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日本人は集団主義ではない?

2015年02月23日 | 相対主義の国・日本
日本人がどれほど集団主義的かを見るため、「同調行動」の度合いを調べた心理学の実験があるという。10名弱のグループの各人に二枚のカードを配る。Aのカードにはある長さの一本の線が描かれ、Bのカードには三本の違った長さの線が描かれている。BからAと同じ長さの線を当ててもらうのだが、一人以外はサクラで嘘の答えをいう。その場合、本物の被験者が周囲のサクラに合わせて、間違って答えてしまう割合を調べるのだ。サクラに同調して間違えてしまう人が多ければ集団主義的(同調的)だし、そうでなければ個人主義的というわけだ。

結果はどうだったか。日本と米国の「集団主義の強さ」を比較した研究19件のうち、13件の結果は、日本人もアメリカ人も「同程度に集団主義的」で、さらに5件は「アメリカ人の方が集団主義的」という結果で、「日本人の方が集団主義的」と判断できたのはわずか1件だったという。(『日本人はなぜ存在するか』)

この実験だけでどちらの国民がより集団主義的かと安易に結論することはもちろんできない。少なくとも「日本人は集団主義的だ」という思い込みや「常識」は、考えなおす必要がありそうだ。たとえ集団主義的だとしても、何がどのように集団主義的なのか検討する必要はあるだろう。

◆『間人主義の社会日本 (東経選書)

浜口恵俊氏は『間人主義の社会 日本』の中で、日本人を「集団主義」と特色づけるにしても、それは必ずしも「個人主義」の対立項としてのそれではないという。そこには組織への全面的没入や隷属とは言い切れない側面がある。各人が互いに仕事上の職分をこえて協力しあい、それを通じて組織目標の達成をはかり、同時に自分の欲求も充たして、集団としての充実をめざすのが「日本的集団主義」だ。127「日本的集団主義」では、個人が「全体」に全面的に隷属し主体性を失うわけではないとすれば、上に紹介した実験の結果もうなずけるだろう。

日本は従来、西洋型の近代文明を吸収することに必死なあまり、「近代的個人主義」という価値観もあまりに自明なものとして受け入れてきた。その価値観の中心は、自己依拠を貫くことだという。すべてを自己自身の力と責任によってはかろうとする姿勢である。自己を律する強い自我が、社会の近代化を担ってきた。だから日本人もそういう近代的自我を確立しなければならないと考えられた。しかし近代的自我は、自己を信頼する一方で他者不信に陥りやすい。「近代的自我」や「西洋的個人主義」の価値観を無条件に受け入れるのではなく、私たち日本人が現実に生きている人間関係に即した人間観や価値観が打ち出されるべきだろう。浜口氏は、日本人のそうした基本的価値観を、西欧の「個人主義」と対比し、「間人主義」と呼ぶ。

「個人主義」は、①自己中心主義、②自己依拠主義、③対人関係の手段視、によって特徴づけえられるという。一方、「個人」に対して「間人」は、人と人との間に位置づけて初めて"自分"という存在を意識する。「間人主義」の特徴は次のようなものである。

①相互依存主義――社会生活はひとりでは営めない以上、相互の扶助が人間の本態だ、とする理念。
②相互信頼主義――自分の行動に相手もきっとうまく応えてくれるはずだ、とする互いの信頼感。
③対人関係の本質視――相互信頼の上に成り立つ関係は、それ自体が値打ちあるものと見なされ、「間柄」の持続が無条件で望まれる。

西洋的な「個人主義」では、人に頼る以前にあくまでも自己に依拠して社会を生き抜くことに価値を置く。頼みとできるのは自己以外にないことを前提にするから、他人との関係も結局は、自己にとって少しでも有用な手段であり、人間関係自体が無条件に尊ばれるのではない。それは、互いに独立した個人間での互酬的な契約関係なのである。そうした契約関係のもとでは、職務を越えてまで個人的な対人関係が拡散することはない。

一方、日本人は、自己は完全に他から独立した「個人」ではなく「間人」としてとらえている。自分を、人と人との「間柄」に位置づけられた相対的な存在と理解し、社会生活を自分一人の力で営むのは不可能だと感じている。自己依拠ではなく、相互依存こそ人間の本態だという前提なのだ。この相互に信頼し助け合う価値観が「間人主義」と呼ばれる。これは、これは、自己保持のために対人関係を手段視する「個人主義」とは、対照的な価値観だろう。

とするなら、個が全体に隷属するという意味合いを含む「集団主義」を単純に日本人の人間関係に当てはめるのは必ずしも適切でないだろう。個人が全体に隷属するというよりも、人間はお互いに依存しあって生きざるを得ないのだから、その関係を前提にして、自他を生かしていこうというのが、日本人の基本的価値観であり、人間観だ。日本人は、「個人主義」でもなく、「集団主義」でもなく、「間人主義」の価値観に基づいて社会や組織にかかわっているのだ。日本人の人間関係の根底に流れる、こうした価値観なり人間観なりを、「個人主義」に対するものとして明晰に概念化し、そういう価値観を日本人の共有財産として自覚化することが、今この上なく大切なことだと思う。浜口氏の『間人主義の社会 日本』は、今から30年以上前になされた、そういう優れた試みの一つだ。


縄文語は抹殺されなかった

2015年02月19日 | 現代に生きる縄文
◆『縄文語の発見 新装版』(小泉保)

本ブログでは、「縄文文化の記憶が、現代日本人の心や文化の基層として生き続けている」ということを主張の根幹に据えている。である以上、当然、縄文時代から弥生時代へも文化の継承がなされたのであり、そこに大きな断絶はないという立場をとる。またそういう主張をしばしばしてきた。以下を参照していただきたい。

縄文と弥生の融合
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ


また、縄文語から弥生語への移り変わりも、断続ではなく連続性があったという見解に何度か触れたことがある(→★日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き))。言語学者である小泉氏による上の本は、そのような立場から縄文語を探求しようとする、私が知るかぎり唯一の研究書である。これまでの研究者は、縄文語と弥生語との間には断絶があったと決めてかかっていた。弥生語が縄文語を駆逐して、それに入れ替わったと主張できる証拠は何もないのに、研究者のほとんどはそういう億説に縛り付けられているという。

人類学や考古学の近年の研究成果には驚くべきものがあるが、日本語の起源を探る研究もそうした成果に裏付けられたものでなければならない。人類学や考古学が縄文時代と弥生時代は連続していると主張しているのに、言語学者が、両者が断絶していると何の根拠もなく決めてかかるのだとすれば、それは知的誠実さに欠ける。

人類学でほぼ定説になっているのは、日本列島には縄文時代の一万年にわたってアイヌ人を含む南方モンゴロイド系の縄文人が生活しており、紀元前二・三百年ごろ北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたことである。

しかし、大量の渡来人が一挙に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではなかった。縄文人が抹殺されたり、奴隷にされたりして、日本列島から縄文文化が消滅したわけでもなかった。大陸からある程度の集団的な渡来があったとしても、この時代の渡航技術からして先住民を一気に駆逐したり虐殺したりできるほどの大規模な移動はできなかった。

渡来人の移入以前、縄文人は、前期からすでに日本列島にはひろく住んでおり、土器の生産に従事し、相互に交流していた(ヒスイが糸魚川で産出し加工され、日本列島に広く流通していた例など)。縄文人はかなり均質化した文化をもっており、とすれば、地域差はあったにしろ、異言語の乱立するような状況は考えにくい。縄文前期からすでに縄文語という原日本語が形成され始めたのではないかと著者はいう。 

ある程度の年月をかけて小集団ごとに渡来した人々は、最初は多少の摩擦はあったとしても、やがて相互に影響しあい、やがては縄文人と溶け合っていくほかなかったはずだ。近年、そうした融合を裏付ける考古学上の研究成果が多くなっている。土器の形や文様も、縄文土器から弥生土器へと連続的に変化しているという研究が見られるようになった。縄文土器が徐々に変化して弥生土器が生まれた可能性が高いというのだ。

とすれば、言語もまた制圧と断絶という形で入れ替わったとは考えにくい。しかも日本語は、様々な学説はあるものの、現在までのところ琉球語以外にその同族関係が証明されていないという。「周辺言語との同型性を証明する比較方法の手がかりがつかめないとするならば、日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成されたと考えなければならない」と、著者は主張する。155 確かに、二千数百年前に渡来した弥生人が縄文語を消滅させてしまったなら、大陸のどこかに弥生語ときわめて親近性の高い言語が残っているはずなのに、それが見つからないのだ。日本語は、縄文文化とともに始まり、断続なく現代に連なる長い歴史ももっているというべきだろう。

それゆえ著者は、縄文語の有力な方言のひとつから弥生語が形成されたという仮説にたって、現代日本語の諸方言をもとに、比較言語学と地域言語学(著者の専門領域)という手法を使って縄文語を再現しようとする。それは、この本の中核をなす研究だが、きわめて専門的で精緻なものなのでここでの紹介は控える。ただ、現代日本語のルーツが縄文語にあるという主張は、学問的にも無視できないものであるのは事実だ。

最近「世の中を平和にする日本語と縄文時代」という記事で、日本語の話者は、自分を強く打ち出すよりも、周りと協調し、「全体の中に自分を合わせていくこと」を目指すことが多いことに触れた。それは日本語の構造によるところが大きいという。私は、そういう日本語が、縄文人の自然と一体となった生活のなかで形成されたのではないかと主張した。今回紹介した研究からも、言語を通じて縄文人の心が現代日本人に受け継がれていると確認できるのではないか。

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古代人と神々の交流

2015年02月17日 | 現代に生きる縄文
◆『日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)

著者・上野誠氏は、日本人が日本的だと意識している思考法の源流は、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』に表れているという。これらの文献から古代的な心のあり方、正確には7世紀と8世紀の社会を生きた人々が聖なるものをどのように認識していたのかを明らかにすることが、本書の目的だという。

この本が興味深いのは、上に挙げたような文献を丹念に読むことによって、古代人が自然や神をどのように認識していたかを見事に浮かび上がらせているからだ。そして私自身の関心から興味深いのは、ここで描かれるような古代人の思考法から、文献的には検証できない縄文人の思考法がどうであったかを、ある程度推測できそうだ思われる点だ。

本格的な水田稲作文化が開始したとされる弥生時代の始まりを紀元前五世紀頃とするなら、縄文時代が終わったのは『古事記』が成立した紀元712年よりも千年以上も前だ。しかし一万年以上続いた縄文人の思考法が、この時代に消滅していたとは考えにくい。むしろ縄文人の心のあり方が基盤となってこの時代の人々の思考法が成立していたと考えるのが自然だろう。

多くの宗教学者が「日本の宗教は、その根底にあるものはすべて同じで、万物生命教というべきものであり、山川草木、山河大地も神仏である」と言い切るというが、そうした古代人の心のあり方は突然に出現したのではなく、一万年の長きに渡り「母なる自然」に抱かれながら生きた縄文人の心のあり方を基盤としているというべきであろう。

7・8世紀ごろに生きた日本人にとって、人もモノもすべてが霊的な存在だった。カミもオニも花も鳥も、要するにすべてが霊的・人格的存在だったという。たとえば著者は、『万葉集』の、天智天皇が皇太子時代に作ったとみられる歌を紹介している。

香具山は 畝傍(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき

香具山、畝傍山、耳成山の大和三山は、神代から互いに妻を争った。古もそうだったのだから、今も人は妻を争うのだという内容だ。これは現代人がするような「擬人法」ではなく、古代人の自然な発想ととらえるべきだという。生命あるものとないものとの垣根がきわめて低いのである。

生命あるものとないものの垣根が低いだけではない。神もまた垣根で仕切られていない。『古事記』に登場する神々は、山であり、木であり、風である。神々は、恋もし、妬みもし、罪を犯す。糞や尿や吐瀉物からもカミは生まれる。存在しうるすべてが神となり得え、無限にカミが生まれ続ける。

『古事記』の国土形成神話では、男女二神の性交によって島々が生まれたという。そしてイザナミノミコトは、火の神を産んで死ぬ。女性器が焼きただれて病み、嘔吐し、大小便を排泄して死を迎えた。その吐瀉物や排泄物からも、次々に神は生まれた。その神々は豊かな食物を生みだす女神であった。

ところでイザナミノミコトが産み落とした島々にはそれぞれに神名が記されているという。島産みは、同時に神産みであるということだ。島と神が対応し、地名と神名が対応する。そして、それぞれの土地に、それぞれの神がいる。地名があるということは、そこに神がいるということであり、その土地土地の神は「くにつかみ(国つ神)」と呼ばれた。

『万葉集』に「楽浪(さざなみ)の 国つ御神(みかみ)の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも」という歌がある。「楽浪(大津の宮のあった一帯)の国つ神のお心が、荒(すさ)んでしまって、荒れてしまった都を見るのが悲しい」という意味だ。土地の神の心が荒れれば、その土地もまた荒れてしまうというのである。

このように「人格」や「神格」があるように、土地にも「地格」というべきもの認められていた。その土地の霊を祀ることが重んじられるのは当然であったろう。このような考え方は、日本の宗教の根底にあって、現代でも多くの神社が、それぞれの地域の人々によって支えられているのも、そのような考え方が多かれ少なかれ受け継がれているからだろう。

以上は、著者の考察の一端に触れたにすぎないが、当時の文献に沿って古代人の心のあり方をあぶり出すという方法は、説得力がある。そして私にとっては、万葉の時代ですらこうなのだから、本格的な稲作農耕に至らず、周囲の自然により依存していた縄文時代の人々は、山川草木とともにいます神々とさらに生き生きと交流をしていたのだろうと想像させてくれるものであった。

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宗教で争わない日本の良さ(3)

2015年02月16日 | 相対主義の国・日本
今回は、「なぜ日本では宗教間の対立が起こりにくいのか」という問題を、本ブログの柱である「日本文化のユニークさ8項目」に沿って考えてみたい。この8項目を(1)から順にではなく、逆に(全部ではないが)たどると分かりやすいかもしれない。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

あれほど西欧の文物を崇拝し、熱心に学び、急速に吸収していったにもかかわらず、日本でのキリスト教の普及率はきわめて低かったし、今も人口の0.8パーセントを占めるにすぎない。キリスト教だけでなく、イスラム教なども含めた一神教そのものが日本では普及しない。それはなぜなのか。縄文時代以来の日本人の文化的「体質」によるというのが私の考えだ。そしてその「体質」こそが、宗教間の抗争が生まれにくい背景ともなっている。では、それはどのようなもので、なぜ現代にまで引き継がれたのか。次は三つの項目に沿って考えよう。ここは少し順番を変える。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、ほぼ一貫した言語や文化の継続があった。
(7)宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。
(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明の負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

まず島国日本は、大陸からの本格的な侵略、征服を経験しなかった。民族間の熾烈な抗争を経験することなく、大帝国の一部に組み込まれることもなかった。それは日本が大陸の「普遍宗教」による一元的な支配を受けなかったということをも意味する。「普遍宗教」とはキリスト教、イスラム教、仏教、儒教などだ。もちろん日本文化は、仏教、儒教の影響は大きく受けたが、支配をともなう外部権力による押し付けではなく、自分たちの文化的「体質」に合わせて改変しながら吸収することができた。だからこそ縄文時代以来の「体質」を失わずにすんだのだ。

「普遍宗教」は、それ以前の各地域の伝統的な多神教とは対立する。伝統社会の多神教は、日本では縄文時代の信仰や神道のようなもので、大規模農業が発展する以前の小規模な農業社会か狩猟採集社会の、自然との調和の中に生きる素朴な信仰である。大陸では、それらの多神教と抗争し、あるいはそれらを抹殺しながら「普遍宗教」が成立していった。

ユーラシア大陸のほとんどの文明では、異民族の侵入や民族間の戦争、帝国の成立といった大きな変化が起こり、自然と素朴に調和した社会はほとんど破壊されてしまう。その破壊の後に、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教といった「普遍宗教」が生まれてくる。そういう「宗教」が生まれてくる条件が、日本にはなかった。それほどに幸運な地理的な環境に恵まれていたともいえる。仏教の流入時に神道との小さな抗争はあったが、やがて日本の文化的「体質」にあわせて神仏習合が行われる。

このように日本では「普遍宗教」と伝統宗教との深刻な対立・抗争がなかった。抗争がないし、「普遍宗教」の一元的支配もなかったから、社会を一律に統合する絶対的・宗教的な理念への関心も薄かった。理念や原理への関心や執着が薄ければ、それをめぐって争い合う気にもならないだろう。争うどころか融合してしまう。宗教をめぐる日本人のこうした「融合体験」や、絶対的な宗教理念への執着の薄さが、教義を振りかざした深刻な宗教的な対立ほとんど生じさせないのだ。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。その一つの理由は、縄文時代が1万年以上も続き、その心性が日本人の文化的「体質」の一部となったからだろう。もう一つの理由は、日本が大陸から適度に離れた位置にあるため異民族による侵略、強奪、虐殺やその宗教の押し付けによって、自分たちの文化が抹殺されなかったからである。だからこそ、「普遍宗教」以前の自然崇拝的な心性を、二千年以上の長きにわたって失わずに心のどこかに保ち続けることができたのである。

つまり現代日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、アニミズム的な傾向が、ほとんど無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教・イスラム教など一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。縄文時代からの自然崇拝的・アニミズム的「体質」が、一神教に馴染まないのだ。

一神教は、砂漠的な風土の遊牧文化を背景として生まれ、異民族間の激しい抗争の中で培われた宗教だ。それは父なる神を中心に一元的な男性原理システムを構築した。一神教はまた、しばしば暴力的な攻撃性をともなって他宗教・他文化と対立・抗争を繰り返した歴史をもつ。

男性原理的な一神教に対して、それ以前の農耕社会は、一般に地母神信仰に見られるような母性原理的な傾向をもつ。母性原理は、対立・抗争ではなく、多元的なものを包含し、相互に融和する傾向をもつ。農耕以前の日本の縄文的な基層文化も、土偶の表現に象徴されるようにきわめて母性原理的な特質をもっている。

母性原理的な縄文文化とその後の稲作文化とを基盤にして長い歴史を過ごした日本人にとって、父なる神を仰ぐ一神教の異質さは際立っていた。だからこそ一神教は日本では広がり得なかった。絶対的な宗教理念への執着も薄かった。その結果、宗教相互の熾烈な争いに巻き込まれることもなかったのだ。一神教な男性原理や、他宗教とのあくなき抗争を受け入れがたいと感じる日本人の心性は、縄文時代以来の日本の地理的・歴史的な条件によるともいえるだろう。


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《関連図書》
日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

宗教で争わない日本の良さ(2)

2015年02月13日 | 相対主義の国・日本
近年、英仏独をはじめヨーロッパ諸国でイスラム教国からの移民が増大し、それが様々な対立、混乱を引き起こしている。移民たちは低賃金の肉体労働に従事することが多いが、それがヨーロッパ各国の底辺層の仕事を奪い、失業した人々は移民を敵視するようになる。移民排斥を主張する右派的な政党が出てくる背景だろう。

そうすると移民の側も、彼らの宗教を核に結束し、対抗せざるを得ない。むしろ母国にいたころより宗教的な結束を強めていく。他方、移民を受け入れた側でも、対抗意識が高まり、イスラム教を敵視するキリスト教保守派が台頭する。こうして両宗教の対立はますます強まって、深刻な事態に陥っていく。

◆『無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)』島田裕巳(2009年)
一方日本では、移民との宗教をめぐる対立はあまり見られない。日本は移民受入れに積極的でなく、移民の絶対数が少ないこともあるが、それでも海外からの労働者は少なくない。日本で海外からの労働者との間に宗教的な対立がほとんどないことの背景のひとつに、日本人の「無宗教」があるのではないかとこの本の著者はいう。海外から入ってきた人々とって、そういう日本では自分たちの宗教的アイデンティティを強調して、それを核に結束し、対抗する必要がほとんど意味ないのだ。

日本は、自分たちの教義に固執する特定の「宗教」が一大勢力をなす社会ではないので、外国人の信仰に干渉したり、宗教を理由に差別したりすることが少ない。そのため異文化と交わる局面で宗教的な対立を生みにくいのは確かだろう。日本が、そうした社会でありえたのは、独特の地理的条件や歴史的背景があったからだとは思う。しかし、そういう日本のあり方を世界にアピールすることは、特定の神や教義にこだわって対立や抗争を繰り返す愚かさを知ってもらう有効な手段かもしれない。

では、どうして日本はそうした社会になり得たのか。上の本の著者は、その背景のひとつを神仏習合に見ているようだ。神道と仏教が融合していれば、どちらか一つを選んで信仰するのは、かなり無理なことだ。「神道と仏教のどちらかに絞れない結果、無宗教と宣言する人間が増えたのかもしれない」と著者はいう。確かにアンケートに「無宗教」と答える人も、神道か仏教かにこだわらない形で何らかの宗教心はもっていて、ただ特定の宗教や教団に属していないだけかもしれない。かく言う私もその一人だ。

日本に仏教が伝来したことから既に神仏集合の兆しはあった。しかし著者によれば、神道の信仰と仏教の信仰とが、氏神と祖霊が融合することで庶民の生活の中で溶け合ったのは、近世に入って稲作が広まった時期と重なるという。稲作を中心とする村落共同体は、水田の水の管理を含め、村の共同の管理にかかわって、村全体で取り組んだり、決定したりすることが多い。そうした村の結束や統合のシンボルとなるのが、村の神社だ。神社では稲の収穫を祈ったり感謝したりする祭礼が行われる。

一方で村には共同の墓地があり、村に出た死者の葬儀や供養を行うのが村の寺である。それぞれの家では、先祖を祀り、先祖供養を行うが、五十回忌を経た死者は浄化され、個性を失い、祖霊の仲間入りをすると考えられた。柳田國男の説によれば、祖霊と神社に祀られた氏神とは同一のものだという。これも神仏習合のひとつの形だろう。

しかし私には、日本が特定の教義に固執する宗教に支配されなくなった背景は、さらに深い層に横たわっているように思われる。次回以降、日本文化のユニークさ8項目のほとんどに沿って、そうなった文化的・歴史的背景を探っていくことになるだろう。それは、これまでこのブログで考えてきたことを、宗教で争わない日本という観点から振り返り、整理しなおすという作業でもある。(この連載のタイトルは、最初「無宗教こそ日本の力」だったが、「宗教で争わない日本の良さ」に変更したことをお断りする。)

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日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

宗教で争わない日本の良さ(1)

2015年02月12日 | 相対主義の国・日本
◆『無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21)』島田裕巳(2009年)

2015年1月7日に起こったフランス・パリでのシャルリー・エブド襲撃テロ事件や、続いて起こったISIL(いわゆる「イスラム国」)による日本人人質拘束事件は、日本人の宗教意識に微妙な影響を与えているかもしれない。これら以外でも、西アジアやヨーロッパで宗教にからむ事件や争いは頻発しており、これらが全体として日本人の宗教観に影響を与えている可能性がある。

2001年の同時多発テロをはじめ、その後も頻発し続けるテロの多くは、何かしら宗教を背景にもっている。宗教こそが、世界に対立や混乱を生み、平和の妨げになっているように見える。特定の宗教を熱心に信じるより、日本人のように「無宗教」でいる方が、はるかに価値があるのではないか。日本人は無意識にせよ、そう感じ始めていると著者はいう。では日本人にとって「無宗教」とは何を意味し、それはどんな経緯で形成されてきたのか。それを明らかにするのがこの本のテーマである。

この本に、日本人の宗教意識に関するかつての調査が紹介されている。オウム真理教の事件が起こった1995年以前、「あなたは、何か宗教を信じていますか」という問いに対し、全体のおよそ三分の一は信じていると答え、信じていないと答える人はおよそ三分の二だった。ところがオウム真理教の事件以降は、信仰率は20%台に落ち込んだという。2008年の読売新聞の調査では、何らかの宗教を「信じている」が26・1%、「信じていない」が71・9%で、以前に比べ信仰率が次第に低下している傾向があるかもしれないという。

いずれにせよ世界の平均と比べ、日本人の信仰率の低さは際立っている。2004年のイギリスBBCの調査によると、調査された世界11カ国で全体の9割近くが神を信じているという。ナイジェリア、インドネシア、レバノン、インド、メキシコ、アメリカ合衆国では9割を超え、イスラエルが8割、ロシア、韓国が7割、イギリスも7割近くが神を信じているという結果だ。これらを見ると、日本人の信仰率の低さは世界的に見て、例外的な現象だといえるだろう。

一方で日本人は、初詣や墓参りなどいわゆる宗教的な習俗にはきわめて熱心である。そんな状況を踏まえながらも著者はいう、日本人が「無宗教」であることに対して日本人自身のとらえ方が変化しているのではないか、と。日本人は、宗教について無節操で、寺も神社も参拝し、葬式は仏教、結婚式は神道、近年はキリスト教徒でもないのに教会で結婚式を挙げたりする。かつて、そんな無節操な「無宗教」性を日本人自身が自嘲する傾向があった。今もあるかもしれない。しかし一方で、日本人は近年「無宗教であることに誇りを感じるようになったのでないか」というのが著者の主張だ。

著者がここでいう「無宗教」は、日本人に宗教心や宗教的心性がないということではない。初詣などの宗教的行為(習俗)には多くの人々が参加する。それでいながら特定の宗教に固執して争いあうことはきわめて少ない。私は、そのような「無宗教」性の価値を日本人自身がしっかりと自覚し、むしろ世界に積極的に発信することが、いま重要になっていると思う。そうした視点も踏まえてこの本を紹介していきたい。

もちろんこの本のテーマは、本ブログの関心とも密接にからんでいる。例によって日本文化のユニークさ8項目で言えば、

(7)宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。
(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

に深く関係し、

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。
(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明の負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

にも何かしら関係しているであろう。いやむしろ、8項目のほとんどが多かれ少なかれ日本人の「無宗教」に関係しているかもしれない。

これらの項目と島田氏の本の内容を関係させて考えながら、なぜ日本人はいま、日本人の「無宗教」の意味を世界にアピールする必要があるのか、この問いに迫ってみたい。

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アニメのユニークさと日本の伝統(3)

2015年02月11日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『日本のアニメは何がすごいのか 世界が惹かれた理由(祥伝社新書)

この本では日本のアニメのユニークさを、①ロボット・アニメ、②スポ根アニメ、③魔法少女アニメ、④ヤングアダルト向けアニメという視点から捉えていた。私の関心は、これらが日本の伝統とどのように関わるかだった。今回は、その③と④について見ていこう。

③魔法少女アニメ‥‥母性社会日本

欧米では、「日本アニメでは女の子がヒーローとして活躍する作品が多いのか」と質問される場合が多いという。しかし逆に、欧米ではなぜそういう作品がほとんどないのだろうか。むしろ私たち自身がそう問うべきかもしれない。欧米の方にこそ、男性と女性の役割の違いに関して、文化的に根深い区別意識があるのではないか。それは、一神教という父性原理の宗教を文化的背景としてもっているということであり、それゆえ女が男のような「ヒーロー」として活躍するという発想が生まれにくいということだろう。

日本の文化的伝統は、そのほぼ対極にある母性原理を基盤とするものだった。このブログの柱である日本文化のユニークさ8項目でいえば、

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

ということである。

父性原理と母性原理の比較についてはこれまで繰り返し語ってきた。ここではひとつだけ関連記事を紹介しておこう(→マンガ・アニメと中空構造の日本文化)。ここでも語ったように、西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比べて排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除したり、敵対者と見なす。これが一神教の父性原理だ。一神教は、神の栄光を際立たせるために、敵対する悪魔の存在を構造的に必要とする。唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出されるのだ。また、父性的なものに対して母性的なものが抑圧され、その抑圧されたものが「魔女」のような形をとって噴出し、さらに「魔女狩り」のような集団殺戮を生む背景となっていった。

ひるがえって日本の場合はどうか。縄文人の信仰や精神生活に深くかかわっていたはずの土偶の大半は女性であり、妊婦であることも多い。土偶の存在は、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多いが、渦は古代において大いなる母の子宮の象徴で、生み出すことと飲み込むことという母性の二面性をも表す。こうした縄文の伝統は、神々の中心に位置する太陽神・アマテラスや、卑弥呼に象徴されるような巫女=シャーマンが君臨する時代にも受け継がれていった。そして、日本はそういう母性原理的な伝統が、男性原理の宗教によって駆逐されずに、現代まで何らかの形で受け継がれてきたのである。

現代日本のアニメ作品に多くの魔法少女が「ヒーロー」として描かれるのは、むしろ日本の伝統からしてごく自然なことなのである。しかし欧米のファンにとってはそれが新鮮だった。女の子が、男のヒーローのように、しかも魔法を使って大活躍する、それは父性原理の強い欧米では生まれにくい発想だった。神は「父なる神」、つまり男性であり、ヒーローもおのずと男性という発想になる。アメリカのセーラームーンのファンは、自分の国に溢れているありきたりの男性スーパーヒーローとのちがいに惹かれていった。普通の女の子がスーパーヒーローに変身する物語に魅了されたのだ。また、誰か一人を特別扱いしたり悪者にしたりする(善と悪の対立)のではなく、さまざまな要素を絡めて描く複雑なストーリーが絶賛されたのだ。 セーラームーンの魅力は、「戦闘とロマンス、友情と冒険、現代の日常と古代の魔法や精霊とが混在し、並列して描かれている点だ」という。物語と登場人物をさまざまな方向から肉づけすることで、ほかのスーパーヒーローものよりも、「リアル」で感情的にも満足できる、というのだ。

海外でのこうした反応からも、日本の魔法少女アニメがいかにユニークなものだったかがわかるだろう。

④ヤングアダルト向けアニメ‥‥子どもと大人の区別が曖昧な日本

欧米では子ども文化であるマンガ、アニメだが、日本では、はっきりとした区別はなく大人をも含んだ領域としても確立している。マンガ、アニメは、大人が子どもに与えるものではなく、大人をも巻き込んだ独立したカルチャーとしての魅力や深さをもっている。ではなぜ欧米では、マンガ・アニメが子どもに限定されるのか。ここにもキリスト教文化の影響があり、日本はその影響をあまり受けていないという文化的な背景の違いがあるようだ。

欧米では、子供は未完成な人間であって、教え導かなければいけない不完全な存在、洗礼を経て、教育で知性と理性を磨くことで、初めて一人前の「人間」に成るとという子ども観があるようだ。子どもは「人間になる途上の不完全な存在」で、大人とは明確に区別される。一方日本では、もともと子ども文化と大人文化に断絶がなかったからこそ、マンガ・アニメが大人の表現形式にもなり得たのだ。欧米のアニメーションの根底に依然として「アニメーションは子どもが観るもの」という常識があるのとは、まさに対照的だ。

欧米を中心とする世界の常識を唯一無視してきたのが、日本のアニメだった。日本のアニメは、「子どもが観るもの」という常識を無視して、製作者たちがそこで様々な映像表現の可能性をさぐる場となった。その複雑な世界観やストーリー展開の魅力は、アニメーションで育った世界の若者たちに、乾いた砂に水が浸み込むように自然に受け入れられていった。

「子どもが観るもの」には様々な制約がある。その制約がはじめからなければ、マンガ・アニメという表現の場は、逆に限りなく自由な発想と表現の場になる。実写映画は、登場する生身の人間のリアリティに引きずられて発想と表現に自ずと制限がかかる。マンガ・アニメはその制約がなく、想像の世界は無限だ。子どもと大人の領域が融合しているため、エロや暴力の表現が、子供の世界にまで入り込んでいる。これが、批判や拒否の理由とされることもあるが、国際競争力の強さになっている現実もある。

さて、本ブログでは、日本のマンガ・アニメの発信力の理由をこれまで以下の視点から考えてきた。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが豊かな想像力を刺激し、作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の独自性。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

⑤知的エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだりり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

これらは、あくまでも暫定的なものであり、今回の考察を含めて、今後さらに項目や内容は変化していくと思う。いずれにせよ、世界の若者が日本ののポップカルチャー魅せらるのは、その「オリジナリティ」によるのだろう。そして「日本でしか生まれないものを次々に創り出していく」その独創性の背景には、日本独特の文化的背景がある。それをさらに明らかにしていくのが私の課題だ。

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アニメのユニークさと日本の伝統(2)

2015年02月10日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『日本のアニメは何がすごいのか 世界が惹かれた理由(祥伝社新書)

著者・津堅信之氏は、この本で日本のアニメのユニークさを、①ロボット・アニメ、②スポ根アニメ、③魔法少女アニメ、④ヤングアダルト向けアニメという視点から捉えていたことは、前回見た通りだ。今回は、そのそれぞれが日本の社会・文化的伝統とどのような関わりがあるかを見ていこう。

①ロボット・アニメ‥‥「テクノ-アニミズム」

これは、このブログの中心テーマである日本文化のユニークさ8項目でいえば、

(1)「漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている」

に深く関係する。現代日本人の中に縄文的な心性が流れ込んでいるといっても、では、私たちの中の何が縄文的なのかいまひとつピンと来ない。しかし、私たち日本人の多くが、楽しんで読んだり見たりした作品の中にそれが表れているとすれば、これかと納得しやすいのではないか。

「テクノ-アニミズム」は、アン・アリスンが『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』の中で使った言葉だ。この本で著者は、縄文時代とか縄文文化とかいう言葉はいっさい使っていない。しかし、鉄腕アトムなどを例にしながら、テクノ-アニミズムという言葉を使って現代日本のポップカルチャーのある一面を特徴づけている。アニミズムとはもちろん、巨石からアリに至るまであらゆるものに精霊が宿っていると感じる心のことだ。それがテクノロジーとどう関係するのか。

鉄腕アトムでは、たとえば警察車両が空飛ぶ犬の頭だったり、ロボットの形もイルカ、カニ、アリ、木まで何でもありだ。マンガ・アニメに代表される日本のファンタジー世界では、あらゆるものが境界を越えて入り混じっているが、その無制限な融合を可能にする鍵が、テクノロジーの力なのだ。メカと命あるものの結合によってテクノ-アニミズムが生まれる。

アトムそのものがテクノ-アニミズムのみごとな具体例だといってもよい。アトムはメカであると同時に、「心」をもった命とも感じられる。正義や理想のために喜んだり、悩んだり、悲しんだりするアトムの「心」に、私たちは感情移入してストーリーに胸を躍らせる。

手塚治虫によってアトムというロボットに「命」が吹き込まれた(アニメイトされた)が、アトム誕生の背後にある道は、かなたの縄文的アニミズムにまで続いている。アトムやドラえもん、初音ミクなどに見られるように、日本人はテクノロジーや機械と生命や人間との境界をあまり意識せず、アトムやドラエもんが人間的な感情を持つことに違和感を感じず、現実のアイドルのように初音ミクに熱狂する。

西欧に共通するキリスト教的な世界観では、人間が世界の中心であり、人間、生物、無生物は明確に区別されるが、日本人にはそういう意識があまりない。生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しないアニミズム的文化が現代になお息づき、それが多かれ少なかれ作品に反映するから、アトムやドラエもんが生まれてくるのだろう。日本では、伝統的な精神性、霊性と、デジタル/バーチャル・メディアという現代が混合され、そこに新たな魅力が生み出されているのだ。

②スポ根アニメ‥‥「道」の重視

「長期間の放映を通じて、ひとりの主人公の成長を描く『大河ドラマ』的なドラマ構成」という日本アニメの特徴は、それだけ日本人が、野球やサッカーやバスケットボールやテニス、そして囲碁やクラッシク音楽やカルタなどの「修行」を通して人間が成長していく姿を見るのが好きだからだろう。(漫画やアニメが好きな人なら、上にあげたそれぞれのジャンルにどのような漫画・アニメが対応しているかすぐ思い浮かび、そこでどんな成長物語が展開したか懐かしく思い出すだろう。)

それらは、日本人にとってたんなるスポーツや娯楽ではない。野球であろうとサッカーであろうと囲碁であろうと、それぞれの道で厳しい修行を通して、達人の域に達する魂の修行の場だという捉え方をする。そういう文化的な伝統があるから、スポーツや囲碁やクラッシク音楽の「修行」を通して主人公が成長して行く過程を見るのが好きなのだ。そして「修行」を好む日本人の伝統は、禅の修行やその影響を受けた剣道や各種の芸道の修行という伝統につながっているだろう。さらには神道の伝統にまで連なっているかもしれない。

日本アニメと「道」との関係については、今回触れるのが初めてだが、追ってもっと詳しく考えてみたい。


③魔法少女アニメ‥‥母性社会日本
④ヤングアダルト向けアニメ‥‥子どもと大人の区別が曖昧な日本

については、次回に見ていくことにしたい。


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2015年02月09日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『日本のアニメは何がすごいのか 世界が惹かれた理由(祥伝社新書)

著者・津堅信之氏は、『日本アニメーションの力』などでかなり専門的に日本アニメの発達史などを研究・発表してきた人
である。その著者が新書で一般向けに日本アニメの歴史や特徴、海外での受容の現状などをまとめたのがこの本である。しかし引用元の注などもしっかりしており、日本アニメの海外への影響力を含め、偏らずにその実情を知るにも、充分に信頼できる一冊であると思う。

たとえば著者は、「とかく日本人は、自国のコンテンツ(伝統文化・芸能を含む)が海外で受け入れられていることに対する過度の喜び」があり、その喜びと期待が海外での受け入れの実情への「誤解」を産んでいると指摘する。ごく少数のマニアックなファンの熱気を、全体の熱気と勘違いする傾向があるというのである。そうした見方も含めて海外でのアニメ受け入れの現状を正確に捉えることは重要で、その意味でもこの本は参考になる。

私自身の関心は、日本の伝統的な社会や文化のあり方が、現代アニメにどのように影響しているかを探ることにある。もちろんこの本は、そういう関心から書かれたものではないし、そうした話題に触れてもいない。しかしこの本では、第2章「アニメ=日本のアニメとは何か」で、日本独自のアニメーションの特徴をいくつかに分けて見て行く。これが私の関心へのヒントになりそうなので、以下この章を中心に紹介する。

①ロボット・アニメ
日本の本格的なテレビアニメが『鉄腕アトム』だったことの意味は大きい。その後の日本特有のアニメ制作方法を方向付けただけでなく、「人気漫画のテレビアニメ化」という路線としも受け継がれた。さらに「心を持ったロボット」という印象的なキャラクターがその後の日本のアニメに与えた影響も大きい。もちろん日本のロボット・アニメでは『ガンダム』に代表されるような兵器としてのロボットも重要だが、いずれにせよ「ロボットが身近な存在」という設定は日本のアニメの特徴のひとつだ。

②スポ根アニメ
その代表作『巨人の星』は、たんにスポ根アニメにとどまらず、日本アニメのひとつの典型となった。それはまず「長期間の放映を通じて、ひとりの主人公の成長を描く『大河ドラマ』的なドラマ構成」という独自性だ。また少ない動画枚数で絵のクオリティーや動き方を工夫する演出方法を生み出したという点だ。スポ根アニメは『キャプテン翼』や『スラムダンク』などヨーロッパで知名度が高く、有名サッカー選手たちが翼の影響を大きく受けた話などは有名だが、いっぽうアメリカではスポ根アニメの人気は低調のようだ。

③魔法少女アニメ
海外では、女の子が「ヒーロー」となるアニメはきわめて少ないが、日本アニメでは女の子が「ヒーロー」として活躍する作品が多い。その中心となるジャンルが「魔法少女アニメ」である。欧米のキリスト教社会では、魔法を使う少女=魔女が伝統的に忌避される傾向があり、それだけ日本アニメの魔法少女ものが日本アニメの特徴のひとつとして際立つし、注目されるのかもしれない。

④ヤングアダルト向けアニメ
海外で製作されテレビで放映されるアニメーションは、ほぼ子供向け、幼児がせいぜい小学生までを対象とする。しかし日本アニメでは、中高生などのヤングアダルト向けの作品が重要な位置を占める。海外で日本のアニメに注目が集まるのは、主としてこうしたヤングアダルト向け作品であり、海外での愛好者もヤングアダルト世代が多い。

以下、⑤「アニメ誕生」では、日本のアニメがまずはデズニーを手本とし、その絶大な影響を受けながら、独自の日本アニメを生み出していく過程が描かれ、⑥「スタジオジぶり」では、アニメ界の「独立国」ジブリの、宮崎駿や高畑勲による日本のアニメ界ではユニークな歩みが語られる。

さて、私の関心は、日本の社会や文化の伝統的なもの特徴が、現代日本のアニメのどのような側面に表れているかを探ることであった。結論から言えば、上に紹介した①~④の特徴はすべて、日本の社会や文化のユニークさに多かれ少なかれ関係していると思われる。すでにこのブログで触れてきたこととも重なるので、それらを紹介しながら次回に見ていこう。そのさい、それぞれのキーワードとなるのは以下である。

①テクノ・アニミズム、②「道」の重視、③母性社会日本、④子どもと大人の区別が曖昧な日本

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世の中を平和にする日本語と縄文時代

2015年02月06日 | 現代に生きる縄文
◆『日本語が世界を平和にするこれだけの理由

著者の金谷武洋氏は、カナダのモントリオール大学で長年、日本語を教えてきた人。この本は、その経験を随所に散りばめ、中学生でも興味をもって読めるように、やさしく書かれている。欧米語に比べ、日本語がいかに独自の素晴らしさをもっているか、英語を学び始めた若者たちにもそれを知ってもらいたいという、強い思いで書かれたようだ。ここでは、私の関心に重なる限りで、その内容の一部を紹介してみよう。

日本人なら富士山を見て「あ、富士山が見える」と言うだろうが、英語を母国語とする人なら、Oh, I see Mount Fuji. というだろう。この場合、日本語文の主人公は自然(富士山)だが、英語では「私」という人間である。日本人ならその場面の主人公は富士山であり、私のことなど念頭に浮かばない。

日本語の「ありがとう」には話し手も聞き手も、つまり人間が一人も出てこない。これに対し、Thank you は、元は I thank you であり、話し手と聞き手がしっかり登場する。英語は「(誰かが何かを)する言葉」、日本語は「(何らかの状況で)ある言葉」と言えるかもしれない。

日本語の「おはよう」は、「こんなに早いんですねぇ」と心を合わせ、二人で共感する言葉だと言えるが、英語の Good morning は、元々は I wish you good morning.であり、私があなたの朝が良いものであるよう祈るという積極的な「行為」を表現する。つまり「する言葉」なのだ。

両方とも、英語には人間が出てくるのに、日本語には出てこない。日本語の「おはよう」も「ありがとう」も、二人が同じ方向も向いて「視線を合わせ」ながら(「共視」しながら)、一緒に感動、共感しているだけで、文に人間が出てこない。日本語は、共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉であるとも言える。


日本語と、英語に代表される欧米語とは、様々な点でその「発想」が正反対である。たとえば地名についても、日本語では、ある有名人がそこの出身だからと言って、土地にその人の名前をつけるのは非常に珍しいが、英語では、人名が地名になるケースが多いのである(人名→地名)。では人名についてはどうだろうか。日本語は、地名(や地形など場所の特徴)が人名になる(地名→人名)が、英語の名前は、先祖の職業がなんだったかや父親は誰だったかなどによる場合が圧倒的に多い、つまり多くが人間に関係している。日本語の苗字は「先祖がどこに住んでいたか」に注目するが、英語では「先祖がどんな人だったか」が大切なのだ。ここにも、自然に立脚する日本人の発想と、人間に立脚する欧米人の発想との違いがありそうだ。

もし言葉を話す場を、劇の舞台にたとえるなら、英語はそれを演じる役者、「人間に注目」するのに、日本人は人間よりもその周りの舞台や背景、つまり「場所に注目」するのだとも言える。日本語の話者は、自分を強く打ち出すよりも、周りと強調し、「全体の中に自分を合わせていくこと」を目指すことが多い。「全体に溶け込む」ように努力するあまりに、聞き手を直視したり、大きな声で話すことを避けようとする。日本語という言葉そのものの中に「自己主張にブレーキがかかるような仕組み」が潜んでいるのかもしれない。

金谷氏には『日本語に主語はいらない』という本でも主張するように、日本語の基本文では、英仏語などと違い、述語があるだけでりっぱな文になるという。欧米語の発想からすると主語が省略されているように見えるが、実はそうではなく、もともとそれは述語に含まれているのだという。

欧米語、とくに英語は文の組立てに「主語」が不可欠だ。そのためか、英語の話者は聞き手と同じ地平に立たないどころか、自分を含めた状況から身を引き離して上空から見下ろしているようになってしまった。もともと欧米語も自然中心の言葉だったたが、少しずつ人間中心の言語に変化していき、その最先端に英語が位置すると著者はいう。

かつてこのブログで金谷氏の別の本、『日本語は亡びない (ちくま新書)』を紹介した。ここでも、日本語を、英語をモデルとした文法で理解しようとする愚かさが鋭く指摘されている。英語文法は、主語-述語を基本とした人間中心の構造をもつ。英語の話者は、他との関係で自分を捉えるのではなく、状況から独立した絶対的な私(主語)を中心に考える傾向が強くなる。それに対して、日本語文法は、自然や状況中心の文法であり、英文法モデルで分析するには無理がある。むしろ、混迷する世界の救える思想が日本語には含まれており、だからこそ日本語の脱英文法化が急がれなければならないという。日本語だけでなむ、日本文化全般への著者の愛情を感じさせる本だった。

では、日本語はなぜそのような特徴を持つのか。著者は、その理由を語っていない。しかし私には、その理由が、このブログで語、日本文化のユニークさ8項目のうち、とくに一番目に深く関係していると思われる。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。「縄文時代の環境に影響されているのではないか。

日本列島に生活した私たちの祖先は、定住段階に入ったにもかかわらず、狩猟・採集・漁撈を核とする生活を営み、森におおわれた大地と豊かな海との生態系に深く依存していた。新石器文化としては特異な、前農耕社会でありながら独自の土器を伴う質の高い生活形態を驚くほど長期にわたって保ち続けていたのだ。およそ1万年も続いたその生活スタイルの記憶や影響が現代の私たちに残っていないとする方が不自然であろう。しかもそういう環境の中で生まれたであろう縄文語が、おそらく現代日本語の基盤となって、私たちの発想法に影響を与えているのだ。

縄文人は、一定の植物栽培を行っていたとしても、それは周囲の自然を根本から大きく変えるものではなかった。森におおわれた豊かな自然そのものが彼らの生活を支えていた。周囲の自然を荒らさず大切に守り、そこから許されるだけの恵みを得ることで、自分たちの永続的な生存が保障される。それほど密接な関係にある周囲の自然を、限度を超えて勝手に荒らせば、自分たちの生存が脅かされることを縄文人はいやというほど知っていた。彼らは、木や草や川や森や様々な生き物を自分たちと同格の存在、あるいはそれ以上の神聖な存在と感じ、その怒りに触れることを恐れた。こうして彼らは、周囲の自然の背後に、一切の生あるものを生み出す地母神や様々な精霊を感じ、その恵みに抱かれて生きていることを実感し、感謝しただろう。だとすれば、命あるものを限りなく生み出す「母なる自然」への縄文人の祈りや信仰は、農耕民よりももっと強かったと考えるのが自然だ。

そのような縄文人の生き方からは「人間中心」の発想は出てくるはずがない。自然に依拠し、周囲の自然を敬いながら生きた縄文人の世界観は、おのずとその言語にも反映される。一万年以上の年月の中で形成されたであろう縄文語は、他の縄文文化と同様に次の時代へと引き継がれていった。その世界観が現代日本語にも反映されているのだ。

以上に関連する記事は下に示したが、とくに★日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)を読んでいただければ幸いである。

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日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)