日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。
日本文化のユニークさを8項目に変更
これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。
今回も新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。
◆日本人が日本を愛せない理由(4)
5~6世紀の昔から、日本の知識人の役割は、大陸の進んだ文明を学んで日本に紹介することであった。書物によって学び紹介するということが多かったが、遣隋使・遣唐使のように危険を冒して、その地に渡って学ぶこともあった。いずれにせよ、自分たちより優れた文明をもつ国が、同時に自国への侵略者でもあるという経験がなかった日本にあっては、学び取られた知識や制度や技術は無条件に尊重され、それをもたらしたり、紹介したりする知識階級の役割も重視された。明治時代になって、学び取る相手が中国から西欧に代わっても、知識階級の基本的な役割は変わりなかった。
このように海外の文物を紹介していさえすれば尊敬された日本の知的エリートにとって、海外の文明がいかに素晴らしいか、それに引き替え日本の文化や社会がいかに劣っているかを強調することはぜひとも必要なことであった。その落差を強調すればするほど、自分の存在基盤が確たるものになり、自分の存在価値が上がるわけだ。そんな情報活動を日本の知識人は、千年以上必死にやってきたのだ。それが多かれ少なかれ庶民の感じ方にまで影響を与えたとしても不思議ではない。
しかし海外の「進んだ文明」を紹介しさえすれば知識階級といわれた時代は、すでに終わっている。にもかかわらず、自分たちの存在基盤を失うのが怖い知識人たちは、相も変わらず西欧を崇拝・礼賛し、日本を不必要に貶め続けるのだ。そうしないと不安を打ち消すことができないのだろうか。日本のマスメディアも自分たちの国を貶めるのに忙しい。マスメディアにかかわる人々もいわゆる「知的エリート」として、上に述べたのと同様の心理を共有している面があるのだろう。
◆『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
丸山真男は、「私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」(『日本文化のかくれた形(かた) (岩波現代文庫)』)と、日本文化の特徴を指摘する。日本文化そのものはめぐるましく変わるが、変化するその仕方は変わらないということだ。
内田樹は『日本辺境論 (新潮新書)』で、こうした日本論を引き継いで、それに「辺境」論という地政学的な補助線を引くことでさらに理解を進めようとする。私たちは変化するが、変化の仕方は変わらない。そういう定型に呪縛されている。その理由は、外部(かつては中国、今は欧米)から到来して、集団のありようの根本的変革を求める力に対して、集団としての自己同一性を保つためには、そうするほかなかったからだという。外来の思想の影響をもっぱら受容するほかなかった集団が、その自己同一性を保つには、アイデンティティの次数を一つ繰り上げるほかない。
「私たちがふらふらして、きょろきょろして、自分が自分であることにまったく自信が持てず、つねに新しいものにキャッチアップしようと浮き足立つのは、そういうことをするのが日本人であるというふうにナショナル・アイデンティティを規定したからです。世界のどんな国民よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、弊履を棄つるが如く伝統や古来の知恵を捨て、いっときも同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たち日本人としてのナショナル・アイデンティティを見出したのです。」
内田の「日本辺境論」の根底に、このような日本理解がある。そして私がいちばん批判したいと思うのはまさにこの点なのだ。確かに明治以来の日本人の、欧米崇拝や欧米文化や思潮の受容にはこのような傾向が見られたであろう。しかし私には、これまでの日本人のあり方に、今大きな変化が起こっていると感じられる。しかもその変化は、千年二千年単位の日本歴史のなかでも重要な変化であるような気がする。内田には、それが全然見えていないのではないか。この本を読んだときに私がいちばん引っかかったのはこの点であった。
大陸から海で隔てられた「辺境」に位置した日本にとっては、海の向こうから入って来るものはつねに崇拝の対象だった。中国や欧米の文明にたえず範を求め続けた。「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない。」これが辺境の限界だと内田はいう。日本人に世界標準の制定力がなく、「保証人」を外部の上位者に求めてしまうことこそが、「辺境人」の発想だ。そして、それは「もう私たちの血肉となっている」から、どうすることもできない。だとすれば「とことん辺境でいこうではないか」。こんな国は世界史上にも類例を見ないから、そんな変わった国にしかできないことは何かを考えた方が有意義だ、というのが本書の主張だ。
しかし、文明の「保証人」を外部に求めようとする日本人のあり方に、もし変化の兆しが見え始めているのだとしたら? ふらふらきょろきょろして外ばかり見ていた世代の「呪縛」から解放された世代の文化が育ち始めているのだとすれば? その時、内田の「辺境論」の前提が崩れることになる。私が、考察してみたいのはそのような変化の可能性である。
日本文化のユニークさを8項目に変更
これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。
今回も新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。
◆日本人が日本を愛せない理由(4)
5~6世紀の昔から、日本の知識人の役割は、大陸の進んだ文明を学んで日本に紹介することであった。書物によって学び紹介するということが多かったが、遣隋使・遣唐使のように危険を冒して、その地に渡って学ぶこともあった。いずれにせよ、自分たちより優れた文明をもつ国が、同時に自国への侵略者でもあるという経験がなかった日本にあっては、学び取られた知識や制度や技術は無条件に尊重され、それをもたらしたり、紹介したりする知識階級の役割も重視された。明治時代になって、学び取る相手が中国から西欧に代わっても、知識階級の基本的な役割は変わりなかった。
このように海外の文物を紹介していさえすれば尊敬された日本の知的エリートにとって、海外の文明がいかに素晴らしいか、それに引き替え日本の文化や社会がいかに劣っているかを強調することはぜひとも必要なことであった。その落差を強調すればするほど、自分の存在基盤が確たるものになり、自分の存在価値が上がるわけだ。そんな情報活動を日本の知識人は、千年以上必死にやってきたのだ。それが多かれ少なかれ庶民の感じ方にまで影響を与えたとしても不思議ではない。
しかし海外の「進んだ文明」を紹介しさえすれば知識階級といわれた時代は、すでに終わっている。にもかかわらず、自分たちの存在基盤を失うのが怖い知識人たちは、相も変わらず西欧を崇拝・礼賛し、日本を不必要に貶め続けるのだ。そうしないと不安を打ち消すことができないのだろうか。日本のマスメディアも自分たちの国を貶めるのに忙しい。マスメディアにかかわる人々もいわゆる「知的エリート」として、上に述べたのと同様の心理を共有している面があるのだろう。
◆『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
丸山真男は、「私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」(『日本文化のかくれた形(かた) (岩波現代文庫)』)と、日本文化の特徴を指摘する。日本文化そのものはめぐるましく変わるが、変化するその仕方は変わらないということだ。
内田樹は『日本辺境論 (新潮新書)』で、こうした日本論を引き継いで、それに「辺境」論という地政学的な補助線を引くことでさらに理解を進めようとする。私たちは変化するが、変化の仕方は変わらない。そういう定型に呪縛されている。その理由は、外部(かつては中国、今は欧米)から到来して、集団のありようの根本的変革を求める力に対して、集団としての自己同一性を保つためには、そうするほかなかったからだという。外来の思想の影響をもっぱら受容するほかなかった集団が、その自己同一性を保つには、アイデンティティの次数を一つ繰り上げるほかない。
「私たちがふらふらして、きょろきょろして、自分が自分であることにまったく自信が持てず、つねに新しいものにキャッチアップしようと浮き足立つのは、そういうことをするのが日本人であるというふうにナショナル・アイデンティティを規定したからです。世界のどんな国民よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、弊履を棄つるが如く伝統や古来の知恵を捨て、いっときも同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たち日本人としてのナショナル・アイデンティティを見出したのです。」
内田の「日本辺境論」の根底に、このような日本理解がある。そして私がいちばん批判したいと思うのはまさにこの点なのだ。確かに明治以来の日本人の、欧米崇拝や欧米文化や思潮の受容にはこのような傾向が見られたであろう。しかし私には、これまでの日本人のあり方に、今大きな変化が起こっていると感じられる。しかもその変化は、千年二千年単位の日本歴史のなかでも重要な変化であるような気がする。内田には、それが全然見えていないのではないか。この本を読んだときに私がいちばん引っかかったのはこの点であった。
大陸から海で隔てられた「辺境」に位置した日本にとっては、海の向こうから入って来るものはつねに崇拝の対象だった。中国や欧米の文明にたえず範を求め続けた。「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない。」これが辺境の限界だと内田はいう。日本人に世界標準の制定力がなく、「保証人」を外部の上位者に求めてしまうことこそが、「辺境人」の発想だ。そして、それは「もう私たちの血肉となっている」から、どうすることもできない。だとすれば「とことん辺境でいこうではないか」。こんな国は世界史上にも類例を見ないから、そんな変わった国にしかできないことは何かを考えた方が有意義だ、というのが本書の主張だ。
しかし、文明の「保証人」を外部に求めようとする日本人のあり方に、もし変化の兆しが見え始めているのだとしたら? ふらふらきょろきょろして外ばかり見ていた世代の「呪縛」から解放された世代の文化が育ち始めているのだとすれば? その時、内田の「辺境論」の前提が崩れることになる。私が、考察してみたいのはそのような変化の可能性である。