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自然のままが好き:縄文文明の原理04

2013年04月19日 | 現代に生きる縄文
安田善憲の『縄文文明の環境 (歴史文化ライブラリー)』を取上げながら、日本文化のユニークさ8項目の1項目目と触れ合う部分を中心に検討してきた。今回は、この本とは離れる。しかし、

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

に関連して、現代まで消滅せずに日本人のあり方の基層となっている縄文文化の記憶とは何かを、小林達夫『縄文の思考 』を参考にしながらもう少し探りたい。

旧石器文化を人類史の第一段階とするなら、農業の開始とともに始まる新石器文化はその第2段階をなす。縄文文化は、土器を制作し定住していたという、明らかに旧石器文化にはない特徴をもっている。それでいながら新石器文化の本質をなすはずの本格的な農業を伴わない。農業を新石器文化の前提としてしまうと、縄文文化をうまく位置付けることができない。

縄文文化は、「新石器文化に併行あるいは相当する日本列島の文化」というような苦し紛れの定義でもしないと世界史上に位置付けられないユニークさをもっているのだ。人類史上の第2段階に、農業を伴うものと伴わないものという二つがあり、縄文文化は後者だと考えざるを得ない。

私は、本格的な農業を伴わない新石器文化という縄文文化の特徴は、日本文化全体を語るうえでどれほど強調してもし過ぎることはないほど重要な意味をもっていると考える。日本列島に住む人々が、1万数千年にわたってこのような縄文文化を生きたということが、その後に展開した日本文化の全体に深く影響していったのではないか。

日本列島で歴史の第1段階から第2段階へという縄文革命が起こった引き金は、土器の制作と使用だったという。土器を使うことで煮炊き料理が可能となり、食糧事情も安定した結果、ムラでの定住的な生活様式も始まった。

縄文時代の土器の制作量は、本格的な農耕をともなわない社会としては、世界のどの地域にくらべてもきわだって多いという。縄文人が、土器を日常的に煮炊きに使っていた結果である。縄文社会が、農業を基盤とした大陸の社会に劣らない文化的な充実度をもっていた大きな要因に、煮炊き用の土器の普及があったと言えよう。土器はそれほど重要な歴史的意義をもっていた。

農耕民は、自然に依存しながらもそれをあるがままにせず、開墾して農地を拡大する方向に進む。ムラという人工空間の外に、農地=ノラというもうひとつの人工空間を作り、それをさらに拡大しようとする。その意味では、自然に依存するだけでなくそれを征服しようとする意識も強化される。

一方縄文人は、ムラの周囲のハラを生活圏とし、その自然と密接な関係を結ぶ。自分たちの生活がそこに依存するハラを勝手に荒らせば、自分たちの生存が脅かされることを縄文人はいやというほど知っていた。周囲の自然を荒らしすぎず大切に守り、そこから許されるだけの恵みを得ることで、自分たちの永続的な生存が保障されるのだ。こうして彼らは、ハラのさまざまな自然の背後に精霊を感じ、その恵みに抱かれて生きていることを実感しただろう。縄文人は、木や草や川や森や様々な生き物を自分たちと同格の存在、あるいはそれ以上の神聖な存在と感じていたのだ。
(上述『縄文の思考』)

大切なのは、日本列島に生活した私たちの祖先は、新石器文化の段階に入ってもなお、そのような自然との関係を1万数千年も保ち続けていたということだ。新石器時代の人類としては、かなり特異な自然との共生を、世界の他地域よりも驚くほど長期にわたって保ち続けていたのが、私たちの祖先なのだ。その記憶や影響が現代の私たちにまで色濃く残っていたとしても不思議ではない。

その影響のひとつの例として、現代の日本人がもっている「人為」と「無為」についての感じ方を挙げてみたい。私たち日本人は傾向として、意識的・作為的に何かを「する」ことよりも、計らいはよくない、自然のまま、あるがままの方がよい、という価値観をかなり普遍的に共有していないだろうか。私たちの美意識の中にもそういう傾向が色濃く残っていて、けばけばしい作為的、人工的な美よりも、自然にかぎりなく近い、計らいのない美しさにひかれる。

こうした傾向は、老荘思想や仏教の影響から来ているともいえなくもないが、それ以前の私たちの祖先の生活がつよく影響しているのではないか。農耕という、ある意味で作為的な営みよりもはるかに長く、自然と共生する生き方を続けていた縄文人の記憶が、弥生時代以降も残り続け、それが老荘思想や仏教思想と共鳴し、現代人の心の中にまで連綿と受継がれてきたのではないか。

日本人なら誰しも多かれ少なかれ、自然には完成した美しさがあり、一方、人為や計らいによって作られた人工的なものは、完成には程遠い不完全なもの、自然の完璧さや美しさにははるかに及ばないものという感覚があると思う。

ところがヨーロッパ的な発想では、必ずしもそうではない。たとえばパウロは、「被造物全体が、今に至るまで共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを私はしっている」(「ローマ人への手紙」)という。被造物、すなわち自然界もまた未完成であり、あるべき状態を苦しみつつ模索しているというのだ。自然の中に究極の美しさを感じ、あるがまま、自然のままであることを善しとする日本人の感覚と何という違いだろうか。

この違いを指摘したのは山本七平(『日本人の人生観 』だが、彼は日本人のそういう感覚の根拠を、日本の稲作文化に求めている。国民の85%から90%が稲作に従事し、3月に苗造り、梅雨には田植え、秋には穫り入れと、1年の気候変化に的確に対応して、いわば社会も個人も「ごく自然に自然の秩序に従って、同じように対応していれば安全」だったという長年の体験がそういう感覚を作り上げたというのだ。

しかしすでに述べてきたように、日本人のそういう感覚のいちばん深い層には、本格的な稲作を開始する以前の、豊かで長い縄文時代の体験があったことを忘れてはならないだろう。

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