クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

日本文化のユニークさ06:日本人の価値観・生命観

2010年05月29日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
◆『日本人の価値観―「生命本位」の再発見』(立花均)02

前回の記事(05)について、ミラーブログの方に、「日本」と「日本以外の世界」という分け方は少し乱暴なのではないか、というコメントをいただいた。ところが、この本の主張のいちばん重要な部分が、「日本」と「非日本」とを対比し、日本人の生命観のユニークさを際立たせせることなのである。図式としては次のようになる。

非日本人  絶対的な価値をもつものの本体(神)≒人間 →→(隔絶)→→ 動物・物
日本人   絶対的な価値をもつものの本体 →→(隔絶)→→ 生命(人間・動物)∥物

日本人は、「絶対的な価値をもつものの本体」(形而上学的な原理)を打ち立てて、それとの関係で人間の価値を理解するような思考が苦手である。そうした思考法とは無縁に、人間も他の生き物や物と同じように、はかない存在ととらえる傾向がある。それに対して大陸の諸民族は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教教徒はもちろん、ブラフマン=アートマンの世界観を抱くインド人も、儒教中心の中国人も、多かれ少なかれ形而上学的な原理によって人間を価値付ける傾向があるという。儒教も、人間は自然界の頂点に立つ特別の選ばれた存在であるとみなすという。

著者は、日本人の価値観・生命観が、欧米とはもちろん、インドや中国など他のアジアの国々とも大きく隔たるユニークさをもつに到った理由を、明確に述べているわけではない。
しかし、もし日本人が、「日本以外の世界」と対比されるユニークさを持っていると言えるとすれば、この「日本文化のユニークさ」という連載を始めた最初に掲げた三つの理由に集約できるのではないか。つまり次の三つである。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

(1)についてはすでに論じたが、今回のテーマとの関連で言えば、土器を使いながら本格的な農耕・牧畜を伴わない豊かな新石器文化が長く続いたため、流入した大宗教(仏教)や儒教も、その基層文化を抹殺することなく、共存・融合した。大陸の多くの地域と違い、自然崇拝的、アニミズム的心性が色濃く残った。だから形而上学的な原理によって人間を価値付けようとする傾向も、本格的には取り入れられなかった。

(2)に関しては、すでに『肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見)』などを参照しながら論じた。この牧畜・遊牧を本格的には導入しない農耕文化というのも、かなりユニークである。私は、これもまた日本人のアニミズム的心性を色濃く残したもう一つの大きな理由だと思う。

肉食が、直接的に、人間と他の生命を分離する価値観を生み出すのではないことはすでに触れた。しかし『日本人の価値観』の著者は、『肉食の思想』をそのように誤読している。実際は、「肉食」というよりも牧畜・遊牧という「生活形態」こそが、そのような価値観を生み出すのである。つまり多量の家畜をつねに育て、管理し、その交尾を日常的に目撃し、育てた家畜を解体して食べる、それが生活の重要な一部であればこそ、人間と家畜との徹底的な違いを強調せざるを得なかったのである。

(3)についはまだ論じていない。これについては、グレゴリー・クラーク 『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)』という本を取り上げなら論じたい。この著者も、また別の理由から「日本」と「日本以外の世界」の違いを強調する。

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日本文化のユニークさ05:人と動物を境界づけない

2010年05月07日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
◆『日本人の価値観―「生命本位」の再発見』(立花均)01

独立した項目でこの本の書評という形にしてもよかったのだが、「日本文化のユニークさ04」と関連が深く、その流れの中で書きたいので「日本文化のユニークさ05」とした。

著者は、日本人の価値観が、欧米とはもちろん、インドや中国など他のアジアの国々とも大きく隔たり、「日本」と「日本以外の世界」を対比できるユニークさを日本は持っていると主張する。それは、「人間-生物-無生物」の中でどこにいちばん大きな境界線を引くかという問題に集約される。

欧米人にとって人間は、被造物全体の中で特別に神の「息吹」を与えれたものとして、他の動物とは本質的に違う。神の似姿である人間は、他の動物より決定的に価値が高い。それは、人間の「理性」に根本的な価値を認め、そこに価値判断の基準を置くからだという。

ところが日本人は、「生命」に根本的な価値を認めるので、人間と動物は同じ「生命」として意識され、根本的な境界線は人間を含む「生命」と無生物との間に置かれるという。

この違いを示す面白い例として著者が挙げているのは、愛犬のためにお葬式をしてほしいと神父に頼む日本の老婦人の話である。イタリアから来たファナテリというその神父は、その依頼を受けて心底驚いた。イタリアでは、どんなに無学な人からもペットの葬式をして欲しいという発想は出てこないからだ。

欧米でも子供ならペットの葬式をすることはありうるだろう。しかし大人からはそういう発想は出てこないという。欧米では、大人と子供の世界は違っており、その間もはっきりとした境界線がある。そこにもやはり「理性」が育っているかいないかの価値判断が働いているらしい。

ところが日本では、大人と子供の世界が連続しており、しかも欧米で言えば子供の発想であるペットの葬式が当然のように大人の世界でも真面目に行なわれる。日本製アニメの世界的な流行の背景には、大人と子供の世界が連続しているという日本の文化的な特質が大きな要素としてあるかも知れない。大人が抵抗なくマンガ・アニメを見るのもそうだが、作り手の方も、欧米から見ると子供的な発想を保ったまま製作にかかわれるのだろう。(この本のレビュー続く)

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日本文化のユニークさ04:牧畜文化を知らなかった

2010年05月05日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
今回は、三つの論点のうち(2)を取り上げる。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

日本文化のユニークさの背景に、日本人が牧畜生活を知らず、また遊牧民との接触がほとんどなかったことがあると指摘する論者は何人かいる。(『日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)』、『日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)』、『アーロン収容所 (中公文庫)』など)

日本には、牧畜・遊牧文化の影響がほとんどない。日本に家畜を去勢する習慣がなく、したがって人の去勢たる宦官がいなかったのもそのためである。ユーラシア大陸のどの地域にも宦官は存在したのである。また人の家畜化である奴隷制度も根付かなかった。奴隷制度が根付かなかったのは、世界的にはむしろ例外に属するようだ。

ヨーロッパの牧畜文化が、その思考法や価値観にどのような影響を与えたかを考察することによって、日本人の思考法や価値観との違いを浮き上がらせたのが、鯖田豊之の『肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)』である。

旧約聖書の中には、人間と他の動物を明確に区別する考え方がはっきりと表現されている。

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。‥‥神はいわれた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。』」(創世記)

旧約聖書を生んだヘブライ人は、もちろん牧畜・遊牧の民であった。ヨーロッパでもまた牧畜は、生きるために欠かせなかった。農耕と牧畜で生活を営む人々にとって家畜を飼育し、群れとして管理し、繁殖させ、食べるために解体するという一連の作業は、あまりに身近な日常的なものであった。それは家畜を心を尽くして世話すると同時に、最後には自らの手で殺すという、正反対ともいえる二つのことを繰り返して行うことだった。愛護と虐殺の同居といってもよい。その互いに相反する営みを自らに納得させる方法は、人間をあらゆる生き物の上位におき、人間と他の生物との違いを極端に強調することだった。

ユダヤ教もキリスト教も、このような牧畜民の生活を多かれ少なかれ反映している。たとえば、放牧された家畜の発情期の混乱があまりに身近であるため、そのような動物との違いを明確にする必要があった。その結果が、一夫一婦制や離婚禁止という制度だったのかも知れない。

「肉食」という食生活そのものよりも、農耕とともに牧畜が不可欠で、つねに家畜の群れを管理し殺すことで食糧を得たという生活の基盤そのものが、牧畜を知らない日本人の生活基盤とのいちばん大きな違いをなしていたのではないか。

日本人が、ヨーロッパ人の言動に違和感を感じるとき、よく「バタッくさい」という言葉をつかったが、これはまさに牧畜文明に対する馴染みにくさを直感的に表現していたのかも知れない。キリスト教の中にも同じような馴染みにくさを感じるからこそ、日本にキリスト教が定着しなかったのではないだろうか。

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日本文化のユニークさ03:縄文的基層を残すからキリスト教は広まらなかった

2010年05月04日 | キリスト教を拒否する日本
前回、日本文化のユニークさとキリスト教が広まらなかった理由を、仮りに3点からまとめてみた。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

今回以降は、この三点のそれぞれについて、少しだけ考察してみたい。今日はまずは(1)について。

《参考文献》
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

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縄文文化については、稲作がどの程度普及していたのかという点も含めて、今なお論争が続いているが、縄文土器や土偶などに見られるような縄文時代の心性が、日本文化の基層を形づくったことは確かだろう。

今から二千数百年前に、本格的な稲作技術をもった渡来人が大陸から日本列島に渡ってきた。その渡来人の人口は、縄文人のおよそ2倍から3倍と言われる。しかし、一度に大量に渡来したのではなく、およそ千年の間に徐々に渡ってきたものと思われる。それゆえ、渡来人が縄文人の文化を圧殺したり駆逐したというよりは、むしろ縄文文化に溶け込み、同化する面が多分にあったと思われる。

縄文時代は、中期にすでにひとつの言語的なまとまりが成立していたと言われる。したがって小集団ごとに渡来した人々は、長い年月の間に言語的にも縄文人と同化していったであろう。

縄文文化が基層文化として生き残ったのは、日本が大陸から適度に隔たった島国であるということや、その大半を山岳と森に覆われいたという地理的な条件に負うところも大きいだろう。海で隔てられていたからこそ徐々にしか渡来できなかった。また山と森に覆われていたからこそ、縄文人と弥生人の緩やかな住み分けと共生が一定期間可能であったのである。

こうして縄文的基層文化は、弥生時代になっても消えることなく、銅鐸の文様に縄文的な図形が描かれ、弥生土器にも縄文土器の流れをくむものが見られるのである。

その後大陸から仏教がもたらされるが、仏教は縄文的な基層文化に合うように変形され、受け入れられていくのである。それは、神道と仏教が、それぞれの要素を取り入れながら並存していくという形としても現れた(本地垂迹説など)。仏教に対しても縄文的な基層文化は根づよく生き残ったのである。

ちなみに朝鮮半島では、仏教以前の宗教の痕跡がほとんど残っていないという。ヨーロッパでは、キリスト教以前のケルト文化などが注目されるが、それはほとんどの地域でキリスト教によって圧殺されていったのである。

やがて日本にもキリスト教が伝来する。しかしこの宗教は日本列島にはほとんど定着することができなかった。そのひとつの理由は、この時期に日本がキリスト教国による植民地化を免れたからだろう。つまり暴力的な押しつけができなかった。である以上、キリスト教が日本に広まることは不可能であった。キリスト教は、日本の基層文化にとってあまりに異質なために受け入れ難く、また受け入れやすく変形することも難しかったのである。

キリスト教は、形を自由に変えて受け入れることを拒む強固な原理性をもっている。日本に合うように形を変えてしまえば、それはもはやキリスト教とは言えないのである(正統と異端の問題)。仏教が、原始仏教と大きくかけ離れても仏教でありうるのとは好対照をなしている。

西洋文明は、キリスト教を背景にして強固な男性原理システムを構築した。それはしばしば暴力的な攻撃性をともなって他文化を支配下に置いた。男性原理的なキリスト教に対して縄文的な基層文化は、土偶の表現に象徴されるようにきわめて母性原理的な特質を持っている。その違いが、日本人にキリスト教への直観的に拒否反応を起こさせたのではないか。

一神教は、砂漠の遊牧文化を背景として生まれ、異民族間の激しい抗争の中で培われた宗教である。牧畜・遊牧を知らない縄文文化と稲作文化とによってほぼ平和に一万数千年を過ごした日本人にとってキリスト教の異質さは際立っていた。キリスト教的な男性原理を受け入れがたいと感じる心性は、現代の日本人にも連綿と受け継がれているのである。

日本文明は、母性原理を機軸とする太古的な基層文化を生き生きと引き継ぎながら、なおかつ近代化し、高度に産業化したという意味で、文明史的にもきわめて特異な文明なのである。

日本発のマンガ・アニメは、その特異さ、ユニークさを何らかの形で反映した、不思議な魅力を放つがゆえに、世界に受け入れられたという面があるのではないか。

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日本文化のユニークさ02:キリスト教が広まらなかった理由

2010年05月03日 | キリスト教を拒否する日本
整理すると、日本文化のユニークさの根底にあるものとして、大きく次の三点が浮かび上がると思う。そして、その三点がそのまま「日本にキリスト教は広まらなかった」理由に深く関係している。さらにそれらはどこかで、マンガ・アニメが世界に広まっていることと関係している。今日は、大雑把にこの三点を紹介してみたい。

(1)1万2000年続いた縄文時代人の心やその文化が、現代の日本文化の底流としていき続けているということ。土器を伴う、高度な狩猟・採集文化というユニークさ。

(2)日本の稲作文化は、本格的な牧畜文化とは無縁で、また遊牧民との接触もなかったということ。

(3)明治時代以前には、異民族との戦争をほとんど知らず、異民族による侵略、強奪、虐殺、文化の抹殺など悲惨な体験をもたないこと。したがって異民族の強大なイデオロギーによる支配も経験せず、それに対抗するため自らを強固なイデオロギーで武装する必要がなかったこと。

これら三点が密接にからみあいながら、日本の歴史や文化のユニークさを形づくっており、また日本にキリスト教が広まらなかった(現在も広まらない)要因にもなっている。それをかんたんに書くと以下のようになる。

(1)現代日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、アニミズム的、多神教的な傾向が、無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教など一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。

(2)キリスト教は、遊牧民的ないし牧畜民的な文化背景を強くにじませた宗教であり、牧畜文化を知らない日本人にとっては、根本的に肌に合わない。絶対的な唯一神とその僕としての人間という発想、そして人間と動物とを厳しく区別する発想の宗教が、縄文的・自然崇拝的心性には合わない。

(3)ユーラシア大陸の諸民族は、悲惨な虐殺を伴う対立・抗争を繰り返してきたが、それはそれぞれの民族が信奉する宗教やイデオロギーの対立・抗争でもあった。その中で、自民族をも強固な宗教などによる一元支配が防衛上も必要になった。キリスト教、イスラム教、儒教などは多少ともそのような背景から生じ、社会がそのような宗教によって律せされることで「文明化」が進んだ。

しかし、日本はその地理的な条件から、異民族との激しい対立・抗争にも巻き込まれず、強固なイデオロギーによって社会を一元的に律する必要もなかった。だから儒教も仏教も、もちろんキリスト教も、社会を支配する強力なイデオロギーにはならなかった。

したがって、日本文化には農耕・牧畜文明以以前の自然崇拝的な心性が、圧殺されずに色濃く残る結果となった。要するにユーラシア大陸に広がった「文明化」から免れた。ヨーロッパで、キリスト教以前のケルト文化などが、ほとんど抹殺されていったのとは、大きな違いである。

以上が大雑把な枠組みだが、このほかにも考察すべき論点は山ほどある。日本文化とは何かを問うことが、人類の文明とは何かを問うことと同じになってしまうということは、驚くべきことだ。

これらの日本文化の特質(社会を支配する強力なイデオロギーがない、農耕・牧畜文明以以前の自然崇拝的な心性が存続する、かつ先進的なテクノロジーの国であるなど)が、マンガ・アニメにも、反映されており、それが不思議な魅力となって世界に受け入れられている。

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日本文化のユニークさ01:なぜキリスト教を受容しなかったかという問い

2010年05月02日 | キリスト教を拒否する日本
「日本の長所」というテーマで何回か連載したが、この連載は、今後も飛び飛びになるかも知れないが続けていくつもりである。それと併行して「日本文化のユニークさ」と題して別の連載を行なう。今日が第一回目。これは5~6回ほどで終わる予定。

日本文化のユニークさということと、日本にキリスト教がほとんど広まらなかったこととは、密接なつながりがあると思う。それと、日本のアニメ・マンガが世界に広まっていることとも、深いつながりがある。なぜそういえるのかを、今後何回かに分けて検討していきたい。

なお、この連載にあたっては以下の本を主に参考にしている。

★ 鯖田 豊之 『肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
★立花均『日本人の価値観―「生命本位」の再発見
★イザヤ・ベンダサン 『日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
★会田 雄次『アーロン収容所 (中公文庫)
★C・W. ニコル『誇り高き日本人でいたい
★グレゴリー・クラーク 『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)

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日本文化の特徴として、異質な文化を自分の社会のなかにためらわず積極的に取り入れて自分のものとしていくという貪欲さがある。かつては中国から、明治以降は西欧から多くの文化を取り入れて来た。とくに明治以降の西欧からの取り入れは凄まじく、その貪欲さがあったからこそ、非西欧世界ではいち早く近代化に成功した。

しかし、あれほど西欧の文物を崇拝し、熱心に学び、急速に吸収していったにもかかわらず、日本でのキリスト教の普及率はきわめて低かったし、今も人口の0.8パーセントを占めるにすぎない。なぜなのだろうか。

私たちが自覚していると否とにかかわらず、日本の文化には日本の文化なりの成り立ちや仕組みがあって、それと根本的に相容れないものは、受け入れてことなかったのであろう。あるいは、受け入れてきたものは、これも無自覚のうちに、日本文化の仕組みに合うように変形して取り入れて来たのかもしれない。

では、キリスト教とは相容れない日本文化の仕組みや構造とは何なのか。これは日本文化を考察する上ではきわめて大切なポイントになるのではないかと思う。しかし、この問いを体系的に本格的に論じた研究は、これまでほとんどなかったのではないか。

私が読んだ中で何人かの人が、それぞれにこの問いに答えている。それらを紹介しながら、少し探求を続けてみたい。

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お別れのスピーチ

2010年05月01日 | 全般
今日は、このブログとしてはちょっと異質なのだが、私が昨日行なったスピーチを掲載する。私が勤めていた高校での、全校生徒を前にしたお別れの挨拶である。

そのスピーチの一部が、このブログのテーマに関係するからだ。スピーチをするにあたって、いろいろ考えたのだが、やはり私がいまいちばん関心をもっていることを通して、生徒に語りかけるのがよいと思った。

実際に話した内容は、時間の関係などで下に掲載したものとはかなり違ってしまった。しかし、主旨はほぼこれと同じである。なお、本文の中の、フランス人、ベトナム人へのインタビューからの引用は、『続 私は日本のここが好き!  外国人43人が深く語る』からである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みなさん、こんにちは。私は○○高校で9年間勤務しました。
○○高校で働いていちばん印象深かったことは、9年間で生徒の印象が大きく変化したことす。一言でいうと、毎年毎年、生徒たちがまじめで素直になっていったということです。

(中略)

ところで最近私は、ある発見をした。○○高校の生徒は急激に素直で真面目になっていったけれど、これは日本の高校生全体に言えることだったんだなと。もちろん、○○高校生にとくに顕著にはっきり現れていた傾向なのだけど、今の日本の若者は多かれ少なかれ真面目でおとなしくなっている。

ひとつだけ例をあげます。
電車や街中で地べたに座る、電車の中で大声で話す、電車の中で携帯で話す、下着が見えそうな服装をする。こういうのをみんなどう感じますか。8年・9年前の若者に比べると、こういうのに違和感、抵抗感を感じる若者がどの項目でも2・3割ずつ増えているのだそうだ。ということは、それだけそういうことをする人が少なくなっている。日本の若者全体が、それだけ真面目になっているということでしょう。(数字は、地べたに座る96%、大声で話す95%、下着が見えそうな服装で70%が違和感を感じる、『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』より)

もしかしたら、これは若者に活気がなくなった、反抗心がなくなったという面につながるのかも知れないけれど、一方で今の若者も、日本の社会のよさを確実に守っていく方向に変化しているな、という良い面もあると思っている。

日本の社会の良さとは何か。それは日本の中にいるとあまり分からない。実は私も海外に長期滞在したという経験はありません。ただ今はインターネットが発達しているから、たとえばYutubeなんかで、日本の様子を写した動画を世界中の人がかんたんに見ることができ、すぐにその反応、感想を書き込む。そういうのを見ていると、世界中の人が日本のどんなところに良さを感じているのかがすぐわかる。

たとえばこれは、日本に3年ほど住んでいるフランス人の感想だけど、「これまでにパリ、ベルリン、ロンドンにも住んだことはありますが、日本の街の安全性は特別です。通常、大都市で生活するときは緊張感が伴います。街を歩くとき、基本的には行き交う人々と視線を合わせないほうがいいと言われています。しかし、東京では初めからそういう緊張は感じませんでした。新宿や渋谷など、いろいろな人々が行き交う繁華街でさえも、大都市で安心して生活できる――そうしたすばらしい気持は、日本でしか感じられません。」

日本の電車の中では、みんな安心して眠ったり、本を読んだりしているけれど、パリやロンドンでは、みんな緊張して自分のカバンをしっかり抱えているそうだ。安心して眠るなんてできない。いつ何を盗まれるか、分からないからね。

日本は、安全な国であり、ルールをよく守り、社会に秩序がある。中国から日本にやってきた人々がびっくりすること。ホテルを出るとき退出検査がない。部屋の小物を盗むような日本人は、ほとんどいないからだろう。犬を散歩させるけど糞は、飼い主がその場で掃除をする。これも、びっくりするらしい。アメリカ人も中国人も驚くこと、日本には自動販売機が多い、しかも誰もそれを壊して金を盗まない。自動販売機が鉄孔子で囲われていなくとも、盗む人はいない。

もうひとつ紹介しよう。これは日本でベトナム料理店を開いているベトナム人の感想です。
「日本に来て本当によかったと思います。日本人は正直で、几帳面、他人を騙す人は少ない。それは従業員を使ってよく分かりました。例えば、ベトナム人は、自分の都合で予告なく休みます。自分の都合を優先します。突然の休みでお店はてんてこ舞いになる。それでも同じことを繰り返す。その点、日本人は事前に休みを申請し、店側に迷惑をかけないよう気配りしてくれます。仕事に対する意識が違うのです。」

こういう感想もすごく多い。たとえばたとえばスパゲッティのゆで方ひとつとっても、日本人の仕事への情熱、完璧を追求する精神がよく分かるという。日本のどんな小さなイタリア料理店にいっても、イタリアと同様のアルデンテの状態(理想的なゆで上がりである歯ごたえのある状態)で出てくる。ヨーロッパの国では、高級イタリア料理店を除くと、このアルデンテに遭遇する確率はきわめて少なくなるのだそうだ。

インターネット上などで外国人が述べている日本の社会の良さをまとめると、

1)礼儀正しさ
2)規律性、社会の秩序がよく保たれている 
3)治安のよさ、犯罪率の低さ 
4)勤勉さ、仕事への責任感、自分の仕事に誇りをもっていること
5)サービスの質の高さ、公平で丁寧な公共サービス
6)清潔さ(ゴミが落ちていない)
7)環境保全意識の高さ 

などです。

私は、この9年間での○○高校生たちの変化を見ていて、こういう日本の良さは、かんたんには崩れない、かなり保たれていくのではないかと思うようになった。みんなが、日本の良さを自覚して、その良さを守っていこうと意識すれば、ますますその良さが保たれていくように思います。日本の将来を担っていくみなさんへのお別れの言葉とします。

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