クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)

2011年06月11日 | マンガ・アニメの発信力の理由
引き続き、アメリカの女性人類学者アン・アリスンによる、「クール・ジャパン現象」をめぐる研究書『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』の、セーラームーンに関する記述に触れながら進めたい。

ファンである子どもにとっても、また大人にとっても、セーラームーンの一番の魅力は、登場人物がアイデンティティを変化させるという点だろう。「少女がモンスターに、モンスターが少女になるという双方向の変化があり、どちらに変化してもそれぞれの特徴が出ている」 そして少女が、そのアイデンティティをファッションで表現するのと同じ感覚で、アクションシーンにおいても、装備やボディパーツを身に着けるのだ。登場人物は、服を変えるのと同じようにかんたんに、身体をアクションモードに切り替える。

セーラームーンが米国で放送されはじめた当初(1995年)は、登場人物のフレキシブルな変化など、米国にない特色が視聴者に違和感を感じさせ、それが一時的な失敗の原因になったかもしれない。しかし、2000年になると日本語、着物、侍、寺などはっきり日本とわかる要素を前面に出していくことは、ファンを失うどころか、むしろ「クール」とみなされプラスに働くようになったという。

しかし私は、そのような表面的な日本的要素が「かっこいいもの」として受容されるようになっただけではなく、日本文化の根元とつながる発想が受容されるようになったのだと思う。たとえば「登場人物のフレキシブル」な変化、つまり登場人物たちがアメリカのアニメに比べるとはるかに自由にいろいろなものに変身するということは、マンガ・アニメの発信力5項目の①に深くかかわっている。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別せず、またあの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

人間とほかのもの(動物でも、モンスターでも、機械でもよい)との区別があいまいだからこそ、いともかんたんにその境界を飛び越えて双方向に変化が行われるのだ。日本のアニメが、クールと受け止められる底流には、このような発想が米国のファンにも肯定的に受け入れられるようになったという事実があるのだと思う。

さて、セーラームーン人気とともにセーラームーン関連のキャラクター商品もまた世界各国に販路を広げ、何百万ものファンを獲得した。米国市場での評価は賛否両論あったが、それでもセーラームーンがバービー以外で女の子向け大衆文化として世界的人気を得たことは見逃せない。それは、アクションとファッションの両面で「女の子のロールモデル」にまでなった。

著者のアン・アリスンは、その魅力を「アクションがファッションとはっきり結びつけられ、しかもファションとして表現されていることにある」という。セーラームーンは、これまで女の子向け番組で描かれてきた「少女」の類型を変え、それを見て消費し、自分をそこに重ね合わせてきた「少女」のイメージをも変えたという。この点については、マンガ・アニメの発信力5項目の③「かわいい文化」の魅力とのかかわりで項を改めて論んじよう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)

2011年06月10日 | マンガ・アニメの発信力の理由
アメリカの女性人類学者による、「クール・ジャパン現象」をめぐる本格的で緻密な研究書である『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』については、かつて以下のエントリーでかんたんに紹介したことがある。

『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1)
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)

今回は、この本の数章で取り上げられている個々の作品や製品について、下のマンガ・アニメの発信力5項目に関連させながら紹介してみたい。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別せず、またあの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現と相対主義的な価値観。

⑤知的エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだりり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

まずは第5章で取り上げられている「セーラームーン」である。セーラームーンは1995年に初めてアメリカに上陸したときはまったく注目されず、1996年には商業的に失敗したと判断され、配信していたDICは放送を中止した。しかしそれまでに実は、米国内に数は少ないが熱狂的なファンが生まれていた。彼らが放送続行を訴え「セーラームーンを救え(SOS)」キャンペーンを展開したため、放送は再開され、2002年には、バンダイ製の人形もアメリカの玩具店にまた並ぶようになった。

アメリカのセーラームーンのファンは、この国に溢れているありきたりの男性スーパーヒーローとのちがいに惹かれていった。女性アクションヒーローの登場や、誰か一人を特別扱いしたり悪者にしたりするのではなく、さまざまな要素を絡めて描く複雑なストーリーが絶賛された。

アメリカのファンたちが繰り返し称賛したのは、「セーラームーンには、戦闘とロマンス、友情と冒険、現代の日常と古代の魔法や精霊とが混在し、並列して描かれている点だ」という。物語と登場人物をさまざまな方向から肉づけすることで、ほかのスーパーヒーローものよりも、「リアル」で感情的にも満足できる、というのだ。

この本で紹介される、ファンの代表的な声を抜き出してみよう。

「米国のテレビキャラクターのように無敵でないところがいい。」
「普通の女の子がスーパーヒーローに変身する物語に魅了された。」
「死や真実の愛といったテーマにさまざまな角度から向き合っている。」
「セーラー戦士は男性ヒーローよりも不器用だが、女の子でもヒーローになれるというまったく新しい視点を与えてくれた。」
「変身して人間を超えた力を授かり、戦士として戦う一方、アイスクリームを食べたりビデオゲームをしたりショッピングをしたりといった日常の描写が重要なのだ。」
「泣き虫でもヒーローになれるのよ」
「セーラームーンはごく普通の女の子だと思います。」
「何でもない女の子たちが宇宙を守るなんてすごい。」


こうして並べるとあきらかなように、これらの声は、日本のマンガ・アニメの発信力⑤にいちばん関連がある。意識的にそういうものを選んだこともあるが、全体としてそういう内容のものがかなり多かった。「ごく平凡な主人公」が、しかもアメリカでは従来ありえなかった普通の女の子が、スーパーヒーローに変身するというところに、ファンは強烈な驚きと魅力を感じたようだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本文化のユニークさ25:日本人は独裁者を嫌う

2011年06月08日 | 侵略を免れた日本
日本文化のユニークさ5項目のうち3)に自然災害に関する文章を付け加えて次のようにした。

3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。一方、地震・津波・台風などに代表される自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

これと、さらに4月6日のエントリー:東日本大震災と日本人(3)「身内」意識に関連して、もう一歩踏み込んで考えてみたい。

上のエントリーで「身内」という言葉は比喩的に、日本人全体がいわば「家族」のような雰囲気の中で生きているという意味で使った。異民族による侵略や虐殺、支配などを歴史上ほとんど受けなかったから、なかば「身内」のように信頼しあう社会が保たれたのだろう。しかも日本人は、基本的に人間は相互に信頼し合えるものだという人間観を、無自覚に日本人以外の人々にも適用して接しているふしがある。

ところで同じ東アジアの隣国である中国や韓国など「中華文明圏」では、社会構造が宗族(そうぞく:男子単系の血族)が細胞のように存在し、その寄せ集めによって成り立っているといってもよい。宗族は、倫理的には儒教の影響を受けた家族観の上に成り立ち、強力な血縁主義でもある。中華文明圏では、アイデンティティの根拠が深く血縁集団に根ざしているため、非血縁集団への帰属意識は、日本人には考えられないほど低いという。異民族間の抗争・殺戮が繰り返され、社会不安が大きいだけ、血縁しか頼るものがないという意識が強くなる。

宗族のそれぞれが砂粒のようにばらばらで、各宗族の人々は究極的には一族の繁栄しか考えていない。いくつかの宗族で権益を独占し、這い上がってくるものを蹴落とす。このような伝統社会を背景としているため、中国の共産党独裁や朝鮮王朝のような政治形態が出現せざるを得なかったのかもしれない。宗族中心主義は、「自己絶対正義」という姿勢の根幹をなし、その影響は現代の東アジアの外交問題にまで及んでいるようだ。

一方、日本文明はイエ社会であり、男系の血族だけでは完結しない。それは、婿養子のあり方を見ればわかるだろう。その分、社会がフレキシブルになっている。また日本人は、独裁よりも合議制を好み、そのため談合も絶えないが、合議制を無視する独裁者は、めったに生まれない。これも、日本列島では異民族の侵入、略奪、異民族との熾烈な抗争といった経験が、ほとんどなかったことと関係する特性だろう。歴史的に、独裁的な強力なリーダーシップをあまり必要としなかったのである。

もちろんこの点は、今回の大震災や原発事故後にはっきり示されたように、日本人の短所にもなっている。

《関連図書》
新しい神の国 (ちくま新書)
日本人ほど個性と創造力の豊かな国民はいない
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本文化のユニークさ24:自然災害が日本人の優しさを作った

2011年06月08日 | 自然の豊かさと脅威の中で
このブログでは、日本文化のユニークさを歴史的な視点から5項目にまとめて論じてきた。これらはあくまでも暫定的なものなので、今後、文言を変えたり、項目を追加したり削ったりはありうる。今、考えているのは項目3に少し文章を追加することだ。従来の項目3は次の通り。

3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

ところで、日本という国は、ユーラシア大陸の歴史と違い、異民族の侵入による虐殺や支配、文化の破壊は経験しなかったが、地震や津波、台風などの自然災害は繰り返し経験してきた。古くから自然災害に何度も襲われてきたという日本人の経験もまた、日本文化に独特の性格を与えているだろう。これに関連するテーマは、このブログでも何回か取り上げた。

《関連記事》
東日本大震災と日本人(3)「身内」意識
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(1)
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(2)

ポイントは次のようなことである。異民族間の戦争の歴史の中で生きてきた大陸においては、信頼を前提とした人間関係は育ちにくい。戦争と殺戮の繰り返しは、不信と憎悪を残し、それが歴史的に蓄積される。一方日本列島では、異民族による殺戮の歴史はほとんどなかったが、自然災害による人命の喪失は何度も繰り返された。しかし、相手が自然であれば諦めるほかなく、後に残されたか弱き人間同士は力を合わせ協力して生きていくほかない。こうした日本の特異な環境は、独特の無常観を植え付けた。そして、人間への基本的な信頼感、優しい語り口や自己主張の少なさ、あいまいな言い回しは、人間どうしの悲惨な紛争を経験せず、天災のみが脅威だったからこそ育まれた。

そこで3)に次のような文章を付け加える。

3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。一方、地震・津波・台風などに代表される自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

これに関連して少し付け加えておきたい。

地震を筆頭に 日本の自然は不安定であり、 いつも自然の脅威にさらされてきた。それが日本人独特の 「天然の無常観」を生んだと指摘したのは、戦前の日本の物理学者であり、地震学者でもあった寺田寅彦である。自然が猛威を振るうと、ある種のあきらめの状態のなかで耐えるほかない。しかしそれは悲観的で絶望ではなく「天然の無常」ともいうべき自然感覚による、自然への対処だった。(『寺田寅彦随筆集 (第5巻) (岩波文庫)』)

「天然の無常観」の奥にあるのは、はかなさや悲しみに打ちひしがれてしまうのではなく、それを受け入れたうえで、残された者同士がいたわりあって生きていこうとする決意だ。諦念に裏打ちされた前向きな姿勢だ。東日本大震災後にもはっきりとそれが見られた。日本人は、「天然の無常観」を連綿と受け継いでいる。だからこそ、家族を失った被災者が「こんなときだからこそ元気に生きていきたい」と語り、日本中が力を合わせて立ち直っていこうという雰囲気が瞬く間に生まれるのだろう。

呉善花も近著『日本復興(ジャパン・ルネッサンス)の鍵 受け身力』のなかで次のようにいう。

「日本人は甚大な被害を与える大地震・大津波が何度も繰り返される歴史のなかで、深い悲しみを乗り越え『すっぱりと過去への執着を断ち切り、気分を一新して新しい世の建設へ向かう』という、「前向きの忍耐』を余程のことしっかり根付かせてきたのに違い。今回の東日本大震災で、多数の被災者・救援者の方々に共通に見られる対処の姿勢から、私は強烈に教えられた。」

彼女によれば、日本文化は基本的に受け身をモットーとする文化だという。受け止める力によって、造り直して足場を固め、前へと進む反復する力が、日本文化を形成してきた。日本文化は、天災であれ海外から来る先進文化であれ、外部からくるものを押しのけて排除するのではなく、しっかり受け止め、取り込むことで前へと前進していくエネルギーを常に保持してきたし、これからも保持していくだろう。であるなら日本の未来は明るい。

ともあれ、日本文化のユニークさの項目3)に自然災害の影響に関する文を入れることは欠かせないだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本文化のユニークさ23:キリスト教をいちばん分からない国(2)

2011年06月06日 | キリスト教を拒否する日本
引き続き『ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)』をめぐって。

狩猟採集や小規模な農業によって成立する社会は、自然とのかかわりや部族の社会がそれなりに調和していた。それが異民族の侵入や戦争、帝国の成立といった事情の中で崩れ去ると、そこに何らかの秩序を取り戻すために、部族を超えた「普遍宗教」が必要となった。それが一神教であり、あるいは仏教や儒教であった。これらに共通するのは、それぞれの部族が信じていた神々を否定するということであった。

血縁的、地縁的な、小規模な原初的共同体が、自然との共生関係にあるような状態では、呪術や多神教が自然発生的に生まれる。しかし、異民族が侵入したり、多民族の帝国が生まれてくるときは、多神教の自然崇拝や部族特有の習俗にとらわれていたのではやっていけない。民族や部族を超えて妥当性をもつような「普遍宗教」が必要となる。

それまで信じられていた神々を否定し、放逐してしまうという一点で、一神教、仏教、儒教は共通するところがある。それ以前の世界は一度、壊され、そして再建された。再建したのが宗教であり、それが文明を作り、その文明が発展することで今の世界がある。

この本では、ユダヤ教やキリスト教が生まれてくる背景を、仏教や儒教にも共通する広い歴史的な視野から振り返るという文脈で、以上のようなことが数ページほどかんたんに語られていたにすぎない。しかしこの視点は、日本文化のユニークさを語るうえでこのうえなく大切なものだと思う。

狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。それは、日本が大陸から適度に離れた位置にあるため異民族による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたなかったからである。だからこそ、普遍宗教以前の自然崇拝的な心性を、二千年以上の長きにわたって失わずに心のどこかに保ち続けることができたのである。

「普遍宗教」などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかったのは、民族間の熾烈な抗争を経験することなく、大帝国の一部に組み込まれることもなかったからである。

その結果、日本人の心はキリスト教からはもっとも遠くにあり、キリスト教をもっとも理解しにくい位置にある。縄文的な心性は、キリスト教的な一神教を容易に受け入れることはできない。だからこそ、西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

「普遍宗教」以前の心性が今もなお無自覚なレベルで息づいている日本の社会が、近代文明をを学び受け入れた優等生でもあったという歴史の皮肉。そこに日本文化のユニークさとクールさの源泉がある。マンガやアニメに夢中になる世界中の人々は、たとえ無自覚にせよ、日本文化のこのパラドックスに夢中になっているのだ。

《関連図書》
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本文化のユニークさ23:キリスト教をいちばん分からない国(1)

2011年06月05日 | キリスト教を拒否する日本
最近読んで非常に面白かった本のひとつが、橋爪大三郎・大澤真幸共著の『ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)』である。日本文化のユニークさを語るときどうしてもキリスト教文明との比較をすることを避けて通ることができない。その意味でも、キリスト教とそれを基盤にする西欧文明を広い視野から縦横に論じている本書は、大いに参考になった。いずれこの本の本格的なレビューをする予定であるが、今回は、この本のなかで日本文化のユニークさ5項目と直接関連する箇所のみに触れて論じてみたい。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

(4)宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかった。

(5)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかったこと。

まず(5)に直接関連する点として、この本のまえがき(大澤真幸)で次のようにいう。近代社会の根拠となっている西洋文明の根底にはキリスト教がある。近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまな理念や制度を、西洋以外の国々が受け入れる過程でもあった。ところが、日本という国は、非西欧社会でいちばん早く近代化に成功したにもかかわらず、近代化の根元にあるキリスト教からいちばん遠い文明なのだ。キリスト教を「わかっていない度合い」がいちばん高いのである。

このブログの読者ならすでにご理解いただけると思うが、キリスト教をいちばんわかっていないにも関わらず、いちばんはやく近代化したところにこそ、日本文化のユニークさやクールさの根拠があると、私は考えている。しかもこの事実は、そもそも文明とは何かを考えるうえで決定的に重要なことなのだ。そのような日本文化のユニークさ自体が、文明とは何だったのかという問いを私たちに突きつけてくるのだ。

まえがきでは、さらに次のようにいう。キリスト教と同じ一神教であるイスラム教は、キリスト教との距離が近い。では中国文明はどうか。儒教のような中華帝国を成り立たせた観念は、キリスト教とはまったく別のものではある。しかし、日本の伝統的な生活態度や常識と比べれば、着想の基本的な部分でキリスト教と似たものをもっているという。

本論の対談部分で橋爪大三郎も次のようにいう。宗教を考える場合、多神教と一神教という対立軸もあるが、古代には一神教のほかにもほぼ同時期にさまざまな宗教が興っている。インドでは仏教、中国では儒教など。これらには共通点があり、それまでの伝統社会の多神教とは対立している。伝統社会の多神教は、日本では縄文時代の信仰や神道のようなもので、大規模農業が発展する以前の小規模な農業社会か、狩猟採集社会の、自然との調和の中に生きる素朴な信仰である。

日本社会では、先進国のなかでは唯一、そんな素朴な信仰が人々の心の無自覚な層にかなり色濃く残っている。もちろんこれは日本文化のユニークさの(1)に対応する。だからこそ、キリスト教からはいちばん遠いし、キリスト教が分からない度合いもいちばん高いのだ。

日本以外のほとんどの場所(ユーラシア大陸のほどんどの文明)では、異民族の侵入や戦争や、帝国の成立といった大きな変化が起こり、自然と素朴に調和した社会は、あとかたもなく破壊されてしまう。その破壊の後に、ユダヤ教やキリスト教、仏教、儒教といった「普遍宗教」が生まれてくる。そういう「宗教」が生まれてくる社会的な背景が、日本にはなかった。日本は、それほどに幸運な地理的な環境に恵まれていたのだ。これが日本文化のユニークさ5項目でいえば、(3)と(4)に当たるわけだ。

《関連図書》
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする