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マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)

2011年01月04日 | マンガ・アニメの発信力の理由
前回のアップからしばらくたってしまったが、続きを書きたい。

最近のマンガ・アニメのヒット作のかなりが、あの世や異界、異次元と深くかかわるテーマになっている点に注目し、ここから日本のマンガ・アニメの特徴や魅力の一端が見えてこないかと考えた。それでまず『ブリーチ』を取り上げてみようと思った。

そのために、縄文以来の日本人のあの世観の大まかな姿を、梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』を元にしてまとめ、『ブリーチ』のあの世観と比較してみたいと考えた。

梅原は、日本国家ができる以前に、沖縄、本土、北海道を含めて、一つの共通の基層文化があったと考える。そして、北においてその基層文化を色濃く残存させたのがアイヌ文化、南においてそれを残存させたのが沖縄文化だとし、アイヌ文化や沖縄文化を参考にしながら、『古事記』、『日本書紀』、さらに民俗学の研究などを照らし合わせて、縄文時代以来の古代日本人のあの世観を次のようにあぶりだしている。

1)あの世とこの世はあまり変わらない。極楽のようないいところでもなく、地獄のような苦しいところでもない。ただし、すべてがこの世と逆になっている(この考えは、現在も、弔いのとき死者の着物の合わせをあべこべに着せるなどの風習として残っている。)

2)原則的に、すべての人間があの世に行くことができ、あの世で神になる。ただし、この世で嫌われた人間は、あの世でも嫌われて受け入れてもらえない。またこの世に執着の強い霊は、なかなかあの世に行かない。

3)あの世に極楽も地獄もないから、どちらに行くべきかを決する裁判官もいない。キリスト教でいう最後の審判もなく、仏教でいう閻魔様もいない。

4)人間だけでなく、生きとし生けるものはすべてあの世へ行く。すべてが生と死の絶えざる往復をくり返す。太陽など天地自然もまた、生の世界と死の世界を往復する。

5)あの世とこの世は、それほど遠く離れておえらず、この世の裏側にすぐあの世がある。だからあの世の人たちはすぐにこの世にやってこれるのだが、年中来られてはこまるので、来れる日をお盆や正月やお彼岸に定めている。

6)お彼岸などでの短期の帰還だけでなく、もっと長い帰還がある。ある人が子どもを身ごもると、その一族の死んだ先祖たちが話し合って誰を帰すかを決める。よいことをした人は早く帰れて、悪いことをした人はなかなか帰れない。その基準で一人が選ばれると、あの世から魂が妊婦の腹にヒューッと移動して、この世への長期滞在となる。

こうして見ると、現代日本人の漠然とした最大公約数的なあの世観も、縄文時代の日本人が描いていたあの世観とそんなにずれていないのかもしれない。

そして『ブリーチ』で描かれるあの世も、大枠はこのようなあの世観の上に築かれている。尸魂界(しこんかい:ソウル・ソサエティ)と言われる霊界は、一見したところ、この世とそれほど変わらない家並みの中で、この世とそれほと変わらない生活をしているように見える。

ただし、尸魂界は、霊力を持つ貴族や死神達が住む瀞霊廷(せいれいてい)と、その周囲にある死者の魂が住む流魂街(るこんがい)に区分されていて、暮らし向きや待遇などに厳然とした差がある。この辺は、古代日本人のあの世観にはない差別待遇だが、しかし極楽と地獄、天国と地獄ほどの絶対的な違いがあるわけではない。

梅原は、極楽(天国)、地獄という区別がないのは、この世に階級とか差別がなかった社会の反映ではないかという。キリスト教や仏教のような世界宗教は、巨大国家が成立し、ひどい階級差別や奴隷制度が生じて、その差別に悩む人々を救おうとした宗教で、だからこそ、この世で富み栄えて贅沢三昧だった人々は、あの世で地獄の苦しみを味わうことが必要だったのだろうという。比較的に階級的な差が少なかった日本人には、縄文時代以来の平等なあの世観が受け入れやすいのかもしれない。

極楽(天国)と地獄の区別がないから、裁判官(閻魔)もいらない。『ブリーチ』ではないが、『幽遊白書』で閻魔様がジュニアのかわいい幼児になっているのも、そういう日本人の感覚にあっているのかもしれない。

古来の日本人のあの世観の2)、とくに後半の「この世に執着の強い霊は、なかなかあの世に行かない」という特徴は、『ブリーチ』の中でも重要な意味を持つ。この世の何かに強い未練を持ち、それに因果の鎖を絡めとられ、憑き霊や地縛霊となっている迷える霊を尸魂界(ソウル・ソサイアティ)に送るのが、死神の大切な役割の一つだからだ。成仏できなかった霊が、虚(ホロウ)になるというのは作者の創作だろうが、それもこのような日本人のあの世観を基礎にしてのことだ。

興味深いのは、日本の代表的な芸術のひとつである能も、霊についての同じような考え方を反映させているということだ。能の主人公シテは、多くの場合、怨霊であるという。つまり、この世に強い執着を抱いているために、あの世になかなか行けない霊なのである。そこにワキ(多くは旅の僧)が出てきて、シテの霊を慰めることによって恨みがゆるみ、無事あの世に行けるという筋たてが中心になることが多いのである。

こうして見ると、『ブリーチ』という作品も縄文時代以来の日本人のあの世観を下敷きにしていることは明らかである。ただ、私が「マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)」を書いて、なかなかその続編を書く気になれなかったのには、理由がある。マンガ・アニメに古来の日本人のあの世観が反映されているとして、そこにどんな意味があるのか。このような日本人のあの世観が、マンガ・アニメを通して世界に発信されることにどのような意味があるのか。そこまで突っ込んで何が言えるのかが、まだはっきりしないからである。

他の作品も検討しながらこのテーマを本格的に探るにはもう少し時間がかかるかもしれない。

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