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宦官を拒否した日本(2)

2017年02月14日 | いいとこ取り日本
◆「日本文化の選択原理」(小松左京)(『英語で話す「日本の文化」 (講談社バイリンガル・ブックス)』)(この論考は、もともとは1985年に講談社から出版された『私の日本文化論』シリーズ3冊のうちの一冊に収録されたものらしいが、今はすべて絶版で、そのかわり上の本に収録されている。)

日本は、かつては中国文明に、近代以降は西洋文明に強く影響を受け、その文明の多くを取り入れながら、文明の根幹となっているいくつかの要素は、不思議に拒んでいる。中国文明でいえば、宦官や、儒教の同姓不婚という原則、西洋文明でいえばキリスト教などだ。小松左京はその背後に「日本文化の選択原理」があるといい、「それまでの日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚と合わないものは、上手に外してしまう、という余裕があった」から、そういう選択原理を働かせることが可能だったと主張するのだ。

ただ、その「日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚」がどんなものだったかまでは小松左京は説明していない。以下でこの点を論じるが、これまでこのブログで触れてきたことと重複する部分もあることをご了承願いたい。

まずは、「日本文化のユニークさ8項目」の第2・3番目に関係する点である。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

中国文明を本格的に受容するときに、日本人の「ごく自然に形成された感覚」が選択原理として働いていたとすれば、それは縄文時代から日本列島に住んでいた人々によって形成された感覚に違いない。だからこそ縄文時代に注目する必要があるのだ。

旧石器文化を人類史の第一段階とするなら、農業の開始とともに始まる新石器文化はその第2段階をなす。縄文文化は、土器を制作し定住していたという、明らかに旧石器文化にはない特徴をもっている。それでいながら新石器文化の本質をなすはずの本格的な農業を伴わないのだ。縄文時代の土器の制作量は、本格的な農耕をともなわない社会としては、世界のどの地域にくらべてもきわだって多いという。

しかも縄文土器は、大陸で発見された土器と用途の面で大きな違いがある。大陸での土器使用は、四大文明にも共通してみられるように、農耕によって得られた食物の貯蔵と盛りつけ、あるいは捧げもの用であった。これに対して縄文土器は、もっぱら食物の煮炊き用としてはじまっている。縄文文化が同時代の世界において特異であった理由のひとつが土器の使用の違いにあったのである。

新石器文化が農耕・牧畜の開始によって始まったことは、特定の食物を選択したうえで効率的に増産することだった。しかし同じ作物を集中的に栽培すれば増産は可能だが、天候不順などによるリスクは高くなる。これに対して縄文時代の人々は、自然界の多様なものを食べることによって食糧事情の安定化を図った。煮炊き用の土器が、自然界で食べられるものの範囲を大幅に広げたのである。煮炊き用の土器で、本格的な農耕が伴わなかったにもかかわらず食糧事情が安定し、その結果、定住が可能となったともいえる

縄文時代は、新石器文化の定住段階に入っても本格的な農耕をもたず、自然との深い共生の関係を1万数千年もの長期にわたって保ち続け、しかも表現力豊かな土器を伴う充実した社会を築いていたのだ。それは、中国文明流入以後の日本の歴史時代に比べ10倍近くも長い、世界史上でもユニークな時代である。縄文時代は、弥生時代から現代にいたる2500年間に比べても4倍から5倍も長い。あのエジプト文明でさえせいぜい5千年の長さだったのに比べると、これは人類史上まれなことである。

以上のように縄文時代は、人類史上でもきわめて特異な位置にある。その特異さ、その独特の生活形態と自然観、自然との関係の仕方は、その後の日本人にとっては消し難い「文化の祖形」となったのである。とすれば、その後に圧倒的な中国文明に接して影響を受けたとしても、縄文時代、さらに弥生時代へと受け継がれた「ごく自然に形成された感覚」がフィルターとなり、強烈な「選択原理」として働いたとして不思議はない。次にその「選択原理」をもう少し具体的に見ていこう。

旧大陸のほとんどの地域が農耕社会にはいり、イスラエルとその周辺地域から、ユダヤ教を中心に父性原理的な一神教が広がっていくなか、日本列島に住む人々は1万年の長きに渡って、豊饒な大地と森の恵み、豊かな海の幸に依存する高度な自然採集社会を営んだ。その宗教生活は、「母なる自然」を信じ祈る、きわめて母性的な色彩の濃いものであった。

旧大陸に比し、日本列島に生きた人々が古来、本格的な牧畜を知らなかったことは、日本文化のユニークさを特徴づける大きな要素になっていると思う。縄文人が牧畜を取り込まなかったのか、弥生人が牧畜を持ち込まなかったのか。いずれにせよ牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧民が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

牧畜を行う地域では、人間と家畜との間に明確な区別を行うことで、家畜を育て、やがて解体してそれを食糧にするという事実の合理化を行う傾向がある。人間と、他の生物・無生物との境界を強化するところでは、縄文人がもっていたようなアニミズム的な心性は存続できないのだ。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し次のような特徴を持った。

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②家畜の去勢技術、その技術と関連する宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
③遊牧や牧畜と密接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
④遊牧や牧畜を背景にした、人間と他生物の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。

今に至るまで生き続ける縄文時代の記憶。そのひとつは、豊かな「自然との共生」を基盤とする宗教的な心性である。たとえば、現代の日本人がもっている「人為」と「無為」についての感じ方をみよう。現代でも日本人は傾向として、意識的・作為的に何かを「する」ことよりも、計らいはよくない、自然のまま、あるがままの方がよい、という価値観をかなり普遍的に共有していないだろうか。また上の④に見られるような、人間と他生物を峻別しない生命観もあいまって、人工的に家畜を管理する去勢技術が流入しなかった理由の一つかもしれない。


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『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
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『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
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《関連図書》
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

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宦官を拒否した日本(1)

2017年02月13日 | いいとこ取り日本
◆「日本文化の選択原理」(小松左京)(『英語で話す「日本の文化」 (講談社バイリンガル・ブックス)』)(この論考は、もともとは1985年に講談社から出版された『私の日本文化論』シリーズ3冊のうちの一冊に収録されたものらしいが、今はすべて絶版で、そのかわり上の本に収録されている。)

「日本文化の選択原理」とは、このブログのカテゴリーで言えば「いいとこ取り日本」にあたり、このブログで追求し続けている「日本文化のユニークさ8項目」のうち、第5番目に関係する。

(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

多くの論者が取り上げてきた日本文化の特徴だが、小松左京独自の視点もあるのでまずこの論考を短くまとめ、その上で、その選択原理とは何だったのかを私なりの視点で考えたい。

ふつう文明とは、その基礎にひとつの大きな原理があり、それに従って様々な社会システムや文化が成り立っている。日本も統一国家となるときにこのような文明の影響を受けているが、それはもちろん中国文明である。漢字の流入に続き、律令制や儒教も入ってきた。およそ1300年前のことである。ところが日本の場合、そのシステムのすべてを受容するのではなく、こちらの選択によってその大切な要素の一部を拒絶するのだ。たとえば、律令制度の重要な一部である、宦官や科挙の精度を受け入れていない。

律令制度の導入により、皇帝は血のつながった世継ぎを作らなければならないから後宮で何人もの妃をもたなければならない。日本にも後宮の制度は導入されたが、それを管理する去勢された男子・宦官の制度は日本だけが導入されなかった。宦官の制度の背景には、牧畜技術としての家畜の去勢技術があるが、この技術も日本には入ってこなかった。むしろ、家畜の去勢技術を知らなかったから人間を去勢する制度も持ち得なかったのかもしれない。

また儒教は積極的に学びながら、儒教の根本原則の一つである同姓不婚という制度は日本に入ってこなかった。これは、同じファミリーネームをもつ男女は結婚できず、また異なる姓の男女が結婚すると、互いにもとの家の姓を名乗るという制度だ。

西欧の近代文明やその制度を、非西欧諸国の中でも最も早く熱心に導入しながら、その根底にあるキリスト教そのものはかたくなに拒んでいるというのも、そのよい例だろう。

こうして見ると日本は、大陸の文明に強く影響されその多くを、あるいはそのほとんどを取り入れながら、文明の根幹となっているいくつかの重要な要素の受け入れを拒んでいるのがわかる。島国である日本は、外来文明による圧倒的な侵略、制服を経験したことがない。だから文明を主体的に「いいとこ取り」して受け入れることができた。つまり「それまでの日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚と合わないものは、上手に外してしまう、という余裕があった」というのだ。

ただ、小松左京は、「日本人の、ごく自然に形成されてきた感覚」、つまり日本人が恐らくはほとんど自覚なしに行う取捨選択の感覚、その感覚の背後にどんな原理が働いているのかまでは論じていない。しかし少なくともそれは、中国文明導入以前から「自然に形成されてきた」、日本人独自の感覚であることは間違いないはずだ。私にはその選択原理こそが問題であり、しかもそれは「日本文化のユニークさ8項目」の他の項目、とくに次の2項目に関係しているように思われる。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

では日本文化の選択原理がどのようなものであり、上の二つの項目にどのように関係するのかについては、次回に考察したいと思う。

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日本の秘密「造り変える力」(3)

2013年09月25日 | いいとこ取り日本
馬淵睦夫氏の『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力』に刺激され、氏のいう日本文化の「造り変える力」の源泉がどこにあるのかを探る気になった。このブログでは、日本文化のユニークさを8項目の視点から考え続けているが、結局、日本文化の「造り変える力」の大元もここにありそうな気がする。以下8項目に沿いながら「造り変える力」の源泉を追う。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

これらに関しては前回すでに書いたが、(1)に関して少し付け足しておきたい。現代日本人に縄文人の心性が地下水脈のようにして受け継がれている。その事実がどうして日本人の「造り変える力」に関係があるのか。

たとえばケータイにストラップをつけるのは、日本以外ではあまりない。海外では、ケータイは単なる機械だという。しかし日本人は、そこに自分の気持ちを入れる、命を与える。現代の若者はケータイにストラップをつけることを、ただそうしたいから、そうしないと何となく物足りないと感じるからやっているのだろう。しかし、そこに日本人の伝統的な心が働いている。

そういう傾向が、今すこしずつ復活している。ネイルアートも「痛車」も「初音ミク」もそういう傾向の表れかもしれない。ヴォーカロイド「初音ミク」とCGによるこだわりのコラボは、コンピューターのプログラムによってまさに命を吹き込む作業で、かつての職人の心、もっとさかのぼれば縄文人の心が、現代の最先端によみがえっているのかもしれない。

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』で著者アン・アリスンも次のように言う。日本人はケータイに、ブランド、ファッション、アクセサリーとして多大な関心を払い、ストラップにも凝ったりする。そうしたナウい消費者アイテムにも、親しみ深いいのちを感じてしまうのが日本人のアニミズムだ。このように機械と生命と人間の境界があいまいで、それらが新たに自由に組み立て直されていく、日本のファンタジー世界の美学を著者は「テクノ-アニミズム」と呼ぶ。日本では、伝統的な精神性、霊性と、デジタル/バーチャル・メディアという現代が混合され、そこに新たな魅力が生み出されているのだ。

世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)』の基本コンセプトは、オタク文化と製造業の融合だったが、それを一言でいうならまさに「テクノ-アニミズム」ということになるだろう。かつての「たまごっち」というサイバー・ペットの世界的な流行も、日本的な「テクノ-アニミズム」が世界に受け入れられていく先駆けだったといえなくもない。

以上のいくつかの例が示しているのは、現代の最先端のテクノロジーと農耕文明以前の、人類の最古層の心性との、他国ではありえない驚くべき結びつきである。その意外な組み合わせから、世界から見て思いもよらぬアイディアや製品が生まれてくるのだ。農耕文明以前の文化の記憶は、ユーラシア大陸ではほとんど失われてしまっている。ヨーロッパも中国も、お隣の朝鮮半島でさえその例外ではない。だからこうした組み合わせによる発想自体が、日本以外では生まれようがないのだ。そこに日本人の「造り変える力」の一つの秘密がある。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

ユーラシア大陸に比し、日本列島に生きた人々が古来、本格的な牧畜を知らなかったことは、日本文化のユニークさを特徴づける大きな要素になっていると思う。縄文人が牧畜を取り込まなかったのか、弥生人が牧畜を持ち込まなかったのか。いずれにせよ牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、ユーラシア大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧民が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

牧畜を行う地域では、人間と家畜との間に明確な区別を行うことで、家畜を育て、やがて解体してそれを食糧にするという事実の合理化を行う傾向がある。人間と、他の生物・無生物との境界を強化するところでは、縄文人がもっていたようなアニミズム的な心性は存続できないのだ。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し次のような特徴を持った。

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
③遊牧や牧畜と密接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
④遊牧や牧畜を背景にした、人間と他生物の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。
(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

次に異民族の侵略、征服を免れた日本という側面から、日本の「造り変える力」を探ってみよう。日本が大陸から適度に離れた島国であることは、日本文化に二つの特徴を与えた。

ひとつ目、日本は大陸の文化を侵略などによって押し付けられたことがなく、自分たちの必要に応じて「いいとこどり」(堺屋太一)することができたことだ。日本人は中国の文明も、間接的にインドの文明も、下っては西欧の文明も、抵抗なくむしろ憧れをもって自由に選んで受け入れていった。そして、他文明の原理原則にこだわらないから、さまざまな文明の要素をくったくなく併存させていったのである。おそらくそれは自分たちの縄文的心性を犯さない限りにおいてであった。だからあれほど熱心に西欧文明から学び取りながら、一神教そのものはほとんど拒否したのである。

自文化のアイティティを根底から脅かすものはほとんど無意識に拒否するという強固な傾向により、一神教だけではなく、奴隷制も宦官も科挙も日本には入ってこなかった。しかし、一度取り入れたものは、その背景にある原理原則にこだわらず自由に組み合わせて、そこから独自のものを生み出すことができた。それぞれの文化の背景にある宗教やイデオロギーに縛られずに、さまざまな要素を融合させてしまう柔軟さは、現代のポップカルチャーにもいかんなく発揮されている。例を挙げればきりがないが、たとえば宮崎駿のアニメ作品のなかにどれだけ神道的な要素や古代中国的な要素や西欧的な要素が融合しているかを見ればよい。

さて、日本が島国であることからくる二つ目の特徴は、日本が異民族による侵略がほとんどない平和で安定した社会だったというこである。異民族に制圧されたり征服されたりした国は、征服された民族が奴隷となったり下層階級を形成したりして、強固な階級社会が形成される傾向がある。たとえばイギリスは、日本と同じ島国でありながら、大陸との海峡がそれほどの防御壁とならなかったためか、アングロ・サクソンの侵入からノルマン王朝の成立いたる征服の歴史がある。それがイギリスの現代にまで続く階級社会のもとになっている。

異民族に制圧されなかったことが、日本を相対的に平等な国にした。異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となり、そういう信頼を前提とした庶民文化が江戸時代に花開いたのだ。

江戸の庶民文化が花開いたのは、武士が、権力、富、栄誉などを独占せず、それらが各階級にうまく配分されたからだ。江戸時代の庶民中心の安定した社会は世界に類をみない。歌舞伎も浄瑠璃も浮世絵も落語も、みな庶民が生み育てた庶民のための文化である。近代以前に、庶民中心の豊かな文化をもった社会が育まれていたから、植民地にもならず、西洋から学んで急速に近代化することができたのである。(中谷巌『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)

幕末から明治初期にかけてヨーロッパとくにフランスを中心としてジャポニズムと呼ばれる現象が巻き起こった。これもまた、江戸時代の豊かな庶民文化が背景にあり、庶民の生活から生み出された浮世絵や工芸品だったからこそ、当時のヨーロッパ市民階級の共感を呼ぶものがあったのである。

現代の日本も、江戸時代の庶民文化のあり方を引き継いでいる。近年、貧富の格差が拡大したとはいえ、世界の他地域に比べるとまだまだ階級差の少ない社会を形成している。とくに知的エリートと大衆との間の格差が少なく、教養の高い圧倒的多数の大衆が日本の社会を支え、また日本人の創造性の基盤となっている。「初音ミク」が新たな潮流になりつつあるのも、プロではない無数の人々が作曲し、CGを作り、協力しあいながら作品を作り上げていくからだろう。大衆相互の切磋琢磨が、日本人の「造り変えて新たなものを生み出す力」のひとつの源泉となっている。

ここまでの議論をまとめよう。まず日本人の縄文的な古層と現代の最先端のテクノロジーという類を見ない組み合わせが、創造性のひとつの源泉となっている。しかし、それだけではなく、その古層の上に、中国文明やインド文明や西欧文明のさまざまな要素が自由に融合されていった。そして、それらを学びとり、消化し、そこから自由な発想で新しいものを生み出すことのできる層の厚い大衆がいた。これらの特徴は、現代にまで引き継がれ、複合的に働くことで現代日本人の文化的な活力を形づくっている。

(6)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。
(7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。
(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

以上の3項目については、合わせてかんたんに触れておきたい。

日本では、国内に戦乱はあったにせよ、規模も世界史レベルからすれば小さく、長年培ってきた文化や生活が断絶してしまうこともなかった。異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となったし、文化の活力となった。

一方で自然災害による人命の喪失は何度も繰り返された。しかし、相手が自然であれば諦めるほかなく、後に残されたか弱き人間同士は力を合わせ協力して生きていくほかない。東北大震災の直後に見せた日本人の行動が、驚きと賞賛をもって世界に報道された。危機に面しても混乱せず、秩序を保って協力し合う日本人、それは日本の歴史の中で何度も繰り返されてきた日本人の姿であった。地震を筆頭に 日本の自然は不安定であり、 いつも自然の脅威にさらされてきた。それが日本人独特の 「天然の無常観」(寺田寅彦)を生んだ。その無常観が、絶対的なイデオロギーを信じない、日本人の相対主義を強めたのかもしれない。

日本は、異民族との激しい闘争をほとんど経験してこなかったために、儒教であれれキリスト教であれ、宗教による強力な一元的支配を必要としなかった。イデオロギーなしに自然発生的な村とか共同体に安住することができた。強力な宗教やイデオロギーによる社会の再構築を経ず、村的な共同体から逸脱しないで、それをかなり洗練させる形で、大きくしかも安定した、高度な産業社会を作り上げてしまった。ここに日本のユニークさと創造性のひとつの源泉がある。

西洋人は、そしてユーラシア大陸の多くの民族も、宗教やイデオロギーのような原理・原則の方が優れていると思っている。ところが日本人は、イデオロギー的な宗教支配なくして、とくにキリスト教なくして、キリスト教から派生したはずの近代国家を形成した。農耕文明以前の、自然崇拝的な精神を基盤としたまま高度産業社会を発展させた。

この事実は、文明史的な観点からいってもきわめて特異なことだろう。その特異さは、文化的な観点からいってもきわだっている。宗教などによる一元的な価値観の支配なくして高度に現代的な社会を営み、しかも世界のあらゆる文化的アイテムを相対化して自由に使いこなしながら、相対主義的な価値観にたった作品を次々の生み出してく。

一元的な宗教を基盤とし、多少なりともハードな統合性をもった文化から見ると、日本のポップカルチャーはどこか無原則的に見えだろう。しかし、その何でもありの柔軟性や融合性の中から思いがけない発想の作品が生まれてくる秘密があるのだ。堅固な宗教的基盤を背景にする国々は、日本のアニメやマンガに接すると、自分たちがよって立つ文明原理を根底から揺さぶり動かされるような衝撃と、同時に魅力を感じるのかもしれない。

マンガ・アニメの創造性と相対主義的な価値観との関係は次の記事を参照されたい。

マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義
マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)
ジャパナメリカ02


《関連記事》
『日本力』、ポップカルチャーの中の伝統(2)
日本文化のユニークさ04:牧畜文化を知らなかった
日本文化のユニークさ05:人と動物を境界づけない
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『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)
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『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(1)
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(2)
『日本力』、ポップカルチャーの中の伝統(2)

《関連図書》
★『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること
★『格差社会論はウソである
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
★『日本の曖昧力 (PHP新書)
★『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力
★『世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)
★『日本型ヒーローが世界を救う!
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)

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日本の秘密「造り変える力」(2)

2013年09月23日 | いいとこ取り日本
◆『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力

引き続きこの本に触れながら日本文化の「造り変える力」の秘密を追ってみたい。著者は、日本が太古の昔から積み重ねてきた文明は、伝統的価値観である「和」の原理と「共生」の思想を核とするといい、そこに「造り変える力」の源泉を見る。この二つの価値観が外国の文物を取り入れる取捨選択の規準となるというのだ。これらの価値観に合わないものは、たとえ日本に導入されたとしても根づくことはない。または日本の実情に合ったものへと造り変えられてしまうのだ。とすれば「造り変える力」とは正確に言えば、海外から取り入れたものを自分たちの社会や文化に合うように変形する力だといえるだろう。

著者は、日本人は古来、国外から移入したものが日本の社会に合うかどうかを判断する「本能的感覚」をもっているという。日本の根本原理に合わないものは、不自然なものとして排除や造り変えが行なわれる。日本という社会の根底を揺るがす事態に直面したとき、この「皮膚感覚」が働いて、日本という国を守ってきたいうのだ。

私もこの見方に心から同意する。私たちの「皮膚感覚」が健在であるかぎり、日本が何らかの危機に陥っても、再びもとの日本へと戻ることが出来るのではないだろうか。たとえばグローバリズムやTPPなどによって極端な市場原理主義や新自由主義の経済が蔓延したとしても、これは「和」と「共生」の原理に合わないと「皮膚感覚」で感じるかぎり、再び排除するか、日本人の肌に合った共生の資本主義へと変えていく可能性があると思う。もちろん最初からそれらに侵されないに越したことはないが。私たちの「本能的感覚」がまだ生きていて働いてくれるかどうかだ。

さて、「本能的感覚」や「皮膚感覚」という形で日本人が無意識のうちにもっている根本原理とは何なのか。「和」や「共生」といってもいいが、少し漠然としすぎている。そこで、これまでこのブログで追求してきた、日本文化のユニークさ8項目に沿って検討しよう。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

日本人が、自分たちの文化の根本原理に合うかどうかを本能的に嗅ぎ分ける規準は、おそらく縄文時代以来受け継いできた深層の記憶だ。本格的な農業を伴わない新石器文化という、世界的にも特異な縄文文化を、私たちの祖先は1万年以上生きてきた。新石器時代の人類としては類を見ない、本格的農耕を伴わない「自然との共生」を、世界の他地域よりも驚くほど長期にわたって保ち続けていたのである。その体験の記憶が、私たちの価値観の根底に生きていたとしても不思議ではない。

今に至るまで生き続ける縄文時代の記憶。そのひとつは、豊かな「自然との共生」を基盤とする宗教的な心性である。たとえば、現代の日本人がもっている「人為」と「無為」についての感じ方をみよう。日本人は傾向として、意識的・作為的に何かを「する」ことよりも、計らいはよくない、自然のまま、あるがままの方がよい、という価値観をかなり普遍的に共有していないだろうか。私たちの美意識の中にもそういう傾向が色濃く残っていて、けばけばしい作為的、人工的な美よりも、自然にかぎりなく近い、計らいのない美しさにひかれる。

こうした傾向は、老荘思想や仏教の影響から来ているともいえなくもないが、それ以前の私たちの祖先の生活がつよく影響しているのではないか。農耕という、ある意味で作為的な営みよりもはるかに長く、自然と「共生」する生き方を続けていた縄文人の記憶が、弥生時代以降も残り続け、それが老荘思想や仏教思想と共鳴し、現代人の心の中にまで連綿と受継がれてきたのではないか。

ふたつには、農耕の発達にともなう階級の形成や、巨大権力による統治を知らない平等な社会が1万数千年も続いたことから来る強い平等意識である。縄文時代は、素朴で平和な共同体を営み、支配・被支配の関係がほとんどない平等社会だった。たしかに縄文中期以降は、階級差を示唆する遺跡も存在するが、巨大権力は生まれなかった。それは、先に見たように縄文社会が妻問婚に基づく女系社会だったことによるのかもしれない。自然に恵まれ山海の幸が豊かだったため、穀物農業をあえて受容せずに済んだからかもしれない。穀物は貯蓄が容易なため貧富や階級差が生まれやすいのだ。いずれにせよ、階級差の少ない長い平和な時代の体験が、その後の日本に何らかの影響を与えていったのは確かであろう。

縄文時代の記憶が、のちの時代に生き残っていった理由は次のようなものだろう。第一に、縄文時代から弥生時代への移行が、弥生人による縄文人の征服、縄文文化の圧殺という形で行われたのではなく、両者の融合というかたちで進んだこと。そのため縄文文化が濃厚に引き継がれたのである。第二に、日本列島は、国土の大半が山林地帯だったこと。日本の水田稲作の特徴は、狭小な平野や山間の盆地などで、ほぼ村人たちの独力で、つまり国家の力に頼らずに、灌漑設備や溜池などを整備してきたことだ。つまり巨大な権力やその維持のための強力なイデオロギーは必要なく、そのため縄文時代以来のアニミズム的心性や平等主義の文化が圧殺されにくかったのである。

こうして、縄文人の一万数千年の記憶が日本人の心の中の生き続けた。またそれが無自覚の規準となって、その基準に合わないものは排除したり、変形したりしようとする原動力となったのであろう。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

縄文時代の母性原理の社会という特徴は、つい最近も論じたばかりなのでここでは繰り返さない。「自然との共生」とは、「母なる自然」の懐に抱かれて生きるという意味である。縄文以来の母性原理を基盤にした文化は、現代に至るまで私たちの心の中に連綿と続いている。そしてこれもまた私たちの内面で強烈なフィルターとなっていて、あまりに父性原理的な制度や文化には、拒否反応を示す。キリスト教が日本でほとんど広まらないのは、その強烈な父性原理のためだともいえよう。

さて、8項目のうち残りの(3)~(8)ついては、次回に回すことにしたい。

《関連記事》
現代人の心に生きる縄文01
現代人の心に生きる縄文02縄文語の心
平等社会の根は縄文か:現代人の心に生きる縄文03
縄文の蛇は今も生きる:現代人の心に生きる縄文04

《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架

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日本の秘密「造り変える力」(1)

2013年09月22日 | いいとこ取り日本
◆『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力

著者は、ウクライナ兼モルドバ大使をはじめ、イギリス、インド、イスラエル、タイ、キューバでの勤務経験をもつ外交官である。その豊富な外国経験から、多くの発展途上国が共通に、日本から是非とも学び取りたいと思っていることがあるのを知ったという。それは、日本がどのようにして近代化と文化のアイデンティティを両立させながら経済的繁栄を成し遂げたがということである。世界、とくに発展途上国から見ると、日本が日本らしさを失わずに近代社会を築いたことが奇跡と見えるらしい。生活水準は向上させたいが、伝統的な人間関係や共同体も失いたくない。日本はどのようにしてこの二つを両立させることができたのか。

その秘密を著者は、日本が古くからもっている「造り変える力」にあるとみる。それは西欧文明に代表される「破壊する力」に対比される。「破壊する力」は、一神教の対立的世界観に基づく権力政治の論理であり、西洋の植民地主義にみられる弱肉強食の論理である。16世紀のスペインによるラテン・アメリカの征服が、いかに残虐な「破壊する力」を行使したか、いまさら語るまでもないだろう。

こうした西欧の「破壊する力」に対し、日本人の「造り変える力」は、能動的な破壊力や攻撃力ではなく、一見消極的で受け身にみえる。しかし結果としてとてつもない力を発揮する。それは、外来の文物を受け入れながら、そのまま導入するのではなく、日本の伝統にあった形に変えて受け入れていく力である。しかも多くの場合、元の物より優れたものに改良してしまうのである。

たとえば中国文明を受容するにしても、そのままではなく独特の「造り変え」を行った。漢字という文字の体系をそのまま受け入れるのではなく、訓読したり仮名文字を発明したりして、あくまでも日本語の体系の中で使いこなしていった。長安の都市構造を真似ながら長安にあった強固な城壁は省略した。儒教を学びながら科挙は受け入れなかった。宦官も纏足も受け入れなかった。仏教を受け入れる際も、本地垂迹説や神仏習合思想によって神道と共存する形に「造り変え」を行った。

明治以降は、あれほど熱心に物心両面にわたって西欧文明を受け入れながら、その中核をなすキリスト教の信者は、総人口の1パーセントを大きく超えることはなかった。いわゆる「和魂洋才」だが、もちろん洋魂を無視したわけではない。洋魂も洋才も日本の伝統や習慣に馴染むように「造り変えた」のである。

(なお、本ブログでも、日本でキリスト教が広まらなかった理由を何度も考察してきた。その代表的なのは以下のものである。参照されたい。→キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01

この「造り変える力」はどこから来たのか。著者はフランスの駐日大使だったポール・クローデルの言葉をかり、日本は太古の昔から文明を積み重ねてきたからこそ、欧米文化を導入しても発展することができたのだという。つまり、明治初期の日本文化の水準が欧米文化を吸収して自分なりに消化できるレベルに達していた。さらに、日本文明がすでに高度な文明だったからこそ、欧米文化に一方的に圧倒されることなく、それを上手に独自な形で摂取し、発展させることができたというのである。

確かにその通りだろうが、これだけではもう一つ大切な要素が抜け落ちていると私は思う。実はこれについても本ブログでずいぶんと考察してきた。たとえば以下の考察である。

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

日本は「辺境」の島国であったために、これまで「世界標準」や「普遍的な文明」を生み出すことはなかった。大陸で生まれた「世界標準」をひたすら吸収してきた。そうやって形成された日本の文化は、「受容性」を特徴としていた。それは、もっぱら「師」から学ぶ姿勢で吸収し続けることである。そうやって中国文明を吸収し、それを自分たちの伝統に添う形で洗練させ、高度に発展させてきた。異民族に侵略・征服された経験をもたない日本は、海の向こうから来るものには一種の憧れをもって接した。そして外来の優れた文物(自分たちにとってプラスになるという意味で)だけをいいとこ取りして、利用することができた。西欧諸国による侵略を免れた日本は、かつて中国文明に接したときと似たような態度で、西欧文明に憧れ、その優れたところだけ(自分たちに必要なところだけ)を吸収することができたのである。

これに対して中国やインドはどうであったか。それらはいずれも「辺境」ではなく、かつて「世界標準」を発信した誇り高き文明であった。しかも近代、西欧文明の「破壊する力」の犠牲となり、その負の面をも実感として嫌というほど知っていた。だから「辺境日本」の如き、純粋な少年が崇拝する師に憧れ、夢中で師から学び取ろうとするような姿勢は取りえなかった。師を仰ぎみる純粋な少年と、その「破壊する力」にかつての栄光を粉々に打ち砕かれた年配者とでは、その吸収力に雲泥の差があったとしても不思議ではない。

もう一度、最初の問いに戻ろう。日本人が、外来の科学や文化を日本の伝統や習慣に合わせて「造り変える力」はどこから来るのか。実は、この問いヘの答えは、本ブログが、日本文化のユニークさを8項目の視点として論じてきた、ほとんどすべての項目に関係していると思う。次回は、この8項目との関連で、日本人の「造り変える力」の秘密をさらに詳しく追ってみたい。

《参考文献》
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
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日本回帰の二つの波:自由にいいとこ取りした日本05

2012年11月04日 | いいとこ取り日本
日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。

日本文化のユニークさを8項目に変更

これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。

続けて、新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。

『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
内田樹『日本辺境論 (新潮新書)』の書評ということで始めたが、これをきっかけにして自分の論を展開する形となった。要は、遣唐使の廃止以降に起こった外来文化の内面化と対比できるようなプロセスが、現代の日本で、しかも若者を先頭にして起こり始めているのではないか、ということである。かつて日本は、唐文化の影響が頂点に達した後、今度はその消化、日本化に向かって進んでいった。それと同じようなことが現代の日本で、今度は西欧文明との関係で起こり始めているのではないか。そして、その理由をこれまで3点から説明した。

1)明治以来、西欧文明を学び続けた日本は、多くの分野で「師」に追いつき、いくつかの分野では「師」を超え始めた。しかも「師」が掲げていた近代文明の原理そのものが今問われ始めている。つまり外部に「師」を求め得なくなった。これは日本の歴史の中で初めての経験である。(→『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら

2)日本で開発された技術や製品が世界中の人々の生活に大きな影響を与えるようになり、日本人自身がこうした事実をある程度自覚するようになった。これも有史以来、日本人にとって初めての経験である。(→『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力

3)マンガ・アニメに代表される日本のポップカルチャーが、近年広範に世界に広がり、世界の若者たちに影響を与えるようになった。日本人はまだその影響力を充分自覚していないが、それでも若い世代は、インターネットなどを通してかなり知るようになった。日本の文化が世界にこれほどの影響力を与えるようになったことも、日本の歴史上初めての経験である。(→『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力

これらの事実が示すのはいずれも、太古の昔から大陸の文明を「師」として学び続けた「辺境」日本という前提が崩れ始めたということである。とくに2)と3)で示されたような事実は、外部から学んだものを日本独自に再生させた技術や文化が世界に向けて発信され始めたということである。これらは比較的よく知られた事実だが、有史以来の日本史の中での位置づけや、日本人の意識に与える影響という観点からはほとんど論じられなかった。上の調査に示されるような若者中心の日本人の意識変化は、これらの事実を多かれ少なかれ反映しているのではないか。

『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム
今、環境問題や経済の混乱の深刻化などにより、近代の文明原理はかなり問題をはらむのではないかと疑われ始めた。では日本は、それに替わる新たな「世界標準」を生み出すことが可能なのだろうか。これに対する私の答えは、従来の「世界標準」という意味でなら「否」というものである。しかし、「世界標準」という言葉にこだわらずもっと柔軟な見方をすれば、必ずしも否と言えない。

日本は「辺境」の島国であったために、これまで「世界標準」を生み出すことはなかった。大陸で生まれた「世界標準」をひたすら吸収してきた。そうやって形成され日本の文化は、「受容性」を特徴としていた。それは、もっぱら「師」から学ぶ姿勢で吸収し続けることである。

ところが現代の日本は、長い長い受容の歴史の結果、その豊かな蓄積の内側から次々と独自の文化を生み出すようになった。江戸時代の独自な文化も幕末から明治初期にかけてフランスなどヨーロッパに知られ、その流行はジャポニズムと呼ばれた。現代のジャポニズムは、中国文明だけではなく西欧文明やアメリカ文明の受容と蓄積が加わり、それが縄文時代以来の日本の伝統の中で練り直され、磨かれることによって豊かに開花したものだ。それがインターネットなどの情報革命によって江戸時代とは比較にならないほど広範に世界に影響を与え始めた。

さて、日本文化のユニークさのひとつは、普遍宗教によって完全に浸食されてしまわずに、農耕文明以前の縄文的な文化が現代にまでかなり濃厚に受け継がれたことだ。これは世界史上でも稀有なことである。儒教や仏教を受容したときも、自分たちが元来持っていた自然崇拝的な宗教にうまく合うように変形した(神仏習合など)。

「世界標準」の普遍宗教は、激しい闘争の中で民族宗教の違いを克服することによって生まれたも言える。それもあって、それぞれの普遍宗教を背景にもつ「世界標準」自体は、お互いに相容れない傾向がある。自分こそ「世界標準」だと言い張って互いに争うのである。現在までのところ、その勝者が近代ヨーロッパだったわけだ。ところが日本人は、そうした「世界標準」の原理原則にこだわらずに、自分たちに合わせて自由にいくつもの「世界標準」を学び吸収してきた。神道を残したまま儒教も仏教も西欧文明も受けれ、併存させたのである。それが日本文化に豊かさと発想の自由さを与えた。そういう日本人が新たな「世界標準」を生み出すはずがないことは明らかだろう。

そして逆説的なことだが、ひとつの「世界標準」にこだわらず自由に学び吸収しつづけたからこそ、そこから生まれた独自の文化が、今後の世界にとって新たなモデルになる可能性を秘めているのではないか。

『日本辺境論』をこえて(10)なぜ若者は伝統に回帰する?
明治時代の日本の知識人は、自分たちの過去や伝統を激しく否定することによって、いわばその否定をバネにして西欧の文明を懸命に吸収した。西欧と日本の力の差が圧倒的だったことも、そうした日本人の態度の背景にある。

それと似たことが、太平洋戦争後にも再び起こった。もちろん西欧文明の吸収は、明治時代とは比べられないほど進んでいたが、敗戦のショックと戦中の軍国主義への嫌悪が、またもや自分たちの過去と伝統を全否定する方向へと日本人を向かわせた。そして、今度の学びの対象となった「世界標準」はアメリカ文明であった。

《参考記事》
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)

自己否定の強さは、敗れた相手である米国の文化やGHQの占領政策を礼賛する感情と表裏をなしていた。米国側でも、日本が米国と戦う意志や力を二度と持つことのないよう、軍国主義の社会的基盤を根こそぎにし(財閥解体など)、戦中の軍国主義がいかに邪悪であったかを日本人の意識に徹底的に植え付ける政策をとった。

そして、この政策は見事に成功した。この政策が、日本人の「辺境人」根性と合致して相乗効果を生んだからである。日本人が、「世界標準」の文明からすみやかに効率的に学び取るのが得意なのは、そのさい自己卑下に徹し、自分たちの伝統をなかったことにして、ほとんど白紙の状態で学べるからである。つまり過去を否定するからだ。日本人のそうした性向と米国のプロパガンダとが、誰も予想しなかったほどにうまくかみ合てしまった。こうしてアメリカ文明が礼賛される一方で、日本の伝統的な文化は、軍国主義や封建制に結びつくものとして極度に否定される結果になったのである。

この傾向は、太平洋戦争を体験した世代から、戦後生まれの団塊世代への確実に受け継がれていった。しかし、その子供たち、さらにその子供たちの世代になると、さすがに戦争のトラウマや、その体験と結びついた自己否定や、アメリカの洗脳などからの解放が進んだ。まさに「呪縛」がとかれ始めたのだ。

「呪縛」がとかれると、いままで強く抑圧していた反動からか、伝統的なものが逆に新鮮で価値ある大切なものとして若者たちの心をとらえ始めた。その時期と、日本のポップカルチャーが世界で注目を浴び始める時期とが重なった。ポップカルチャーだけではなく日本の文化全体が世界で高く評価されるようになった。トラウマから解放された日本の若者は、親たちの世代が想像できないような自信をもって自分たちの伝統文化を肯定することができるようになったのである。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)
人類を幸せにする国・日本(祥伝社新書218)

《関連記事》
『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
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『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
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若者の文化的「鎖国」が始まった?今後の計画など(1)
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日本人が日本を愛せない理由(3)
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日本文化のユニークさ02:キリスト教が広まらなかった理由
日本文化のユニークさ03:縄文文化の名残り
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓
日本文化のユニークさ18:縄文語の心
日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

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日本の新たな自信へ:自由にいいとこ取りした日本04

2012年11月03日 | いいとこ取り日本
日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。

日本文化のユニークさを8項目に変更

これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。

続けて、新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。

島国日本は、弥生時代以来、異民族による侵略という脅威なしに文化の受け入れを続けてきた。そのような形での異文化を受け入れ続けることができた幸運は、世界史上でもまれなことである。ところが、海の向こうの圧倒的に優れた文明を、平和的に吸収し続けた日本人は、自分をつねに「辺境人」の立場において、中心文明の優れた文物をひたすら取り入れる姿勢を、あたかも自分の「アイデンティティ」であるかのように思い込むようになった。そういう「辺境人」根性は日本人の血肉化しており、逃れようがない。だったらその根性に居座って、むしろ積極的にそれを活かそうというのが内田樹の『日本辺境論 (新潮新書)』の主張であった。従来の日本人に、内田のいう「辺境」人根性があったのはたしかだろう。しかしそれは永遠のものではない。近年、日本人は「辺境」人の呪縛から脱しつつあるというのが私の見方だ。

『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
近年の日本の動きとしてはっきりしているのは外向きだった戦後の大きな流れが、内向きに変化し始めているということだ。戦後の日本は、敗戦にいたるまでの日本の過去を否定し、アメリカを中心とした欧米の強い影響下で新しい日本を築こうとした。そうした外向きの流れが、今再び内向きに転じつつある。それが、若者の伝統志向や日本回帰という現象にもはっきりと現れている。

一方この戦後のサイクルは、より大きなサイクルと重なりながら同じ方向に動いている。それが、明治以来の西洋文明志向からの転換というサイクルなのだ。このサイクルは、かつての日本が中国文明の取り入れから脱して、平安の国風文化から鎌倉仏教へと独自の文化を開花させていったサイクルと対比することができる。なぜ今がそのような時代の大きな曲がり角だと言えるのか。いくつかの根拠を挙げてみよう。

1)明治維新前後から百数十年、日本はひたすら西欧の文明に学び、それによって近代の日本を建設しようとした。そうした日本の姿勢は、時々内向きになる小さな波はあったにせよ、大きな流れとしては変わらなかった。日本に比べて欧米は、あらゆる分野で圧倒的に優位に立っていて、そこから学ぶことなくして日本の生き残りと発展はないと思われたからである。

そのような状況で外部から学ぶとき日本人は、自らの過去全体を激しく否定する性向がある。自分たちの伝統を末梢してしまうことで、新しいものを受け入れ易くするのだともいえる。良し悪しは別として、それが日本の近代化のエネルギーになったのは確かだろう。

ところが現在、科学技術力、経済力、社会制度、文化などどれにおいても、欧米と日本で圧倒的に差のある分野はなく、個々の分野では日本が優位にたつ場合も多い。「師」の域に少しでも近づきたいと必死に学んでいた「弟子」が、いつの間にか「師」と肩を並べ、一部では「師」を超えてしまった。にもかかわらず、相変わらず自分はまだだめだと思い込み、もはやどこにもいない「師」の幻影をもとめて「ふらふらきょろきょろ」している。それが、今も続く日本の姿なのだろう。

ところが、「もう外に師を求めても無駄なのだ。師はもう、どこを探したって見つからない。だとすれば、自分の内側に立ち返って、そこから新たなものを作り出していくほかないのだ」と気づいた人々がいる。それが、今の若者たちの世代だ。もちろん彼らは、そのような明確な意図を自覚していないかもしれない。しかし少なくとも彼らは、文明の「保証人」を外部にもとめ続ける「呪縛」から解放されている。

かつて何度も日本回帰の波は繰り返されたが、それは欧米文明の過度の崇拝に対する反動という側面があった。欧米崇拝も日本回帰も、圧倒的な欧米文明を前にしての、同じコンプレックスの両極端の表れであった。しかし今の若者たちはもう、欧米の文明へのコンプレックスにほとんど囚われていない。日本が、多くの分野で欧米と肩を並べ、一部欧米を超える時代に育った彼らは、団塊の世代のような欧米への劣等感から、すでに解放されている。

だから欧米崇拝や劣等感の裏返しとしての伝統回帰ではなく、もう外に「師」を求め続けることが無意味な状況になったから、自分たちの内側からあらたな価値を生み出していくほかないと、直感的に分かってしまう世代が出現したのである。こういう世代の出現は、おそらく明治以来初めてのことである。こういう変化に匹敵する変化を過去に求めるとすれば、あの圧倒的な唐文明の「呪縛」から徐々に開放されていった、9世紀から16世紀の時代しかないであろう。

『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
日本人が今、大きな意識変化を経験しつつあると言える他の理由を考えよう。それは、日本文化の発信力にかかわる。日本文化は、「師」に追いついただけではなく、今かなり広範な影響力を世界に及ぼしつつある。そのようなことは日本史上初めてであり、この事実が人々の意識に変化を与え始めたのである。

2)その影響力はまず、科学技術と深く結びついたところで生まれた。たとえば新幹線である。時代の主役が自動車や飛行機に移りつつあった時代に、日本の技術者たちの辛苦と英知によって実現した新幹線は、世界中の交通システムに影響を与えた。高速鉄道システムはアメリカはじめ世界中で、安全で環境にやさしい輸送システムとして再評価されつつある。時代遅れになると見れれていた高速鉄道が、日本の新幹線の成功によって地球環境時代の旗手として息を吹き返したのだ。

このように日本の科学技術が、文化的な発信力をともなって世界の人々の生活を変えていった例はかなり多い。ホームビデオは、日本人が業務用の巨大なビデオを小型化し、家庭で見られるシステムとして世界に普及させたものである。電卓も日本が小型化に成功して世界中の家庭に普及させたハイテク技術である。その価格は40年間で50万円から1000円と、五百分の一に下がった。これらは、巨大なものを極小化するのが好きな日本文化の特質が世界を幸せにした例だ。今世界中で使われているクオーツ腕時計も、世界に先駆けて日本で商品化された技術だ。

これ以外にも、カラオケ、インスタントラーメンなど、日本で開発された製品が世界中の人々の生活に大きな影響を与えている例は、他にも数多い。もちろん日本人は、こうした事実をある程度自覚しており、その自覚が、これまで二千年の長きにわたって、海外の高度文明をひたすら学び続けるばかりだった日本人の「辺境人」根性に変化をもたらしていないと見るのはかなり不自然だ。

『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
高度成長期からバブル期に至るまでの日本経済の発展と膨張は、確かに日本人に自信をつけさせたかもしれないが、まだそれ以前のj時代の劣等感の裏返しという側面が強く、どこか「成り上がり者」という意識があって、等身大の自分たちに確たる自信を持つということではなかった。しかし、新幹線に代表されるような日本の高度技術が、人間の生活や社会のあり方の変革を伴う形で真似られ輸出さされるようになると、有史以来「辺境人」に甘んじていた日本人の意識に静かな、しかし確実な変化が生まれ始めたのではないか。いわゆる文化的な影響力は、経済や「金」による影響力とちがって、日本人により深いレベルでの自信を与える結果になったと思う。

3)マンガ・アニメに代表される日本のポップカルチャーが、近年広範に世界に広がり、世界の若者たちに影響を与えるようになった。その影響力が、日本人の想像する以上のものであることは、櫻井孝昌氏の以下のレポートからも知ることができる。

『日本はアニメで再興する』(1)
『日本はアニメで再興する』(2)
アニメ文化外交 (ちくま新書):YouTubeでのJapan熱を裏付ける本(1)
アニメ文化外交 (ちくま新書):YouTubeでのJapan熱を裏付ける本(2)
「カワイイ」文化について
世界カワイイ革命 (1)
世界カワイイ革命(2)
マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

これらのレポートの中で私がいちばん強く印象に残っているのは次のようなものである。櫻井氏が、海外に出るたびに現地のメディアからされる質問は、「若者たちの考え方や生き方に、アニメやマンガがものすごい影響を与えていることを日本人は知っているのですか?」というものだ。

このような質問を受けたのは一度や二度ではなかったようだ。ということは、アニメ・マンガが世界の若者の生き方に与える影響がかなり普遍的なものになっているということだ。そしてその事実を知らないのは日本人だけということに、世界の人々がうすうす気づいているから、こういう質問が何度も出るのだろう。

逆の言えば、若者の考え方や生き方に大きな影響を与えるだけの内容や魅力や力があるからこそ、これだけ世界の若者に受け入れられているということだ。

このような影響力は、まだ日本人は充分自覚していないが、それでも若い世代は、インターネットなどを通してかなり知るようになった。「辺境人」的な劣等感から解放され、等身大の自信をいちはやく持つようになったのが若い世代に多いのは、そのようなことが一因かもしれない。

《櫻井孝昌氏の関連著作》
アニメ文化外交 (ちくま新書)
世界カワイイ革命 (PHP新書)
日本はアニメで再興する クルマと家電が外貨を稼ぐ時代は終わった (アスキー新書 146)
ガラパゴス化のススメ

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)

《関連記事》
若者の文化的「鎖国」が始まった?今後の計画など(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)
日本人が日本を愛せない理由(1)
日本人が日本を愛せない理由(2)
日本人が日本を愛せない理由(3)
日本人が日本を愛せない理由(4)

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自虐の時代を脱しつつある:自由にいいとこ取りした日本03

2012年11月02日 | いいとこ取り日本
日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。

日本文化のユニークさを8項目に変更

これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。

今回も新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。

大陸から海で隔てられた「辺境」の島国日本にとっては、大陸から渡来するものはつねに崇拝の対象だった。中国や欧米の文明にたえず範を求め続けた。自分に自信がなく絶えずキョロキョロと外の世界に「世界標準」を探し続ける、これが日本人に染みついてしまった「辺境」人根性だと内田はいう。しかし内田は、外国に侵略された経験がなかったというもう一つの条件をほとんど見逃している。大陸をつねに崇拝できたのは、彼らの負の面を身を持って経験することがなかったからである。

さて、いずれにせよ従来の日本人に、内田のいう「辺境」人根性があったのはたしかだろう。しかしそれは永遠のものではない。近年、日本人は「辺境」人の呪縛から脱しつつあるというのが私の見方だ。

『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
海の向こうから来た文明の基準に合わせることに汲々とし、自ら文明の基準を生み出すことができない。それが「辺境」日本のさだめだと内田はいう。だから知識人のマジョリティは「日本の悪口」しか言わなくなる。この悪口は、「だから世界標準にキャッチアップ」という発想と込みになっていて、その世界標準を紹介・導入することが自分たち知識人の存在価値だと感じている。そういう人間たちが中心になって作っているから、メディアもそういう論調になってしまう。(内田樹『日本辺境論 (新潮新書)』)

しかし私は、内田のいう辺境人の「呪縛」から日本人は徐々に解放されつつあると感じる。団塊世代はまだ「呪縛」のなかにいるが、若い世代には明らかに変化の兆しが見える。そう私が感じるのは、いくつかのデータや、インターネット上での傾向などを見たときの全体的な印象からだ。個々の現象を見ていたのでははっきりしないが、総合的に判断すると、「辺境人」からの解放という像が浮かび上がってくると思う。

戦後に生まれ育った世代は、「近代合理主義」「進歩」「科学」「未来」「夢」などの価値意識を当然のごとく受け入れ信じていた。社会が近代化するということは、科学技術が進歩し、国民の意識がより民主的で個人主義的な方向に進歩することであった。しかし、1990年のバブル崩壊以降に小学生時代を送った世代(Z世代)は、こうした価値観が溶解するなかで育った。現代の若者にとっては、近代的でないもの、科学では説明できないもの、伝統的なものが新たな魅力を持ち始めたというのだ。その傾向はいくつかのデータで確認できる。(三浦展『ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)』)

『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)』(調査期間は2007~2008)で示された若者の和風志向・日本回帰という傾向は、別の調査でも裏付けられる。『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』(山岡拓、2009)は、若者の消費動向を探るための調査結果をまとめたものだが、『ニッポン若者論』で示された傾向がより鮮明に見えてくる。その調査結果から浮かび上がる若者像をあらかじめ言葉で表現すると、以下のようになるという。

「今の若者が目指すのは、実にまったりした、穏やかな暮らしである。自宅とその周辺で暮らすのが好きで、和風の文化が好き。科学技術の進歩よりも経済成長を支える勤勉さよりも、伝統文化の価値を重視する。食べ物は魚が好き。エネルギー消費は少なく、意図しなくとも、結果的に『地球にやさしい』暮らしを選んでいるようだ。大切ななのは家族と友人、そして彼らと過ごす時間。親しい人との会話や、ささやかな贈りものの交換、好みが一致したときなどの気持ちの共振に、とても大きな満足を感じているようだ。彼らは消費の牽引車にはなれなくとも、ある意味では時代のリーダーなのかもしれない。」

これらの調査は、『日本辺境論 (新潮新書)』(内田樹、2009)がいう、文明の「保証人」を外部に求めようとする日本人のあり方が変化し始めていることを物語るのではないか。日本人に世界標準の制定力がなく、「保証人」を外部の上位者に求めてしまうことこそが「辺境人」の発想で、それは「もう私たちの血肉となっている」からどうすることもできないと、かんたんに断定できない変化が、日本人に起こり始めているのではないか。日本人に「世界標準の制定力」があるかないかは別として、文明の「保証人」を外部にもとめていつも「ふらふらきょろきょろ」していた日本人の姿は、少なくとも今の若者には見られないということである。

『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
これまで、現代日本の若者の間に和風志向や日本回帰の傾向が見られることをいくつかのデータで見てきた。それは、日本の社会や文化をバカにし欧米の文化に憧れ追い求めていた親の世代に比べるとかなり大きな変化である。このような変化をどのような歴史的なスパンで見るかによって、その意味のとらえ方ににかなりの違いが生じる。

かつて奈良から平安時代の日本で、唐文化の影響が頂点に達した後、今度はその消化、日本化に向かって進んでいったことだ。それと同じようなことが現代の日本で、今度は西欧文明との関係で起こり始めているのではないか、というのが私の仮説である。前に「その変化は、千年二千年単位の日本歴史のなかでも重要な変化であるような気がする」と言ったのはそのような意味である。つまり、遣唐使の廃止以降に起こった外来文化の内面化と対比できるようなプロセスが、現代の日本で、しかも若者を先頭にして起こり始めているような気がするのである。日本を取り巻く世界情勢の変化がそれを加速している。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)

《関連記事》
若者の文化的「鎖国」が始まった?今後の計画など(1)

日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)

日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)

日本人が日本を愛せない理由(1)

日本人が日本を愛せない理由(2)

日本人が日本を愛せない理由(3)

日本人が日本を愛せない理由(4)

クールジャパンに関連する本02

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自虐的な知識人はなぜ?:自由にいいとこ取りした日本02

2012年10月29日 | いいとこ取り日本
日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。

日本文化のユニークさを8項目に変更

これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。

今回も新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。

日本人が日本を愛せない理由(4)
5~6世紀の昔から、日本の知識人の役割は、大陸の進んだ文明を学んで日本に紹介することであった。書物によって学び紹介するということが多かったが、遣隋使・遣唐使のように危険を冒して、その地に渡って学ぶこともあった。いずれにせよ、自分たちより優れた文明をもつ国が、同時に自国への侵略者でもあるという経験がなかった日本にあっては、学び取られた知識や制度や技術は無条件に尊重され、それをもたらしたり、紹介したりする知識階級の役割も重視された。明治時代になって、学び取る相手が中国から西欧に代わっても、知識階級の基本的な役割は変わりなかった。

このように海外の文物を紹介していさえすれば尊敬された日本の知的エリートにとって、海外の文明がいかに素晴らしいか、それに引き替え日本の文化や社会がいかに劣っているかを強調することはぜひとも必要なことであった。その落差を強調すればするほど、自分の存在基盤が確たるものになり、自分の存在価値が上がるわけだ。そんな情報活動を日本の知識人は、千年以上必死にやってきたのだ。それが多かれ少なかれ庶民の感じ方にまで影響を与えたとしても不思議ではない。

しかし海外の「進んだ文明」を紹介しさえすれば知識階級といわれた時代は、すでに終わっている。にもかかわらず、自分たちの存在基盤を失うのが怖い知識人たちは、相も変わらず西欧を崇拝・礼賛し、日本を不必要に貶め続けるのだ。そうしないと不安を打ち消すことができないのだろうか。日本のマスメディアも自分たちの国を貶めるのに忙しい。マスメディアにかかわる人々もいわゆる「知的エリート」として、上に述べたのと同様の心理を共有している面があるのだろう。

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
丸山真男は、「私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」(『日本文化のかくれた形(かた) (岩波現代文庫)』)と、日本文化の特徴を指摘する。日本文化そのものはめぐるましく変わるが、変化するその仕方は変わらないということだ。

内田樹は『日本辺境論 (新潮新書)』で、こうした日本論を引き継いで、それに「辺境」論という地政学的な補助線を引くことでさらに理解を進めようとする。私たちは変化するが、変化の仕方は変わらない。そういう定型に呪縛されている。その理由は、外部(かつては中国、今は欧米)から到来して、集団のありようの根本的変革を求める力に対して、集団としての自己同一性を保つためには、そうするほかなかったからだという。外来の思想の影響をもっぱら受容するほかなかった集団が、その自己同一性を保つには、アイデンティティの次数を一つ繰り上げるほかない。

「私たちがふらふらして、きょろきょろして、自分が自分であることにまったく自信が持てず、つねに新しいものにキャッチアップしようと浮き足立つのは、そういうことをするのが日本人であるというふうにナショナル・アイデンティティを規定したからです。世界のどんな国民よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、弊履を棄つるが如く伝統や古来の知恵を捨て、いっときも同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たち日本人としてのナショナル・アイデンティティを見出したのです。」

内田の「日本辺境論」の根底に、このような日本理解がある。そして私がいちばん批判したいと思うのはまさにこの点なのだ。確かに明治以来の日本人の、欧米崇拝や欧米文化や思潮の受容にはこのような傾向が見られたであろう。しかし私には、これまでの日本人のあり方に、今大きな変化が起こっていると感じられる。しかもその変化は、千年二千年単位の日本歴史のなかでも重要な変化であるような気がする。内田には、それが全然見えていないのではないか。この本を読んだときに私がいちばん引っかかったのはこの点であった。

大陸から海で隔てられた「辺境」に位置した日本にとっては、海の向こうから入って来るものはつねに崇拝の対象だった。中国や欧米の文明にたえず範を求め続けた。「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない。」これが辺境の限界だと内田はいう。日本人に世界標準の制定力がなく、「保証人」を外部の上位者に求めてしまうことこそが、「辺境人」の発想だ。そして、それは「もう私たちの血肉となっている」から、どうすることもできない。だとすれば「とことん辺境でいこうではないか」。こんな国は世界史上にも類例を見ないから、そんな変わった国にしかできないことは何かを考えた方が有意義だ、というのが本書の主張だ。

しかし、文明の「保証人」を外部に求めようとする日本人のあり方に、もし変化の兆しが見え始めているのだとしたら? ふらふらきょろきょろして外ばかり見ていた世代の「呪縛」から解放された世代の文化が育ち始めているのだとすれば? その時、内田の「辺境論」の前提が崩れることになる。私が、考察してみたいのはそのような変化の可能性である。
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自国を否定する理由:自由にいいとこ取りした日本01

2012年10月28日 | いいとこ取り日本
日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。

日本文化のユニークさを8項目に変更

これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。

今回は新たに付け加えた(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」に関係する記事を集約して整理する。

http://blog.goo.ne.jp/cooljapan/e/25afcfda0dc94750d4eeecb11992f627
日本人がアメリカを憎まなかった三つ目の理由とは何か。歴史学者・会田雄次の『合理主義(講談社新書)』という本を読んでいて、これもその大きな理由ではないかと思った。

彼はこんなことを言っている。『ベルツの日記〈上〉(岩波文庫)エルウィン・ベルツ』などが指摘するように、明治初期の日本人は驚くべき文化の高さをもっていた。それは明治以前から日本にあったものだという。しかし、中国やインドにもそれぞれの文化の高さがあった。ではなぜ、その当時の中国やインドに科学精神が成立しないで、日本だけに発達したのか。これが会田雄次の問いだ。

彼は、日本の文化の高さに中国やインドになかった一つの特色があったという。それをベルツが経験したこんなエピソードに触れて論じている。ベルツが東京医学校で学生に「江戸時代はどうだったのだろう」と問いかけた。すると学生は、「ぼくたちは、過去をもっていません。過去はいっさい抹殺すべきものだと考えています。これからの日本には、前途があるだけなのです。」

これは、西欧の文明に接した日本の知識人にかなり共通した反応だったのだろう。当時の日本人が過去に多くを負っていながら、その過去を全面的に否定し去ろうしていたことを示すと会田はいう。これは日本人の根深い性癖であり、思考態度の根本に横たわる傾向であり、癖なのではないかというのだ。

この性癖には、良い結果を生む面と悪い結果を生む面の両面がある。良い面は、明治の文明開化の時代のように、日本の過去をすべて否定することによって、ヨーロッパの文明を瞬く間に吸収するエネルギーに変化させてしまうという面である。中国やインドは、自分の文明へのこだわりがあったから日本のように急速に科学文明を吸収することができなかった。

悪い面は、「外国の文化をむやみに尊敬し、自分のもっているものをやたらに卑下する態度」であり、これは現代の日本の知識人も多く見られる態度だ。戦後にもそれが強く出たという。

戦後の日本人も、戦中、戦前までに受け継いできた文化を全面的に否定し、アメリカの占領と同時に入ってきたアメリカの文化を何でも良いものとして受け入れる傾向が出た。これは日本人が過去に、中国やヨーロッパとの出会いで示した態度と共通する。

ここまでが会田氏の考察だが、以上は、日本人がアメリカを憎まなかったもう一つの理由にもなっているのではないか。アメリカは、戦時体制によって抑圧された日本人の「解放者」であったと同時に、これまでの日本を全否定し、新しい日本を生み出すためのモデルにもなったのだ。そのようなアメリカを憎むことはできない。モデルを好意的に受け入れてこそ、そこから必死に学び取ろうとする情熱も生まれる。

こうしてアメリカは、憎むべき対象というよりは、自分たちがそこを目指すべき新時代もモデルとして好意的に受け止められたのだ。

日本人が日本を愛せない理由(1)
日本人はなぜ日本を愛せないのか

先に歴史学者・会田雄次の『合理主義(講談社新書)』に触れて、日本人は自分たちの過去を全否定することで、逆に海外の進んだ文明を驚くべき速さで学び取るエネルギーにしてきた面があることを確認した。

ではなぜ日本人は、自らの過去を否定したり、自分たちを卑下したりする傾向が強いのか。『日本人はなぜ日本を愛せないのか』の中で著者の鈴木孝夫は「日本人はなぜ日本を愛せないか」というこの問いに結局どう答えているのか。著者の答えはこうだ。日本は、大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略されたことがない。それゆえ外国の負の面に直面せず、その文化の良い面だけを取り入れて独自の文明を発達させることができた。これを著者は「部品交換型文明」と表現する。それは、外国の文明はなんでも優れているという自己暗示を生み出し、その暗示のため、逆に日本の本当の良さは見えなくなる。欧米の文明は何でも良いとし、欧米の価値観で自己のすべてを判断するならば、自分たちの歴史や文化が劣ったものと見えてきても不思議ではない。

日本人が日本を愛せない理由(2)
日本人の中に、なぜ日本の文化や社会を否定的に見る傾向の人が多いのか。日本人には、伝統的に自文化を卑下し、海の向こうの文化を崇める性癖がこびりついているようだ。

かつては中国、明治時代にはヨーロッパと、いずれも大陸の高度な文明に接した日本人は、その負の面を見る必要がなかった。

大陸では、文化の流入は武力的な侵略とともにもたらされることが圧倒的に多い。しかし日本は、大陸から海で適度に隔てられた島国であるため、血なまぐさい侵略や抗争を経ずに、進んだ文化・制度・技術などを取り入れればよかった。自分たちの文化・社会が破壊される危険にさらされることなく、高度な文明のよい部分だけを崇めたてまつって、理想化して取り入れればそれですんだのである。そして、相手を理想化して見るほど、逆に自分たちは劣ったものとして見えてくるし、そう見えた方が、学び吸収するときの効率もよいのだ。これが、日本人が日本を愛せない一つ目の理由と思われる。

かつて日本文化のユニークさ23:キリスト教をいちばん分からない国(2)でも触れたが、猟採集や小規模な農業によって成立する社会は、自然とのかかわりや部族の社会がそれなりに調和していた。それが異民族の侵入や戦争、帝国の成立といった事情の中で崩れ去ると、そこに何らかの秩序を取り戻すために、部族を超えた「普遍宗教」が必要となった。それが一神教であり、あるいは仏教や儒教であった。これらに共通するのは、それぞれの部族が信じていた神々を否定するということであった。

日本の場合は、その地理的な条件のため「普遍宗教」による社会と文化の本格的な一元支配が必要なかった。もちろん儒教や仏教は流入したが、土着の神道的なものと融合した。土着の神々は生き残ったのである。

侵略などによる抗争がからむと、敵に対抗するためにイデオロギーの面でも熾烈な抗争が起こるはずである。侵入してきた他文明を安易に理想化することなどできない。武力による戦いと同時に、イデオロギーの面でも自文化の優位性を主張しなければならない。相手の文化を理想化して自文化を卑下していたら、戦う意欲さえ失うだろう。

しかし日本の場合は、軍隊ではなく、高度文明の文物だけが海を渡ってきたために、海の向こうの文明をいくらでも理想化することができた。その分、自分たちの文化を劣ったものとみなしても何の危険性もなかった。むしろそう思い込んだ方が、高度文明を吸収するのには都合がよかったのだろう。もちろん、吸収するとき自分たちに都合の悪いものは、おのずと排除された。

《関連図書》
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
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『日本辺境論』をこえて(10)なぜ若者は伝統に回帰する?

2012年04月11日 | いいとこ取り日本
『日本辺境論』をこえて(5)ちょっと付け足しへのコメントで以下のようなご質問をいただいた。

「西洋文明を師としてきたが行き詰まり,新たな「世界標準」が模索される時代になったのはいいとして,現在の若者が日本の古い伝統・価値観を見直し始めたきっかけって何でしょうね。なにしろ親の代で否定されていたものですから,自ずから興味を持って調べないと「伝統的な何か」には辿りつけません。西洋を規範とする「世界標準」に生まれた時から身を置いていた若者が,どうしてその代用として日本の伝統文化に興味を向けたのでしょうか。」

その時、「『日本辺境論』を超えて」が終わったらブログでこの問題に触れてみたいと答えさせていただいた。ということで今回はこの問いについて考えてみたい。

日本力』は、松岡剛とエバレット・ブラウンの対談本だが、その中でエバレット・ブラウンは以下のような体験を紹介している。

彼には、宮司の友人がいて、ある時その神社を訪れたらちょうど落語のイベントを行っていた。落語の中に神道の話が出てきて、そこに集まった大人たちは難しいなあという顔をして聴いている。ところが子供たちは、純粋に面白いと笑っている。あとで宮司と話したら、10年前の子どもはああいう反応をしなかったという。10年前の子どもは、ああいうものは古臭い、面白くないと思っていたが、今の子どもたちは伝統的なものや宗教的なものを新鮮なものとして取り入れることができるという。

この話には、世代による受け止め方の違いがはっきりと表れていて面白い。ではなぜこのような違いが生じるのだろうか。

明治時代の日本の知識人は、自分たちの過去や伝統を激しく否定することによって、いわばその否定をバネにして西欧の文明を懸命に吸収した。西欧と日本の力の差が圧倒的だったことも、そうした日本人の態度の背景にある。

それと似たことが、太平洋戦争後にも再び起こった。もちろん西欧文明の吸収は、明治時代とは比べられないほど進んでいたが、敗戦のショックと戦中の軍国主義への嫌悪が、またもや自分たちの過去と伝統を全否定する方向へと日本人を向かわせた。そして、今度の学びの対象となった「世界標準」はアメリカ文明であった。

《参考記事》
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)

自己否定の強さは、敗れた相手である米国の文化やGHQの占領政策を礼賛する感情と表裏をなしていた。米国側でも、日本が米国と戦う意志や力を二度と持つことのないよう、軍国主義の社会的基盤を根こそぎにし(財閥解体など)、戦中の軍国主義がいかに邪悪であったかを日本人の意識に徹底的に植え付ける政策をとった。

そして、この政策は見事に成功した。この政策が、日本人の「辺境人」根性と合致して相乗効果を生んだからである。日本人が、「世界標準」の文明からすみやかに効率的に学び取るのが得意なのは、そのさい自己卑下に徹し、自分たちの伝統をなかったことにして、ほとんど白紙の状態で学べるからである。つまり過去を否定するからだ。日本人のそうした性向と米国のプロパガンダとが、誰も予想しなかったほどにうまくかみ合てしまった。こうしてアメリカ文明が礼賛される一方で、日本の伝統的な文化は、軍国主義や封建制に結びつくものとして極度に否定される結果になったのである。

この傾向は、太平洋戦争を体験した世代から、戦後生まれの団塊世代への確実に受け継がれていった。しかし、その子供たち、さらにその子供たちの世代になると、さすがに戦争のトラウマや、その体験と結びついた自己否定や、アメリカの洗脳などからの解放が進んだ。まさに「呪縛」がとかれ始めたのだ。

「呪縛」がとかれると、いままで強く抑圧していた反動からか、伝統的なものが逆に新鮮で価値ある大切なものとして若者たちの心をとらえ始めた。その時期と、日本のポップカルチャーが世界で注目を浴び始める時期とが重なった。ポップカルチャーだけではなく日本の文化全体が世界で高く評価されるようになった。トラウマから解放された日本の若者は、親たちの世代が想像できないような自信をもって自分たちの伝統文化を肯定することができるようになったのである。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)
人類を幸せにする国・日本(祥伝社新書218)

《関連記事》
『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

若者の文化的「鎖国」が始まった?今後の計画など(1)
日本人が日本を愛せない理由(1)
日本人が日本を愛せない理由(2)
日本人が日本を愛せない理由(3)
日本人が日本を愛せない理由(4)
クールジャパンに関連する本02
  (『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』の短評を掲載している。)
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『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

2012年04月10日 | いいとこ取り日本
◆内田樹『日本辺境論 (新潮新書)

最後にもうひとつだけ重要な論点に触れ、このレビューを終わりたい。

内田が語る「辺境」の意味は、「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」ということであった。日本人に世界標準の制定力がなく、「保証人」を外部の上位者に求めてしまうことこそが、「辺境人」の発想であるということだ。これまで、文明の「保証人」を外部に求める日本人の「辺境性」を話題にし、そういう傾向がなくなりつつあることを論じてきた。

では、「世界標準を新たに設定できない」という辺境国のもう一つの特徴についてはどうか。日本人の「世界標準設定」能力については、これまであえて問題にしてこなかったが、最後に少し考えてみたい。

その前に「世界標準」とは何だろうか。まずは、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教など、それ以降の文明の基礎を築くことになった普遍宗教であろう。そして、それらの普遍宗教に基づいて生まれた文明の原理であろう。たとえばヨーロッパ文明は、キリスト教をひとつの基礎としながら、また一面ではそれと対抗しながら、近代の各種原理を生み出していった。「自由」「民主主義」「人権」「合理主義」「科学「進歩」「自由主義経済」などがそれにあたる。そして、それらが現代のもっとも強力な「世界標準」になっていったのである。

今、環境問題や経済の混乱の深刻化などにより、これら近代の文明原理はかなり問題をはらむのではないかと疑われ始めた。では日本は、それに替わる新たな「世界標準」を生み出すことが可能なのだろうか。これに対する私の答えは、上に述べたような「世界標準」という意味でなら「否」というものである。しかし、「世界標準」という言葉にこだわらずもっと柔軟な見方をすれば、必ずしも否と言えない。

日本は「辺境」の島国であったために、これまで「世界標準」を生み出すことはなかった。大陸で生まれた「世界標準」をひたすら吸収してきた。そうやって形成され日本の文化は、「受容性」を特徴としていた。それは、もっぱら「師」から学ぶ姿勢で吸収し続けることである。

ところが現代の日本は、長い長い受容の歴史の結果、その豊かな蓄積の内側から次々と独自の文化を生み出すようになった。江戸時代の独自な文化も幕末から明治初期にかけてフランスなどヨーロッパに知られ、その流行はジャポニズムと呼ばれた。現代のジャポニズムは、中国文明だけではなく西欧文明やアメリカ文明の受容と蓄積が加わり、それが縄文時代以来の日本の伝統の中で練り直され、磨かれることによって豊かに開花したものだ。それがインターネットなどの情報革命によって江戸時代とは比較にならないほど広範に世界に影響を与え始めた。

さて、日本文化のユニークさのひとつは、普遍宗教によって完全に浸食されてしまわずに、農耕文明以前の縄文的な文化が現代にまでかなり濃厚に受け継がれたことだ。これは世界史上でも稀有なことである。儒教や仏教を受容したときも、自分たちが元来持っていた自然崇拝的な宗教にうまく合うように変形した(神仏習合など)。日本文化の縄文残滓についてはこれまでかなり論じてきた。以下を参照されたい。

日本文化のユニークさ01:なぜキリスト教を受容しなかったかという問い
日本文化のユニークさ02:キリスト教が広まらなかった理由
日本文化のユニークさ03:縄文文化の名残り
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓
日本文化のユニークさ18:縄文語の心
日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

日本人は、「世界標準」の原理を受け入れるとき、自分たちが無意識にもつ縄文的な感性や思考法に合わないものは排除したり、変形したりして受け入れたのである。ヨーロッパ近代の原理をあれほど熱心に受け入れながら、その背後にあるキリスト教そのものはほとんど受け入れなかったことは、その代表的な例である。

「世界標準」の普遍宗教は、激しい闘争の中で民族宗教の違いを克服することによって生まれたも言える。それもあって、それぞれの普遍宗教を背景にもつ「世界標準」自体は、お互いに相容れない傾向がある。自分こそ「世界標準」だと言い張って互いに争うのである。現在までのところ、その勝者が近代ヨーロッパだったわけだ。ところが日本人は、そうした「世界標準」の原理原則にこだわらずに、自分たちに合わせて自由にいくつもの「世界標準」を学び吸収してきた。神道を残したまま儒教も仏教も西欧文明も受けれ、併存させたのである。それが日本文化に豊かさと発想の自由さを与えた。そういう日本人が新たな「世界標準」を生み出すはずがないことは明らかだろう。

そして逆説的なことだが、ひとつの「世界標準」にこだわらず自由に学び吸収しつづけたからこそ、そこから生まれた独自の文化が、今後の世界にとって新たなモデルになる可能性を秘めているのではないか。

「辺境人」や「辺境国」に特徴的なことの一つは、その自信のなさであり、劣等感である。自信がないから、いつもキョロキョロと周囲を見回し、ことの是非の判断を外部の標準に求めようとするのである。しかし、この劣等感や自己卑下こそが、日本人の学習能力を異様に高めたともいれる。受容や吸収が欠かせなかった辺境日本にとって、劣等感や自己卑下は文化の生き残りのため機能上、必要だったのかもしれない。

ところが近年の日本人は、「世界標準」同士が張り合ったり、宗教同士が争い合ったりすることが、どれだけ悲惨な結果を生んできたか、そして今も生みつつあるかを、かなりよく知るようになった。そして自分たちのようにあまり原理原則にこだわらず、それぞれのいいところを自由に受け入れて、自分たちに合わせて作り替えていく行き方が、逆に豊かな結果をもたらすことをようやく知るようになった。それに伴って劣等感や自己卑下から自由になり始めたのではないか。そして、そういう日本人のあり方を、世界がクールと感じ始めたのではないか。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)
人類を幸せにする国・日本(祥伝社新書218)

《関連記事》
『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて

若者の文化的「鎖国」が始まった?今後の計画など(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)
日本人が日本を愛せない理由(1)
日本人が日本を愛せない理由(2)
日本人が日本を愛せない理由(3)
日本人が日本を愛せない理由(4)
クールジャパンに関連する本02
  (『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』の短評を掲載している。)
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『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて

2012年04月08日 | いいとこ取り日本
◆内田樹『日本辺境論 (新潮新書)

この本の書評ということで始めたが、これをきっかけにして自分の論を展開する形となり、ずいぶん長くなってしまった。ここでこれまでの論旨を整理しておきたい。私が伝えたかったのは、文明の「保証人」を外部に求めようとする日本人の「辺境人」根性に変化の兆しが見え始めている事実を示して、内田の「辺境論」の前提を批判することだった。ふらふらきょろきょろして外ばかり見ていた世代の「呪縛」から解放された世代の文化が育ち始めている。自分たちの内側に自分たちの根拠を探ろうとする兆しが若い世代への調査からも垣間見れる。

『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』

これらの調査は、文明の「保証人」を外部の上位者に求めてしまうという「辺境人」の発想そのものが、失われつつあることを示しているが、データは二つの読み方ができる。若者が離脱しつつあるのは、戦後の価値観なのか、それとも明治以降取り入れ続けた西欧近代の価値観そのものなのか、という二つだ。

もちろん両方の見方ができるだろう。二つの現象が重なっているともいえる。明治以降の日本人の傾向が変化し始めていると見るなら、それは現象をより深い視点からとらえていることになる。そして大切なのは、この変化が千年二千年単位の日本歴史のなかでも重要な変化であるかもしれないということである。

つまり、遣唐使の廃止以降に起こった外来文化の内面化と対比できるようなプロセスが、現代の日本で、しかも若者を先頭にして起こり始めているのではないか。かつて日本は、唐文化の影響が頂点に達した後、今度はその消化、日本化に向かって進んでいった。それと同じようなことが現代の日本で、今度は西欧文明との関係で起こり始めているのではないか。そして、その理由をこれまで3点から説明した。

1)明治以来、西欧文明を学び続けた日本は、多くの分野で「師」に追いつき、いくつかの分野では「師」を超え始めた。しかも「師」が掲げていた近代文明の原理そのものが今問われ始めている。つまり外部に「師」を求め得なくなった。これは日本の歴史の中で初めての経験である。(→『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら

2)日本で開発された技術や製品が世界中の人々の生活に大きな影響を与えるようになり、日本人自身がこうした事実をある程度自覚するようになった。これも有史以来、日本人にとって初めての経験である。(→『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力

3)マンガ・アニメに代表される日本のポップカルチャーが、近年広範に世界に広がり、世界の若者たちに影響を与えるようになった。日本人はまだその影響力を充分自覚していないが、それでも若い世代は、インターネットなどを通してかなり知るようになった。日本の文化が世界にこれほどの影響力を与えるようになったことも、日本の歴史上初めての経験である。(→『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力

これらの事実が示すのはいずれも、太古の昔から大陸の文明を「師」として学び続けた「辺境」日本という前提が崩れ始めたということである。とくに2)と3)で示されたような事実は、外部から学んだものを日本独自に再生させた技術や文化が世界に向けて発信され始めたということである。これらは比較的よく知られた事実だが、有史以来の日本史の中での位置づけや、日本人の意識に与える影響という観点からはほとんど論じられなかった。上の調査に示されるような若者中心の日本人の意識変化は、これらの事実を多かれ少なかれ反映しているのではないか。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)
人類を幸せにする国・日本(祥伝社新書218)

《関連記事》
若者の文化的「鎖国」が始まった?今後の計画など(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)
日本人が日本を愛せない理由(1)
日本人が日本を愛せない理由(2)
日本人が日本を愛せない理由(3)
日本人が日本を愛せない理由(4)
クールジャパンに関連する本02
  (『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』の短評を掲載している。)
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『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力

2012年04月07日 | いいとこ取り日本
◆内田樹『日本辺境論 (新潮新書)

高度成長期からバブル期に至るまでの日本経済の発展と膨張は、確かに日本人に自信をつけさせたかもしれないが、まだそれ以前のj時代の劣等感の裏返しという側面が強く、どこか「成り上がり者」という意識があって、等身大の自分たちに確たる自信を持つということではなかった。しかし、新幹線に代表されるような日本の高度技術が、人間の生活や社会のあり方の変革を伴う形で真似られ輸出さされるようになると、有史以来「辺境人」に甘んじていた日本人の意識に静かな、しかし確実な変化が生まれ始めたのではないか。いわゆる文化的な影響力は、経済や「金」による影響力とちがって、日本人により深いレベルでの自信を与える結果になったと思う。

3)マンガ・アニメに代表される日本のポップカルチャーが、近年広範に世界に広がり、世界の若者たちに影響を与えるようになった。その影響力が、日本人の想像する以上のものであることは、櫻井孝昌氏の以下のレポートからも知ることができる。

『日本はアニメで再興する』(1)
『日本はアニメで再興する』(2)
アニメ文化外交 (ちくま新書):YouTubeでのJapan熱を裏付ける本(1)
アニメ文化外交 (ちくま新書):YouTubeでのJapan熱を裏付ける本(2)
「カワイイ」文化について
世界カワイイ革命 (1)
世界カワイイ革命(2)
マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

これらのレポートの中で私がいちばん強く印象に残っているのは次のようなものである。櫻井氏が、海外に出るたびに現地のメディアからされる質問は、「若者たちの考え方や生き方に、アニメやマンガがものすごい影響を与えていることを日本人は知っているのですか?」というものだ。

このような質問を受けたのは一度や二度ではなかったようだ。ということは、アニメ・マンガが世界の若者の生き方に与える影響がかなり普遍的なものになっているということだ。そしてその事実を知らないのは日本人だけということに、世界の人々がうすうす気づいているから、こういう質問が何度も出るのだろう。

逆の言えば、若者の考え方や生き方に大きな影響を与えるだけの内容や魅力や力があるからこそ、これだけ世界の若者に受け入れられているということだ。

このような影響力は、まだ日本人は充分自覚していないが、それでも若い世代は、インターネットなどを通してかなり知るようになった。「辺境人」的な劣等感から解放され、等身大の自信をいちはやく持つようになったのが若い世代に多いのは、そのようなことが一因かもしれない。

《櫻井孝昌氏の関連著作》
アニメ文化外交 (ちくま新書)
世界カワイイ革命 (PHP新書)
日本はアニメで再興する クルマと家電が外貨を稼ぐ時代は終わった (アスキー新書 146)
ガラパゴス化のススメ
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『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が

2012年02月28日 | いいとこ取り日本
◆内田樹『日本辺境論 (新潮新書)

これまで、現代日本の若者の間に和風志向や日本回帰の傾向が見られることをいくつかのデータで見てきた。それは、日本の社会や文化をバカにし欧米の文化に憧れ追い求めていた親の世代に比べるとかなり大きな変化である。このような変化をどのような歴史的なスパンで見るかによって、その意味のとらえ方ににかなりの違いが生じる。

論集『論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)』(1972年)の中に上山春平の「日本文化の波動」という論文がある。ここで上山は、日本文化がほぼ600年のサイクルで外に向かって開いたり閉じたりを繰り返していると指摘する。

まず西暦300年ごろからシナ文化の受け入れが始まり、900年ごろにそれが頂点に達する。894年は、菅原道真が遣唐使の廃止を建議した年だ。その後、仮名文字や大和絵など和風の文化が起こるが、平安時代はまだ唐風の影響をかなり残しての内面化であった。律令制も残り、唐文化に影響された公家文化も続いた。やがて1200年ごろから武士中心の時代に移り、それとともに文化の内面化が進んだ。日本独自の文化が生まれ、たとえば仏教では理論的なものは影をひそめ、浄土真宗や日蓮宗などきわめて単純で、日本の民衆の心をじかにとらえる宗派が活躍した。そうした内面化のクライマックスが1500年ごろであった。(遣唐使廃止の600年後)

その内面化の深まりに前後して、ポルトガル人の種子島漂着(1543年)などをきっかけに今度は西欧文化との接触が始まる。江戸時代は、鎖国体制の中で文化の内面化を進めながらも、出島を通して西欧文化を徐々に受け入れ続ける。そして1800年ごろから明治維新、近代日本へと再び活発に外の世界に対し始め、現代に至るという。彼の理論では、日本が外に開いて受け入れる傾向の頂点は、1500年頃から600年後だとして2100年頃になるし、事実そのように予想するサイクル図が掲載されている。

この論集が発行されたのは40年も前なので、上山はもちろん最近の若者の意識変化など知る由もない。現代は、古代や江戸時代に比べ時代の変化が飛躍的に早まっているから、上山の600年周期説にこだわる必要はまったくない。ただ、日本文化を見ると外来文化をひたすら受け入れた時期とそれを消化した時期とを繰り返してきたことを確認できればよいだろう。江戸時代は、鎖国という政策による遮断だから西欧文明を受け入れて内面化したのではない。しかし鎖国の中で日本独自の庶民文化が熟成されていったのは確かだ。

確認したいのは、かつて日本で唐文化の影響が頂点に達した後、今度はその消化、日本化に向かって進んでいったことだ。それと同じようなことが現代の日本で、今度は西欧文明との関係で起こり始めているのではないか、というのが私の仮説である。前に「その変化は、千年二千年単位の日本歴史のなかでも重要な変化であるような気がする」と言ったのはそのような意味である。つまり、遣唐使の廃止以降に起こった外来文化の内面化と対比できるようなプロセスが、現代の日本で、しかも若者を先頭にして起こり始めているような気がするのである。日本を取り巻く世界情勢の変化がそれを加速している。そのような世界情勢の変化との関係も含めてさらに考察を続けたい。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)

《関連記事》
若者の文化的「鎖国」が始まった?今後の計画など(1)

日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)

日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)

日本人が日本を愛せない理由(1)

日本人が日本を愛せない理由(2)

日本人が日本を愛せない理由(3)

日本人が日本を愛せない理由(4)

クールジャパンに関連する本02
  (『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』の短評を掲載している。)
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