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日本の秘密「造り変える力」(3)

2013年09月25日 | いいとこ取り日本
馬淵睦夫氏の『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力』に刺激され、氏のいう日本文化の「造り変える力」の源泉がどこにあるのかを探る気になった。このブログでは、日本文化のユニークさを8項目の視点から考え続けているが、結局、日本文化の「造り変える力」の大元もここにありそうな気がする。以下8項目に沿いながら「造り変える力」の源泉を追う。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

これらに関しては前回すでに書いたが、(1)に関して少し付け足しておきたい。現代日本人に縄文人の心性が地下水脈のようにして受け継がれている。その事実がどうして日本人の「造り変える力」に関係があるのか。

たとえばケータイにストラップをつけるのは、日本以外ではあまりない。海外では、ケータイは単なる機械だという。しかし日本人は、そこに自分の気持ちを入れる、命を与える。現代の若者はケータイにストラップをつけることを、ただそうしたいから、そうしないと何となく物足りないと感じるからやっているのだろう。しかし、そこに日本人の伝統的な心が働いている。

そういう傾向が、今すこしずつ復活している。ネイルアートも「痛車」も「初音ミク」もそういう傾向の表れかもしれない。ヴォーカロイド「初音ミク」とCGによるこだわりのコラボは、コンピューターのプログラムによってまさに命を吹き込む作業で、かつての職人の心、もっとさかのぼれば縄文人の心が、現代の最先端によみがえっているのかもしれない。

菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』で著者アン・アリスンも次のように言う。日本人はケータイに、ブランド、ファッション、アクセサリーとして多大な関心を払い、ストラップにも凝ったりする。そうしたナウい消費者アイテムにも、親しみ深いいのちを感じてしまうのが日本人のアニミズムだ。このように機械と生命と人間の境界があいまいで、それらが新たに自由に組み立て直されていく、日本のファンタジー世界の美学を著者は「テクノ-アニミズム」と呼ぶ。日本では、伝統的な精神性、霊性と、デジタル/バーチャル・メディアという現代が混合され、そこに新たな魅力が生み出されているのだ。

世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)』の基本コンセプトは、オタク文化と製造業の融合だったが、それを一言でいうならまさに「テクノ-アニミズム」ということになるだろう。かつての「たまごっち」というサイバー・ペットの世界的な流行も、日本的な「テクノ-アニミズム」が世界に受け入れられていく先駆けだったといえなくもない。

以上のいくつかの例が示しているのは、現代の最先端のテクノロジーと農耕文明以前の、人類の最古層の心性との、他国ではありえない驚くべき結びつきである。その意外な組み合わせから、世界から見て思いもよらぬアイディアや製品が生まれてくるのだ。農耕文明以前の文化の記憶は、ユーラシア大陸ではほとんど失われてしまっている。ヨーロッパも中国も、お隣の朝鮮半島でさえその例外ではない。だからこうした組み合わせによる発想自体が、日本以外では生まれようがないのだ。そこに日本人の「造り変える力」の一つの秘密がある。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

ユーラシア大陸に比し、日本列島に生きた人々が古来、本格的な牧畜を知らなかったことは、日本文化のユニークさを特徴づける大きな要素になっていると思う。縄文人が牧畜を取り込まなかったのか、弥生人が牧畜を持ち込まなかったのか。いずれにせよ牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、ユーラシア大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧民が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

牧畜を行う地域では、人間と家畜との間に明確な区別を行うことで、家畜を育て、やがて解体してそれを食糧にするという事実の合理化を行う傾向がある。人間と、他の生物・無生物との境界を強化するところでは、縄文人がもっていたようなアニミズム的な心性は存続できないのだ。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し次のような特徴を持った。

①牧畜による森林破壊を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
②宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
③遊牧や牧畜と密接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
④遊牧や牧畜を背景にした、人間と他生物の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。
(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

次に異民族の侵略、征服を免れた日本という側面から、日本の「造り変える力」を探ってみよう。日本が大陸から適度に離れた島国であることは、日本文化に二つの特徴を与えた。

ひとつ目、日本は大陸の文化を侵略などによって押し付けられたことがなく、自分たちの必要に応じて「いいとこどり」(堺屋太一)することができたことだ。日本人は中国の文明も、間接的にインドの文明も、下っては西欧の文明も、抵抗なくむしろ憧れをもって自由に選んで受け入れていった。そして、他文明の原理原則にこだわらないから、さまざまな文明の要素をくったくなく併存させていったのである。おそらくそれは自分たちの縄文的心性を犯さない限りにおいてであった。だからあれほど熱心に西欧文明から学び取りながら、一神教そのものはほとんど拒否したのである。

自文化のアイティティを根底から脅かすものはほとんど無意識に拒否するという強固な傾向により、一神教だけではなく、奴隷制も宦官も科挙も日本には入ってこなかった。しかし、一度取り入れたものは、その背景にある原理原則にこだわらず自由に組み合わせて、そこから独自のものを生み出すことができた。それぞれの文化の背景にある宗教やイデオロギーに縛られずに、さまざまな要素を融合させてしまう柔軟さは、現代のポップカルチャーにもいかんなく発揮されている。例を挙げればきりがないが、たとえば宮崎駿のアニメ作品のなかにどれだけ神道的な要素や古代中国的な要素や西欧的な要素が融合しているかを見ればよい。

さて、日本が島国であることからくる二つ目の特徴は、日本が異民族による侵略がほとんどない平和で安定した社会だったというこである。異民族に制圧されたり征服されたりした国は、征服された民族が奴隷となったり下層階級を形成したりして、強固な階級社会が形成される傾向がある。たとえばイギリスは、日本と同じ島国でありながら、大陸との海峡がそれほどの防御壁とならなかったためか、アングロ・サクソンの侵入からノルマン王朝の成立いたる征服の歴史がある。それがイギリスの現代にまで続く階級社会のもとになっている。

異民族に制圧されなかったことが、日本を相対的に平等な国にした。異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となり、そういう信頼を前提とした庶民文化が江戸時代に花開いたのだ。

江戸の庶民文化が花開いたのは、武士が、権力、富、栄誉などを独占せず、それらが各階級にうまく配分されたからだ。江戸時代の庶民中心の安定した社会は世界に類をみない。歌舞伎も浄瑠璃も浮世絵も落語も、みな庶民が生み育てた庶民のための文化である。近代以前に、庶民中心の豊かな文化をもった社会が育まれていたから、植民地にもならず、西洋から学んで急速に近代化することができたのである。(中谷巌『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)

幕末から明治初期にかけてヨーロッパとくにフランスを中心としてジャポニズムと呼ばれる現象が巻き起こった。これもまた、江戸時代の豊かな庶民文化が背景にあり、庶民の生活から生み出された浮世絵や工芸品だったからこそ、当時のヨーロッパ市民階級の共感を呼ぶものがあったのである。

現代の日本も、江戸時代の庶民文化のあり方を引き継いでいる。近年、貧富の格差が拡大したとはいえ、世界の他地域に比べるとまだまだ階級差の少ない社会を形成している。とくに知的エリートと大衆との間の格差が少なく、教養の高い圧倒的多数の大衆が日本の社会を支え、また日本人の創造性の基盤となっている。「初音ミク」が新たな潮流になりつつあるのも、プロではない無数の人々が作曲し、CGを作り、協力しあいながら作品を作り上げていくからだろう。大衆相互の切磋琢磨が、日本人の「造り変えて新たなものを生み出す力」のひとつの源泉となっている。

ここまでの議論をまとめよう。まず日本人の縄文的な古層と現代の最先端のテクノロジーという類を見ない組み合わせが、創造性のひとつの源泉となっている。しかし、それだけではなく、その古層の上に、中国文明やインド文明や西欧文明のさまざまな要素が自由に融合されていった。そして、それらを学びとり、消化し、そこから自由な発想で新しいものを生み出すことのできる層の厚い大衆がいた。これらの特徴は、現代にまで引き継がれ、複合的に働くことで現代日本人の文化的な活力を形づくっている。

(6)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。
(7)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。
(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

以上の3項目については、合わせてかんたんに触れておきたい。

日本では、国内に戦乱はあったにせよ、規模も世界史レベルからすれば小さく、長年培ってきた文化や生活が断絶してしまうこともなかった。異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となったし、文化の活力となった。

一方で自然災害による人命の喪失は何度も繰り返された。しかし、相手が自然であれば諦めるほかなく、後に残されたか弱き人間同士は力を合わせ協力して生きていくほかない。東北大震災の直後に見せた日本人の行動が、驚きと賞賛をもって世界に報道された。危機に面しても混乱せず、秩序を保って協力し合う日本人、それは日本の歴史の中で何度も繰り返されてきた日本人の姿であった。地震を筆頭に 日本の自然は不安定であり、 いつも自然の脅威にさらされてきた。それが日本人独特の 「天然の無常観」(寺田寅彦)を生んだ。その無常観が、絶対的なイデオロギーを信じない、日本人の相対主義を強めたのかもしれない。

日本は、異民族との激しい闘争をほとんど経験してこなかったために、儒教であれれキリスト教であれ、宗教による強力な一元的支配を必要としなかった。イデオロギーなしに自然発生的な村とか共同体に安住することができた。強力な宗教やイデオロギーによる社会の再構築を経ず、村的な共同体から逸脱しないで、それをかなり洗練させる形で、大きくしかも安定した、高度な産業社会を作り上げてしまった。ここに日本のユニークさと創造性のひとつの源泉がある。

西洋人は、そしてユーラシア大陸の多くの民族も、宗教やイデオロギーのような原理・原則の方が優れていると思っている。ところが日本人は、イデオロギー的な宗教支配なくして、とくにキリスト教なくして、キリスト教から派生したはずの近代国家を形成した。農耕文明以前の、自然崇拝的な精神を基盤としたまま高度産業社会を発展させた。

この事実は、文明史的な観点からいってもきわめて特異なことだろう。その特異さは、文化的な観点からいってもきわだっている。宗教などによる一元的な価値観の支配なくして高度に現代的な社会を営み、しかも世界のあらゆる文化的アイテムを相対化して自由に使いこなしながら、相対主義的な価値観にたった作品を次々の生み出してく。

一元的な宗教を基盤とし、多少なりともハードな統合性をもった文化から見ると、日本のポップカルチャーはどこか無原則的に見えだろう。しかし、その何でもありの柔軟性や融合性の中から思いがけない発想の作品が生まれてくる秘密があるのだ。堅固な宗教的基盤を背景にする国々は、日本のアニメやマンガに接すると、自分たちがよって立つ文明原理を根底から揺さぶり動かされるような衝撃と、同時に魅力を感じるのかもしれない。

マンガ・アニメの創造性と相対主義的な価値観との関係は次の記事を参照されたい。

マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義
マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)
ジャパナメリカ02


《関連記事》
『日本力』、ポップカルチャーの中の伝統(2)
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『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(1)
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『日本力』、ポップカルチャーの中の伝統(2)

《関連図書》
★『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること
★『格差社会論はウソである
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
★『日本の曖昧力 (PHP新書)
★『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力
★『世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)
★『日本型ヒーローが世界を救う!
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)

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日本の秘密「造り変える力」(2)

2013年09月23日 | いいとこ取り日本
◆『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力

引き続きこの本に触れながら日本文化の「造り変える力」の秘密を追ってみたい。著者は、日本が太古の昔から積み重ねてきた文明は、伝統的価値観である「和」の原理と「共生」の思想を核とするといい、そこに「造り変える力」の源泉を見る。この二つの価値観が外国の文物を取り入れる取捨選択の規準となるというのだ。これらの価値観に合わないものは、たとえ日本に導入されたとしても根づくことはない。または日本の実情に合ったものへと造り変えられてしまうのだ。とすれば「造り変える力」とは正確に言えば、海外から取り入れたものを自分たちの社会や文化に合うように変形する力だといえるだろう。

著者は、日本人は古来、国外から移入したものが日本の社会に合うかどうかを判断する「本能的感覚」をもっているという。日本の根本原理に合わないものは、不自然なものとして排除や造り変えが行なわれる。日本という社会の根底を揺るがす事態に直面したとき、この「皮膚感覚」が働いて、日本という国を守ってきたいうのだ。

私もこの見方に心から同意する。私たちの「皮膚感覚」が健在であるかぎり、日本が何らかの危機に陥っても、再びもとの日本へと戻ることが出来るのではないだろうか。たとえばグローバリズムやTPPなどによって極端な市場原理主義や新自由主義の経済が蔓延したとしても、これは「和」と「共生」の原理に合わないと「皮膚感覚」で感じるかぎり、再び排除するか、日本人の肌に合った共生の資本主義へと変えていく可能性があると思う。もちろん最初からそれらに侵されないに越したことはないが。私たちの「本能的感覚」がまだ生きていて働いてくれるかどうかだ。

さて、「本能的感覚」や「皮膚感覚」という形で日本人が無意識のうちにもっている根本原理とは何なのか。「和」や「共生」といってもいいが、少し漠然としすぎている。そこで、これまでこのブログで追求してきた、日本文化のユニークさ8項目に沿って検討しよう。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

日本人が、自分たちの文化の根本原理に合うかどうかを本能的に嗅ぎ分ける規準は、おそらく縄文時代以来受け継いできた深層の記憶だ。本格的な農業を伴わない新石器文化という、世界的にも特異な縄文文化を、私たちの祖先は1万年以上生きてきた。新石器時代の人類としては類を見ない、本格的農耕を伴わない「自然との共生」を、世界の他地域よりも驚くほど長期にわたって保ち続けていたのである。その体験の記憶が、私たちの価値観の根底に生きていたとしても不思議ではない。

今に至るまで生き続ける縄文時代の記憶。そのひとつは、豊かな「自然との共生」を基盤とする宗教的な心性である。たとえば、現代の日本人がもっている「人為」と「無為」についての感じ方をみよう。日本人は傾向として、意識的・作為的に何かを「する」ことよりも、計らいはよくない、自然のまま、あるがままの方がよい、という価値観をかなり普遍的に共有していないだろうか。私たちの美意識の中にもそういう傾向が色濃く残っていて、けばけばしい作為的、人工的な美よりも、自然にかぎりなく近い、計らいのない美しさにひかれる。

こうした傾向は、老荘思想や仏教の影響から来ているともいえなくもないが、それ以前の私たちの祖先の生活がつよく影響しているのではないか。農耕という、ある意味で作為的な営みよりもはるかに長く、自然と「共生」する生き方を続けていた縄文人の記憶が、弥生時代以降も残り続け、それが老荘思想や仏教思想と共鳴し、現代人の心の中にまで連綿と受継がれてきたのではないか。

ふたつには、農耕の発達にともなう階級の形成や、巨大権力による統治を知らない平等な社会が1万数千年も続いたことから来る強い平等意識である。縄文時代は、素朴で平和な共同体を営み、支配・被支配の関係がほとんどない平等社会だった。たしかに縄文中期以降は、階級差を示唆する遺跡も存在するが、巨大権力は生まれなかった。それは、先に見たように縄文社会が妻問婚に基づく女系社会だったことによるのかもしれない。自然に恵まれ山海の幸が豊かだったため、穀物農業をあえて受容せずに済んだからかもしれない。穀物は貯蓄が容易なため貧富や階級差が生まれやすいのだ。いずれにせよ、階級差の少ない長い平和な時代の体験が、その後の日本に何らかの影響を与えていったのは確かであろう。

縄文時代の記憶が、のちの時代に生き残っていった理由は次のようなものだろう。第一に、縄文時代から弥生時代への移行が、弥生人による縄文人の征服、縄文文化の圧殺という形で行われたのではなく、両者の融合というかたちで進んだこと。そのため縄文文化が濃厚に引き継がれたのである。第二に、日本列島は、国土の大半が山林地帯だったこと。日本の水田稲作の特徴は、狭小な平野や山間の盆地などで、ほぼ村人たちの独力で、つまり国家の力に頼らずに、灌漑設備や溜池などを整備してきたことだ。つまり巨大な権力やその維持のための強力なイデオロギーは必要なく、そのため縄文時代以来のアニミズム的心性や平等主義の文化が圧殺されにくかったのである。

こうして、縄文人の一万数千年の記憶が日本人の心の中の生き続けた。またそれが無自覚の規準となって、その基準に合わないものは排除したり、変形したりしようとする原動力となったのであろう。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

縄文時代の母性原理の社会という特徴は、つい最近も論じたばかりなのでここでは繰り返さない。「自然との共生」とは、「母なる自然」の懐に抱かれて生きるという意味である。縄文以来の母性原理を基盤にした文化は、現代に至るまで私たちの心の中に連綿と続いている。そしてこれもまた私たちの内面で強烈なフィルターとなっていて、あまりに父性原理的な制度や文化には、拒否反応を示す。キリスト教が日本でほとんど広まらないのは、その強烈な父性原理のためだともいえよう。

さて、8項目のうち残りの(3)~(8)ついては、次回に回すことにしたい。

《関連記事》
現代人の心に生きる縄文01
現代人の心に生きる縄文02縄文語の心
平等社会の根は縄文か:現代人の心に生きる縄文03
縄文の蛇は今も生きる:現代人の心に生きる縄文04

《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架

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日本の秘密「造り変える力」(1)

2013年09月22日 | いいとこ取り日本
◆『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力

著者は、ウクライナ兼モルドバ大使をはじめ、イギリス、インド、イスラエル、タイ、キューバでの勤務経験をもつ外交官である。その豊富な外国経験から、多くの発展途上国が共通に、日本から是非とも学び取りたいと思っていることがあるのを知ったという。それは、日本がどのようにして近代化と文化のアイデンティティを両立させながら経済的繁栄を成し遂げたがということである。世界、とくに発展途上国から見ると、日本が日本らしさを失わずに近代社会を築いたことが奇跡と見えるらしい。生活水準は向上させたいが、伝統的な人間関係や共同体も失いたくない。日本はどのようにしてこの二つを両立させることができたのか。

その秘密を著者は、日本が古くからもっている「造り変える力」にあるとみる。それは西欧文明に代表される「破壊する力」に対比される。「破壊する力」は、一神教の対立的世界観に基づく権力政治の論理であり、西洋の植民地主義にみられる弱肉強食の論理である。16世紀のスペインによるラテン・アメリカの征服が、いかに残虐な「破壊する力」を行使したか、いまさら語るまでもないだろう。

こうした西欧の「破壊する力」に対し、日本人の「造り変える力」は、能動的な破壊力や攻撃力ではなく、一見消極的で受け身にみえる。しかし結果としてとてつもない力を発揮する。それは、外来の文物を受け入れながら、そのまま導入するのではなく、日本の伝統にあった形に変えて受け入れていく力である。しかも多くの場合、元の物より優れたものに改良してしまうのである。

たとえば中国文明を受容するにしても、そのままではなく独特の「造り変え」を行った。漢字という文字の体系をそのまま受け入れるのではなく、訓読したり仮名文字を発明したりして、あくまでも日本語の体系の中で使いこなしていった。長安の都市構造を真似ながら長安にあった強固な城壁は省略した。儒教を学びながら科挙は受け入れなかった。宦官も纏足も受け入れなかった。仏教を受け入れる際も、本地垂迹説や神仏習合思想によって神道と共存する形に「造り変え」を行った。

明治以降は、あれほど熱心に物心両面にわたって西欧文明を受け入れながら、その中核をなすキリスト教の信者は、総人口の1パーセントを大きく超えることはなかった。いわゆる「和魂洋才」だが、もちろん洋魂を無視したわけではない。洋魂も洋才も日本の伝統や習慣に馴染むように「造り変えた」のである。

(なお、本ブログでも、日本でキリスト教が広まらなかった理由を何度も考察してきた。その代表的なのは以下のものである。参照されたい。→キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01

この「造り変える力」はどこから来たのか。著者はフランスの駐日大使だったポール・クローデルの言葉をかり、日本は太古の昔から文明を積み重ねてきたからこそ、欧米文化を導入しても発展することができたのだという。つまり、明治初期の日本文化の水準が欧米文化を吸収して自分なりに消化できるレベルに達していた。さらに、日本文明がすでに高度な文明だったからこそ、欧米文化に一方的に圧倒されることなく、それを上手に独自な形で摂取し、発展させることができたというのである。

確かにその通りだろうが、これだけではもう一つ大切な要素が抜け落ちていると私は思う。実はこれについても本ブログでずいぶんと考察してきた。たとえば以下の考察である。

『日本辺境論』をこえて(1)辺境人根性に変化が
『日本辺境論』をこえて(2)『ニッポン若者論』
『日本辺境論』をこえて(3)『欲しがらない若者たち』
『日本辺境論』をこえて(4)歴史的な変化が
『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら
『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力
『日本辺境論』をこえて(7)ポップカルチャーの発信力
『日本辺境論』をこえて(8)日本史上初めて
『日本辺境論』をこえて(9)現代のジャポニズム

日本は「辺境」の島国であったために、これまで「世界標準」や「普遍的な文明」を生み出すことはなかった。大陸で生まれた「世界標準」をひたすら吸収してきた。そうやって形成された日本の文化は、「受容性」を特徴としていた。それは、もっぱら「師」から学ぶ姿勢で吸収し続けることである。そうやって中国文明を吸収し、それを自分たちの伝統に添う形で洗練させ、高度に発展させてきた。異民族に侵略・征服された経験をもたない日本は、海の向こうから来るものには一種の憧れをもって接した。そして外来の優れた文物(自分たちにとってプラスになるという意味で)だけをいいとこ取りして、利用することができた。西欧諸国による侵略を免れた日本は、かつて中国文明に接したときと似たような態度で、西欧文明に憧れ、その優れたところだけ(自分たちに必要なところだけ)を吸収することができたのである。

これに対して中国やインドはどうであったか。それらはいずれも「辺境」ではなく、かつて「世界標準」を発信した誇り高き文明であった。しかも近代、西欧文明の「破壊する力」の犠牲となり、その負の面をも実感として嫌というほど知っていた。だから「辺境日本」の如き、純粋な少年が崇拝する師に憧れ、夢中で師から学び取ろうとするような姿勢は取りえなかった。師を仰ぎみる純粋な少年と、その「破壊する力」にかつての栄光を粉々に打ち砕かれた年配者とでは、その吸収力に雲泥の差があったとしても不思議ではない。

もう一度、最初の問いに戻ろう。日本人が、外来の科学や文化を日本の伝統や習慣に合わせて「造り変える力」はどこから来るのか。実は、この問いヘの答えは、本ブログが、日本文化のユニークさを8項目の視点として論じてきた、ほとんどすべての項目に関係していると思う。次回は、この8項目との関連で、日本人の「造り変える力」の秘密をさらに詳しく追ってみたい。

《参考文献》
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
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強い日本女性のルーツは?

2013年09月21日 | 現代に生きる縄文
縄文時代の文化が、現代の日本に何かしら影響を与えているとすれば、それはどのようなものだろうか。このブログでは、それを大きく三つに分けて論じることが出来るだろうと指摘してきた。

第一に、豊かな自然の中で育まれた、自然への畏敬を基盤とする宗教的な心性。第二に、農耕の発達にともなう階級の形成や、巨大権力による統治を知らない平等で平和な社会が1万数千年も続いたことから来る強い平等意識。第三に、豊かな自然の恵みを母なる自然の恵みとみなす母性原理の心性である。

◆『縄文人に学ぶ (新潮新書)

前回取り上げた、上田篤氏のこの本でも上の三つの面とのかかわりがユニークな視点から論じられている。前回の「日本人はな玄関で靴を脱ぐのか」は、この三点のうちの第一点、「自然への畏敬を基盤とする宗教的な心性」に深くかかわっている。縄文人は、大型動物を追って移動するのを止め、それほど広くないテリトリーの中で大自然の豊かな幸を可能な限り利用しながら生きる道を選んだ。それを可能にしたのが竪穴式住居の中で燃やし続けた火だった。竪穴式住居は、火の神さまの住居でもあったのだ。

自然へ畏敬は、四季の変化や実りと結びついた太陽への畏敬であった。そして火は太陽(日)の子どもであった。日と火は一体となって、縄文人の宗教心を形づくった。

このブログでは、日本文化のユニークさを8項目の視点から論じ、その一番目の項目は、以下の通りである。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

ところで、現代日本人が縄文時代以来、受け継いできたであろう母性原理の社会については、二番目の項目として独立させて論じてきた。現代の日本文化を語るにも、それだけ重要だからである。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

上田氏の本では、縄文時代の平和や平等主義が母性社会と一体のものとして語られている。氏の論をおってみよう。縄文時代は、土器や竪穴式住居を中心とする一定の文化が1万年以上も続いた。あのエジプト文明ですらたかだか5千年だったことを考えると、これは人類史上稀有なことである。上田氏は、縄文時代が長く続いた理由のひとつを妻問婚に見る。縄文時代の妻問婚が古墳時代へと引き継がれていったというのだ。

妻問婚は、男が女のもとに通うことで婚姻が成立するが、それは一過性のものである。夫婦としての男女の同棲を伴わず、男が通わなくなることも多い。父は、自分の子どもが誰かに頓着しないが、女にとっては、父が誰であれ、産んだ子は等しく自分の子であり、平等に自分のもとで育てる。

子を持つ女たちは、食糧の採集に明け暮れた。いつくるか分からない男たちはあてにならない。そうした社会では母子間の絆は強くなる。そして氏族の先祖は、母から母へとさかのぼり、ついには「一人の仮想上の女性」に至りつくだろう。それが元母(がんぼ:グレートマザー)だ。縄文時代に作られた土偶は、何かしら呪術的な使われ方をしたのだろうが、それは元母の面影をもっている。縄文社会は母系社会だったと思われ、しかも豊かな自然を「母なる自然」として敬う宗教心は、元母への畏敬とも重なっていく。

縄文人の遺跡には、貝塚などの遺跡と並んで石群や木柱群がある。上田氏は、石群と木柱群が「先祖の祭祀」と「太陽の観測」という二つの機能をもつと考える。縄文人は、太陽と先祖の二つを拝んでいた。そして先にみたように火は、太陽の子であった。ところで太陽と先祖とはどのように結びつくのか。縄文人は、氏族の先祖を遡ったおおもとに元母のイメージをもっていただろう。その元母と太陽の両方の性格をそなえていたのは、女性神アマテラスである。元母の根源にアマテラスを見ると、先祖信仰と太陽信仰は完全につながるというのである。つまり縄文人の宗教心は、母系社会の先祖信仰と「母なる自然」への信仰、その大元としての太陽信仰とが結びついていたのではないか。

父系社会では、力の強い男が多数の女を抱えてたくさんの子どもを産ませ、「血族王国」を作りたがる。その結果、権力をめぐって男同士の争いが始まる。ところが母系社会では、男に子どもがない。女の産む子どもの人数には限りがあり、しかも女は子供を分け隔てなく育てるから争いも起きにくい。母系社会では、母はすべての子とその子孫の安寧を平等に願う傾向があるから、血族集団は争いなく維持され、社会は安定した。ここに縄文時代が一定の文化とともにかくも長く続いた秘密のひとつがあるのではないか。

こうして縄文時代は女性中心の時代であり、その伝統は後の時代に引き継がれた。父系性の結婚制度に移行したあとも、家の中での女性の力が比較的強かったのは、その伝統を受け継いでいるからだろ。「刀自(とじ)」「女房」「奥」「家内」「お袋」「主婦」などの言葉は、多かれ少なかれ家を管理する意味合いを持つ。日本では今でも主婦が一家の家計を預かるケースが多いが、欧米ではそのようなことはないという。

日本列島に生きた人々は、農耕の段階に入っていくのが大陸よりも遅く、それだけ本格的な農耕をともなわない縄文文化を高度に発達させた。世界でもめずらしく高度な土器や竪穴住を伴う漁撈・狩猟・採集文化であった。それが可能だったのは、自然の恵みが豊かだったからだろう。母系社会であり、母なる自然を敬う縄文文化がその後の日本文化の基盤となったのである。しかもやがて大陸から流入した本格的な稲作は、牧畜を伴っていなかった。牧畜は、大地に働きかける農耕よりも、生きた動物を管理し食用にするという意味で、より自覚的な自然への働きかけとなる。つまりより男性原理が強い。そして牧畜は森林を破壊する。

さらに日本列島の人々は、他民族にも襲われずに、母なる大地の恵みを最大限に受けながら悠久の昔からそこに住み続けることができた。そのような条件にあったからこそ、自然の恵みを基盤とする自然崇拝的な宗教を大陸から渡来した儒教や仏教と共存さて、長く保ち続けることができたのである。神仏混淆とは、生え抜きの文化が外来の文化に圧殺されなかった結果に他ならない。つまり、母性原理が生残ったのである。

父性原理が支配する社会では、激しい競争により社会は変化・発展するが、弱者は取り残され切り捨てられていく。民族相互の戦争により滅びていく民族は後を絶たず、森林破壊も進む。これらは大陸の歴史を見れば明らかだし、やがては日本もそれに巻き込まれていった。つまり、女性原理は「社会の持続と平等」を生み出すが、父性原理は「社会の進歩と格差」を進めるのだ。

日本では、1万数千年という長きに渡る縄文時代がその後の日本社会を形成する上で、無視できない強固な基盤となった。父性原理の大陸文明を受け入れるにしても、自分たちの体に染みついた縄文の記憶(母性原理に基づく宗教心や生き方)に合わない要素は、拒絶したり変形したりして受け入れていった。こうして中国文明から多くを学んだが、科挙や宦官や纏足は受け入れなかった。西欧文明は受け入れたが、キリスト教信者は今でも極端に少ない。私たちは、たとえ自覚はなくとも、縄文の記憶をいまだに忘れていないようだ。私たちの社会と文化の根底には母性原理が息づいているのである。現代日本の女性も、その遠い記憶に根ざしているから強いのかもしれない。

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日本人はなぜ玄関で靴を脱ぐのか

2013年09月15日 | 現代に生きる縄文
本ブログは、日本文化のユニークさを8項目の視点から論じているが、その一番目の項目は、以下の通りである。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

これまでも現代日本人が縄文文化をいかに受け継いできたかを折に触れて論じてきた。(→現代に生きる縄文

以下に紹介するのは、縄文文化の記憶が、現代日本人の生活のどんなところに生き続けているかをユニークで具体的的な視点から論じた本だ。

◆『縄文人に学ぶ (新潮新書)

この本の著者・上田篤氏は、もともと「未来を設計する建築学徒」であるが、「日本人のすまい」に興味をもって研究するうちに、その謎を追って結局は縄文時代にたどり着いたという。「日本人のすまい」の謎とは、たとえばなぜ日本人は玄関で靴を脱ぐのか、なぜ家の中に神棚や仏壇を祭るのかといったものである。

著者はこのような謎に対してひとつの「試論」を持つに至ったという。それは、「日本の家は神さまのすまい」というものだ。やがて、その「神さまのすまい」という発想のルーツが、縄文時代の竪穴式住居にあるのではないかと考えるようになったという。

1万2千年ほど前(縄文早期)に日本列島はしだいに暖かくなったが、にもかかわらず北海道から沖縄まで北方住居を思わせる竪穴住居が一斉に作られた。温暖な沖縄までなぜ竪穴住居なのか。それは竪穴住居が人間のすまいというより、「火のためのすまい」だったからではないのか。つまり、気候の温暖化で生じた激しい風雨から火を守るための囲いという意味が強かったのではないか。

著者がこのような「発見」に至ったのは、沖縄の古い家を見たことによるという。沖縄の田舎の旧家では、ついこのあいだまでいちばん大切な神さまは家の奥の地炉のなかの「火の神」だったという。沖縄では稲作文明が流入したのが13世紀であった。すなわち、それまでは稲作以前の「縄文時代」が続いていたわけで、縄文時代をルーツとする文化が色濃く残っているということである。

とすれば、縄文時代の人々も竪穴式住居によって「火の神」を守ったのではないか。火を風雨から守ることは生活に欠かせないだけではなく、神さまを守ることでもあったのだ。縄文人は、神さまの家に住んで、神さまをまもっていたのだ。

そう考えると「日本の家の謎」も解ける。日本の家は「火という神さまを祭るすまい」だった。だからこそ玄関で靴を脱ぐという世界に類のない習慣がある。家の中に神棚や仏壇を設けるも「神さまのすまい」という縄文の記憶にルーツがあるのだろう。

縄文が火を神さまとしたのは、それが定住を保証したからだろう。旧石器人は大動物を求めてさ迷ったが、縄文人は「大自然」そのものを相手にする道を選んだ。彼らは、親族単位で海に近い尾根筋などに住み、女が火を焚き、男が火を絶やさないためのすまいを作った。その住まいを中心とした数キロのテリトリー内で、女たちが木の実や茎、根、小動物、魚介類を採集し、土器で煮炊きした。つまり大動物を追い求めるのではなく、周囲の自然の恵みそのものに依存して生活するようになった。火がそうした定住生活の中心にあった。

そうした縄文人の宗教心はその後の日本の歴史に受け継がれる。たとえば古くからの日本の庶民の家の中心は囲炉裏だった。板敷のリビングに囲炉裏が切られ、その部屋に神棚がおかれた。現代の都会の家でダイニングとキチンが一緒になっている場合が多いのは、リビングと囲炉裏が一体となった古い庶民の家の名残りかもしれないと著者はいう。

今でも日本料理には鍋料理が欠かせない。家族が火加減しながら鍋を囲んで食事をするというスタイルは、欧米料理にはあまり例がないという。鍋料理は、縄文人が炉を囲んで炉の火にかけられた土器から食物をとって食べたであろう伝統を引き継いでいるのかもしれない。日本人が冬になると鍋料理が恋しくなるのは、私たちの中の縄文DNAのなせるわざなのだろうか。

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