根から切り離されず、連続性を保っている
④人間がその「本性」としての自然に還ってゆく、自然との一体感という考え方
⑤日本人の美的感覚である「もののあわれ」の原型が認められる
⑥何らかの原理によって統一するよりも原理的対立が生じる前にバランスを保とうとする調和の感覚
⑦明確なリーダー的存在なしでことが運ばれていく。中心に強力な存在があってその力で全体が統一されるのではなく、中心が空でも全体のバランスでことが運ばれるといいう「中空構造」
⑧恥の感覚の重視

もっと体系的に整理する必要があるかもしれないし、あとで他の項目を付け加えるかもしれないが、とりあえずこれらの項目のなかのいくつかを、本書に沿いつつ取り上げてみたい。お気づきと思うが、これらの中の、①、③、④、⑥は日本文化のユニークさ8項目のうち、それぞれ(2)(1)(6)(7)に対応している。なお上の⑦に出てくる「中空構造」については、かつて日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化でも紹介しているので参照されたい。

まずは、①「男性原理とのバランスを取りながらの女性原理」について。

数多くの日本神話の神々のなかで際立った地位を占めるのが、女神アマテラスである。古代日本人は、天空に輝く太陽に女性をイメージしたのだ。これは世界のほとんどの民族にとって太陽が男性神だという事実に比し、かなり特異なことだという。

しかし一方でアマテラスは、父親イザナギから生まれた、母を知らない女性であった。イザナミと死に別れたイザナギが、黄泉の国から帰って、身のけがれをおとそうと川でみそぎをしたときにアマテラスが生まれる。

神話においては「男-太陽、女-月」という結びつきと、「女-太陽、男-月」という結びつきがある。太陽の月に対する圧倒的な存在感を考えると、太陽-女性とするのが女性優位の文化であると理解するのが自然である。しかし、もしそうだとしても、なぜ日本神話ではその女性が父から生まれたと語られるのか。これはどこか、女性が男の骨からつくられたとする旧約聖書の話と似ている。これはつまり、女性優位といいながら、一方で男性原理とのバランスを取っているということではないか。

人間がすべて女性から生まれるのは自明であり、その厳粛な事実への「感動」からまずは神を女神、大母神とするのは自然であろう。実際、ヨーロッパでもキリスト教以前には地母神を中心とする宗教が広がっていたという。縄文時代の土偶にも地母神は多い。父性原理に立つユダヤ・キリスト教は、先に男性がつくられたとすることで母性優位を克服しようとするのである。

日本神話では、まず大母神イザナミが国土とその他ほとんどすべてのものを生み出したという。ところが、アマテラスを含む「三貴子」は父イザナギから生まれたと語り、極端な母性優位とのバランスをとる。つまり、「男性原理とのバランスを取りながらの女性原理」が、日本神話の特徴なのである。

現代の日本社会が、近代ヨーロッパ文明(父性原理の文明)を大幅に受け入れつつ、縄文時代以来の母性原理が連綿と受け継がれているという事実については、下の《関連記事》や、カテゴリー「母性社会日本」を参照されたい。

《関連記事》
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07
太古の母性原理を残す国:母性社会日本01

《参考図書》
中空構造日本の深層 (中公文庫)
母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)
「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
続「甘え」の構造
聖書と「甘え」 (PHP新書)
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)

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子ども観の違い:母性社会日本05

2012年10月18日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

現在、二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。

近代化とは、西欧文明の背景にある一神教的な世界観を受け入れ、文化を全体として男性原理的なものに作り替えていくことだだともいえる。近代文明を享受する国々では、一神教的=男性原理的なシステムの下に、農耕文明以前のアニミズム的な文化などはほとんど跡形もなく消え去っている。ところが日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、その社会・文化システムの中に縄文以来の太古の層を濃厚に残しているように見える。つまり、男性原理の近代文明が抹殺した原初的な母性原理の文明が、現代の社会システムの中に奇跡的に生残っているのだ。

それは、近代文明が忘れ去って久しい、原初の文明の記憶だ。世界中の人々は、きわめて高度にテクノロジー化された現代日本社会や文化のなかに、その原初の記憶を感じ取り、不思議な魅力に取りつかれるのだ。そして、その不思議な魅力がクールジャパンの根底に横たわっている。

世界がマンガ・アニメに引かれる背景には、現代文明の最先端を突き進みながら一神教的なコスモロジーとは違う何かが息づいていることをそこに感じるからではないか。日本のソフト製品に共通する「かわいい」、「子どもらしさ」、「天真爛漫さ」、「新鮮さ」などは、自然や自然な人間らしさにより近いアニミズム的な感覚とどこかでつながっているのではないか。それは、原初的・母性原理的な感覚といってもよい。そして、そのような感覚は今後ますます大切な意味をもつようになるのではないか。

『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(3)
日本発の「かわいい」文化が世界中で受け入れられている。「かわいい」は日本文化に深く根ざした特殊なものだからこそ世界で珍重されるのか、それとも世界中の人間が享受しうる、何らかの普遍性をもつからこそ受け入れられるのか。私としては、そこに両方の側面があるといわざるを得ない。そう言うと、結局同じように結論を避けているだけではないかと言われそうだが、問題は両方の側面があるということを根拠を示して説明することだろう。

まず文化の普遍性、原型論の立場からいうなら、これまで何度か触れた縄文文化とケルト文化の類似性を思い起こすことが重要である。そして日本文化の特殊性、およびその伝搬という立場で論ずるなら、なぜ日本で農耕文化以前の漁撈・採集的な縄文文化の残滓が生き残りつづけたかという問いに注目する必要があるだろう。

日本の縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多い。土偶そのものの存在が、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。日本人は、縄文的な心性を色濃く残したまま、近代国家にいちはやく仲間入りした。そこに日本の特殊性がある。

縄文的な心性を現代にまで残してきた日本文化の「特殊性」は、世界のどの文明もかつてはそこから生れ出てきたはずの、農耕・牧畜以前の母性原理に根ざした狩猟・採集文化という「原型の記憶」を呼び覚ますのだ。

子どもの楽園(1)
イザベラ・バードは明治11年の日光での見聞として書いている。
「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたり、それに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭に連れて行き、こどもがいないとしんから満足することができない。」

イザベラ・バードの目には、日本人の子どもへの愛は、ほとんど「子ども崇拝」にすら見えたのではないかという。まさに子どもの無邪気さのなかに神性を見る日本文化と日本人の特性が、遠い昔からあって、その子育ての姿が、西欧人には驚くべきものとして映っていたようなのだ。イザベラ・バードの観察と同じような、西欧人の観察が、『逝きし世の面影』の中にはたくさん紹介されている。

子どもの楽園(2)
さらに、『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』から。時代はさかのぼるが、ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・ロイス(1532ころ~1596/97)は言う。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない、ただ言葉によって叱責するだけだ。」子どもを鞭打って懲罰することがない、ということはオランダ長崎商館の館員たちも注目していたという。逆に言えば、欧米では子どもが鞭打たれて懲罰されることは、何の不思議でもなかったということだろう。

さらに欧米人が驚くのは、日本では子どもをひどく可愛がり甘やかすにもかかわらず、「好ましい態度を身につけてゆく」ということだった。欧米と日本とでは、いわゆる躾けに関する考え方にもかなり大きな違いがあり、その背後には当然、子ども観の違いも横たわっていただろう。さらに父性原理の子育て観と母性原理のそれとの違いを見ることもできる。

子どもを劣等な大人として、鞭打ち躾ける対象として見るのではなく、大切な授かりものとして、その子どもらしさを愛し続けたのが、日本の伝統なのだろうか。もしそうだとすれば、そうした伝統が何らかの前提なって、現代のマンガやアニメに代表されるポップカルチャーが花開いたとしても不思議ではない。

コメント (2)
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カワイイと平和日本:母性社会日本04

2012年10月17日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

現在、二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。

マンガ・アニメなど日本のポップカルチャーを特徴づける要素のひとつに「かわいい」があるのは間違いない。そして近年、世界に広まった日本語のなかでも、いちばんポピュラーなのが「かわいい」ではないだろうか。ところでこの「かわいい」ほど母性社会日本を象徴する言葉もないだろう。「かわいい」は、何よりもまず大人や親が、とくに母親が子供に対して抱く感情である。この言葉が現代若者のポップカルチャーの中でこれほどに使われるのも、縄文時代以来の日本を特徴づける母性文化と無関係ではない。

『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1)
日本では女性が男性に「美しい」と言われるとふき出してしまうだろうが、「君はかわいい」と言われれば、それを相手の男性の真意と受け止めるだろう。「美しい」という言葉は日常の日本語の中でそれほどこなれていないのだ。

元来「かわいい」は二人称的な関係の中での相手に対する主観的な感情を表すが、「美しい」は、より客観的な評価に近いのではないか。「かわいがる」という日本語は普通に使われる、「美しがる」という言い方はかなり不自然だ。「かわいがる―甘える」というような親密な関係が、元々「かわいい」の背景にはある。親しい関係を成り立たせる場の存在が前提となっている言葉なのだ。

そんな「かわいい」が世界に広まるとき、客観的な真理よりもその場の状況を大切にする日本的な感性も同時に広まっているような気がする。「かわいい」人とは、成熟した美しさの持ち主ではなく、どちらかといえば子供っぽく、隙だらけで、たとえ頭の回転はよくなくとも、素直で無垢な存在なのだという。これはそのまま日本人が大切にしてきた価値観ではないか。まさにそうした日本人の価値観や感性が「かわいい」カルチャーを通して世界にひろまっているのではないか。

『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
日本人が未成熟で子供じみたものにひときわ愛着を示し、自分も子供っぽい自己イメージを進んで周囲に示したがるのはなぜか。それは、幼稚であること、無害であることを通して隣人の警戒を解き、互いにその幼稚さを共有しあいながら統合された集団を組織していくからではないか。

言い方を少し変えれば、日本は古代からほどんどずっと、子供っぽさ、幼稚さ、無害、素直さなどをどこかで互いに認め、共有しあって社会関係を結ぶことが許される平和な社会だったのではないか。逆に、成熟し独立した人格こそが、人間にもっとも大切な価値であるとする社会とは、個々が人が独立した主体として責任をもって判断しながら生きていかなければ、いつ殺されるかもしれない熾烈な社会なのではないか。「かわいい」ことが生き延びていくうえでプラスにもなる社会と、かわいかろうとなかろうと、殺されるときには殺されてしまう社会との違い。

日本は、「かわいい」が積極的な価値をもつほどに平和な社会だったのではないだろうか。

《関連記事》
「カワイイ」文化について
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
子供観の違いとアニメ
『「萌え」の起源』(1)

《関連図書》
★『「かわいい」論 (ちくま新書)
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
★『「かわいい」の帝国
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
★『「萌え」の起源 (PHP新書 628)
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甘えとタテ社会:母性社会日本03

2012年10月16日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

現在は、二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。

前回は、現代に生きる日本人の「甘えの構造」も、縄文時代以来の母性原理の社会にその根をもつことを見た。今回は、甘え文化が「タテ社会の人間関係」と深く関係していることを見る。

日本文化のユニークさ43:タテ社会と甘え(1)
甘えとタテ社会とは、どのようにつながるのだろうか。日本がタテ社会だというのは、タテの人間関係つまり上下関係が厳しいということだという誤解があるかもしれない。しかしこれは俗説であり、欧米の会社での管理者と労働者との上下差の方がはるかに大きく、厳しいという面もある。

タテ社会とは、ヨコ社会と対をなす概念である。日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。自分を記者、エンジニア、運転手などと紹介するよりも、「A社のものです」「B社の誰々です」という方が普通だ。これは、場すなわち会社・大学などの枠が社会的な集団認識や集団構成に大きな役割を果たしているということである。すなわち記者、エンジニアなどの資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっているということである。

日本人にとって「会社」は、個人が一定の契約関係を結ぶ相手(対象・客体)としての企業体というより、「私の会社」「ウチの会社」として主体的に認識されていた。それは自己の社会的存在や命のすべてであり、よりどころであるというようなエモーショナルな要素が濃厚に含まれていた。つまり、自分がよりかかる家族のようなものだったのである。もちろん現在このような傾向は、終身雇用制の崩壊や派遣労働の増加などで、かなり失われつつある。しかし、それに替わってヨコ社会が形成されはじめたわけではなく、依然として日本の社会は基本的にタテ社会である。

終身雇用制が崩壊していなかったころは、会社の従業員は家族の一員であり、従業員の家族さえその一員として意識された。今でもその傾向はある程度残っているだろう。日本社会に特徴的な集団は、家族や「イエ」のあり方をモデルとする「家族的」な集団でなのである。そして家族が親と子の関係を中心とするのと同様の意味で、集団内のタテの関係が重視される。そこでは、家族的な一体感や甘えの心理が重要な意味をもってくるのは当然である。

日本文化のユニークさ44:タテ社会と甘え(2)
日本のような「タテ社会」では、企業別、学校別のような縦断的に層化した集団が形成されるが、それは資格の違う人々が、ともに生活したり働いたりする場の共通性によって、枠に閉ざされた世界を形成するということである。日本の企業別労働組合のように職種(資格)の違う人々が、同じ会社という場の共通性によって集団を作るのである。

資格の異なる人々を含む集団の構成員を結びつけるのは「タテ」の関係である。それは、同列におかれないA・Bを結ぶ関係である。これに対して「ヨコ」の関係は、同列にたつX・Yを結ぶ関係である。ヨコの関係は、カーストや階級などに発展し、タテの関係は、親子や親分・子分の関係に象徴される。タテ社会は、集団内の序列を重要視する構造になる。その場合序列は、どれだけその場に長く所属していたか(つまり年功)によって形成されるのが基本になる。

タテ社会での親子的な上下関係は、下にどんどんつながっていく。子が誰かの親になり、その子がまた誰かの親になりというのと類似した形で集団が構成されるのが基本になる。こうした集団でのリーダーシップは、逆に大きな制約を受ける。なぜなら、その集団のリーダーは、直接その成員のすべてを把握しているのではなく、リーダーの子にあたる直属の幹部をとおして把握しているからだ。ということは、リーダーに直属する幹部の発言権がきわめて大きいことである。各幹部は、ある意味で、それぞれの支配下の成員の利益を代表するから、リーダーは、その力関係の調整役を強いられるのだ。

さらに、リーダーとその直属幹部との関係は、タテの直接的な人間関係であるため、親分・子分的なエモーショナルな要素によって支えられている。そこに濃厚なのは、保護と依存、温情と忠誠といった言葉で表現される関係であり、「甘え」の心理と深く通じる関係なのだ。しかもこの関係は、各幹部とその成員、さらにその下の成員という風に、最下部まで一貫している。もちろん、日本のすべての集団がこのような構造をもっているわけではないが、社会構造の基本がこのような特徴をかなり色濃く残していることは確かだろう。

以上のように、土井健郎が『「甘え」の構造 [増補普及版]』において明らかにした日本人の心理構造が、「タテ社会」という日本社会の構造と密接に結びついて成り立っていることが明らかになる。つまり「タテ社会」は甘えの構造を介して、母性社会日本の一側面をなしているのだ。

《関連記事》
なんとなく、日本人
 「場に依存する日本人の自己においては、自分が属する共通の場がどの範囲かをまず把握し、その場の中での自己の相対的な位置を確認することが大切となる。それによって場の中での自己の役割構造が安定し、その役割を通して安心して自己実現を図ることができる」

《関連図書》
タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)
なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書) 
タテ社会の力学 (講談社現代新書 500)

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甘えと母性原理:母性社会日本02

2012年10月15日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

前回から7項目の二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。縄文時代以来の母性原理の文化は、現代に生きる日本人の「甘えの構造」や「タテ社会の人間関係」にまで及んで、日本の社会や文化を特徴づけている。今回は、甘えの問題を探る。

日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本が、農耕文明以前からの母性原理的な文化を破壊されず、それを基盤としながら、外から学び取るという形で近代化を達成したことは、人類の歴史上でも、奇跡的なことなのかもしれない。そういう奇跡的な基盤の上に「かわいい」文化も花開いたのろう。縄文的な心性を現代にまで残してきた日本文化のユニークさは、世界のどの文明もかつてはそこから生れ出てきたはずの、農耕・牧畜以前の文化の古層を呼び覚ますのだ。

縄文人の信仰や精神生活に深くかかわっていたはずの土偶の大半は女性であり、妊婦であることも多い。伊勢神宮の主神にアマテラスを仰ぐ日本人にとって、本来、神は女性であることを意味した。日本の「文化の祖型」に女性が君臨していた。

沖縄では、イザイホーなどほとんどの宗教儀礼において、女性が中心となっている。女人禁制どころか、男子禁制が当たり前で、それが母系制社会のまっとうな宗教のあり方なのだという。神道にもその名残があって、伊勢神宮では、宮司よりも皇女である斎宮(いつきのみや)が高い地位を与えられている。女性が神の憑座(よりまし)となるからだ。日本全国の霊山でも、山の神はたいてい女性で、女人禁制という慣習も、山の神の嫉妬心を刺激しないために生まれたという(『山の霊力 (講談社選書メチエ)』)

日本文化のもう一つの祖型は、「曖昧の美学」だ。「曖昧」は成熟した母性的な感性であり、母性原理と結びついている。単純に物事の善悪、可否の決着をつけない。一神教的な父性原理は、善悪をはっきりと区別するが、母性原理はすべてを曖昧なまま受け入れる。能にせよ、水墨画にせよ、日本の伝統は、曖昧の美を芸術の域に高めることに成功した。それは映画やアニメにも引き継がれ、一神教的な文化とは違う美意識や世界観を世界に発信している。

日本は曖昧な「ナンデモアリ」の社会だが、その「いい加減さ」の背景には、母性原理の文化を、一神教を背景とした文明によって圧殺されずに、縄文時代から連綿と引き継いできたことがある。そこに仏教が入ってきて、神道と混淆していく。仏教によって日本に送り届けられた平等観は、縄文以来の自然崇拝的な世界観と重なり合って、「山川草木国土悉皆成仏」という言葉に代表されるような日本独自に平等思想を生み出していく。町田氏は、「その精神遺産の尊さを、日本人自身がもっと鮮明に自覚した時、世界に向けて、強い発信力をもつ」だろうという。

日本の宗教や文化は、対立ではなく和解、分裂ではなく融合を特徴としている。それは国際社会を生き抜くうえで弱点になることもあるだろうが、伝統文化から現代のサブカルチャーにいたる日本の文化全体が、クールなものとして世界に受け入れられる一因にもなっている。ルネサンスが、古代ギリシャ・ローマの文化をモデルにして花開いたのと同様に、父性原理に根ざす近代文明は、縄文のような母性原理に根ざす文化をモデルにして行き詰まりを打開する必要があるのかもしれない。そうだとすれば、一神教を受け入れずに近代化を成し遂げた日本のような文化のあり方は、今後、果たすべき役割が大きいではないか。

日本文化のユニークさ41:甘えと母性社会(1)
現代の日本もまた母性原理の強い社会であることを「甘え」という観点からみごとに描き出した本が、土井健郎の『「甘え」の構造』である。甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。

土井は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。土井はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。

親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。

だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。

日本文化のユニークさ42:甘えと母性社会(2)
『「甘え」の構造』の中に「甘えと自由」について論じている箇所がある。日本人の甘えの心理を、歴史的な視野から考えていくきっかけとしても興味深い。

まず著者は、西欧的な自由の観念を、歴史的に古代ギリシャやローマの自由人と奴隷の区別に発するものと見る。すなわち自由とはもともと奴隷のように強制的に縛られた状態ではないことを意味した。だからこそ自由は、人間の権利や尊厳という考え方と結びいて、守るべき価値のあるものとなったのだろう。また西欧では集団に対して個人の自由が重視される。

これに対して日本で古くから使われていた自由という言葉は、「自由気まま」という表現が暗示するように、もともと甘えの願望とかなり関係が深いという。つまり西欧語の翻訳としての意味が入り込む以前は、自由とは甘える自由であり、つまりはわがままな態度を意味したのである。集団に対して自由勝手、わがまま勝手にふるまうのは、集団からの独立としての自由というよりは、集団への甘えや依存を前提としている。日本的自由はもともと甘えに発するのであり、甘えは他を必要とし、個人が集団に依存していることを前提としている。

これに対して西欧では、個人の自由を重視する一方で、甘えに相当する依存的感情が軽視されてきた。西欧的な自由は甘えの否定のうえに成り立っているのである。「神は自ら助くる者を助く」という諺は、本来はユダヤ・キリスト教の伝統とは無関係らしいが、その意味は「万人が万人にとって敵である世にあって、自立自衛以外には頼むべきものがない」ことを意味したという。

とすればこれは、「旅は道連れ、世は情け」とか「渡る世間に鬼はなし」などという日本的な諺とは正反対の精神と社会を反映していると言ってよいだろう。ということで自由と甘えの問題は、男性原理の社会と女性原理の社会の違いにも深く関係し、その違いをある程度反映しているとも言えそうだ。

《関連記事》
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07

《参考図書》
「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
続「甘え」の構造
聖書と「甘え」 (PHP新書)
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)
母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)
中空構造日本の深層 (中公文庫)

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太古の母性原理を残す国:母性社会日本01

2012年10月14日 | 母性社会日本
引き続き、日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

今回から7項目の二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理していきたい。世界史の流れを見ると古代文明の誕生とともに、前農耕的な母性原理の文化は消えていく。しかし日本列島では母性原理的な縄文文化が消えずに存続し、その上に大陸からもたらされた高度な文明が接ぎ木される。母性原理を破壊されないように上手に変えられながら吸収されていった。だからこそ母性原理の社会が残ったのだ。

日本文明は、母性原理を機軸とする太古的な基層文化を生き生きと引き継ぎながら、なおかつ近代化し、高度に産業化したという意味で、文明史的にもきわめて特異な文明なのである。

日本文化のユニークさ39:環境史から見ると(1)
縄文文化のどのような特徴が日本人の心の基層として残ったか。世界史的に見ると日本列島は、農耕文明の時代になっても、農耕以前の母性原理が消滅しなかっためずらしい地域だといえるようだ。そして、その特徴が現代日本人の心理にも表れていて、日本の若者文化の発信力の一因にもなっている。

世界史的な視野で見ると、古代地中海世界では紀元前1500~1000年頃に大きな世界観の変化があったという。それまでの大地に根ざす女神から、天候をつかさどる男神へと信仰の中心が移動したというのだ。これには紀元前1200年頃の気候変動が関係しており、北緯35度以南のイスラエルやその周辺は乾燥化した。その結果、35度以北のアナトリア(トルコ半島)やギリシアでは多神教や蛇信仰が残ったが、イスラエルなどでは大地の豊饒性に陰りが現れ、多神教に変わって一神教が誕生する契機となったという。

これまで大地の恵みに頼れば生きていけた時は、地下の蛇や大地母神が信仰されたが、乾燥化が進むと嵐や雷に関係する天候神バールや唯一神ヤーウェの信仰が強大化した。この信仰の変化にとってもうひとつ重要なのは、牧畜民が砂漠を追われて農耕民のオアシスや河畔に侵入し、侵略したことだ。牧畜民は天の神を信じていたので、これも天候神の確立に大きく寄与した。

さらに紀元前1200年頃の気候の悪化をきっかけにして、トルコ・アナトリアのヒッタイト帝国が崩壊し、それまで彼らが独占していた鉄器の制作技術が各地に普及した。これにより世界史は、青銅器時代から鉄器時代へと移行していった。

これらが背景となって紀元前1200年頃、ユーラシア大陸の広範な地域で、よく似た神話が語られるようになった(ギリシア神話のゼウスにも、中国南部のハニ族にも似たような神話があるという)。その共通点は次のようなものである。

①古い神(蛇の姿の大地母神)と新しい神(人間の姿をした天候・嵐の男神)との闘い。
②新しい神は、あごひげをはやした男神(鉄器をたずさえたバール神など)。
③天候神と大蛇の闘いは、一度は大蛇が勝利するが、美女の助けで天候神は復活を果たし、勝利する。

これは、大地の豊饒性の低下の中で、信仰の中心が大地から天へと移動し、同時に男性の権力が増大したことを物語る。母権社会から父権社会への転換を意味していたとも言えよう。

日本列島は、世界的な気候変動にもかかわらず大地の豊饒性はそれほど変化しなかった。それゆえ、漁撈・採集を中心にした縄文文化を高度に発達させながら長く存続させることができた。稲作文明や鉄器が流入したときも、豊かな縄文文化を基盤にして、徐々にそれを取り入れることができた。だから縄文の母性原理の文化を崩すことなく、存続させることができたのである。島国であるため、遊牧・牧畜民の侵入がなかったことも、母性原理の文化が存続したことの大きな理由の一つだろう。

縄文以来の母性原理の文化が、父性原理の文化にとって替わられることなく存続したという事実の意味は、どれだけ強調しても強調しすぎることなないだろう。

日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
日本列島に住んできたわれわれは、「母なる大地」に象徴される豊かな自然の恩恵をたっぷり受けながら母性原理的な宗教を保ち続けることができたユニークな民族である。それに対して大陸の諸民族は、多かれ少なかれそうした「自然性」から脱することで「文明」をきずいていった。その違いにこそ、日本文化のユニークさを考える上での大切な観点が隠されているのではないか。

世界史は大きな流れとしては狩猟・採集文明から農耕・牧畜文明へと変化していった。その流れを母性原理、父性原理の視点から考えるなら、狩猟・採集文明はどちらかというと母性原理が強く、農耕・牧畜文明はそこに父性的な原理も入り込んでくるといえるのではないか。さらに多神教・一神教という区分でいうなら、アニミズム的な自然崇拝では母性原理が強く、精霊崇拝からある程度明確な多神教という形をとるようになると多少ととも父性的な原理も入り込んでくる。そして一神教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という「地中海三宗教」において出現し、かなり父性的な性格の強い文明の基盤となっていくのである。

たとえば縄文人は、日常生活の根拠地としてムラの周囲のハラを生活圏とし、自然と密接な関係を結ぶ。生活舞台としてのハラの存亡に影響を与えることは、生活基盤の破壊につながりかねない。だから自然との共存共栄こそ、その恵みを永続的に享受する保障につながる。彼らは、ハラのさまざまな自然の背後に精霊を感じ、その恵みに抱かれて生きていることを実感しただろう。

一方、農耕民は自然をあるがままにせず、開墾し農地を確保する方向に進んでいく。ムラという人工空間の外にもう一つの人工空間としての農地=ノラを設け、その拡大を続ける。つまり農耕民はただ単に母なる自然の懐に抱かれているのではなく、自然を征服するという意識と態度を自覚していく。これは多かれ少なかれ母性原理からの脱却を意味する。

ところで日本列島に生きた人々は、農耕の段階に入っていくのが大陸よりも遅く、それだけ狩猟・採集の文明を高度に発達させた。世界でもめずらしく高度な土器や竪穴住を伴う狩猟・採集であった。このように高度に発達した母性原理的な縄文文化がその後の日本文化の基盤となったのである。しかもやがて大陸から流入した本格的な稲作は、牧畜を伴っていなかった。牧畜は、大地に働きかける農耕よりも、生きた動物を管理し食用にするという意味で、より自覚的な自然への働きかけとなる。そして牧畜は森林を破壊する。

さらに日本列島の人々は、他民族にも襲われずに、母なる大地の恵みを最大限に受けながら悠久の昔からそこに住み続けることができた。そのような条件にあったからこそ、自然の恵みを基盤とする自然崇拝的な宗教を大陸から渡来した儒教や仏教を共存さて、長く保ち続けることができたのである。神仏混淆とは、一方の文化が他方の文化を圧殺しなかった結果に他ならない。

一方大陸では、そのような条件に守られ続けることはほぼ不可能であった。それゆえ、多かれ少なかれ母性原理の文化から脱出せざるを得なかったのである。精霊信仰や自然崇拝はもちろん、部族の宗教を保つことも不可能だった。部族宗教相互の闘争が起こり、一方が他方によって抹殺され、やがて普遍宗教によって支配される大帝国も出現した。闘争や統合によって成立する宗教は、自然の恵みに抱かれる自然性の原理の宗教に比べれば、はるかに意識的であり、男性的・父性的な原理を含んでいるのである。

それゆえユーラシア大陸の歴史を巨視的に見ると、母性的な自然との一体性から脱し、農耕・牧畜によって自然に働きかけ征服し、部族相互の闘争を繰り返しながらより普遍的な宗教を形づくっていくという形で、父性的な要素を徐々に取り込んでいったのではないか。その極限にあるのが一神教的な西欧文明であり、その源のひとつがユダヤ教なのである。西欧文明のもう一つの源は、もちろん合理主義的なギリシャ文明である。

日本の歴史と文化のユニークさは、民族相互の抗争と無縁なところで母性原理的な森の宗教の原型を残し、しかも大陸の厳しい歴史の精華の部分だけを、その母性原理的な文化の中に取り入れることができたというところにあるのではないか。

《参考図書》
森のこころと文明 (NHKライブラリー)
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)

《参考記事》
日本文化のユニークさ01:なぜキリスト教を受容しなかったかという問い
日本文化のユニークさ02:キリスト教が広まらなかった理由
日本文化のユニークさ03:縄文文化の名残り
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓
日本文化のユニークさ18:縄文語の心
日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

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日本文化のユニークさ44:タテ社会と甘え(2)

2012年04月24日 | 母性社会日本
◆『タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)

日本のような「タテ社会」では、企業別、学校別のような縦断的に層化した集団が形成されるが、それは資格の違う人々が、ともに生活したり働いたりする場の共通性によって、枠に閉ざされた世界を形成するということである。日本の企業別労働組合のように職種(資格)の違う人々が、同じ会社という場の共通性によって集団を作るのである。

資格の異なる人々を含む集団の構成員を結びつけるのは「タテ」の関係である。それは、同列におかれないA・Bを結ぶ関係である。これに対して「ヨコ」の関係は、同列にたつX・Yを結ぶ関係である。ヨコの関係は、カーストや階級などに発展し、タテの関係は、親子や親分・子分の関係に象徴される。タテ社会は、集団内の序列を重要視する構造になる。その場合序列は、どれだけその場に長く所属していたか(つまり年功)によって形成されるのが基本になる。

タテ社会での親子的な上下関係は、下にどんどんつながっていく。子が誰かの親になり、その子がまた誰かの親になりというのと類似した形で集団が構成されるのが基本になる。こうした集団でのリーダーシップは、逆に大きな制約を受ける。なぜなら、その集団のリーダーは、直接その成員のすべてを把握しているのではなく、リーダーの子にあたる直属の幹部をとおして把握しているからだ。ということは、リーダーに直属する幹部の発言権がきわめて大きいことである。各幹部は、ある意味で、それぞれの支配下の成員の利益を代表するから、リーダーは、その力関係の調整役を強いられるのだ。

さらに、リーダーとその直属幹部との関係は、タテの直接的な人間関係であるため、親分・子分的なエモーショナルな要素によって支えられている。そこに濃厚なのは、保護と依存、温情と忠誠といった言葉で表現される関係であり、「甘え」の心理と深く通じる関係なのだ。しかもこの関係は、各幹部とその成員、さらにその下の成員という風に、最下部まで一貫している。もちろん、日本のすべての集団がこのような構造をもっているわけではないが、社会構造の基本がこのような特徴をかなり色濃く残していることは確かだろう。

日本に強力なリーダーシップをもった指導者が現れにくいのは、このような日本的な社会の特徴が背景にあるともいえよう。日本的リーダーは、どんなに能力があっても、自由に集団メンバーを動かしたり、強い反対をおさえてまで自分のプランを実行することはできない。多くの成員をかかえる各幹部の意向に引きずられる傾向が強いからである。これは、日本の政治の現況を見ていればいやというほと分かる現実である。

さて以上で、土井健郎が『「甘え」の構造』において明らかにした日本人の心理構造が、「タテ社会」という日本社会の構造と密接に結びついて成り立っていることが明らかになったと思う。

「タテ社会」とは、場を基盤とする社会である。場とは、人間同士が直接的なエモーショナルな関係を結ぶことが可能な空間であり、そのような直接的な関係が大きな意味をもつ空間である。たとえば「イエ」という場においては、他家に嫁いだ血をわけた自分の娘や姉妹たちより、よそからはいってきた妻、嫁の方がはるかに重要な意味をもつようになる。その場でともに生活した時間が重視されるのである。では、日本の社会の集団形成では、なぜ場における人間関係が、他のあらゆる人間関係に優先して認識されるのだろうか。

ひとつの理由は、日本の歴史において「ヨコ社会」が形成される要因がなかったからだろう。「ヨコ社会」の背景には、民族と民族の激しい闘争、一民族による他民族を支配という歴史の繰り返しがあったと思われる。ある民族の侵入と支配によって奴隷的な立場に追いやられた民族が、やがて全体として下層階級を形成していくことは、歴史上多く見られたことである。インドのカースト制度も、その元をたどれば、インドに侵入したアーリア人と先住の人々との支配‐被支配関係に端を発している。これに対して日本では、他民族による侵入と支配によって隷属的な立場におかれたという歴史上の経験がなかったので、他民族の支配に対して「ヨコ社会」を形成する契機が生まれなかったのである。

もうひとつの理由は、上の理由と重なるが、日本列島がほぼ同一民族によって成り立っていたからである。言語や文化が違う多くの民族が混在する社会では、まずそれらの各民族が「ヨコ社会」を形成しやすい。異民族同士が、一地域にどんなに長く共存したとしても、場の共有による同一集団を生み出すことはほぼ不可能である。同じ言語と文化を共有する人々が、他民族の侵入によってかき乱されることもなく、長い年月をともに平和に生活してきたからこそ、生活空間を同じくし、直接的につながる場での人間関係を優先する社会を作ることができたのだ。しかもそこで重視されるのは、家族関係を理想とするような親密な関係であり、そのような親密な関係だからこそ、「甘え」もまた認められ、社会のなかで大切な意味をもったのだろう。

ある意味で「甘え」の文化は、世界がうらやむような歴史的環境の中で作られてきたといってもよい。

《関連記事》
なんとなく、日本人
 「場に依存する日本人の自己においては、自分が属する共通の場がどの範囲かをまず把握し、その場の中での自己の相対的な位置を確認することが大切となる。それによって場の中での自己の役割構造が安定し、その役割を通して安心して自己実現を図ることができる」
日本文化のユニークさ25:日本人は独裁者を嫌う

《関連図書》
なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書)
タテ社会の力学 (講談社現代新書 500)
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