クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

日本が一神教に侵食されない深い意味

2017年03月18日 | キリスト教を拒否する日本
宗教学者の島田裕巳氏は、「キリスト教が日本で広まらなかった理由」というウェッブ上の論文で「世界の国々のなかで、これほど一神教を信じる人間が少ない国はほかにない。日本は一神教が浸透しなかった最大の国なのである」と語り、「日本は一度も一神教に席捲されなかった国として、これからも独自の宗教世界を維持し続けていくことになるのかもしれない。そのことはやがて世界的にも注目されることになっていくのではないだろうか」と、この論文を結んでいる。

この最後の指摘は、重要な意味をもっていると私には思える。日本がこれまで独自の宗教世界を維持し、これからも維持し続けていくだろうこと、そしてそのことが「世界的にも注目される」ようになるだろうというは、日本文化の根底にかかわる重要な意味をもっているということである。

ではなぜ日本は、一神教に侵食されずに、独自の宗教世界を維持することができたのか。それは「家」の問題や、神道や仏教がすでに存在したからというような個別の問題からは答えられないはずだ。個別の問題も絡むだろうが、その根底にある日本文化の成り立ちにかかわる独自性こそが、その秘密を解き明かしてくれるのだ。日本独自の宗教世界は、日本の社会や文化の成り立ちのユニークさに根ざしているのだ。

一言でいえばその独自性とは、新石器や土器を使い定住をしながら、本格的な農業を営まなかった独自の自然宗教の時代(縄文時代)が一万数千年続き、しかもそれを引き継ぐかたちで弥生時代以降の歴史が展開していった、世界でもまれに見る連続性ということだろう。

神道や仏教の受け入れ、そして神道と仏教の融合(神仏習合)は、その連続性を物語っている。神道は、縄文時代以来の自然への畏敬の心をもとに生まれた。そして日本列島に住む人々は、仏教をもたらした渡来人たちと、排除しあうのではなく融合したからこそ、神仏融合も起こった。そこにあるのは、断続や断絶ではなく連続だ。

一神教は激しく他の神を排除することでなりたつ。土着の宗教との融合を拒み、それらを根こそぎにする。キリスト教は、ヨーロッパのキリスト教以前の森の文化、ケルトの文化をほぼ抹殺した。日本列島において、縄文時代以来の自然への畏敬の心を、神道として、あるいは仏教と融合した神道として受け継いできた人々にとっては、一神教は、そうした自分たちの生き方を破壊する以外の何ものでもなかった。一神教を受け入れることは、自分たちの社会や文化の成り立ちを根底からくつがえし、断絶させることだった。「家」とか個々の宗教といった個別の理由以前に、日本文化の成り立ちそのものが一神教とはそぐわなかったからこそ日本では広まり得なかったのであろう。日本人は、キリスト教を全面的に受け入れるにはあまりに深く、自然と一体となった縄文時代以来の生き方が肌身に染み込んでいたのである。

以上のことを、ほんブログの根幹である「日本文化のユニークさ8項目」に即して考えるとどうなるかは、前回ごくかんたんに示した。これまでも折に触れて語ってきたので参照されたい。

現代の社会は、ユダヤ教やキリスト教といった一神教の基盤としたヨーロッパ文明が生み出した近代文明によって影響を受け、それに席巻されているように見える。その一方で、一神教同士の対立や一神教と他宗教との対立を背景にした様々な問題も生み出している。その中で日本文化の独自性が注目されるとすれば、それはどうしてなのか。

日本は、非ヨーロッパ文明の中ではもっとも早く、近代文明の吸収と発展に成功した国である。であるにも関わらずキリスト教徒は圧倒的に少ない。「一神教が浸透しなかった最大の国」なのである。科学技術や政治・経済システムの面では近代文明を大幅に取り入れ成功を遂げながら、その文化の深層の部分では一神教を頑なに拒んでいる。そこに日本文化のユニークさと不思議さがある。おそらくそれは、農業文明以前の縄文的な心性が、現代の日本人にまで脈々と受け継がれていることから来るユニークさである。世界の大半はすでにそれを失っているがゆえに、一神教を拒みながら近代化に成功した国である日本が、ますます注目されるようになるのだと思う。

《関連図書》
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ日本はキリスト教を拒否する(2):縄文からの伝統

2017年03月16日 | キリスト教を拒否する日本
前回に引き続き、宗教学者の島田裕巳氏の「キリスト教が日本で広まらなかった理由」というウェッブ上の論文をもとに、この問題を考える。日本にキリスト教が広がらないのは、家族親族のつながりや冠婚葬祭の関係で、キリスト教の信仰をもつことが邪魔になる場合が多いからではないかと島田氏は指摘する。つまり「家」の問題こそが日本にキリスト教が広まらない大きな理由かもしれないというのだ。(同様の指摘は『日本人の人生観 (講談社学術文庫)』の中で、山本七平氏も行っているので参照されたい。101頁以降)

しかし前回の最後に触れたように、私にはこれが、日本にキリスト教が広がらなかった根底に関わるいちばん大きな理由とは思えない。たとえば、韓国の場合を例にとろう。韓国の場合にも宗族と呼ばれる一族とのつながりの問題や冠婚葬祭に関わる問題も当然あっただろう。またいきなりキリスト教徒が30%を占めるようになったわけではなく、圧倒的な少数派であった状態から始まったのだから、条件は日本とあまり変わらなかったはずである。ではなぜ韓国ではキリスト教が広まり、日本ではそうではなかったのか。そうなった日本独自の理由こそが明らかにされるべきなのだ。(韓国のキリスト教との比較についてはいずれ触れてみたい。)

次に島田氏が、「キリスト教が日本で広まらなかった理由」として挙げるのは神道と仏教の存在である。東南アジアのなかで唯一のキリスト教国がフィリピンであり、ここにキリスト教が伝えられたのは日本と同じ十六世紀だという。しかも現代、この国のキリスト教徒の割合は9割を越え、大半がカトリックである。

同時期に伝わりながら、二つの国で対照的な広まり方になったのは、フィリピンには、インドのヒンズー教や中国経由の仏教などの影響をほとんど受けなかったことが影響しているという。日本では仏教や神道がキリスト教を阻む壁になっただが、フィリピンにはそのような壁がなかったというのだ。

しかしこの理由もあまり説得力を持つとは思えない。先ほど例に出した韓国の場合も、大陸から儒教も仏教も伝わっているが、キリスト教徒の割合は日本よりはるかに多い。儒教や道教や仏教など大陸の宗教の影響が圧倒的である台湾でさえ、キリスト教徒の割合は4.5%であるという。日本の1%以下という数字はやはり際立って少なく、島田氏が挙げる理由のいずれも、この特異性の根本的な説明にはなっていないと思う。

ではその根本的な理由とは何なのか。私は、このブログで追求し続けている「日本文化のユニークさ8項目」のほとんどが、相互に関連し合いながらその理由になっていると思う。8項目とは以下のようなものであるが、ここでは、それぞれの項目がなぜキリスト教が広まらない理由になっているのかについてごく手短に触れるにとどめたい。今後、項目ごとに本格的に論じたいと思う。また、これまでにもこのブログ内の項目に沿ったカテゴリー内で折に触れて論じているので興味があれば参照されたい。

(1)「漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。」
一万数千年続いた縄文時代は、磨製石器や土器を使用しながら本格的な農業は営まないという、世界史的にもきわめてユニークな時代であった。それだけ自然に恵まれ自然に依存し、自然と一体化した時代の記憶が日本人の心性の根底にあり、その心性こそが砂漠や遊牧を基盤として生まれた一神教を拒絶するのである。

(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。」
世界史にもまれな特異な形での長い縄文時代とそれに続く稲作の時代は、母なる自然の恵みへの思いを基盤とした母性原理の宗教と文化を形作った。それが、砂漠や荒野を中心とした厳しい自然の中で生まれた父性原理の宗教への違和感を生むのである。

(3)「ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。」
ユーラシア大陸の大部分は、穀物と同時に牧畜や遊牧に深く根ざした文化を形成した。食用に家畜を育て、管理し、食べることが人間の食生活の重要部分をなすのだ。聖書を少し読めば、神と人との関係を人の家畜との関係に例えて語ることがいかに多いかがわかるだろう。本格的な牧畜を知らなかった日本人には、キリスト教を含む一神教のそうした発想が肌に合わないのだ。

(4)「大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。」
アジア・アフリカ・南北アメリカの多くの地域は、多少ともヨーロッパの植民地支配を受け、その地域に深く根ざした言語や文化が時には根絶やしにされ、歪められ、あるいは片隅に追いやられたケースも多い。またヨーロッパでも農耕以前の文明が継承されたケースは少ない。日本の場合は、その地理的な幸運もあって、縄文時代以来の母性原理に根ざした文化や言語が現代にまで多かれ少なかれ継承されている。

(5)「大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明の負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。」
良い面だけをひたすら吸収できたと同時に、自分たちの文化的伝統に合わないものは選ばないという選択の自由があったのである。だからこそキリスト教をはじめとする一神教は選ばれなかった。植民地支配を受けた国(たとえばフィリピン)では、支配者の宗教が現地の人々に与える影響は、植民地支配を受けなかった国に比べはるかに大きいであろう。

(6)「森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。」
この項目の前半(豊かな自然の恩恵)部分は、(2)の項目で述べたことと重なるので繰り返さない。後半部分は今回のテーマとの関係が薄いのでここでは触れない。

(7)「以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。」
「以上の理由」の中でいちばん大きいのは「異民族により侵略、征服された体験」がないことであろう。異民族の侵略に出会えば防衛上、異民族の宗教よりも自分たちの宗教の方が優れていることを示すため、その理論化や体系化を強いられる。キリスト教国家による侵略の危険に晒されれば、自分たちの宗教もそれに対抗しうる理論化を果たさなければならない。日本人にはその必要がなく、ただ肌に合わないからと拒否すれば済んだのである。

(8)「西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。」
その理由こそが、これまでにかんたんに説明した「日本文化のユニークさ」の各項目だったのである。

以上の説明は、各項目に添ってごくかんたんに述べたものに過ぎない。説明はきわめて不十分なものなので、いずれ一項目ごとに本格的に、キリスト教が広まらなかった理由との関係で論じてみたい。

《関連図書》
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ日本はキリスト教を拒否する(1):「家」の壁?

2017年03月07日 | キリスト教を拒否する日本
日本にキリスト教が広まらなかった理由をテーマとして扱った本を私はほとんど知らない。一冊だけ『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか―近代日本とキリスト教』(古屋安男)というタイトルの本があり、このブログでも取り上げた(★日本がキリスト教を受け入れないのはなぜ?)が、本の一章がこのテーマを扱うのみで、しかも牧師としての布教の立場から表面的に考察しているに過ぎない。

ウェッブ上では、宗教学者の島田裕巳氏が「キリスト教が日本で広まらなかった理由」というタイトルで論じているが、それほど長い論文ではない。今回は、この論文に触れつつ考えたい。

島田氏は、「日本のキリスト教徒はカトリックとプロテスタントを合わせても百万人程度で、人口の1%にも満たない」という事実にまず触れる。イスラム教となれば、日本人の信者は一万人程度で、要するに、世界に一神教を信じる人間がこれほど少ない国はほかになく、
「日本は一神教が浸透しなかった最大の国」であると指摘する。

しかも、キリスト教系の知識人・文学者が、曽野綾子氏などを除くとほとんどいなくなった。一時は一つの文学ジャンルを形成していたキリスト教文学はほぼ消滅しつつある。キリスト教は、「日本で信者を増やせなかったばかりか、知的な世界における影響力さえ失いつつある」という。

その上で島田氏は、「なぜこれほどまでにキリスト教は日本で受け入れられなかったのか。日本のキリスト教史を考える上で、それはもっとも重要な疑問であり、課題である」という。確かにそうなのだが、私はこの問いが、日本のキリスト教史の課題に限られるものとはとても思えない。「日本とは何か」という問の根本にかかわるものだと思う。日本文化の独自性とは何かという根幹にかかわる問いなのだ。

現在の世界ではいま、経済発展の著しい国を中心にプロテスタントの福音派が信者を増やしているという。キリスト教徒が30%を占めるようになった韓国でもそうだし、中国でささえ、地下教会という形で福音派が伸びているというのだ。

ところが日本では、経済発展が目覚しかった戦後その勢力を拡大したのは、創価学会や立正佼成会など、日蓮系の新宗教だった。創価学会は、経済発展が続く国々で福音派が果たしていることと同じことをやっていった。これでは福音派が日本に入り込む余地はない。つまり日蓮系の新宗教の活躍こそが、戦後も日本にキリスト教が拡大しなかったひとつの理由だと考えているようだ。

ただ、なぜか日本にはミッション・スクールの数が多い。宗教を背景とした学校849校中、565校がキリスト教系で、全体の66.5パーセントを占めるという。しかもカトリック系の学校を中心に熱心に宗教教育が行われており、学生・生徒に礼拝への参加を義務づけているところもあるという。しかし、生徒が洗礼を受けてキリスト教徒になる例はそれほど多くはない。つまり布教には成功していないのである。
 
それはなぜか。ミッション・スクールに子どもを通わせる親は、キリスト教の信者でないことが多い。そもそも信者数が少ないからだ。つまり卒業生の多くは、家族や親族のなかにキリスト教の信者がいない。しかもミッション・スクールに子どもを行かせる家は、家族親族のつながりが強く、冠婚葬祭の機会も多い。その関係で、キリスト教の信仰をもつことが邪魔になる場合も多く出てくる。それで信者が増えていかないのかもしれないと島田氏は指摘する。

この「家」の問題こそが日本にキリスト教が広まらない大きな理由かもしれないと島田氏は考えているようだ。「明治以降、キリスト教に入信するというときに、入信者の多くは若い世代であり、彼らは、自らは信仰を得ても、それを家族にまで伝えていくということができなかった。」彼らもやがて家庭をもち、冠婚葬祭かかわれば、キリスト教は邪魔になる。「日本人の宗教が、家を単位としてきたことが、キリスト教の拡大を妨げる大きな要因になっていた面がある」と島田氏はいう。

これは確かに重要な指摘だと思う。しかし、これとても日本文化の根底に横たわる独自性まで触れた説明になっていない。私は、日本にキリスト教が広まらない理由は、このブログのテーマである「日本文化のユニークさ8項目」のほとんどにかかわる問題だと思う。島田氏は、もうひとつの理由として神道や仏教との関係を挙げているが、この問題も含めて、次回にさらに突っ込んで考えてみたい。

《関連記事》
これまでこのブログで行った「なぜ日本にキリスト教が広まらないか」についての記事については、
★「キリスト教が広まらない日本」というカテゴリーを設けている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マンガに救われ人生を変えたアメリカ人

2017年03月06日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『日本のことは、マンガとゲームで学びました。

前回取り上げたフランス人、トリスタン・ブルネ氏も日本のアニメやマンガに大きく影響されて人生の方向を決定づけ、やがて日本に住むようになった人だが、今回取り上げるアメリカ人、ベンジャミン・ボアズ氏もまたマンガやゲームで育ち、やがて「麻雀」に出会ってとりつかれ、大学で麻雀をテーマに研究し、日本で幅広く活躍するようになった人だ。

この本は、そんな彼がどのようにして日本のポップカルチャーにはまり日本の魅力に目覚めていったかをマンガを中心に描き、時折短いエッセイをはさんで紹介する。「日本のことはほとんどマンガやゲームで学んだ」、「ボクの血の半分は日本のポップカルチャーでできている!」と断言するほどののめり込みようだ。

なにしろ4歳でスーパーマリオにはまり、14歳で『らんま1/2』に初恋、日本語のマンガ・ゲームを楽しむために、伝統あるアメリカの高校で仲間と運動して日本語クラスを創設、そして、20歳のときチベットで麻雀と出会い、東大・京大大学院で麻雀研究論文執筆したという行動派の「オタク」だ。そのハマりようがどれほどであったか、マンガによる数々のエピソードで楽しく読める。

その中のひとつのエピソード。20歳になる前、彼は深刻な人生の谷間に落ち込んだ。両親の離婚や他にも様々な問題をかかえ、大学も休学して目的も将来も見失っていた。感情というものを失い、暗い屋根裏でひたすらゲームやマンガで過ごすゾンビのような毎日。そんなとき偶然出会ったのが、「西原理恵子先生」の『はれた日は学校をやすんで』だったという。中学生くらいの少女の話で、日本語のセリフはあまり理解できなかったけど、「この人はボクの気持ちがわかる」と、なぜか思って涙が止まらなくなった。彼は聖書のようにその本を持ち歩くようになり、犬が死んでしまう話を読む度に必ず声をあげて泣いた。この本で自分の中の「悲しい」という感情を取り戻したというのだ。

その後、危機を脱出するためチベットで一人修行したときも、そのマンガをずっと読んでいた。そのチベットで麻雀と出会い、やがて日本に来て「西原理恵子先生」のマンガを探しているとき、彼女の『まあじゃんほうろうき』を発見。そこから日本の「麻雀マンガ」というジャンルに出会い、その専門性や、麻雀がからんだ複雑なストーリー展開に驚愕する。さらに日本に「雀荘」という世界があるのを知り、あとはもうその世界にのめり込むほかなかった。復学したアメリカの大学では日本の麻雀文化をテーマに論文を仕上げ、さらに京都大学大学院でも「麻雀と社会」をテーマに研究したという。

そしてついに、人生の危機脱出のきっかけを与えてくれた「西原理恵子先生」と、ある麻雀大会で感激の対面を果たしたという。一人の日本人のマンガ家の作品が、こうして彼の人生を救い、彼の人生を決定づけていったことを思うと、なにか不思議な感じだ。ともあれ、半端なくマンガやゲームや麻雀にのめり込んだ男の半生を描くマンガは、日本のポップカルチャーの影響力を物語るひとつの例ととしても興味深い。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイデンティティ危機:アニメがフランスに与えた「共感」と「恐れ」(4)

2017年03月05日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
◆『水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす

フランス人から見た日本のイメージには両極端があるという。日本はまず遥か遠い国という圧倒的な距離を感じさせるが、その距離は良い方にも悪い方にも作用する。良い方に転じたとき、日本はとてもエキゾティックで、自分たちとは異なる価値観や深い文化を持った国と見える。浮世絵に触発されてジャポニズムがフランスを席巻した背景にはそれがあり、そのイメージは今に引き継がれているだろう。

他方、その距離感が悪い方に転じると、自分たちには理解できない不気味な国となる。日本を非人間的な国と感じる人は、著者が子どものころにもかなりいて、日本人はロボットみたいに感情がないとうステロタイプの偏見がとても強かったという。こうした否定的な印象と深い文化を持つ国という肯定的な印象とが状況毎に入れ替わるのが一般的なフランス人だという。ジャパンバッシングは、その否定的なイメージが前面に出た事件だったともいえよう。

ところで、これまで見てきたように日本のアニメやマンガは、かつてフランスに存在しなかった価値観や世界観を読者に与えたからこそ支持され、共感されてきた。しかしそれは、フランス社会に馴染むことのできない若者たちの格好の避難場所にもなっているのではないか。毎年パリで盛大に催され近年は20万人を超える来場者がある「ジャパンエキスポ」は、日本でもよく知られるようになった。そこに集まる若い世代は、コスプレやヴィジュアル系の格好など何の躊躇もなく楽しみ、無批判に日本のマネをしていると著者はいう。

日本人の場合は、「オタク」であろうと日本人であることに変わりなく、日本の中でほとんど無自覚にそのアイデンティティを保つことができる。むしろ「こんな作品が読める国に生まれてよかった」と自分のナショナル・アイデンティティを強化することもありうる。

しかしフランスのオタクは、オタクであることによってフランスという文化秩序の外に出てしまう可能性がある。日本人は日本のサブカルチャーにどっぷり浸かってもアイデンティティ危機には陥らないけれど、フランス人の場合はそれがアイデンティティの危機を招くこともあるというのだ。「ジャパンエキスポ」などで無邪気に得意げにコスプレする若者には、一種の逆ナショナリズムの態度があるのではないか。フランスの価値観に合わなければ日本に合わせ、日本にどっぷり浸かればいい。そう思うことでそこを避難場所にし、依存する。日本の過度な理想化には、フランス社会に居場所がない若者たちのアイデンティティの危機という問題が潜んでいるのではないか。

著者自身、これは少し大げさな見方かも知れないと断っているが、逆にいえばそういう危惧を感じざるを得ないほどに、日本のサブカルチャーの影響が大きくなっているということだ。これはフランス国内の問題だと片付けることもできるが、私たちにとって大切なのは、この問題も含めて全体として日本のアニメやマンガがフランスや世界にどれほど大きな影響を与えているかを、過大にも過小にも偏らずに理解することだと思う。この本は、フランスのオタク第一世代を自認し歴史家としての分析力を持つ著者が、自分のアニメ体験とフランス全体での出来事を適度に交差させつつ広い視野から語っており、その意味でも重要だと思う。

本ブログでは、日本のマンガ・アニメの発信力の理由を以下の視点から考えてきた。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが豊かな想像力を刺激し、作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の独自性。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

⑤知的エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

今回取り上げた本は、日本のアニメやマンガのとくに上の④や⑤に関係する特徴を著者の体験を踏まえつつ語っている。日本の巨大な庶民階層の価値観とは、契約よりも信頼を重視し、敵対する相手にも何かしら共感し和解し合える要素を見出そうとするものであり、フランスの子供や若者は、そうした価値観が反映したアニメやマンガに、自国の作品に感じ得ない「共感」を見出したのであった。

《関連記事》
日本のポップカルチャーの魅力(1)
日本のポップカルチャーの魅力(2)
子供観の違いとアニメ
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
マンガ・アニメの発信力の理由01
マンガ・アニメの発信力の理由02
マンガ・アニメの発信力の理由03
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1) ※1
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1) ※2
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(1)
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(3)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(1):「かわいい」
マンガ・アニメの発信力と日本文化(2)融合
日本発ポップカルチャーの魅力01:初音ミク
日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義
マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(5)庶民の力
マンガ・アニメの発信力:異界の描かれ方
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(3)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)
マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする