クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

日本人、オタク、萌えの本

2009年10月25日 | coolJapan関連本のレビュー
「クールジャパン現象」を追うのに関係ありそうで、最近読んで面白かった本を挙げておく。それぞれ、近々、きちんとレビューをかくつもり。

★小笠原 泰『なんとなく、日本人―世界に通用する強さの秘密 (PHP新書)』題名からは軽い読み物という印象を受けるかも知れないが、実は本格的な日本文化論だ。これまでの日本論の成果を受け継ぎながらも新しい切り口で日本語や日本人を論じていてとても面白かった。日本人の、場や集団に依存する相対的な自己構造や、外来の文化をその歴史と切り離して結論だけ純化したり細切れにして取り込んでいく日本文化の特徴は、マンガやアニメに反映されているものと思う。

★東 浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)』東 浩紀は、ポストモダンの代表的な論客だという。オタク文化の構造には、ポストモダンの本質がよく現れている。オタク文化の展開を世界的なポストモダンの流れの中で理解しようとする試み。私には、日本のサブカルチャーの展開を伝統と切り離して論じることで、著者が何か大切なものを見失ってしまったような気がしてならない。 この本も本格的に書評していみたい

★鳴海 丈 『「萌え」の起源 (PHP新書) (PHP新書 628)』東 浩紀の上の本とは逆に、日本のサブカルチャーを、伝統との密接な関係の中で論じており、興味深かった。私も、文化がたとえ伝統から切り離されたように見えようとも、少なくとも深層のレベルでは密接にからんでいるものと思う。 「チャンバラ小説や捕り物帳を書くこと」を本職にしている著者だけあって、そのジャンルとアニメ・マンガとの比較も面白いし、手塚治虫の特異な作家性が、その後の日本のマンガ界に与えた影響の大きさを強調している点も興味深かった。

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子どもの楽園(2)

2009年10月19日 | マンガ・アニメの発信力の理由
さらに、『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』から。

カッテンディーケの長崎での見聞から。時代は江戸末期の安政年間。彼は、日本人の幼児教育は、ルソーが『エミール』で主張するところとよく似ていると感じたという。

「一般に親たちは幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」。親は子どもの面倒をよく見るが、自由に遊ばせ、ほとんど素裸で路上をかけ回らせる。子どもがどんなにヤンチャでも、叱ったり懲らしたりしている有様を見たことがない。その程度はほとんど「溺愛」に達していて、「彼らほど愉快で楽しそうな子どもたちは他所では見られない。」

時代はさかのぼるが、ポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・ロイス(1532ころ~1596/97)も言う。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない、ただ言葉によって叱責するだけだ。」子どもを鞭打って懲罰することがない、ということはオランダ長崎商館の館員たちも注目していたという。逆に言えば、欧米では子どもが鞭打たれて懲罰されることは、何の不思議でもなかったということだろう。

さらに欧米人が驚くのは、日本では子どもをひどく可愛がり甘やかすにもかかわらず、「好ましい態度を身につけてゆく」ということだった。

欧米と日本とでは、いわゆる躾けに関する考え方にもかなり大きな違いがあり、その背後には当然、子ども観の違いも横たわっていただろう。現代では、欧米流の躾け観の影響もだいぶ色濃くなっている日本だが、子ども観の根底に流れるものは、江戸時代やそれ以前と大きく変わっていないのかもしれない。

子どもを劣等な大人として、鞭打ち躾ける対象として見るのではなく、大切な授かりものとして、その子どもらしさを愛し続けたのが、日本の伝統なのだろうか。もしそうだとすれば、そうした伝統が何らかの前提なって、現代のマンガやアニメに代表されるポップカルチャーが花開いたとしても不思議ではない。

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子どもの楽園(1)

2009年10月18日 | マンガ・アニメの発信力の理由
2009年09月13日の記事『子供観の違いとアニメ』では、pkさんからの興味深いコメントを取り上げた。

「日本のアニメと西欧のアニメは何が違うのか。
たぶん、メインターゲットの「子供(未成年)」に対するスタンスの違いが
かなり大きいからじゃないかな。
西欧では、子供は未完成な人間であって、教え導かなければいけない
動物のようなモノ。洗礼を経て、教育で知性と理性を磨くことで、
初めて一人前の「人間」に成ると考えているっぽい。」
対して日本では、子供が動物(自然)に近いと考えてるのは同じだけど、
むしろ成長する事で、子供が持って居る「何か」を失ってしまうと考えている。
知性と理性を持って、動物(自然)と一線を画し、神に近づく西欧と、
自然にこそ神が存在すると感じ、それに近い子供に神性を見る日本と。」

この子供観の違いが、日本でアニメやマンガがこれほど盛んになり、そして世界に広がっていった理由のひとつだということだった。

上のような日本と西欧の子供観の違いは、『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』で、幕末から明治初期、あるいはそれ以前に日本を訪れた西洋人の観察の中で浮き彫りにされている。

たとえば、イザベラ・バードは明治11年の日光での見聞として書いている。
「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたり、それに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭に連れて行き、こどもがいないとしんから満足することができない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている。毎朝六時ごろ、十二名か十四名の男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれの腕に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題となっているらしい」。

イザベラ・バードの目には、日本人の子どもへの愛は、ほとんど「子ども崇拝」にすら見えたのではないかという。まさに子どもの無邪気さのなかに神性を見る日本文化と日本人の特性が、遠い昔からあって、その子育ての姿が、西欧人には驚くべきものとして映っていたようなのだ。イザベラ・バードの観察と同じような、西欧人の観察が、『逝きし世の面影』の中にはたくさん紹介されている。

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