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自虐的な知識人はなぜ?:自由にいいとこ取りした日本02

2012年10月29日 | いいとこ取り日本
日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。

日本文化のユニークさを8項目に変更

これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。

今回も新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。

日本人が日本を愛せない理由(4)
5~6世紀の昔から、日本の知識人の役割は、大陸の進んだ文明を学んで日本に紹介することであった。書物によって学び紹介するということが多かったが、遣隋使・遣唐使のように危険を冒して、その地に渡って学ぶこともあった。いずれにせよ、自分たちより優れた文明をもつ国が、同時に自国への侵略者でもあるという経験がなかった日本にあっては、学び取られた知識や制度や技術は無条件に尊重され、それをもたらしたり、紹介したりする知識階級の役割も重視された。明治時代になって、学び取る相手が中国から西欧に代わっても、知識階級の基本的な役割は変わりなかった。

このように海外の文物を紹介していさえすれば尊敬された日本の知的エリートにとって、海外の文明がいかに素晴らしいか、それに引き替え日本の文化や社会がいかに劣っているかを強調することはぜひとも必要なことであった。その落差を強調すればするほど、自分の存在基盤が確たるものになり、自分の存在価値が上がるわけだ。そんな情報活動を日本の知識人は、千年以上必死にやってきたのだ。それが多かれ少なかれ庶民の感じ方にまで影響を与えたとしても不思議ではない。

しかし海外の「進んだ文明」を紹介しさえすれば知識階級といわれた時代は、すでに終わっている。にもかかわらず、自分たちの存在基盤を失うのが怖い知識人たちは、相も変わらず西欧を崇拝・礼賛し、日本を不必要に貶め続けるのだ。そうしないと不安を打ち消すことができないのだろうか。日本のマスメディアも自分たちの国を貶めるのに忙しい。マスメディアにかかわる人々もいわゆる「知的エリート」として、上に述べたのと同様の心理を共有している面があるのだろう。

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
丸山真男は、「私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」(『日本文化のかくれた形(かた) (岩波現代文庫)』)と、日本文化の特徴を指摘する。日本文化そのものはめぐるましく変わるが、変化するその仕方は変わらないということだ。

内田樹は『日本辺境論 (新潮新書)』で、こうした日本論を引き継いで、それに「辺境」論という地政学的な補助線を引くことでさらに理解を進めようとする。私たちは変化するが、変化の仕方は変わらない。そういう定型に呪縛されている。その理由は、外部(かつては中国、今は欧米)から到来して、集団のありようの根本的変革を求める力に対して、集団としての自己同一性を保つためには、そうするほかなかったからだという。外来の思想の影響をもっぱら受容するほかなかった集団が、その自己同一性を保つには、アイデンティティの次数を一つ繰り上げるほかない。

「私たちがふらふらして、きょろきょろして、自分が自分であることにまったく自信が持てず、つねに新しいものにキャッチアップしようと浮き足立つのは、そういうことをするのが日本人であるというふうにナショナル・アイデンティティを規定したからです。世界のどんな国民よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、弊履を棄つるが如く伝統や古来の知恵を捨て、いっときも同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たち日本人としてのナショナル・アイデンティティを見出したのです。」

内田の「日本辺境論」の根底に、このような日本理解がある。そして私がいちばん批判したいと思うのはまさにこの点なのだ。確かに明治以来の日本人の、欧米崇拝や欧米文化や思潮の受容にはこのような傾向が見られたであろう。しかし私には、これまでの日本人のあり方に、今大きな変化が起こっていると感じられる。しかもその変化は、千年二千年単位の日本歴史のなかでも重要な変化であるような気がする。内田には、それが全然見えていないのではないか。この本を読んだときに私がいちばん引っかかったのはこの点であった。

大陸から海で隔てられた「辺境」に位置した日本にとっては、海の向こうから入って来るものはつねに崇拝の対象だった。中国や欧米の文明にたえず範を求め続けた。「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない。」これが辺境の限界だと内田はいう。日本人に世界標準の制定力がなく、「保証人」を外部の上位者に求めてしまうことこそが、「辺境人」の発想だ。そして、それは「もう私たちの血肉となっている」から、どうすることもできない。だとすれば「とことん辺境でいこうではないか」。こんな国は世界史上にも類例を見ないから、そんな変わった国にしかできないことは何かを考えた方が有意義だ、というのが本書の主張だ。

しかし、文明の「保証人」を外部に求めようとする日本人のあり方に、もし変化の兆しが見え始めているのだとしたら? ふらふらきょろきょろして外ばかり見ていた世代の「呪縛」から解放された世代の文化が育ち始めているのだとすれば? その時、内田の「辺境論」の前提が崩れることになる。私が、考察してみたいのはそのような変化の可能性である。
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自国を否定する理由:自由にいいとこ取りした日本01

2012年10月28日 | いいとこ取り日本
日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。

日本文化のユニークさを8項目に変更

これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。

今回は新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。

http://blog.goo.ne.jp/cooljapan/e/25afcfda0dc94750d4eeecb11992f627
日本人がアメリカを憎まなかった三つ目の理由とは何か。歴史学者・会田雄次の『合理主義(講談社新書)』という本を読んでいて、これもその大きな理由ではないかと思った。

彼はこんなことを言っている。『ベルツの日記〈上〉(岩波文庫)エルウィン・ベルツ』などが指摘するように、明治初期の日本人は驚くべき文化の高さをもっていた。それは明治以前から日本にあったものだという。しかし、中国やインドにもそれぞれの文化の高さがあった。ではなぜ、その当時の中国やインドに科学精神が成立しないで、日本だけに発達したのか。これが会田雄次の問いだ。

彼は、日本の文化の高さに中国やインドになかった一つの特色があったという。それをベルツが経験したこんなエピソードに触れて論じている。ベルツが東京医学校で学生に「江戸時代はどうだったのだろう」と問いかけた。すると学生は、「ぼくたちは、過去をもっていません。過去はいっさい抹殺すべきものだと考えています。これからの日本には、前途があるだけなのです。」

これは、西欧の文明に接した日本の知識人にかなり共通した反応だったのだろう。当時の日本人が過去に多くを負っていながら、その過去を全面的に否定し去ろうしていたことを示すと会田はいう。これは日本人の根深い性癖であり、思考態度の根本に横たわる傾向であり、癖なのではないかというのだ。

この性癖には、良い結果を生む面と悪い結果を生む面の両面がある。良い面は、明治の文明開化の時代のように、日本の過去をすべて否定することによって、ヨーロッパの文明を瞬く間に吸収するエネルギーに変化させてしまうという面である。中国やインドは、自分の文明へのこだわりがあったから日本のように急速に科学文明を吸収することができなかった。

悪い面は、「外国の文化をむやみに尊敬し、自分のもっているものをやたらに卑下する態度」であり、これは現代の日本の知識人も多く見られる態度だ。戦後にもそれが強く出たという。

戦後の日本人も、戦中、戦前までに受け継いできた文化を全面的に否定し、アメリカの占領と同時に入ってきたアメリカの文化を何でも良いものとして受け入れる傾向が出た。これは日本人が過去に、中国やヨーロッパとの出会いで示した態度と共通する。

ここまでが会田氏の考察だが、以上は、日本人がアメリカを憎まなかったもう一つの理由にもなっているのではないか。アメリカは、戦時体制によって抑圧された日本人の「解放者」であったと同時に、これまでの日本を全否定し、新しい日本を生み出すためのモデルにもなったのだ。そのようなアメリカを憎むことはできない。モデルを好意的に受け入れてこそ、そこから必死に学び取ろうとする情熱も生まれる。

こうしてアメリカは、憎むべき対象というよりは、自分たちがそこを目指すべき新時代もモデルとして好意的に受け止められたのだ。

日本人が日本を愛せない理由(1)
日本人はなぜ日本を愛せないのか

先に歴史学者・会田雄次の『合理主義(講談社新書)』に触れて、日本人は自分たちの過去を全否定することで、逆に海外の進んだ文明を驚くべき速さで学び取るエネルギーにしてきた面があることを確認した。

ではなぜ日本人は、自らの過去を否定したり、自分たちを卑下したりする傾向が強いのか。『日本人はなぜ日本を愛せないのか』の中で著者の鈴木孝夫は「日本人はなぜ日本を愛せないか」というこの問いに結局どう答えているのか。著者の答えはこうだ。日本は、大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略されたことがない。それゆえ外国の負の面に直面せず、その文化の良い面だけを取り入れて独自の文明を発達させることができた。これを著者は「部品交換型文明」と表現する。それは、外国の文明はなんでも優れているという自己暗示を生み出し、その暗示のため、逆に日本の本当の良さは見えなくなる。欧米の文明は何でも良いとし、欧米の価値観で自己のすべてを判断するならば、自分たちの歴史や文化が劣ったものと見えてきても不思議ではない。

日本人が日本を愛せない理由(2)
日本人の中に、なぜ日本の文化や社会を否定的に見る傾向の人が多いのか。日本人には、伝統的に自文化を卑下し、海の向こうの文化を崇める性癖がこびりついているようだ。

かつては中国、明治時代にはヨーロッパと、いずれも大陸の高度な文明に接した日本人は、その負の面を見る必要がなかった。

大陸では、文化の流入は武力的な侵略とともにもたらされることが圧倒的に多い。しかし日本は、大陸から海で適度に隔てられた島国であるため、血なまぐさい侵略や抗争を経ずに、進んだ文化・制度・技術などを取り入れればよかった。自分たちの文化・社会が破壊される危険にさらされることなく、高度な文明のよい部分だけを崇めたてまつって、理想化して取り入れればそれですんだのである。そして、相手を理想化して見るほど、逆に自分たちは劣ったものとして見えてくるし、そう見えた方が、学び吸収するときの効率もよいのだ。これが、日本人が日本を愛せない一つ目の理由と思われる。

かつて日本文化のユニークさ23:キリスト教をいちばん分からない国(2)でも触れたが、猟採集や小規模な農業によって成立する社会は、自然とのかかわりや部族の社会がそれなりに調和していた。それが異民族の侵入や戦争、帝国の成立といった事情の中で崩れ去ると、そこに何らかの秩序を取り戻すために、部族を超えた「普遍宗教」が必要となった。それが一神教であり、あるいは仏教や儒教であった。これらに共通するのは、それぞれの部族が信じていた神々を否定するということであった。

日本の場合は、その地理的な条件のため「普遍宗教」による社会と文化の本格的な一元支配が必要なかった。もちろん儒教や仏教は流入したが、土着の神道的なものと融合した。土着の神々は生き残ったのである。

侵略などによる抗争がからむと、敵に対抗するためにイデオロギーの面でも熾烈な抗争が起こるはずである。侵入してきた他文明を安易に理想化することなどできない。武力による戦いと同時に、イデオロギーの面でも自文化の優位性を主張しなければならない。相手の文化を理想化して自文化を卑下していたら、戦う意欲さえ失うだろう。

しかし日本の場合は、軍隊ではなく、高度文明の文物だけが海を渡ってきたために、海の向こうの文明をいくらでも理想化することができた。その分、自分たちの文化を劣ったものとみなしても何の危険性もなかった。むしろそう思い込んだ方が、高度文明を吸収するのには都合がよかったのだろう。もちろん、吸収するとき自分たちに都合の悪いものは、おのずと排除された。

《関連図書》
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
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日本文化のユニークさを8項目に変更

2012年10月27日 | 日本文化のユニークさ
日本文化のユニークさ:7つの視点のそれぞれに関係するこれまで記事を集約する作業を(4)まで続けてきた。ここまで来て、7つの視点にもう一つを付け加えて8視点とする必要があると思うようになった。これも、大陸から海で適度に隔てられているという日本の地理的条件に深くかかわるので(4)の次に新たな項目として付け加えるのが適切ではないかと思う。

7項目に付け加えて8項目とすると以下のようになる(太字の項目が新規のもの)。なお、これらの項目も暫定的なものであり、各項目の文章も含めて今後、さらに変更することもありうる。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

(6)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

(7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。






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城壁なき都市が許された国:侵略を免れた日本04

2012年10月26日 | 侵略を免れた日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通り。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

今回も引き続き、(4)「大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった」に関係する記事を集約して整理する。

日本文化のユニークさ25:日本人は独裁者を嫌う
日本と同じ東アジアの隣国でありながら、中国や韓国など「中華文明圏」では、社会構造が宗族(そうぞく:男子単系の血族)が細胞のように存在し、その寄せ集めによって成り立っているといってもよい。宗族は、倫理的には儒教の影響を受けた家族観の上に成り立ち、強力な血縁主義でもある。中華文明圏では、アイデンティティの根拠が深く血縁集団に根ざしているため、非血縁集団への帰属意識は、日本人には考えられないほど低いという。異民族間の抗争・殺戮が繰り返され、社会不安が大きいだけ、血縁しか頼るものがないという意識が強くなる。

宗族のそれぞれが砂粒のようにばらばらで、各宗族の人々は究極的には一族の繁栄しか考えていない。いくつかの宗族で権益を独占し、這い上がってくるものを蹴落とす。このような伝統社会を背景としているため、中国の共産党独裁や朝鮮王朝のような政治形態が出現せざるを得なかったのかもしれない。宗族中心主義は、「自己絶対正義」という姿勢の根幹をなし、その影響は現代の東アジアの外交問題にまで及んでいるようだ。

一方、日本文明はイエ社会であり、男系の血族だけでは完結しない。それは、婿養子のあり方を見ればわかるだろう。その分、社会がフレキシブルになっている。また日本人は、独裁よりも合議制を好み、そのため談合も絶えないが、合議制を無視する独裁者は、めったに生まれない。これも、日本列島では異民族の侵入、略奪、異民族との熾烈な抗争といった経験が、ほとんどなかったことと関係する特性だろう。歴史的に、独裁的な強力なリーダーシップをあまり必要としなかったのである。もちろんこの点は、今回の大震災や原発事故後にはっきり示されたように、日本人の短所にもなっている。

日本とは何か(2):城壁のない都市
以下は『日本とは何か (講談社文庫)』(堺屋太一)に刺激されながらの考察である。

もし、日本と中国大陸や朝鮮半島を隔てる海がドーバー海峡ほど狭かったら、「日本の歴史はまったく違った経過を辿り、日本人は別の文化を持っていたことだろう」と、堺屋は指摘する。先進文明との距離と国土のまとまりという点で、日本は他に類例のない条件を持ち、それが日本の歴史に決定的に影響した。

日本と大陸との間は、古代の技術では渡航困難なほど広くはないが、大規模な移民や軍事攻撃を組織的に行うにはあまりに広すぎた。もし渡航したとしても、軍団はばらばらとなり、統一行動がとれない可能性が高かったであろう。

つまり、大陸との間に交流はあり、文化や知識は流入したが、大量の移民が押し寄せたり、大規模で組織的な軍事攻略が行われたりすることは不可能だったのである。これは多くの識者が指摘することであり、日本文化の形成を語る上でもっとも基本的な事実のひとつだろう。

大量の移民が一度に押し寄せることが無理だったという事実は、日本文化の形成のもっとも基層の部分でも重要な意味をもっていた。一度に大量の渡航がなかったからこそ、縄文人が弥生人に駆逐され圧殺されることなく、両者の文化が融合したのである。もちろん堺屋は、縄文時代を視野に入れていない。しかし弥生人と弥生文化の渡来が、縄文人にとって恐怖と不幸だけの体験ではなかったことが、その後、日本が外来文化を受け入れていく上での「原体験」になって、のちのちまで影響を与えているのではないか。異質な文化や物を、自分の社会に抵抗なく取り入れて自分のもにしてしまう混合文化社会の大元は、この「原体験」にあったのではないか。

大陸から「狭くない海」で隔てられていたことは、日本を異民族との戦争のない平穏な社会にした。それは弥生人の渡来時にすでに始まっていたのであり、この事実が、その後の日本文化を特色づける重要な一因になっているのであろう。

一方、人類が大陸の大河の流域などで農業を始めた頃、その周囲には多くの遊牧民が徘徊していた。農耕民は、何よりもこれらの遊牧民から生命と財産を守るため、強いリーダーの下に結集する組織と、攻撃を防ぐ施設を備えなければならなかった。つまり、城壁で囲まれた都市国家が生まれていったのである。

ところが日本には、険しい山と狭い平野で構成されていたため遊牧に適さず、海を越えて遊牧民が攻めてくることもなかった。それどころか渡って来たのは、稲作という先端文明をもった弥生人だったのである。そして恐らく縄文人と弥生人は過酷な抗争をすることなく、混血・融合していった。つまり日本列島の住人は、縄文時代はもちろん、弥生人の渡来時にも、それ以降にも、異民族との過酷な戦争を経験していないのである。だからこそ日本人は、「城壁のない都市」をつくった世界唯一の民族なのだ。

堺屋も指摘するように、中世以前の都市は、アテネ、ローマ、ロンドン、パリ、フランクフルト、バグダッド、ニューデリー、北京、南京など、すべて堅固な城壁で囲まれていた。ただ日本だけが城壁で囲まれた都市がなく、城下町はあっても城内町は存在しなかったのである。日本だけが城壁にかこまれない都市をもつことができた。つまり日本の歴史は、異民族同士の闘争や農耕民と遊牧民との闘争とは無縁だったということだ。

日本文化の特徴を語るうえで、こうした事実の意味を強調して強調しすぎることはないだろう。日本人の民族としての性格の多くが、この事実に関係して論じうるといっても過言ではない。それでいながら、日本人はこの事実を意外と知らない。この事実を盛り込んだ歴史教科書も、ほとんど見かけないのである。

《関連記事》
日本文化のユニークさ07:ユニークな日本人(1)
日本文化のユニークさ08:ユニークな日本人(2)
日本文化のユニークさ09:日本の復元力
日本文化のユニークさ11:平和で安定した社会の結果

《関連図書》
新しい神の国 (ちくま新書)
日本人ほど個性と創造力の豊かな国民はいない

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皆殺しがなかった幸運:侵略を免れた日本03

2012年10月25日 | 侵略を免れた日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通り。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

今回もさらに、(4)「大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった」に関係する記事を集約して整理する

『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(1)
大石久和の『国土学再考 「公」と新・日本人論』によれば西洋文明は、国土的な条件と歴史の違いから、日本社会のルールや思考法とは大きな隔たりがあるという。西洋文明は、シュメール文明という源流の時代から、都市に城壁を築いて暮らしていた。その城壁造りや見張りや守りの分担などで厳しいルール伴う社会を守ってきた。周辺の自然環境は厳しく、他民族との死ぬか生きるかの戦いの中で、常に備えを万全にしておく必要があった。「皆殺し」への恐怖を前提にした思考法が、現在の世界文明の礎になっているというのだ。

これに対して基本的に温暖湿潤な日本列島は、乏しい食糧を集団どうしが常に争い合う必要があまりなかった。その代わりに自然災害による定期的な打撃を受けてきたのだが、これは守りを固めてもどうしようもなく、ただあきらめ、受け入れるほかなかった。こうした歴史を持つ国はまれだ。たいていの民族は歴史上、紛争によって皆殺しに近いことをされたり、その恐怖に直面したりしている。日本のように「皆殺し」が天災によるものしかない国は、世界中にほとんど見当たらない。

こうした日本の特異な環境は、独特の無常観を植え付けた。さらに日本人の優しい語り口や控えめな言語表現、あいまいな言い回しは、人間どうしの悲惨な紛争を経験せず、天災のみが脅威だったからこそ育まれたのだという。

『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(2)
さらに『国土学再考 「公」と新・日本人論』によれば、城壁に囲まれた都市の住民は、勝つため、負けないために必死に研究しなければならない。情報を集め、それは正しい情報か、もれはないか、偽情報は含まれないかなどをつねにチェックしなければならない。あらゆる不測の事態や可能性を想定して作戦をたて、二重にも三重にもチェックしなければ、皆殺しにされてしうかもしれないのだ。

だからこそ、その思考は網羅性、俯瞰性、長期性などの特徴をもつ。合理的な判断を狂わせるような情報は厳しく排除される。合理的に判断する成熟した主体にこそ、最高の価値が置かれるのは、そういう歴史的は背景があったからではないだろうか。一方、日本人はそういう戦いの状況に置かれたことが歴史上あまりなかったため、厳しく合理的な思考訓練ができていない、必要ともされなかった。

他国に攻め込まれる恐怖もほとんどなく、食糧も豊かだった日本では、ぎりぎりの厳密で合理的な思考やその伝達にさほど重きを置かずにすみ、また「そぶり」や「以心伝心」程度のコミュニケーションで困ることはなかった。外敵に包囲され、防御策を綿密に決めて、誤解のない言葉でルール化しなければ全員の命がない、などという状況に身をおいたことがほどんどないのだ。

岸田秀の『日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)』の中に興味深い日本人論があり、何度か紹介した。人間の誠意や真情を互いに信頼することで、社会の「和」や秩序が保たれる、自分のわがままを抑えることで、相手も譲ってくれ、そこに安定した「和」の関係ができるという性善説を前提として日本の社会はなりたっているというのだ。

岸田秀は、こうした人間観のマイナス面を強調しているが、プラス面もひとつだけ取り上げている。それは「一神教の文化のように、どちらが正しいかを徹底的に詰めないで、和の精神でごまかすほうが、あまり殺し合いにならなくてすむというメリット」だ。ヨーロッパの内戦、激しい宗教戦争などにくらべると、源平の合戦から、戦国時代、明治維新に至るまで、日本の内戦は桁外れに死者が少ないという。

しかし、メリットはそれだけではない。岸田秀自身が(『官僚病から日本を救うために―岸田秀談話集』)でいう、「日本人は一神教の神をあまり信用しないが、欧米人は人間を信用しない。日本人が母子関係をモデルにしたポジティブな人間関係を結ぼうとするのに対して、人を信じない欧米人は、神を介することで人と人との関係を結ぼうとした。」と。

日本文化のユニークさ20:世界史上の大量虐殺と比較すると
国土学再考 「公」と新・日本人論』は、西洋文明が、シュメール文明という源流の時代から、都市に城壁を築いて暮らしていた、つまりそれほどに民族間の闘争に対して常時、防衛体制をとることが必要だったことを強調している。実際、ユーラシア大陸の至るところ、つまり中国、朝鮮半島、インド、ロシア、西アジア、ヨーロッパにおいて、都市といえば外敵から身を守るための城壁都市(都城)をおいてほかはありえなかった。日本だけが城壁にかこまれない都市をもつことができた。つまり日本の歴史は、異民族同士の闘争や農耕民と牧畜民との闘争とは無縁だったということだ。

この本で紹介されている「歴史上の大虐殺ランキング」が参考になるかもしれない。マシュー・ホワイトという研究者が過去2000年におきた大量虐殺の歴史をまとめているのだ。(Selected Death Tolls for Wars, Massacres and Atrocities Before the 20th Century

もちろんトップは第二次世界大戦(5500万人)、二番目は毛沢東の文化大革命(4000万人)だが、三位がモンゴルによる征服(13世紀、4000万人)、追って順に、玄宗と楊貴妃の恋に続く安史の乱(8世紀、3600万人)、明王朝の滅亡(17世紀、2500万人)太平天国の乱(19世紀、2000万人)、インディアンの全滅(15~19世紀、2000万人)などと続く。

研究者によって被害者数に開きがあり順位をつけられないが、他に十字軍(11世紀、100~500万人)、フランス宗教戦争(16世紀、200万~400万人)などもある。これらは、ほとんどが異民族間の抗争、宗教間の対立にかかわっている。

これに対して、日本の最大の虐殺事件といわれる島原の乱(16世紀)の犠牲者はおよそ2万人だという。もちろん20世紀になってからは二つの世界大戦も含め、日本の加害、被害とも大きな数字になるが、江戸時代までの日本は、世界史上での数字に比べると、文字通り桁が違うことがわかる。

《関連図書》
★『奇跡の日本史―「花づな列島」の恵みを言祝ぐ
 この本も第二章で日本の都市と世界の都市とを、城壁のあるなしの違いで論じ、城壁都市が、その内外でどれほどすさまじい生活格差を生んだかを興味深く語っている。
★『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書)
 この本では第四章で、とくに宗教戦争の悲惨さを強調している。たとえば欧州最後の宗教戦争と呼ばれた三十年戦争では、人口の何割もの犠牲者を出したが、日本の場合は、国内に宗教戦争がなかったことが、二千年以上も王朝を保つことができた要因のひとつだろうという。
★『なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書)
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)』(G.クラーク)
★『日本の文化力が世界を幸せにする』(日下公人、呉善花)

《関連記事》
日本文化のユニークさ07
日本文化のユニークさ08
日本文化のユニークさ09
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日本文化のユニークさ16:自然環境が融和を促した

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日本人のお人好しもここから:侵略を免れた日本02

2012年10月24日 | 侵略を免れた日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通り。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

今回も、(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

に関連する記事を集約して整理する。

日本文化のユニークさ09:侵略なき安定社会
日本の「復元力」』の中で中谷巌もまた、日本史全体を通してのいちばん重要なポイントを、異民族による征服がなく、そのため、日本人の穏やかさや、社会の安全や安心が保たれたということに見ている。一方、大陸の人々は傾向として、常に相手からつけこ込まれたり、裏切られたりするのではないかと怯え、逆にどうやったら相手を出し抜き、ごかませるかと、攻撃的、戦略的に身構えているというのだ。大陸の人々が、利害関係がからむ場面ではなかなか謝罪しないのも、こんな背景があるからだろう。

異民族に制圧されなかったことが、日本を相対的に平等な国にした。もし征服されていれば、日本人が奴隷となりやがて社会の下層階級を形成し、強固が階級社会が出来上がっていたかも知れない。異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となり、そういう信頼を前提とした庶民文化が江戸時代に花開いたのだ。

江戸の庶民文化が花開いたのは、武士が、権力、富、栄誉などを独占せず、それらが各階級にうまく配分されたからだ。江戸時代の庶民中心の安定した社会は世界に類をみない。歌舞伎も浄瑠璃も浮世絵も落語も、みな庶民が生み育てた庶民のための文化である。近代以前に、庶民中心の豊かな文化をもった社会が育まれていたから、植民地にもならず、西洋から学んで急速に近代化することができたのである。

日本文化のユニークさ10:性善説人間観と日本の長所
かつて日本人の人間観・その長所と短所(1)というエントリーの中で岸田秀の『日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)』の次のような主張を取り上げた。日本人は、ある種の人間観を前提として行動しているが、その前提についてはほとんど無自覚だというのだ。それは人間は、本来善良でやさしく、そして一人では生きることのできない弱い存在だから、互いにいたわり合い、助け合って生きていくしかないという性善説の人間観で、そんな人間観を前提にして日本の社会や規範は成り立っているというのだ。

このブログの「日本の長所」というシリーズで10項目にまとめた長所の多くが、そのような人間観に関係しているといえるだろう。

1)礼儀正しさ
2)規律性、社会の秩序がよく保たれている 
3)治安のよさ、犯罪率の低さ 
4)勤勉さ、仕事への責任感、自分の仕事に誇りをもっていること
5)謙虚さ、親切、他人への思いやり
6)あらゆるサービスの質の高さ
7)清潔さ(ゴミが落ちていない)
8)環境保全意識の高さ
9)食べ物のおいしさ、豊かさ、ヘルシーなこと 
10)外来文化への柔軟性

9)以外は、何らかの形で性善説の人間観に関係していると思うが、とくに2)~6)あたりは関係が深い。人間の誠意や真情を互いに信頼することで、社会の「和」や秩序が保たれる。自分のわがままを抑えることで、相手も譲ってくれ、そこに安定した「和」の関係ができるという性善説を無意識のうちに共有しているから、規律や秩序、治安のよさ、謙虚さ、親切、思いやりなどが維持される。

では、こういう日本人の特徴はどこから来るのかと言えば、これこそ日本が、異民族による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたなかったことによると思われる。

日本文化のユニークさ11:侵略なしだからこそ日本の長所が
日本のように、異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが可能だったし、それを育て守ることが日本人のもっとも基本的な価値感となった。その背後には人間は信頼できるものという性善説が横たわっている。

加えて、日本は稲作農業を基盤とした社会であった。人口の8割以上が農民であり、田植えから刈入れまでいちばん適切な時期に、効率よく集中的に全体の協力体制で作業をする訓練を、千数百年に渡って繰り返してきた。侵略によってそういうあり方が破壊されることもなかった。

礼儀正しさ、規律性、社会の秩序、治安のよさ、勤勉さ、仕事への責任感、親切、他人への思いやりなどは、こうした歴史的な背景から生まれてきたのであろう。

また、異民族に制圧されたり征服されたりした国は、征服された民族が奴隷となったり下層階級を形成したりして、強固な階級社会が形成される傾向がある。たとえばイギリスは、日本と同じ島国でありながら、大陸との海峡がそれほどの防御壁とならなかったためか、アングロ・サクソンの侵入からノルマン王朝の成立いたる征服の歴史がある。それがイギリスの現代にまで続く階級社会のもとになっている。

すでに触れたが、日本にそのような異民族による制圧の歴史がなかったことが、日本を階級によって完全に分断されない相対的に平等な国にした。武士などの一部のエリートに権力や富や栄誉のすべてが集中するのではない社会にした。特に江戸時代、庶民は自らの文化を育て楽しみ、それが江戸文化の中心になっていった。庶民は、どんな仕事をするにせよ、自分たちがそれを作っている、世に送り出している、社会の一角を支えているという「当事者意識」(責任感)を持つことができる。自分の仕事に誇りや、情熱を持つことができる。

階級によって分断された社会では、下層階級の人々はどこかに強力な被差別意識があり、自分たちの仕事に誇りをもつという意識は生まれにくい。奴隷は、とくにそういう意識を持つことができない。日本文化のユニークさのひとつは、奴隷制を持たなかったことであった。奴隷制の記憶が残り、下層階級が上層階級に虐げられていたという記憶が残る社会では、労働は押し付けられたものであり、そこに誇りをもつことは難しいだろう。

私は日本のここが好き!―外国人54人が語る』や『続 私は日本のここが好き!  外国人43人が深く語る』を読んで、私がいちばん強く印象に残るのは、外国人が日本人の仕事への責任感や誇り、誠実さを語る部分である。私たちは、こういう私たちの長所をもっと自覚すべきだと思う。自覚してこそ、守り伝えていくこともできるのだから。

《関連記事》
日本文化のユニークさ07:ユニークな日本人(1)
日本文化のユニークさ08:ユニークな日本人(2)
日本文化のユニークさ09:日本の復元力
日本文化のユニークさ11:平和で安定した社会の結果
日本文化のユニークさ37:通して見る
日本文化のユニークさ38:通して見る(後半)
その他の「日本文化のユニークさ」記事一覧

《関連図書》
☆『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
☆『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)
☆『日本の曖昧力 (PHP新書)
☆『日本人はなぜ震災にへこたれないのか (PHP新書)
☆『世界に誇れる日本人 (PHP文庫)
☆『日本とは何か (講談社文庫)
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異民族による征服を知らない民族:侵略を免れた日本01

2012年10月23日 | 侵略を免れた日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通り。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

今回から、(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

に関連する記事を集約して整理する。

日本文化のユニークさ07:異民族の侵略がなかった
G・クラークは、『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)』で、竹村健一を聞き手とし侵略を免れた日本のユニークさをテーマとして語っている。

著者はいう。日本人のユニークさは、たんにヨーロッパ人と比してだけではなく、インド人や中国人と比しても際立っている。要するに日本人と非日本人という対比がいちばん適切なほどにユニークだという。そのユニークさは、日本以外の社会には共通しているが日本にはないものによってしか説明できない。日本にないもの、それは外国との戦争である。

明治維新までの日本は、異民族に侵略され、征服され、虐殺されるというような悲惨な歴史がほとんどなかった。日本人同士の紛争は多く経験しているが、同じ民族同士の戦争なら価値観を変える必要はない。しかし相手が異民族であれば、自民族こそが正義であり、優秀であり、あるいは神に支持されているなどを立証しなければならない。「普遍的な価値観」によって戦いを合理化しなければならないのだ。

他民族との戦争を通して、部族の神は、自民族だけではなく世界を支配する正義の神となる。武力による戦いとともに、正義の神相互の殺し合い、押し付け合いが行なわれる。社会は、異民族との戦争によってこそイデオロギー的になる。

ところが日本は、異民族との激しい闘争をほとんど経験してこなかったために、西洋的な意味での神も、イデオロギーも必要としなかった。イデオロギーなしに自然発生的な村とか共同体に安住することができた。西洋人にもそういうレベルはあるが、そこに留まるのではなく、宗教やイデオロギーのよう原理・原則の方が優れていると思っている。「イデオロギーを基盤にした社会こそが進んだ社会であり、そうしないと先進文化は創れない」とどこかで思っている。

ところが日本は強力な宗教やイデオロギーによる社会の再構築なしに、村的な共同体から逸脱しないで、それをかなり洗練させる形で、大しくしかも安定した、高度な産業社会を作り上げてしまった。ここに日本のユニークさの源泉があるというのだ。

ここで著者が「イデオロギーなしに自然発生的な村とか共同体に安住することができた」とか「村落的な共同体を逸脱しないで高度な産業社会を作り上げた」と表現している事実を、さらにその深層に触れて表現するなら、農耕以前の縄文的な自然宗教を残したまま農耕文明の段階に入り、さらには高度産業社会の段階にまで来てしまったと言い換えることもできるだろう。いや、そのような視点をもってこそ、日本文化のユニークさを重層的にとらえることができるだろう。

日本文化のユニークさ08:イデオロギーなき平等社会
上に見たような日本人の特質は、ヨーロッパだけではなくアジア大陸の国々、たとえは中国や韓国と比べても際立っていると、著者はいう。中国人や韓国人は、心理的には日本人より欧米人の方にはるかに近い。欧米風のユーモアをよく理解するし、何よりも非常に強く宗教やイデオロギーを求めている。中国人や韓国人は、思想の体系や原則を求めるが、日本人は求めない。

西欧だけではなく、アジアのほかの国々とも区別される日本人のユニークさは、自然条件だけでは説明できないと著者は考えている。日本が稲作中心の文明であったことは重要だが、それが日本文化のユニークさを生んだ主因ではない。韓国も稲作中心だったが、著者がいう日本人のユニークさと共通のユニークさがあるわけではない。結局は、大陸の諸国に比べ、異民族との闘争が極端に少なかったという要因こそが、イデオロギーに拘泥しない日本人のユニークさを作り上げているというのである。

著者は、日本の社会の素晴らしさの一つとして平等主義を挙げている。日本人の態度のうえにもそれが見られ、その素晴らしさは世界一ではないかという。店に入っても、村に行っても、どこに行っても階級的な差がまったく感じられないというのだ。イデオロギー社会では、こういう平等性が成り立ちにくいという。

その理由を著者は明確にしているわけではないが、日本に、西欧に見られるような階級差が見られないのは、やはり異民族に征服された経験がないからだろう。その点は、同じ島国でありながらイギリスと好対照をなしている。イギリスの階級差は、明らかに征服民と被征服民の差を基盤としている。

さて、以上のように著者は、日本人のユニークさの要因を、異民族との闘争のなさだけに求めている。しかし、これまで私の論を追ってきてくださった読者の方は、この要因だけを日本人のユニークさの要因とする考察が、かなり不充分であるを、すでに理解していただいていると思う。同様に大切なのは、縄文的な要素をたぶんに残た農耕文明、しかも牧畜を知らず、遊牧民との接触もなかった農耕文明のユニークさということである。そして、農耕文化が、縄文的な心性をたぶんに残しながら連綿と続くことができた条件が、大陸の異民族による征服などがなかったことなのである。

《関連記事》
日本文化のユニークさ07:ユニークな日本人(1)
日本文化のユニークさ08:ユニークな日本人(2)
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☆『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
☆『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)
☆『日本の曖昧力 (PHP新書)
☆『日本人はなぜ震災にへこたれないのか (PHP新書)
☆『世界に誇れる日本人 (PHP文庫)
☆『日本とは何か (講談社文庫)
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遊牧・牧畜と奴隷制度

2012年10月22日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通り。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

今回も、(3)「ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。」に関連する記事を集約して整理する。

日本文化のユニークさ40:環境史から見ると(2)
近年、中国文明の源流は黄河流域ではなく長江流域にあったのではないかという説が注目されている。そして、長江文明は、牧畜を伴わない稲作文明であり、森の文明であった。

日本史の通説では、弥生文化は朝鮮半島経由で大量の人々が日本列島に渡来したときに始まるとされていた。そうであれば、当然家畜を伴っていたはずなのに実際はそうではなかった。とすれば弥生文化の基本を作ったのは長江からやってきた越人である可能性も高い。

どちらにせよ弥生人が牧畜を持ち込まなかった、ないしは縄文人が牧畜を取り込まなかったことは、日本文化のその後の性格に大きな影響を与えた。牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、ユーラシア大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

また天水農業によるムギ作は、かなり粗放的なので、奴隷に行わせることもできた。しかし稲作は、いつ何をするかの時間管理に緻密さが要求され、集約的なので、奴隷に任せることができない。稲作文明で大規模な奴隷制が発生した例は見られない。さらに、家畜管理の技術と奴隷管理の技術は連続的なものだったろうから、稲作・魚介型で牧畜を行わなかった日本では、奴隷制が発生しにくかったのではないか。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し次のような特徴を持った。

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
③遊牧や牧畜と密接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
④遊牧や牧畜を背景にした、人間と他生物の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。

日本とは何か(1):奴隷制度と牧畜
日本は温暖湿潤で、険しい山地と狭い平野によって構成されているので、水田稲作には向いているが牧畜には不向きだ。日本の歴史には牧畜が存在せず、厳密には有畜農業の経験も乏しい。だから日本の歴史と文明は、牧畜を飛ばして稲作とともに始まったと堺屋はいう。稲作は、面積当たりの収穫量が高いが、一方で労働投入量も非常に高く、しかも家族の単位を超えた共同作業を必要とする。村落共同体による勤勉な共同作業が、勤勉で集団志向という日本人の基本的な性格を作ったというのは確かなことだろう。

堺屋が指摘するのは、牧畜や有畜農業からは奴隷制度が発達しやすい条件が生まれるということである。家畜を使役するとは、意思をもった相手を制御することだ。そこに支配・被支配の関係が生まれる。そこから、意思ももった相手を支配する技術と、それを正当化する思想が生まれる。キリスト教がその正当化のためどう機能したかは、前回取り上げた記事で詳しく検討した。そして日本人は、意思あるものを支配した経験が乏しく、そのせいか、大規模な奴隷制度が発達しなかったのである。

なお、堺屋は日本の特殊な気象と地形から、牧畜と大規模な奴隷制に加え、都市国家をも持つことがなかったという。稲作は、大量の労働力を必要とした。そのため隣の土地を支配した「王」は、そこの住民を殺すよりも働かせた。それゆえ住民もまた、堅固な城壁に立てこもってまで抵抗することはなかった。つまり城壁を巡らせた都市国家を作る必要を感じなかったのである。

こうして日本人は、強烈は支配・被支配の関係を嫌う「嫉妬深い平等主義者」になったという。

《関連記事》
日本文化のユニークさ04:牧畜文化を知らなかった
日本文化のユニークさ05:人と動物を境界づけない
日本文化のユニークさ06:日本人の価値観・生命観

《参考図書》
蛇と十字架・東西の風土と宗教
森のこころと文明 (NHKライブラリー)
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)

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遊牧・牧畜と無縁な日本人の生命観

2012年10月20日 | 遊牧・牧畜と無縁な日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通り。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

今回から、(3)「ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。」に関連する記事を集約して整理している。

日本文化のユニークさ04:牧畜文化を知らなかった
日本には、牧畜・遊牧文化の影響がほとんどない。日本に家畜を去勢する習慣がなく、したがって人の去勢たる宦官がいなかったのもそのためである。ユーラシア大陸のどの地域にも宦官は存在したのである。また人の家畜化である奴隷制度も根付かなかった。奴隷制度が根付かなかったのは、世界的にはむしろ例外に属するようだ。

旧約聖書を生んだヘブライ人は、もちろん牧畜・遊牧の民であった。ヨーロッパでもまた牧畜は、生きるために欠かせなかった。農耕と牧畜で生活を営む人々にとって家畜を飼育し、群れとして管理し、繁殖させ、食べるために解体するという一連の作業は、あまりに身近な日常的なものであった。それは家畜を心を尽くして世話すると同時に、最後には自らの手で殺すという、正反対ともいえる二つのことを繰り返して行うことだった。愛護と虐殺の同居といってもよい。その互いに相反する営みを自らに納得させる方法は、人間をあらゆる生き物の上位におき、人間と他の生物との違いを極端に強調することだった。

「肉食」という食生活そのものよりも、農耕とともに牧畜が不可欠で、つねに家畜の群れを管理し殺すことで食糧を得たという生活の基盤そのものが、牧畜を知らない日本人の生活基盤とのいちばん大きな違いをなしていたのではないか。

日本人が、ヨーロッパ人の言動に違和感を感じるとき、よく「バタッくさい」という言葉をつかったが、これはまさに牧畜文明に対する馴染みにくさを直感的に表現していたのかも知れない。キリスト教の中にも同じような馴染みにくさを感じるからこそ、日本にキリスト教が定着しなかったのではないだろうか。

日本文化のユニークさ05:人と動物を境界づけない
日本人の価値観が、欧米とはもちろん、インドや中国など他のアジアの国々とも大きく隔たり、「日本」と「日本以外の世界」を対比できるユニークさを日本は持っている。それは、「人間-生物-無生物」の中でどこにいちばん大きな境界線を引くかという問題に集約される。

欧米人にとって人間は、被造物全体の中で特別に神の「息吹」を与えれたものとして、他の動物とは本質的に違う。神の似姿である人間は、他の動物より決定的に価値が高い。それは、人間の「理性」に根本的な価値を認め、そこに価値判断の基準を置くからだという。ところが日本人は、「生命」に根本的な価値を認めるので、人間と動物は同じ「生命」として意識され、根本的な境界線は人間を含む「生命」と無生物との間に置かれるという。

この違いを示す面白い例として著者が挙げているのは、愛犬のためにお葬式をしてほしいと神父に頼む日本の老婦人の話である。イタリアから来たファナテリというその神父は、その依頼を受けて心底驚いた。イタリアでは、どんなに無学な人からもペットの葬式をして欲しいという発想は出てこないからだ。

欧米でも子供ならペットの葬式をすることはありうるだろう。しかし大人からはそういう発想は出てこないという。欧米では、大人と子供の世界は違っており、その間もはっきりとした境界線がある。そこにもやはり「理性」が育っているかいないかの価値判断が働いているらしい。

ところが日本では、大人と子供の世界が連続しており、しかも欧米で言えば子供の発想であるペットの葬式が当然のように大人の世界でも真面目に行なわれる。日本製アニメの世界的な流行の背景には、大人と子供の世界が連続しているという日本の文化的な特質が大きな要素としてあるかも知れない。大人が抵抗なくマンガ・アニメを見るのもそうだが、作り手の方も、欧米から見ると子供的な発想を保ったまま製作にかかわれるのだろう。

日本文化のユニークさ06:日本人の価値観・生命観
「日本」と「非日本」とを対比し、日本人の生命観のユニークさをあえて際立たせるなら、図式としては次のようになる。

非日本人  絶対的な価値をもつものの本体(神)≒人間 →→(隔絶)→→ 動物・物
日本人   絶対的な価値をもつものの本体 →→(隔絶)→→ 生命(人間・動物)∥物

日本人は、「絶対的な価値をもつものの本体」(形而上学的な原理)を打ち立てて、それとの関係で人間の価値を理解するような思考が苦手である。そうした思考法とは無縁に、人間も他の生き物や物と同じように、はかない存在ととらえる傾向がある。それに対して大陸の諸民族は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教教徒はもちろん、ブラフマン=アートマンの世界観を抱くインド人も、儒教中心の中国人も、多かれ少なかれ形而上学的な原理によって人間を価値付ける傾向があるという。儒教も、人間は自然界の頂点に立つ特別の選ばれた存在であるとみなすという。

《関連図書》
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
★『ユダヤ人 (講談社現代新書)
★『驚くほど似ている日本人とユダヤ人 (中経の文庫 え 1-1)
★『ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
★『一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)
★『旧約聖書の誕生 (ちくま学芸文庫)
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子ども観の違い:母性社会日本05

2012年10月18日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

現在、二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。

近代化とは、西欧文明の背景にある一神教的な世界観を受け入れ、文化を全体として男性原理的なものに作り替えていくことだだともいえる。近代文明を享受する国々では、一神教的=男性原理的なシステムの下に、農耕文明以前のアニミズム的な文化などはほとんど跡形もなく消え去っている。ところが日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、その社会・文化システムの中に縄文以来の太古の層を濃厚に残しているように見える。つまり、男性原理の近代文明が抹殺した原初的な母性原理の文明が、現代の社会システムの中に奇跡的に生残っているのだ。

それは、近代文明が忘れ去って久しい、原初の文明の記憶だ。世界中の人々は、きわめて高度にテクノロジー化された現代日本社会や文化のなかに、その原初の記憶を感じ取り、不思議な魅力に取りつかれるのだ。そして、その不思議な魅力がクールジャパンの根底に横たわっている。

世界がマンガ・アニメに引かれる背景には、現代文明の最先端を突き進みながら一神教的なコスモロジーとは違う何かが息づいていることをそこに感じるからではないか。日本のソフト製品に共通する「かわいい」、「子どもらしさ」、「天真爛漫さ」、「新鮮さ」などは、自然や自然な人間らしさにより近いアニミズム的な感覚とどこかでつながっているのではないか。それは、原初的・母性原理的な感覚といってもよい。そして、そのような感覚は今後ますます大切な意味をもつようになるのではないか。

『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(3)
日本発の「かわいい」文化が世界中で受け入れられている。「かわいい」は日本文化に深く根ざした特殊なものだからこそ世界で珍重されるのか、それとも世界中の人間が享受しうる、何らかの普遍性をもつからこそ受け入れられるのか。私としては、そこに両方の側面があるといわざるを得ない。そう言うと、結局同じように結論を避けているだけではないかと言われそうだが、問題は両方の側面があるということを根拠を示して説明することだろう。

まず文化の普遍性、原型論の立場からいうなら、これまで何度か触れた縄文文化とケルト文化の類似性を思い起こすことが重要である。そして日本文化の特殊性、およびその伝搬という立場で論ずるなら、なぜ日本で農耕文化以前の漁撈・採集的な縄文文化の残滓が生き残りつづけたかという問いに注目する必要があるだろう。

日本の縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多い。土偶そのものの存在が、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。日本人は、縄文的な心性を色濃く残したまま、近代国家にいちはやく仲間入りした。そこに日本の特殊性がある。

縄文的な心性を現代にまで残してきた日本文化の「特殊性」は、世界のどの文明もかつてはそこから生れ出てきたはずの、農耕・牧畜以前の母性原理に根ざした狩猟・採集文化という「原型の記憶」を呼び覚ますのだ。

子どもの楽園(1)
イザベラ・バードは明治11年の日光での見聞として書いている。
「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたり、それに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭に連れて行き、こどもがいないとしんから満足することができない。」

イザベラ・バードの目には、日本人の子どもへの愛は、ほとんど「子ども崇拝」にすら見えたのではないかという。まさに子どもの無邪気さのなかに神性を見る日本文化と日本人の特性が、遠い昔からあって、その子育ての姿が、西欧人には驚くべきものとして映っていたようなのだ。イザベラ・バードの観察と同じような、西欧人の観察が、『逝きし世の面影』の中にはたくさん紹介されている。

子どもの楽園(2)
さらに、『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』から。時代はさかのぼるが、ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・ロイス(1532ころ~1596/97)は言う。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない、ただ言葉によって叱責するだけだ。」子どもを鞭打って懲罰することがない、ということはオランダ長崎商館の館員たちも注目していたという。逆に言えば、欧米では子どもが鞭打たれて懲罰されることは、何の不思議でもなかったということだろう。

さらに欧米人が驚くのは、日本では子どもをひどく可愛がり甘やかすにもかかわらず、「好ましい態度を身につけてゆく」ということだった。欧米と日本とでは、いわゆる躾けに関する考え方にもかなり大きな違いがあり、その背後には当然、子ども観の違いも横たわっていただろう。さらに父性原理の子育て観と母性原理のそれとの違いを見ることもできる。

子どもを劣等な大人として、鞭打ち躾ける対象として見るのではなく、大切な授かりものとして、その子どもらしさを愛し続けたのが、日本の伝統なのだろうか。もしそうだとすれば、そうした伝統が何らかの前提なって、現代のマンガやアニメに代表されるポップカルチャーが花開いたとしても不思議ではない。

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カワイイと平和日本:母性社会日本04

2012年10月17日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

現在、二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。

マンガ・アニメなど日本のポップカルチャーを特徴づける要素のひとつに「かわいい」があるのは間違いない。そして近年、世界に広まった日本語のなかでも、いちばんポピュラーなのが「かわいい」ではないだろうか。ところでこの「かわいい」ほど母性社会日本を象徴する言葉もないだろう。「かわいい」は、何よりもまず大人や親が、とくに母親が子供に対して抱く感情である。この言葉が現代若者のポップカルチャーの中でこれほどに使われるのも、縄文時代以来の日本を特徴づける母性文化と無関係ではない。

『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1)
日本では女性が男性に「美しい」と言われるとふき出してしまうだろうが、「君はかわいい」と言われれば、それを相手の男性の真意と受け止めるだろう。「美しい」という言葉は日常の日本語の中でそれほどこなれていないのだ。

元来「かわいい」は二人称的な関係の中での相手に対する主観的な感情を表すが、「美しい」は、より客観的な評価に近いのではないか。「かわいがる」という日本語は普通に使われる、「美しがる」という言い方はかなり不自然だ。「かわいがる―甘える」というような親密な関係が、元々「かわいい」の背景にはある。親しい関係を成り立たせる場の存在が前提となっている言葉なのだ。

そんな「かわいい」が世界に広まるとき、客観的な真理よりもその場の状況を大切にする日本的な感性も同時に広まっているような気がする。「かわいい」人とは、成熟した美しさの持ち主ではなく、どちらかといえば子供っぽく、隙だらけで、たとえ頭の回転はよくなくとも、素直で無垢な存在なのだという。これはそのまま日本人が大切にしてきた価値観ではないか。まさにそうした日本人の価値観や感性が「かわいい」カルチャーを通して世界にひろまっているのではないか。

『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
日本人が未成熟で子供じみたものにひときわ愛着を示し、自分も子供っぽい自己イメージを進んで周囲に示したがるのはなぜか。それは、幼稚であること、無害であることを通して隣人の警戒を解き、互いにその幼稚さを共有しあいながら統合された集団を組織していくからではないか。

言い方を少し変えれば、日本は古代からほどんどずっと、子供っぽさ、幼稚さ、無害、素直さなどをどこかで互いに認め、共有しあって社会関係を結ぶことが許される平和な社会だったのではないか。逆に、成熟し独立した人格こそが、人間にもっとも大切な価値であるとする社会とは、個々が人が独立した主体として責任をもって判断しながら生きていかなければ、いつ殺されるかもしれない熾烈な社会なのではないか。「かわいい」ことが生き延びていくうえでプラスにもなる社会と、かわいかろうとなかろうと、殺されるときには殺されてしまう社会との違い。

日本は、「かわいい」が積極的な価値をもつほどに平和な社会だったのではないだろうか。

《関連記事》
「カワイイ」文化について
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
子供観の違いとアニメ
『「萌え」の起源』(1)

《関連図書》
★『「かわいい」論 (ちくま新書)
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
★『「かわいい」の帝国
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
★『「萌え」の起源 (PHP新書 628)
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甘えとタテ社会:母性社会日本03

2012年10月16日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

現在は、二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。

前回は、現代に生きる日本人の「甘えの構造」も、縄文時代以来の母性原理の社会にその根をもつことを見た。今回は、甘え文化が「タテ社会の人間関係」と深く関係していることを見る。

日本文化のユニークさ43:タテ社会と甘え(1)
甘えとタテ社会とは、どのようにつながるのだろうか。日本がタテ社会だというのは、タテの人間関係つまり上下関係が厳しいということだという誤解があるかもしれない。しかしこれは俗説であり、欧米の会社での管理者と労働者との上下差の方がはるかに大きく、厳しいという面もある。

タテ社会とは、ヨコ社会と対をなす概念である。日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。自分を記者、エンジニア、運転手などと紹介するよりも、「A社のものです」「B社の誰々です」という方が普通だ。これは、場すなわち会社・大学などの枠が社会的な集団認識や集団構成に大きな役割を果たしているということである。すなわち記者、エンジニアなどの資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっているということである。

日本人にとって「会社」は、個人が一定の契約関係を結ぶ相手(対象・客体)としての企業体というより、「私の会社」「ウチの会社」として主体的に認識されていた。それは自己の社会的存在や命のすべてであり、よりどころであるというようなエモーショナルな要素が濃厚に含まれていた。つまり、自分がよりかかる家族のようなものだったのである。もちろん現在このような傾向は、終身雇用制の崩壊や派遣労働の増加などで、かなり失われつつある。しかし、それに替わってヨコ社会が形成されはじめたわけではなく、依然として日本の社会は基本的にタテ社会である。

終身雇用制が崩壊していなかったころは、会社の従業員は家族の一員であり、従業員の家族さえその一員として意識された。今でもその傾向はある程度残っているだろう。日本社会に特徴的な集団は、家族や「イエ」のあり方をモデルとする「家族的」な集団でなのである。そして家族が親と子の関係を中心とするのと同様の意味で、集団内のタテの関係が重視される。そこでは、家族的な一体感や甘えの心理が重要な意味をもってくるのは当然である。

日本文化のユニークさ44:タテ社会と甘え(2)
日本のような「タテ社会」では、企業別、学校別のような縦断的に層化した集団が形成されるが、それは資格の違う人々が、ともに生活したり働いたりする場の共通性によって、枠に閉ざされた世界を形成するということである。日本の企業別労働組合のように職種(資格)の違う人々が、同じ会社という場の共通性によって集団を作るのである。

資格の異なる人々を含む集団の構成員を結びつけるのは「タテ」の関係である。それは、同列におかれないA・Bを結ぶ関係である。これに対して「ヨコ」の関係は、同列にたつX・Yを結ぶ関係である。ヨコの関係は、カーストや階級などに発展し、タテの関係は、親子や親分・子分の関係に象徴される。タテ社会は、集団内の序列を重要視する構造になる。その場合序列は、どれだけその場に長く所属していたか(つまり年功)によって形成されるのが基本になる。

タテ社会での親子的な上下関係は、下にどんどんつながっていく。子が誰かの親になり、その子がまた誰かの親になりというのと類似した形で集団が構成されるのが基本になる。こうした集団でのリーダーシップは、逆に大きな制約を受ける。なぜなら、その集団のリーダーは、直接その成員のすべてを把握しているのではなく、リーダーの子にあたる直属の幹部をとおして把握しているからだ。ということは、リーダーに直属する幹部の発言権がきわめて大きいことである。各幹部は、ある意味で、それぞれの支配下の成員の利益を代表するから、リーダーは、その力関係の調整役を強いられるのだ。

さらに、リーダーとその直属幹部との関係は、タテの直接的な人間関係であるため、親分・子分的なエモーショナルな要素によって支えられている。そこに濃厚なのは、保護と依存、温情と忠誠といった言葉で表現される関係であり、「甘え」の心理と深く通じる関係なのだ。しかもこの関係は、各幹部とその成員、さらにその下の成員という風に、最下部まで一貫している。もちろん、日本のすべての集団がこのような構造をもっているわけではないが、社会構造の基本がこのような特徴をかなり色濃く残していることは確かだろう。

以上のように、土井健郎が『「甘え」の構造 [増補普及版]』において明らかにした日本人の心理構造が、「タテ社会」という日本社会の構造と密接に結びついて成り立っていることが明らかになる。つまり「タテ社会」は甘えの構造を介して、母性社会日本の一側面をなしているのだ。

《関連記事》
なんとなく、日本人
 「場に依存する日本人の自己においては、自分が属する共通の場がどの範囲かをまず把握し、その場の中での自己の相対的な位置を確認することが大切となる。それによって場の中での自己の役割構造が安定し、その役割を通して安心して自己実現を図ることができる」

《関連図書》
タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)
なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書) 
タテ社会の力学 (講談社現代新書 500)

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甘えと母性原理:母性社会日本02

2012年10月15日 | 母性社会日本
日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

前回から7項目の二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理している。縄文時代以来の母性原理の文化は、現代に生きる日本人の「甘えの構造」や「タテ社会の人間関係」にまで及んで、日本の社会や文化を特徴づけている。今回は、甘えの問題を探る。

日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本が、農耕文明以前からの母性原理的な文化を破壊されず、それを基盤としながら、外から学び取るという形で近代化を達成したことは、人類の歴史上でも、奇跡的なことなのかもしれない。そういう奇跡的な基盤の上に「かわいい」文化も花開いたのろう。縄文的な心性を現代にまで残してきた日本文化のユニークさは、世界のどの文明もかつてはそこから生れ出てきたはずの、農耕・牧畜以前の文化の古層を呼び覚ますのだ。

縄文人の信仰や精神生活に深くかかわっていたはずの土偶の大半は女性であり、妊婦であることも多い。伊勢神宮の主神にアマテラスを仰ぐ日本人にとって、本来、神は女性であることを意味した。日本の「文化の祖型」に女性が君臨していた。

沖縄では、イザイホーなどほとんどの宗教儀礼において、女性が中心となっている。女人禁制どころか、男子禁制が当たり前で、それが母系制社会のまっとうな宗教のあり方なのだという。神道にもその名残があって、伊勢神宮では、宮司よりも皇女である斎宮(いつきのみや)が高い地位を与えられている。女性が神の憑座(よりまし)となるからだ。日本全国の霊山でも、山の神はたいてい女性で、女人禁制という慣習も、山の神の嫉妬心を刺激しないために生まれたという(『山の霊力 (講談社選書メチエ)』)

日本文化のもう一つの祖型は、「曖昧の美学」だ。「曖昧」は成熟した母性的な感性であり、母性原理と結びついている。単純に物事の善悪、可否の決着をつけない。一神教的な父性原理は、善悪をはっきりと区別するが、母性原理はすべてを曖昧なまま受け入れる。能にせよ、水墨画にせよ、日本の伝統は、曖昧の美を芸術の域に高めることに成功した。それは映画やアニメにも引き継がれ、一神教的な文化とは違う美意識や世界観を世界に発信している。

日本は曖昧な「ナンデモアリ」の社会だが、その「いい加減さ」の背景には、母性原理の文化を、一神教を背景とした文明によって圧殺されずに、縄文時代から連綿と引き継いできたことがある。そこに仏教が入ってきて、神道と混淆していく。仏教によって日本に送り届けられた平等観は、縄文以来の自然崇拝的な世界観と重なり合って、「山川草木国土悉皆成仏」という言葉に代表されるような日本独自に平等思想を生み出していく。町田氏は、「その精神遺産の尊さを、日本人自身がもっと鮮明に自覚した時、世界に向けて、強い発信力をもつ」だろうという。

日本の宗教や文化は、対立ではなく和解、分裂ではなく融合を特徴としている。それは国際社会を生き抜くうえで弱点になることもあるだろうが、伝統文化から現代のサブカルチャーにいたる日本の文化全体が、クールなものとして世界に受け入れられる一因にもなっている。ルネサンスが、古代ギリシャ・ローマの文化をモデルにして花開いたのと同様に、父性原理に根ざす近代文明は、縄文のような母性原理に根ざす文化をモデルにして行き詰まりを打開する必要があるのかもしれない。そうだとすれば、一神教を受け入れずに近代化を成し遂げた日本のような文化のあり方は、今後、果たすべき役割が大きいではないか。

日本文化のユニークさ41:甘えと母性社会(1)
現代の日本もまた母性原理の強い社会であることを「甘え」という観点からみごとに描き出した本が、土井健郎の『「甘え」の構造』である。甘えは、本来人間に共通な心理でありながら、「甘え」という語は日本語に特有で、欧米語にはそれにあたる語がない。ということは、この心理が日本人や日本の社会にとってはとくに重要な意味を持ち、それだけ注目されるということだろう。

土井は、日本で理想的な人間関係とみなされるのは親子関係であり、それ以外の人間関係はすべてこの物指しではかる傾向があるのではないかという。ある人間関係の性質が親子関係のようにこまやかになればなるほど関係は深まり、そうならなければ関係は薄いとされる。土井はとくに明言しているわけではないが、この理想とみなされる親子関係は、もっとも理想的な形では母子関係が想定されているのではないだろうか。

親子関係だけは無条件に他人ではなく、それ以外の関係は親子関係から遠ざかるにしたがって他人の程度を増す。この事実は「甘える」という言葉の用法とも合致していると土井は指摘する。つまり親子の間に甘えが存在するのは当然である。しかも甘えは、母子関係の中にこそ、その原形がある。これは、幼児と母親の関係を思い出せば誰もが納得するはずだ。とすれば日本人はやはり、無意識のうちにも母子関係のような利害が入り込まない一体性を人間関係の理想と見ているのである。

だからこそ、「甘え」という言葉が日本語の中で頻繁に使われる。それだけではなく甘えの心理を表現する言葉が他にも多数存在していて、それらを分析すると日本人の心理構造がはっきりと浮かび上がってくるというのである。その分析が説得力があったため、以後「甘え」の語は、日本人の心理を語るうえで欠かせないキーワードとなった。

日本文化のユニークさ42:甘えと母性社会(2)
『「甘え」の構造』の中に「甘えと自由」について論じている箇所がある。日本人の甘えの心理を、歴史的な視野から考えていくきっかけとしても興味深い。

まず著者は、西欧的な自由の観念を、歴史的に古代ギリシャやローマの自由人と奴隷の区別に発するものと見る。すなわち自由とはもともと奴隷のように強制的に縛られた状態ではないことを意味した。だからこそ自由は、人間の権利や尊厳という考え方と結びいて、守るべき価値のあるものとなったのだろう。また西欧では集団に対して個人の自由が重視される。

これに対して日本で古くから使われていた自由という言葉は、「自由気まま」という表現が暗示するように、もともと甘えの願望とかなり関係が深いという。つまり西欧語の翻訳としての意味が入り込む以前は、自由とは甘える自由であり、つまりはわがままな態度を意味したのである。集団に対して自由勝手、わがまま勝手にふるまうのは、集団からの独立としての自由というよりは、集団への甘えや依存を前提としている。日本的自由はもともと甘えに発するのであり、甘えは他を必要とし、個人が集団に依存していることを前提としている。

これに対して西欧では、個人の自由を重視する一方で、甘えに相当する依存的感情が軽視されてきた。西欧的な自由は甘えの否定のうえに成り立っているのである。「神は自ら助くる者を助く」という諺は、本来はユダヤ・キリスト教の伝統とは無関係らしいが、その意味は「万人が万人にとって敵である世にあって、自立自衛以外には頼むべきものがない」ことを意味したという。

とすればこれは、「旅は道連れ、世は情け」とか「渡る世間に鬼はなし」などという日本的な諺とは正反対の精神と社会を反映していると言ってよいだろう。ということで自由と甘えの問題は、男性原理の社会と女性原理の社会の違いにも深く関係し、その違いをある程度反映しているとも言えそうだ。

《関連記事》
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ29:母性原理の意味
日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
ユダヤ人と日本文化のユニークさ07

《参考図書》
「甘え」と日本人 (角川oneテーマ21)
続「甘え」の構造
聖書と「甘え」 (PHP新書)
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで (中公新書)
母性社会日本の病理 (講談社プラスアルファ文庫)
中空構造日本の深層 (中公文庫)

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太古の母性原理を残す国:母性社会日本01

2012年10月14日 | 母性社会日本
引き続き、日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

今回から7項目の二番目(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連する記事を集約して整理していきたい。世界史の流れを見ると古代文明の誕生とともに、前農耕的な母性原理の文化は消えていく。しかし日本列島では母性原理的な縄文文化が消えずに存続し、その上に大陸からもたらされた高度な文明が接ぎ木される。母性原理を破壊されないように上手に変えられながら吸収されていった。だからこそ母性原理の社会が残ったのだ。

日本文明は、母性原理を機軸とする太古的な基層文化を生き生きと引き継ぎながら、なおかつ近代化し、高度に産業化したという意味で、文明史的にもきわめて特異な文明なのである。

日本文化のユニークさ39:環境史から見ると(1)
縄文文化のどのような特徴が日本人の心の基層として残ったか。世界史的に見ると日本列島は、農耕文明の時代になっても、農耕以前の母性原理が消滅しなかっためずらしい地域だといえるようだ。そして、その特徴が現代日本人の心理にも表れていて、日本の若者文化の発信力の一因にもなっている。

世界史的な視野で見ると、古代地中海世界では紀元前1500~1000年頃に大きな世界観の変化があったという。それまでの大地に根ざす女神から、天候をつかさどる男神へと信仰の中心が移動したというのだ。これには紀元前1200年頃の気候変動が関係しており、北緯35度以南のイスラエルやその周辺は乾燥化した。その結果、35度以北のアナトリア(トルコ半島)やギリシアでは多神教や蛇信仰が残ったが、イスラエルなどでは大地の豊饒性に陰りが現れ、多神教に変わって一神教が誕生する契機となったという。

これまで大地の恵みに頼れば生きていけた時は、地下の蛇や大地母神が信仰されたが、乾燥化が進むと嵐や雷に関係する天候神バールや唯一神ヤーウェの信仰が強大化した。この信仰の変化にとってもうひとつ重要なのは、牧畜民が砂漠を追われて農耕民のオアシスや河畔に侵入し、侵略したことだ。牧畜民は天の神を信じていたので、これも天候神の確立に大きく寄与した。

さらに紀元前1200年頃の気候の悪化をきっかけにして、トルコ・アナトリアのヒッタイト帝国が崩壊し、それまで彼らが独占していた鉄器の制作技術が各地に普及した。これにより世界史は、青銅器時代から鉄器時代へと移行していった。

これらが背景となって紀元前1200年頃、ユーラシア大陸の広範な地域で、よく似た神話が語られるようになった(ギリシア神話のゼウスにも、中国南部のハニ族にも似たような神話があるという)。その共通点は次のようなものである。

①古い神(蛇の姿の大地母神)と新しい神(人間の姿をした天候・嵐の男神)との闘い。
②新しい神は、あごひげをはやした男神(鉄器をたずさえたバール神など)。
③天候神と大蛇の闘いは、一度は大蛇が勝利するが、美女の助けで天候神は復活を果たし、勝利する。

これは、大地の豊饒性の低下の中で、信仰の中心が大地から天へと移動し、同時に男性の権力が増大したことを物語る。母権社会から父権社会への転換を意味していたとも言えよう。

日本列島は、世界的な気候変動にもかかわらず大地の豊饒性はそれほど変化しなかった。それゆえ、漁撈・採集を中心にした縄文文化を高度に発達させながら長く存続させることができた。稲作文明や鉄器が流入したときも、豊かな縄文文化を基盤にして、徐々にそれを取り入れることができた。だから縄文の母性原理の文化を崩すことなく、存続させることができたのである。島国であるため、遊牧・牧畜民の侵入がなかったことも、母性原理の文化が存続したことの大きな理由の一つだろう。

縄文以来の母性原理の文化が、父性原理の文化にとって替わられることなく存続したという事実の意味は、どれだけ強調しても強調しすぎることなないだろう。

日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理
日本列島に住んできたわれわれは、「母なる大地」に象徴される豊かな自然の恩恵をたっぷり受けながら母性原理的な宗教を保ち続けることができたユニークな民族である。それに対して大陸の諸民族は、多かれ少なかれそうした「自然性」から脱することで「文明」をきずいていった。その違いにこそ、日本文化のユニークさを考える上での大切な観点が隠されているのではないか。

世界史は大きな流れとしては狩猟・採集文明から農耕・牧畜文明へと変化していった。その流れを母性原理、父性原理の視点から考えるなら、狩猟・採集文明はどちらかというと母性原理が強く、農耕・牧畜文明はそこに父性的な原理も入り込んでくるといえるのではないか。さらに多神教・一神教という区分でいうなら、アニミズム的な自然崇拝では母性原理が強く、精霊崇拝からある程度明確な多神教という形をとるようになると多少ととも父性的な原理も入り込んでくる。そして一神教は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という「地中海三宗教」において出現し、かなり父性的な性格の強い文明の基盤となっていくのである。

たとえば縄文人は、日常生活の根拠地としてムラの周囲のハラを生活圏とし、自然と密接な関係を結ぶ。生活舞台としてのハラの存亡に影響を与えることは、生活基盤の破壊につながりかねない。だから自然との共存共栄こそ、その恵みを永続的に享受する保障につながる。彼らは、ハラのさまざまな自然の背後に精霊を感じ、その恵みに抱かれて生きていることを実感しただろう。

一方、農耕民は自然をあるがままにせず、開墾し農地を確保する方向に進んでいく。ムラという人工空間の外にもう一つの人工空間としての農地=ノラを設け、その拡大を続ける。つまり農耕民はただ単に母なる自然の懐に抱かれているのではなく、自然を征服するという意識と態度を自覚していく。これは多かれ少なかれ母性原理からの脱却を意味する。

ところで日本列島に生きた人々は、農耕の段階に入っていくのが大陸よりも遅く、それだけ狩猟・採集の文明を高度に発達させた。世界でもめずらしく高度な土器や竪穴住を伴う狩猟・採集であった。このように高度に発達した母性原理的な縄文文化がその後の日本文化の基盤となったのである。しかもやがて大陸から流入した本格的な稲作は、牧畜を伴っていなかった。牧畜は、大地に働きかける農耕よりも、生きた動物を管理し食用にするという意味で、より自覚的な自然への働きかけとなる。そして牧畜は森林を破壊する。

さらに日本列島の人々は、他民族にも襲われずに、母なる大地の恵みを最大限に受けながら悠久の昔からそこに住み続けることができた。そのような条件にあったからこそ、自然の恵みを基盤とする自然崇拝的な宗教を大陸から渡来した儒教や仏教を共存さて、長く保ち続けることができたのである。神仏混淆とは、一方の文化が他方の文化を圧殺しなかった結果に他ならない。

一方大陸では、そのような条件に守られ続けることはほぼ不可能であった。それゆえ、多かれ少なかれ母性原理の文化から脱出せざるを得なかったのである。精霊信仰や自然崇拝はもちろん、部族の宗教を保つことも不可能だった。部族宗教相互の闘争が起こり、一方が他方によって抹殺され、やがて普遍宗教によって支配される大帝国も出現した。闘争や統合によって成立する宗教は、自然の恵みに抱かれる自然性の原理の宗教に比べれば、はるかに意識的であり、男性的・父性的な原理を含んでいるのである。

それゆえユーラシア大陸の歴史を巨視的に見ると、母性的な自然との一体性から脱し、農耕・牧畜によって自然に働きかけ征服し、部族相互の闘争を繰り返しながらより普遍的な宗教を形づくっていくという形で、父性的な要素を徐々に取り込んでいったのではないか。その極限にあるのが一神教的な西欧文明であり、その源のひとつがユダヤ教なのである。西欧文明のもう一つの源は、もちろん合理主義的なギリシャ文明である。

日本の歴史と文化のユニークさは、民族相互の抗争と無縁なところで母性原理的な森の宗教の原型を残し、しかも大陸の厳しい歴史の精華の部分だけを、その母性原理的な文化の中に取り入れることができたというところにあるのではないか。

《参考図書》
森のこころと文明 (NHKライブラリー)
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)

《参考記事》
日本文化のユニークさ01:なぜキリスト教を受容しなかったかという問い
日本文化のユニークさ02:キリスト教が広まらなかった理由
日本文化のユニークさ03:縄文文化の名残り
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓
日本文化のユニークさ18:縄文語の心
日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

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縄文の蛇は今も生きる:現代人の心に生きる縄文04

2012年10月13日 | 現代に生きる縄文
引き続き、日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

まずは(1)「狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている」に沿って、縄文文化に関連した記事を集約している。

こうしてまとめていてますます確信することがある。日本という社会と文化の成り立ちの特異さについてだ。縄文の文化、つまり農耕文明以前の文化が現代にまで生き残ったということだけでも稀有のことだ。しかしそれだけではない。世界史上の文明は、農耕以前の文化が抹殺され、否定されることによって成立した。否定されることが文明成立の条件であった。普遍宗教も農耕以前のアニミズム的な信仰を否定することで成立した。ところが日本の場合は、農耕以前の文化が基盤として存在し続け、それに接ぎ木されるようにして農耕文明や近代文明発展した。今回は、この問題を世界の蛇信仰との関係で見ていく。

日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
縄文中期の土器は、生々しい活力に満ちた蛇の造形で注目される。縄文土器の縄文そのものが蛇に関係していたかも知れない。遮光器土偶の蛇のような眼は、おそらく縄文人の蛇信仰が呪術にとって大切な意味をもっていたことを反映している。土偶に蛇の眼を与えることで、死者の再生を願ったのではないか。また神社の注連縄(しめなわ)は、交合する雄と雌の蛇の姿を現すという。縄文人の蛇信仰が、現代日本のありふれた生活空間の中にも生き残っているのだ。

現代日本人にとっても山は信仰の対象となるが、縄文人にとって山は、その下にあるすべての命を育む源として強烈な信仰の対象であっただろう。山は生命そのものであったが、その生命力においてしばしば重ね合わされたイメージがおそらく大蛇、オロチであった。ヤマタノオロチも、体表にヒノキや杉が茂るなど山のイメージと重ね合わせられる。オロチそのものが峰神の意味をもつという。蛇体信仰はやがて巨木信仰へと移行する。山という大生命体が一本の樹木へと凝縮される。山の巨木(オロチの化身)を切り、麓に突き立て、オロチの生命力を周囲に注ぐ。そのような巨木信仰を残すのが諏訪神社の御柱祭ではないか。

ところで蛇信仰は日本だけに見られるのではない。蛇とかかわりの深いメソポタミアのイシュタル女神は、死と再生、大地の豊穣性をつかさどる祭祀にかかわりをもっていた。地中海沿岸も、かつては蛇信仰の中心であった。ギリシアの聖地デルフォイには、黄金の三匹のからまりあう大蛇が聖杯を捧げている彫刻があった。アテネのパルテノン神殿には、人間の頭をもった三匹の蛇がからみあった彫刻がある。この他にも蛇が表現された遺跡は多く、古代地中海の人々と日本の縄文人とは、蛇によって象徴される何かしら共通した世界観をもっていたのである。

森が消滅した現代のギリシアでは、夏の岩肌に蛇はめったに見れない。森が消えるとともに蛇も姿を消し、森のこころは永遠に失われてしまったのである。しかし、蛇信仰の消滅については、気候や環境の変化を含めてもう少し詳細に語らなければならない。紀元前1500年から紀元前1000年の頃に地球界世界の人々に、世界観の大きな変化があった。蛇をシンボルとする大地の豊穣の女神から天候と嵐の男神へと中心が移動した。

ここでも気候の変動が深く関係している。紀元前1200年ごろ、西アジア一帯は気候が寒冷化した。ギリシア・トルコは、寒冷化とともに湿潤化したが、イスラエルやエジプトは寒冷化とともに乾燥化した。気候が乾燥化した地域の牧畜民は砂漠を追われて、農耕民の住むオアシスや河畔に侵入し、侵略するようになる。この牧畜民の侵入が、天候神中心の世界への変化に寄与した。天候神はもともと牧畜民のものであった。

これに対して牧畜民との接触のなかった日本列島の人々は、牧畜民の神々からの影響を受けることなく、多様な森の環境の中で育まれたアニミズム、あるいは多神教的な神々を維持する条件に恵まれていたのである。

日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
縄文人の暮らしは季節によって条件づけられていた。春には山菜をとり、夏には魚介類をとり、秋には木の実をとり、晩秋から冬には狩りをする。イノシシや鹿の狩りは、この時期、つまりいちばんおいしい時に集中している。このようことを著者が福井県での講演会で話したら、「そんなことはなにも珍しくない、私は今でもやっている」と言ったので、会場が爆笑につつまれたという。

つまり、縄文人がやっていた生活のリズムが現代人にも理解できるのだ。縄文人の蛇信仰の名残りも現代の日本に存在する。注連縄(しめなわ)や諏訪神社の御柱祭り、いくつかの地域の祭りでの蛇にみたてた綱の綱引きなどだ。私たちの心は縄文人のこころにどこかでつながっている。これは日本文化を考えるうえできわめて重要なことだ。

たとえばアメリカでは、先住民が縄文人と同様の生活スタイルをもっていただろうが、現代のアメリカ人はそれを体験的に理解することはできないだろう。かつてヨーロッパに広がっていた森の民・ケルト人の文化がキリスト教文化によって抹殺されてしまったことは、このブログでも何度か触れた。その意味で現代のヨーロッパ人も、森の民のアニミズムを忘れてしまった。

日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)
日本の稲作技術は、気候の寒冷化をきっかけとして大陸からやってきた環境難民によって最初にもたらされたという。その後、弥生時代以降は、大陸から大量の人々が渡来した。こうして新たにやってきた人々は、蛇殺しの信仰をもっていた。こうした神話は、稲作と鉄器文化が結びついて伝播した可能性が高いという。

その蛇殺しの神話を代表するのがヤマタノオロチの伝説だ。スサノオノ命が、オロチに酒を飲ませ、酔って寝込んだすきに、剣を抜いて一気にオロチの八つの首を切り落とす。この物語は、バール神が海竜ヤムを退治した物語によく似ているという。さらにスサノオノ命は荒れ狂う暴風の神であり、この点でもバール神を思い起こさせる。

バール神の蛇殺しもスサノオノ命の蛇殺しも、ともに新たな武器であった鉄器の登場を物語っている。バール神がシリアで大発展した紀元前1200年頃は、鉄器の使用が広く普及した時代でもある。日本の弥生時代も鉄器が使用されはじめた頃だ。こうしてみると、蛇を殺す神々の登場の背景には、鉄器文化の誕生と拡散とが深く関わっており、殺される大蛇たちは、それ以前の文化のシンボルだったのだという。

しかし、日本に関してはスサノオノ命が大蛇を退治したから、それ以前の文化を葬り去った新時代の神とは単純にはいえない。これまで見てきたように、日本では蛇信仰は形を変えつつも生き残った。縄文文化は弥生文化によって抹殺されてしまったわけではない。むしろ縄文文化という根幹の上に、弥生文化が接ぎ木されていったと考えた方がよい。縄文の心が稲作農耕を中心とした弥生文化の中に流れ込み、溶け合っていった。

それを反映してか、男神であるスサノオノは、ヤマタノオロチ退治の前、アマテラスが住む高天原で大暴れをして、「根の国」に追放されたのである。つまり女神に男神が敗北しているのだ。女神や蛇に象徴される古い文化が、鉄器をもった男神によって葬り去られるという単純な図式では、きれいに整理できない。

しかも「根の国」に追放されたスサノオが、復活してヤマタノオロチを退治するのは、出雲の国である。出雲はもともと縄文文化の関係が深い地域でもある。もともと出雲族は近畿地方の中央にいたが、外部から侵入した部族によって四方に分断され、その一部が出雲と熊野に定住したという説もある。さらに出雲族の一部は、諏訪地方にのがれ、諏訪大社の基盤を作ったという。諏訪大社は、御柱祭からも推測できるように、蛇信仰や縄文文化と関係が深いのだ。

すなわち、スサノオノ命の大蛇退治は、その前後の物語も含めて考えると、稲作や鉄器に代表される弥生文化が,蛇信仰に代表される縄文文化を葬り去った物語と単純にとらえることはできない。むしろ縄文文化と弥生文化が複雑に入り組み、融合していくさまを、そのまま反映して、両方の要素が複雑に入り組んでいるものと理解すべきだろう。

《関連図書》
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