クールジャパン★Cool Japan

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日本人の強さと弱さ(4)

2012年07月07日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

続けて「日本文化のユニークさ」7項目に沿って検討する。とくに(4)と(5)に注目したい。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(5)森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

まずは(4)から。異民族による侵略、征服がほとんどなかったということは、日本文化や日本人の性質を語るうえでかなり重要なことである。このブログでも何度も触れてきたが、かんたんに要約しよう。

民族相互の争いに明け暮れる悲惨な歴史を繰り返してきた大陸の人々は傾向として、常に相手からつけこ込まれたり、裏切られたりするのではないかと怯え、基本的には人間を信頼しない。つねに警戒すると同時に、どうやったら相手を出し抜き、ごかませるかと、攻撃的、戦略的に身構える。そこには前提として人間不信がある。

一方日本のように平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが可能だったし、それを育て守ることが日本人のもっとも基本的な価値感となった。その背後には人間は信頼できるものという性善説が横たわっている。

加えて日本人は、人口の8割以上が農民だったので、田植えから刈入れまでいちばん適切な時期に、効率よく集中的に全体の協力体制で作業をする訓練を、千数百年に渡って繰り返してきた。侵略によってそういうあり方が破壊されることもなかった。

礼儀正しさ、規律性、社会の秩序、治安のよさ、勤勉さ、仕事への責任感、親切、他人への思いやりなどは、こうした歴史的な背景から生まれてきたのであろう。

(5)についても何度か語ってきた。異民族間の戦争の歴史の中で生きてきた大陸においては、信頼を前提とした人間関係は育ちにくい。戦争と殺戮の繰り返しは、不信と憎悪を残し、それが歴史的に蓄積される。一方日本列島では、異民族による殺戮の歴史はほとんどなかったが、自然災害による人命の喪失は何度も繰り返された。

しかし、相手が自然であれば諦めるほかなく、後に残されたか弱き人間同士は力を合わせつつ、忍耐強く生きていくほかない。こうした日本の特異な環境は、独特の無常観を植え付けた。そして、人間への基本的な信頼感、優しい語り口や自己主張の少なさ、あいまいな言い回しは、人間どうしの悲惨な紛争を経験せず、天災のみが脅威だったからこそ育まれた。

以上のような日本人の特質は、東日本大震災後の混乱状態のなかでも保たれ、世界の人々を強く印象付けた。それは、戦後も失わなかった日本人の特質だが、齋藤のいう「精神」が戦後失われてしまったのだとしたら、失われたものと失われなかったものとの違いは何か。

太古の昔から地理的・歴史的条件の中で自然に身についてしまった文化の基盤は、そうおいそれとは失われない。しかし、それはあまりに自然に生きられてきたので、自分たちの特質として自覚されにくく、ましてや共有される「精神」とはなりにくい。

齋藤のいう武道「精神」や儒教「精神」は、江戸幕藩体制に組み込まれ、強化されてきたという側面もあり、それらの「精神」を伝えていく教育方法もしっかりと確立していた。しかし、その教育制度を断ち切られてしまうと途絶えてしまうもろさも持っていた。それは比較的新しい教育方法の上に成り立っていた「精神」だからである。逆に言えば、その教育方法を取り戻せば復活しうる「精神」だともいえる。

一方、(4)や(5)のような地理的・歴史的条件によって育まれた日本人の特質は、おそらく日本の歴史とともに古く、あまりに当然のものだったので、それを誇りに思うことも、共有財産として自覚的に生きようとすることもなかった。しかし、共有財産として自覚するようになれば、それは「精神」となる。何らかの教育によってそれを次世代へ伝えていこうする自覚が生まれ、「精神」としてさらに強化される。そうなったとき、心がもろくなったと言われる日本人にとって、心の大きな支えになることは間違いない。

子どもたちの視点から言えば、自分たち日本人の礼儀正しさ、規律性、社会の秩序、勤勉さ、仕事への責任感、親切などが、日本の地理的・歴史的条件の中で育まれてきた大切な財産であることを自覚する学びとなり、その学びが誇りともなる。ときに震災などによる犠牲をともないながら日本人が守り育ててきたかけがいのない財産であることを学ぶのである。そして、それを守り、未来に伝えていこうとする「精神」をともに生きることは、子どもたち一人ひとりの心にとっても、何よりも力強い支えとなるはずである。
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日本人の強さと弱さ(3)

2012年07月06日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

齋藤がいう「精神」がどんな意味をもっていたのか、もう少し具体例を挙げて見てみよう。

たとえば戦前なら、悟りを得るのは無理にしても、禅がどういうものか感覚的に分かる人が多かったという。生活習慣の中に禅的な発想が入り込んでおり、普通の暮らしが多かれ少なかれ禅的な「精神」につながっていた。武道はもちろん、茶道、華道、書道‥‥などを通して禅的な生き方が生活の中にあふれ、それが心の支えになり、日本人の心の強さを形づくっていた。

かつての日本人は、精神の領野と身体(習慣)の領野を切り離せないものとして発達させていた。禅の修行でも、座禅ばかりではなく、作務と呼ばれる日常の作業のなかで無心を学ぶことが大切だといわれる(日常工夫)。また、手作業が心を和らげることは、最近の研究でも実証されつつあるという。体内にあるセロトニン神経系が、リズムカルな運動によって活性化され、心を安定化させるというのだ。

職人の仕事もそれぞれに固有のリズムを持っている。職人気質で一つの仕事に徹する人生も、人の心に深い安定を与える。それが○○道として自覚されれば、禅的な求道の「精神」を生きることになり、心の安定はさらに深まる。職人がその「道」を究めようとする姿勢は、日本文化の深い「精神」に通じており、これも日本人の心の強さを形づくっていた重要な要素だ。

前回挙げた『論語』などの素読も、リズムカルに声を出す「作業」であると同時に、古典の「精神」を呼吸することにつながり、日本人の心を強くしていた大切な要因で、これはとくに齋藤が強調する方法だ。彼の本『声に出して読みたい日本語』はベストセラーになったから知る人も多いだろう。

このように、それぞれの「精神」を生きる手段を豊富にもっていた日本人は、もともと強い心を持っていた。だったらそれを取り戻せばよい。一昔前の日本人がふつうに実践していたことを復活させればよい。それだけで日本人は元通り強くなれると、齋藤はいう。私もこの点は、大いに賛同する。

一方で、「日本文化のユニークさ」7項目で見てきたような特色は、「精神」として自覚され共有されるほどにはなっていないが、GHQの政策など関係なく、途切れずに受け継がれている。では、それらは齋藤のいう「精神」とどのように関係し、日本人の心にとってどのような意味をもつのか。それが私にとっての新たな問いになったのである。

まず、前回指摘したようにそれらは、齋藤がいう「精神」の層よりは古い層に属し、日本列島という独特の地理的、風土的条件の中で長い年月の間に育まれたものである。そして日本は、豊かな森や自然に恵まれ、他にもいくつかの条件が重なったため、現代の高度産業国家にしてはめずらしく、太古的な母性原理を保ったまま現代に至っている。以上を確認したうえで個々の項目を見ていこう。まずは最初の二つ。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。
(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

かつて『ケルトと日本 (角川選書)』の中の「現代のアニミズム-今、なぜケルトか」(上野景文)という論文を紹介したことがある。この論文では、日本人や日本社会の思考、行動様式を以下の7つの特質にまとめる。

イ)自分の周囲との一体性の志向
ロ)理念、理論より実態を重視する姿勢
ハ)総論より各論に目が向いてしまう姿勢
ニ)「自然体的アプローチ」を重視する姿勢
ホ)理論で割り切れぬ「あいまいな(アンビギュアス)領域」の重視
ヘ)相対主義的アプローチへの志向(絶対主義的アプローチを好まず)
ト)モノにこだわり続ける姿勢

これらの特質の根っこに共通の土台として「アニミズムの残滓」が見て取れると、論者はいう。たとえば、ロ)やハ)についてはこうだ。自然の個々の事物に「カミ」ないし「生命」を感じた心性が、今日にまで引き継がれ、社会的行動のレベルで事柄や慣行のひとつひとつにきだわり、それらを「理念」や「論理」で切り捨てることが苦手である。それが実態や各論に向いてしまう姿勢につながる。ホ)やヘ)も、一神教に対して多神教やアニミズムの傾向を多分に反映している。そしてこれらすべてが、父性原理というよりは母性原理の特質を示している。

日本人は、こうした傾向を自分たちの長所と見るよりも短所ととられる傾向がある。実際には長所でも短所でもあるのだが、長所の面を日本人が分かち持つ共通の「精神」として、自覚的に生かしていくべきなのだ。そのとき、上のような性向を個々人が自分の短所として思い悩む度合も減るだろう。長所として自覚的に生かすとき、短所としての面への対処の仕方も自ずと違ってくる。

この中でニ)とト)は、日本人に共有される「精神」として、充分に自覚化されてきた伝統がある。「自然体的アプローチ」は、禅の精神と結びついて日本人の人生哲学のひとつとなっている。つまり、意識的、作為的に何かを「する」より、自然で計らいのないあり方を善しとする哲学である。ト)は、すでに上に述べたようなモノ作りの「精神」、職人気質という「精神」に流れ込んでいる。

いずれにせよ、日本人はGHQの政策ぐらいでは消すに消せない、何千年の歴史の中で育まれた無自覚の心性を生きている。ただしそれらは、日本人の心を支える本当の意味での「精神」になるのを待っている。
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日本人の強さと弱さ(2)

2012年07月04日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

齋藤は、さきの敗戦こそ日本人が心と精神と身体のバランスを崩したターニングポイントだという。戦後、日本人は精神という言葉に強いアレルギーを持つようになった。それは、軍国主義に少しでも結びつくものは排除しようとするGHQの政策とも深く結びついていた。たとえば武道が日本人の強い精神の柱になっていると考えたアメリカは、武道とその精神を徹底的に潰しにかかった。そうしたアメリカの意向を日本人自身が喜んで受け入れた面もある。

また、戦前の日本人の精神性を圧倒的に担っていたのは儒教だっという。戦前の教育の柱とされた「教育勅語」にも「父母に孝に、兄弟に優に、夫婦相和し、朋友相信じ‥‥」など、儒教的道徳観が盛り込まれていた。過度に神聖視され国家主義体制のために利用されたが、内容的には道徳心を説いた部分が多い。ところが戦後になると、過去の「忌わしい記憶」として全面的に排除され、これに限らず日本古来の「精神」はおしなべて国家主義と批判された。

しかし、言うまでもなく儒教的精神そのものが好戦的でナショナリズムに結びつくわけではない。儒教的道徳心が浸透していた江戸時代が軍国主義だったわけでもない。江戸時代の子どもたちは寺小屋で『論語』を素読し、その精神を感じ取っていた。が戦後は、素読自体が頭ごなしの非民主的な教育とされた。『論語』を中心とする儒教教育全体を捨てたことは、精神の半分以上を捨てたことになり、儒教教育の喪失は日本人にとってマイナス面の方が大きかったと齋藤はいう。

儒教や武術のように古来から精神の形成に一定の役割を果たしてきたものを禁じられると、その結果、個人の感情や気分が一気に肥大化する。共有できる精神を持たない民族は弱い。それが露わになったのが、経済成長が一段落した1970年以降だという。戦前の教育を知らない世代は、精神や身体といった土台が緩んでしまい、その分、心が膨らんでしまった。日本人は概しておとなしく、不安定な心を抱えるようになったというのである。

ここまで読んで読者はどのように感じられるだろうか。私は、日本人が共有できる古来の精神を復活させることが肝要だという齋藤の主張に共感する。しかし同時に「ではなぜあのようなことがありえたのか?」という疑問が生じた。前回このブログでも触れたように、東北大震災の際に日本人が見せた忍耐強さや落ち着きやいたわり合いの精神は、戦前から、いやもっと古い時代から日本人に受け継がれてきたものではないのか。確かに戦後失われた、共有の精神もあるだろうが、連綿と受け継がれ、少しも損なわれていない日本人の精神もあるのではないか。私は、失われずに受け継がれている日本人の精神の方に、より強く関心が向かう。このブログでもそのような面を強調してきた。

では、失われたものと受け継がれたものとの違いとは何なのか。これはかなり重要な問いだと思う。齋藤の本に刺激されて私の中で生まれたのはこの問いであった。その違いは日本文化の中の母性原理の部分と父性原理の部分に深く関係していると思う。

GHQの政策によってかんたんに失われてしまう精神とは何だったのか。戦後日本人が失ったという武道精神にしても、儒教精神にしても、日本の長い歴史の中では、比較的新しい時期に成立したものである。たとえば剣道は、15世紀後半の室町後期に成立した「神道流(新当流)」「陰流」「中条流」の三源流が、江戸時代には200余流まで分かれ、また、禅仏教や儒教の影響を受けて武士の精神修養の道ともなったものだ。また、『論語』を中心とする儒教の精神が庶民にも学ばれるようになったのは、寺子屋が爆発的に増加した江戸時代の後半だろう。それらは、日本文化の層でいえば、比較的新しい層、上層に属するものである。だからこそ、GHQの政策によって忘れてしまうこともできたのである。

しかし、日本人がはるか縄文時代から受け継いできた古い層は、GHQの政策ぐらいで潰されるものではない。その古い層とは何か。もちろんこのブログでこれまでずっと考察してきた「日本文化のユニークさ」7項目にかかわるものである。日本人はそれをほとんど無自覚のうちに生きているので、武道精神や儒教精神のように「これがその精神だ」とは自覚しにくい。自覚的にその「精神」を生きるといことはしにくい。しかし、日本人の心の中には確実にそれが生きており、危機的な状況下では日本人の強さとして表面ににあらわれるのである。

「日本文化のユニークさ」7項目は、縄文時代以来の豊かな自然に育まれた母性原理的な「精神」である。それは、精神というにはあまりに自覚しにくく、だからこそ逆にそうかんたんには消えない。日本人が日本人であることの底流を形づくってきたし、今の日本人の心にも底流として流れている。

これに対して武士道精神や儒教精神は、日本文化の底流を土台としながらも、大陸文化の強い影響下で出現した。そしてどちらかといえば父性原理的な「精神」であり、江戸幕藩体制の中で日本人の心に定着していった比較的新しい「精神」である。だから外圧によってその伝統を断ち切ろうとすれば、ある程度可能だったのである。

もちろん、自覚的にそれを生きることができるような江戸時代以来の「精神」を復活させることは、心が肥大化してしまった現代日本人にとって充分に意味のあることだろう。母性原理と父性原理とのバランスをとるという意味でも、それは必要なことかもしれない。しかし同時に、私たちの心の中には、縄文時代以来、断絶せずに底流としてながれている「精神」もあるのだというこを自覚化する努力も欠かすことはできない。無自覚にそれを生きるのではなく、日本人に共有される「精神」として自覚的に生きるならば、それは日本人にとって本当の強さとなるであろう。
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日本人の強さと弱さ(1)

2012年07月03日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本人の心はなぜ強かったのか (PHP新書)

齋藤孝の書いたものは好きで、かなり読んでいる。最近は仕事の関係もあって彼のコミュニケーション論を集中的に読んでいた。『コミュニケーション力 (岩波新書)』や『偏愛マップ―キラいな人がいなくなる コミュニケーション・メソッド』などである。他の著者の類書に比べ、はるかに実践的に有効な創意工夫に満ちており、仕事の面でも大いに参考になった。

今回とりあげるこの本は、日本人論として、このブログのテーマにとって参考になればと思って読んでみた。この本の主旨には大いに賛同する。しかし私の思考は、この本を足がかりに本の主旨とは別の方向に深まった。その点も含めて書いてみたい。

まず齋藤は、戦前に比べ日本人の心は格段に弱くなったと主張する。たとえば自殺者は、もう13年連続で3万人を超えている。その背景の一つには、心の肥大化があるのではないか。この本の副題は精神バランス論である。心の肥大化とは、心と精神と身体(習慣)のバランスが崩れて、心の働きが相対的に大きくなり過ぎたことをさす。

心と精神はまったく別物だと齋藤はいう。心は個人的だが、精神は、共同体や集団によって共有される。民族の精神のような大きなものもあれば、会社や学校の精神もあり、多かれ少なかれその精神は、所属する個人に内面化される。人間は、心と精神と身体(習慣)の三つにより成り立ち、それらがバランスよく伸びることで真っ直ぐに成長できるという。

ところが昨今は、心の問題がバランスを欠いて大きくなり、思い悩んだり仕事が手に付かなくなったり、体調を崩してしまうことも多い。逆にいえば、それだけ日本人は、精神と身体が弱っているのだ。精神や身体もしっかり機能していれば、心だけが異様に大きくなって余計なことで思い悩むことは少なくなる。共同体に共有される精神や、身体に身に付いた習慣にまかせておける部分が大きいからだ。つまり心の土台がしっかりするからだ。

日本人の心が肥大化したのは、敗戦を境にして、かつての精神や身体の継承が途絶えたからだとよくいわれる。「日本的なるもの」の多くが捨て去られ、以前は共同体によって共有されていた諸々の精神は失われ、個人的な心が肥大化した。頼るべき精神がなく、悩みやストレスばかりが大きくなるところに日本人の心の危機がある。

残された道は、精神と身体の復活しかない。日本古来の伝統を学びなおしたり、地域や会社という所属共同体を見つめなおしてみることが大切だ。これが本書での齋藤の主張であり、本の後半ではそのためのノウハウがいろいろ紹介されている。ただこの本は、コミュニケーション論など他の齋藤の著作に比べると、具体的な方法の部分が少し魅力に乏しい感じがする。他の本では、これはと思えるような画期的なノウハウがいくつも紹介されているが、この本にはそれが少ないのだ。

しかし、この本は私にとって別の面で大いに刺激となった。その点に触れつつ次回もう少し突っ込んで本の内容を紹介したい。
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『日本辺境論』をこえて(6)科学技術の発信力

2012年04月05日 | coolJapan関連本のレビュー
島国日本は、弥生時代以来、異民族による侵略という脅威なしに文化の受け入れを続けてきた。そのような形での異文化を受け入れ続けることができた幸運は、世界史上でもまれなことである。海の向こうの圧倒的に優れた文明を、平和的に吸収し続けた日本人は、自分をつねに「辺境人」の立場において、中心文明の優れた文物をひたすら取り入れる姿勢を、あたかも自分の「アイデンティティ」であるかのように思い込むようになった。そういう「辺境人」根性は日本人の血肉化しており、逃れようがない。だったらその根性に居座って、むしろ積極的にそれを活かそうというのが内田樹の『日本辺境論 (新潮新書)』の主張であった。

しかし日本人は、内田が言うような意味での「辺境人」の性癖から脱しつつある。日本は今、そのような大きな時代変化の中にあり、その変化の大きさは、かつての圧倒的な唐文明の影響から脱して、自分たちに独自の文化を築いていった時代の変化に匹敵する、というのが私の主張である。

その理由の一つは、『日本辺境論』をこえて(5)ですでに論じた。要約すれば、明治以来、西欧文明を学び続けた日本は、多くの分野で「師」に追いつき、いくつかの分野では「師」を超え始めた。西欧への劣等感というフィルターから自由に、その事実をありのままに受容できる世代が出現し始めたのである。西欧を「師」と仰ぎ、自分たちを無条件にその「弟子」とする劣等感から解放されるということは、自らを「辺境人」と卑下する傾向からの解放でもある。そのような日本人の意識変化は、おそらく明治時代以来初めてのことなのである。

日本人が今、大きな意識変化を経験しつつあると言える他の理由を考えよう。それは、日本文化の発信力にかかわる。日本文化は、「師」に追いついただけではなく、今かなり広範な影響力を世界に及ぼしつつある。そのようなことは日本史上初めてであり、この事実が人々の意識に変化を与え始めたのである。

2)その影響力はまず、科学技術と深く結びついたところで生まれた。たとえば新幹線である。時代の主役が自動車や飛行機に移りつつあった時代に、日本の技術者たちの辛苦と英知によって実現した新幹線は、世界中の交通システムに影響を与えた。高速鉄道システムはアメリカはじめ世界中で、安全で環境にやさしい輸送システムとして再評価されつつある。時代遅れになると見れれていた高速鉄道が、日本の新幹線の成功によって地球環境時代の旗手として息を吹き返したのだ。

このように日本の科学技術が、文化的な発信力をともなって世界の人々の生活を変えていった例はかなり多い。ホームビデオは、日本人が業務用の巨大なビデオを小型化し、家庭で見られるシステムとして世界に普及させたものである。電卓も日本が小型化に成功して世界中の家庭に普及させたハイテク技術である。その価格は40年間で50万円から1000円と、五百分の一に下がった。これらは、巨大なものを極小化するのが好きな日本文化の特質が世界を幸せにした例だ。今世界中で使われているクオーツ腕時計も、世界に先駆けて日本で商品化された技術だ。

「歌に対する人類の夢を具現化した機械・カラオケは、その誕生から30年を経ずして全世界に普及した。世のさまざまな文化流行を見ても、これほど短期間に、これほど広範囲に普及を見たものは他に類をみない。」‥‥これはロンドン大学の研究者が書いた『カラオケ化する世界』の中の文章だという。カラオケは、日本人が自分たちの娯楽として楽しんでいた技術と文化だが、それが今や世界中の人々を楽しませていることは、誰もが知っている。

インスタントラーメンが日本で開発され、やげて新しい食文化として世界に広まったことも、日本人の誰もが知っている事実だ。世界ラーメン協会の推計によるると、2009年に世界で食べられたインスタントラーメンは915億個で、その国別トップは中国の409億個、ついでインドネシアの139億個、日本53億個、ベトナム43億個、アメリカ41億個と続くそうだ。これと同様に人類の食生活を変えた食品に、レトルト食品や冷凍食品があるが、これらも日本が世界に先駆けて家庭用品として産業化に成功したものだという。これらと、寿司などに代表される最近の和食ブームとを考え合わせると、世界の食生活に与えた日本の影響はかなり大きい。(『人類を幸せにする国・日本(祥伝社新書218)』)

これまで挙げたのはほんの数例に過ぎないが、日本で開発された製品が世界中の人々の生活に大きな影響を与えている例は、他にも数多い。もちろん日本人は、こうした事実をある程度自覚しており、その自覚が、これまで二千年の長きにわたって、海外の高度文明をひたすら学び続けるばかりだった日本人の「辺境人」根性に変化をもたらしていないと見るのはかなり不自然だ。

ところで、日本発の文化で、近年世界中の若者に大きな影響を与え始めたのは、言うまでもなくマンガやアニメに代表される日本のポップカルチャーだ。なぜ、どのように影響を与えているのかについては、このブログのカテゴリー「マンガ・アニメの発信力の理由」でかなり取り上げてきた。次回はこの、カテゴリーの中に載せてきた記事の一覧を作成したい。そのうえで次々回は、今回のテーマに沿ったかたちで「マンガ・アニメの発信力」について考えたい。


《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)

《関連記事》
若者の文化的「鎖国」が始まった?今後の計画など(1)
日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(1)
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日本人が日本を愛せない理由(2)
日本人が日本を愛せない理由(3)
日本人が日本を愛せない理由(4)
クールジャパンに関連する本02
  (『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』の短評を掲載している。)

『日本辺境論』をこえて(5)ちょっと付け足し

2012年03月03日 | coolJapan関連本のレビュー
◆内田樹『日本辺境論 (新潮新書)

前回、書き忘れたことがあるのでちょっと付け足しておく。

日本の若者は、外部に圧倒的に優れた「師」が存在しなくなった時代に育っており、その意味での欧米への劣等感からも解放されていることに前回触れた。ところで、彼らが外部に「師」をもとめて「ふらふらきょろきょろ」する傾向から解放されている理由が、もう一つある。これはすでに触れたことだが、再度確認しておきたい。

それは、明治以来の日本が必死に追いつこうとしていた「世界標準」そのものが、今行き詰まり、批判にさらされているということだ。「近代合理主義」「進歩」「科学」といった価値だけを無条件に信奉する時代が確実に終わり、新たな「世界標準」が模索される時代になったのである。1990年のバブル崩壊以降に小学生時代を送った世代(Z世代)は、日本人のかつての「師」が振りかざしていた原理が、すでに疑われ始めた時代に育っている。地球環境問題は、その具体的な現れのひとつだ。親の世代が崇拝していた「師」は、自分たちの実力とさほどかわらないだけではなく、「師」が掲げていた教えそのものが疑わしいという空気の中で彼らは育った。

日本が、「西欧近代」という外部の文明原理を、自分たちの伝統文化を否定さえして、無我夢中で追い求めた時代はとっくに終わった。しかし、親たちの世代までは、その欧米崇拝と「辺境人」根性と自己否定と劣等感などからまだ解放されていなかった。しかし、これからの時代は違う。「辺境人」根性から自由になった眼で、一度否定した自分たちの伝統をもう一度見直し、その長所は長所で、ありのままに受け入れ、そこから出発していくほかないと体感している世代が出現した。そのような傾向は、たとえ自覚を伴っていなくとも、若い世代の間にすでにはっきりと現れている。

何度もいうようにこの変化は、かつての圧倒的な唐文明の影響から脱して、自分たちに独自の文化を築いていった時代の変化に匹敵するのである。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)

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  (『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』の短評を掲載している。)
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『日本辺境論』をこえて(5)「師」を超えてしまったら

2012年03月02日 | coolJapan関連本のレビュー
◆内田樹『日本辺境論 (新潮新書)

上山春平も指摘している(『論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)』)が、数百年のサイクルではなくもっと短い波を読み取ることもできる。たとえば開国から明治20年ごろまではひたすら西欧文化を取り入れる時期だったが、その後明治40年頃までは、内面化の傾向と伝統文化の再評価が見られる。寺子屋は明治の初めにはすっかりさびれたが、20年頃には復活し漢籍が教えられたという。この頃、硯友社は西鶴など江戸文学をモデルにした。

日露戦争後、明治40年頃からは再び外へ向かうようになり、ゾラやフローベールに学んだ自然主義文学運動、後期印象派の絵画の人気など、西欧文化がもてはやされた。昭和初期頃からは再びナショナルな方向に向かい、それは「大東亜戦争」で極点に至る。そして戦後は、再び、今度はアメリカを中心とした欧米文明を取り入れ始める。

戦後も同じような20年毎の波が繰り返されているとは必ずしも言えないだろうが、はっきりしているのは外向きだった戦後の大きな流れが、近年、内向きに変化し始めているということだ。戦後の日本は、敗戦にいたるまでの日本の過去を否定し、アメリカを中心とした欧米の強い影響下で新しい日本を築こうとした。そうした外向きの流れが、今再び内向きに転じつつある。それが、若者の伝統志向や日本回帰という現象にもはっきりと現れている。

一方で、このような戦後のサイクルは、より大きなサイクルと重なりながら同じ方向に動いている。それが、明治以来の西洋文明志向からの転換というサイクルなのだ。このサイクルは、かつての日本が中国文明の取り入れから脱して、平安の国風文化から鎌倉仏教へと独自の文化を開花させていったサイクルと対比することができる。

なぜ今がそのような時代の大きな曲がり角だと言えるのか。いくつかの根拠を挙げてみよう。

1)明治維新前後から百数十年、日本はひたすら西欧の文明に学び、それによって近代の日本を建設しようとした。そうした日本の姿勢は、時々内向きになる小さな波はあったにせよ、大きな流れとしては変わらなかった。日本に比べて欧米は、あらゆる分野で圧倒的に優位に立っていて、そこから学ぶことなくして日本の生き残りと発展はないと思われたからである。

そのような状況で外部から学ぶとき日本人は、自らの過去全体を激しく否定する性向がある。自分たちの伝統を末梢してしまうことで、新しいものを受け入れ易くするのだともいえる。良し悪しは別として、それが日本の近代化のエネルギーになったのは確かだろう。

ところが現在、科学技術力、経済力、社会制度、文化などどれにおいても、欧米と日本で圧倒的に差のある分野はなく、個々の分野では日本が優位にたつ場合も多い。「師」の域に少しでも近づきたいと必死に学んでいた「弟子」が、いつの間にか「師」と肩を並べ、一部では「師」を超えてしまった。にもかかわらず、相変わらず自分はまだだめだと思い込み、もはやどこにもいない「師」の幻影をもとめて「ふらふらきょろきょろ」している。それが、今も続く日本の姿なのだろう。

ところが、「もう外に師を求めても無駄なのだ。師はもう、どこを探したって見つからない。だとすれば、自分の内側に立ち返って、そこから新たなものを作り出していくほかないのだ」と気づいた人々がいる。それが、今の若者たちの世代だ。もちろん彼らは、そのような明確な意図を自覚していないかもしれない。しかし少なくとも彼らは、文明の「保証人」を外部にもとめ続ける「呪縛」から解放されている。

かつて何度も日本回帰の波は繰り返されたが、それは欧米文明の過度の崇拝に対する反動という側面があった。欧米崇拝も日本回帰も、圧倒的な欧米文明を前にしての、同じコンプレックスの両極端の表れであった。しかし今の若者たちはもう、欧米の文明へのコンプレックスにほとんど囚われていない。日本が、多くの分野で欧米と肩を並べ、一部欧米を超える時代に育った彼らは、団塊の世代のような欧米への劣等感から、すでに解放されている。

だから欧米崇拝や劣等感の裏返しとしての伝統回帰ではなく、もう外に「師」を求め続けることが無意味な状況になったから、自分たちの内側からあらたな価値を生み出していくほかないと、直感的に分かってしまう世代が出現したのである。こういう世代の出現は、おそらく明治以来初めてのことである。こういう変化に匹敵する変化を過去に求めるとすれば、あの圧倒的な唐文明の「呪縛」から徐々に開放されていった、9世紀から16世紀の時代しかないであろう。

《関連図書》
欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)
ニッポン若者論 よさこい、キャバクラ、地元志向 (ちくま文庫)
論集・日本文化〈1〉日本文化の構造 (1972年) (講談社現代新書)

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日本人はなぜアメリカを憎まなかったのか?(2)

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日本人が日本を愛せない理由(2)

日本人が日本を愛せない理由(3)

日本人が日本を愛せない理由(4)

クールジャパンに関連する本02
  (『欲しがらない若者たち(日経プレミアシリーズ)』の短評を掲載している。)
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『日本力』、ポップカルチャーの中の伝統(2)

2011年01月12日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本力』(松岡正剛、エバレット・ブラウン)

今度は、エバレット・ブラウンの発言から。彼が日本人を見ていて面白いと思うのは、ケータイ電話のストラップだという。ケータイにストラップをつけるのは、日本以外ではあまりない。海外では、ケータイは単なる機械だという。しかし日本人は、そこに自分の気持ちを入れる、命を与える。ものに命を与える日本人の心性が、彼は大好きだという。

現代の若者はケータイにストラップをつけることを、ただそうしたいから、そうしないと何となく物足りないと感じるからやっているのだろう。しかし、そこに日本人の伝統的な心が働いている。かつて日本の職人は自分の、命をものに入れていたという。お金のためだけにものをつくっていたのではない。

それと同様、今の若い人たちも無意識にものに命を与えている。そういう傾向が、今すこしずつ復活している。ネイルアートも、先日触れた「痛車」も「初音ミク」もそういう傾向の表れかもしれない。ヴォーカロイド「初音ミク」とCGによるこだわりのコラボは、コンピューターのプログラムによってまさに命を吹き込む作業で、かつての職人の心、もっとさかのぼれば縄文人の心が、現代の最先端によみがえっているのかもしれない。現代の日本人が、縄文的な心性を受け継いでいることをもっとも象徴的に表しているのが、ケータイ電話のストラップなのだろう。

ケータイのストラップが、日本人に独特な傾向の表れだということは、多くの人が指摘している。たとえば、以前にも紹介したことのある『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』で著者アン・アリスンは次のように言う。日本人はケータイに、ブランド、ファッション、アクセサリーとして多大な関心を払い、ストラップにも凝ったりする。そうしたナウい消費者アイテムにも、親しみ深いいのちを感じてしまうのが日本人のアニミズムだ。このように機械と生命と人間の境界があいまいで、それらが新たに自由に組み立て直されていく、日本のファンタジー世界の美学を著者は「テクノ-アニミズム」と呼ぶ。日本では、伝統的な精神性、霊性と、デジタル/バーチャル・メディアという現代が混合され、そこに新たな魅力が生み出されているのだ。(《関連記事》『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)

最近紹介した『世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)』の基本コンセプトは、オタク文化と製造業の融合だったが、それを一言でいうならまさに「テクノ-アニミズム」ということになるだろう。かつての「たまごっち」というサイバー・ペットの世界的な流行も、日本的な「テクノ-アニミズム」が世界に受け入れられていく先駆けだったといえなくもない。

『日本力』の対談で取り上げられた話題は多岐にわたり、興味尽きない。ここでは、このブログのテーマに関わるかぎりでその一端を取り上げたにすぎない。

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『日本力』、ポップカルチャーの中の伝統(1)

2011年01月11日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本力』(松岡正剛、エバレット・ブラウン)

この本は、クールジャパンに関連する本01で、他の本とともに数行コメントして紹介したことがあったが、本格的なレビューはまだしていなかった。同じタイトルの本に伊藤洋一の『日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! (講談社プラスアルファ文庫)』があり、これは書評で取り上げた記憶があるが、別の本なので注意されたい。

今回取り上げるのは、松岡正剛とエバレット・ブラウンの対談本。松岡正剛はあまりに有名だが、エバレット・ブラウンは、日本滞在のアメリカ人で、日本に伝承される食や生活の知恵、心身の調和、自然への畏敬の念などを実践的に追求する。二人の対話を通して、日本の古い文化と新しい文化との間に深いつながりがあることが洞察される。とくにアニメ・マンガ・コスプレ・ファッションなどに無意識のうちに伝統的なものが表現されているという指摘に教えられた。(この部分かつて書いた短評より再録)

対談本なのでまとまった論理展開があるわけでないが、随所に深い洞察にもとづく発言があって興味尽きない。ここでは例よってこのブログのテーマに関わりのある話題をいくつか取り上げてみよう。

以下は松岡の発言。西の文化は一神教を基盤とし、二分法的だ。善と悪・光と闇・男と女などとしっかり分けて論理的に考える。一神教の多くは砂漠的な風土で生まれたため、それは砂漠的思考法ともいえる。砂漠は厳しい環境で、右にオアシスがあるかも知れないが、左は灼熱の砂漠が続き死んでしまうかも知れない。だから判断を早くするため、話し合いで結論を先延ばしするのではなく、指導者格の一人が決断をしなければならない。一神教的なリーダーシップにより右か左かの二分法的な思考法が必要とされるのだ。これは昨日の「文化心理学」の用語でいえば「分析的思考様式」に対応するし、男性原理の思考法である。

東の文化は、多神多仏の社会で、森林型の文化だ。森は水も湧くが、獣もいればスコールもある。天候や自然の動きが読めない。だからしばらく待って状況をうかがうとか、多くの意見を聞いてまとめるとか、いわばマンダラ的な思考になる。リーダーは複数いるし、待つとか動くとか多様な選択肢があってかまわない。そこから仏教的な多様性も出てくる。これは、昨日の用語でいえば「包括的思考様式」に対応するであろし、女性原理の態度である。私は、日本列島が一貫して豊かな森を失わなかったので、とりわけ森林型の思考が色濃く残ったのではないかと思っている。だから一神教的な思考は、根本的にはなじまないのだ。

松岡の発言は、鈴木秀夫の『森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)』のとても分かりやすいまとめになっている。松岡が批判するのは、最近の日本人の知の衰退は、西の二分法の表面的なところだけを受け取り、なんでも○×式で解決しようとするところにあるのではないか、ということだ。

しかし私には、日本人が何でも○×式で解決するようになったとも思えないし、知の衰退が顕著だとも思えない。あいかわらず「包括的思思考様式」で生きているし、庶民の全体としての判断がそれほど狂ってきているとも思えない。むしろ、マンガ・アニメを通して、西の世界の砂漠的な思考法にかなりの影響を与え始めたことにこそ注目をすべきだと思っている。

『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人』

2011年01月10日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人 (講談社プラスアルファ新書)

最初にこの本の中の代表的な心理学実験を紹介する。画面上に5人の人物を示し、その中心にいるリーダー格の人物の表情(怒り、悲しみ、喜びなど)から、その人物が感じていると思う感情の強さを実験参加者に判断してもらうというものだ。ただしある画像では、中心人物が笑顔を見せ、他の4人も笑顔だが、他の画像では中心人物は笑顔なのに他の4人は怒っているという違いを作っておく。参加者には、あくまでも中心人物の表情からその感情を判断してもらうよう念を押した。

結果は、日本人の実験参加者は、背景の人々の表情に影響されて中心人物の感情を判断する度合いが強かったという。これに対してアメリカ人の参加者は、周辺人物の表情からの影響をまったく受けないで判断をしたという。さらに画像を見ているときの視線のパターンを測定したところ、日本人の場合は、周辺への注視が平均して15パーセントあったのに対し、日本在住の欧米人の場合は、周辺への注視はほとんどなかったという。総合的な結果を見ると、周辺の人物への注視度は、日本在住の日本人で一番大きく、続いて東アジアからカナダへの留学生、東アジア系カナダ人、そして最後にヨーロッパ系カナダ人とう順が確認されたという。

この実験結果をうまく使って出版社が作ったのが、『ボスだけを見る欧米人 みんなの顔まで見る日本人』というこの本のタイトルなのだろう。

この実験は「文化心理学」の立場から、その考え方を立証するために行われた実験のひとつである。文化心理学では、個々人の信念や考え方の差もあるだろうが、それを超えた文化による差も大きいと考える。日本をはじめとした東アジア文化圏と、アメリカ、カナダ、オーストラリア、そして西欧など欧米系文化圏とに二分したときに、それぞれの文化圏に特徴的な考え方やものの見方が見いだせるのではないか、という予想のもとに研究がすすめられている。東アジアと欧米という二つの文化圏で主流の世界観が、私たちのものの見方に影響を及ぼす可能性を心理学実験により実証しようとしているのだ。そして過去十年の各国での継続的な研究から、「こころと文化の切っても切れない関係」を示す有力な証拠が、数多く積み上げられているという。

文化心理学では、東アジア文化圏で特徴的な思考様式を「包括的思考様式」、欧米文化圏で特徴的な思考様式を「分析的思考様式」と定義し、こうした思考様式の違いが私たちの物事のとらえ方に影響を及ぼしていると主張する。

分析的思考様式は、世の中のさまざまな事物はすべて最少の要素にまで分割することができ、その要素間の相互作用や因果関係を理解すれば、物事の本質を理解できるとする考え方だ。科学技術の基礎となっている機械論的な世界観といってもよい。男性原理の世界観だともいえる。

一方、包括的思考様式は、物事の本質を理解するためにはまずその全体を把握する必要があるとする考え方だ。これは東アジアで花開いた老荘的、大乗仏教的な世界観が反映されている。機械論的な世界観に対して生命論的世界観といってもよい。まず全体があって全体のなかで個々の部分も意味をもってくるというとらえ方だと思う。

この東西の世界観の違いは、双方の医学の考え方の違いで説明するとわかりやすい。西洋医学は、どちらかというと体を機械のようにとらえ、その部品をなおすことを主眼とするようなイメージだが、漢方などでは体全体のゆがみやバランスの崩れから各症状をとらえて、全体的視点からの治癒をめざすようだ。

この二つの世界観の違いは、「自己観」の違いとしても現れるようだ。欧米文化圏の人々は、「人とは他の人やまわりの物事とは区別されて独立に存在するもの」という「相互独立的自己観」をもつ傾向がある。一方、東アジア文化圏では、「人とは周囲の人々との役割や立場を介した関わりの中で成り立っているもの」という「相互協調的自己観」が多くの人々に受け入れられている。

そういう自己観の違いから、東アジア文化圏の人々に比べ欧米文化圏の人々は、自分を三人称的に(第三者の目で)見ることに慣れていないだろうという予測ができるが、実験結果はその通りであったという。理想の自分像と現実の自分像の間にどれほどずれがあるかを尋ねる実験では、日本人はそのズレを充分に認識していたのに、アメリカ人はズレを認識する度合いが低かったのである。つまり自分を第三者の目から客観的に見れない傾向が強いということだ。

◆他にも興味深い心理学実験がいくつも紹介されている。文化心理学の画期的なところは、昔から言われていた東西の世界観の違いを、実験心理学的に実証的に確認したことだろう。しかも、その違いが私たちの日常的な物事の認識の仕方や、対人関係の認識の仕方、自己理解の仕方にまで、影響を及ぼしていることを実証的に示したことであろう。

昨日触れたような、言語構造の違いから論証される自我観の違いが、心理学的にも実証されたということだ。

ただ、欧米文化圏、東アジア文化圏という分け方はかなり大雑把で、欧米でも地域差はあるだろうし、東アジアでも中国と韓国、日本とではかなりの違いがあるだろう。その辺の違いは、実証的に確認されているわけではない。私たちがこのブログで強調しているような、農耕・牧畜的で民族間の紛争を繰り返した大陸の人々の世界観と、稲作農業中心で他民族による侵略のほとんどなかった日本人の世界観の違いという視点からの、実証的な差異はほとんど見えてこない。

しかし、こういう手法を用いて研究を重ねるならば、東アジア文化圏の中での地域差も実証的に明らかにされていくのではないか。
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オタク文化と製造業をどう結びるけるか(2)

2011年01月08日 | coolJapan関連本のレビュー
今回は、昨日紹介した『世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)』の、このブログでの私のテーマにとって参考になるところを探ってみたい。

昨日次のように書いた。西欧近代に端を発する理性的な男性原理が作り出した代表格が現代の工業製品だが、日本はその工業製品で、西欧世界を一部追い抜いてしまった。にもかかわらず日本は、男性原理とは対極にあるカワイイ文化や、少女が大活躍するマンガ・アニメが大人気だ。

これは、私たちの「日本文化のユニークさ」四項目でいえば、(4)に対応する。

(4)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかったこと。

近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することであるはずだった。ところが日本は、最初に近代化に成功した重要な非西欧の国家でありながら、文明のいちばん深層の部分では西欧化しなかった国だ。一神教的な男性原理を、根底の部分では受け入れず、その社会・文化の中に縄文時代にまでさかのぼる日本独特の古い層を濃厚に残している。ここに日本文化のユニークさの大切な要素がある。次のエントリーは、そのへんを論じている。

クールジャパンの文明史的な意味(1)
クールジャパンの文明史的な意味(2)
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化

さて、日本の大衆文化は、日本が表面で受け入れた西欧的、近代的な理性や制度を気にせずに、自由に本音を語り、表現する。それが母性原理的なカワイイ文化や、完璧な正義のヒーローもいず、善悪を相対化させるマンガ・アニメの世界への発信となった。

こういう日本文化のユニークさが、もともと西欧で生まれたはずの工業製品の分野でも、現れはじめている。日本の工業製品にも、その日本のユニークさが反映され始めている。「何でもハイハイと従順に仕事をこなすはずだった家電品が、おきて破りのツンデレ対応をする」、「人見知りをしたり、はにかんだりと気まぐれなお嬢様チックな」受け答えをする。男性原理のを体現する工業製品が、日本ではみごとにオタク文化と融合していく。この本は、そのへんに着目し、その流れを拡大することに、日本の産業の未来があると考えているようだ。

しかし、本当に世界はそういう融合を求めているのだろうか。ひとつ面白かったのは、著者が中南米のトラックアート(デコトラ)を紹介している部分だ。中南米の装飾はキリスト教的な表現をとっているものの、底辺に流れるインディオのアニミズム的な魂が感じられるという。コテコテに飾り立てるデコトラ文化は西洋文化をもとに近代化した地域ではメジャーではなく、あっても移民などのエスニックグループに限られる場合が多いという。アメリカでも、ヒスパニック系や、カリビアン系、アフリカ系の中で花咲いているいう。表面はキリスト教化していても、魂の部分ではエスニックなものを忘れていない。どこかで日本人のアニミズム的心性と通ずるものがある。そこが面白い。

では、西欧文化圏ではどうなのか。私は、ハイテク製品とオタク文化がみごとに融合した例に、先に紹介した初音ミクがあると思う。(日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き))これは、マンガ・アニメが受け入れられた米国やヨーロッパでもかなり注目されている。動画もひとつ紹介しておこう。

Alice Live in HD (1080p 1920 x 1080)


ヴォーカロイドとCGの動画がみごとに融合したヴァーチャルアイドルは、画期的な成功例として急速に世界にひろがっていくような気がする。世界中から寄せられたコメントを読んでいるとそれがよくわかる。二つだけ紹介しよう。

「めちゃくちゃその国に行きたいと思わせるような国は、たぶん日本以外にない。それでも外国人が日本人になることは不可能だんだ。ただ、私たちが心の中で日本人であることを知るのにどんな正式の証明書もいらないんだ。」

これが上の動画を見てのコメントである。何とも涙ぐましいではないか。

「だれか俺に100万ドルくれないか。そうしたら俺は日本に旅立ち、女の子と結婚し、子どもを産み、木を植えて、一生のあいだミクの歌を聴き続けるんだ。」

ともあれ、工業製品やハイテク製品が、日本人の独特の心性と融合することによって未来が開けていくという一面は確かにあると思う。
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オタク文化と製造業をどう結びるけるか(1)

2011年01月07日 | coolJapan関連本のレビュー
今日は、一昨日紹介した川口盛之助『世界が絶賛する「メイド・バイ・ジャパン」 (ソフトバンク新書)』のレビューである。

著者は現在、世界的な戦略コンサルティングファームのアーサー・D・リトル・ジャパンで、主に、製造業の研究開発戦略や商品開発戦略などのコンサルティングを行っているという。「世界に誇るオタク文化」と「国の基幹産業である製造業」の架け橋となり、両者の力で日本を元気にすることがライフワークとのことだ。本書も、そんなライフワークにつながる趣旨で書かれている。だから世界が絶賛する「メイド・イン・ジャパン」の現状報告というよりも、「メイド・イン・ジャパン」をより魅力的にするために製造業とオタク文化をいかに結び付けるかという、新しい発想の提案が本書のテーマといってよいだろう。

団塊の世代は、愚直に品質や信頼性を作りこむことで日本製品のブランド力を確立した。しかし今や、愚直なモノづくりをそのまま維持することは現実的ではない。近年、日本発のポップカルチャーが世界で注目されるようになったが、しかし、それだけでは国全体の富を生み出すには不十分だ。これまでに築き上げた「モノづくり魂」とクールジャパンという世界級のカルチャーを融合させる豊かな発想が必要で、今はその絶好のチャンスだという。

近代工業を支える根本概念は、合理的な秩序に支えられた人工の世界観であり、理性的な男性原理が作り出した代表格が、工業製品だ。それは元来、西欧近代に端を発するものだ。ところがその工業製品のかなりの面で、西欧世界を追い抜いてしまった日本では、にもかかわらず男性原理とは対極にあるカワイイ文化や、少女が大活躍するマンガ・アニメが大人気だ。ここに日本文化のユニークさがある。

ところが世界は今、西欧的な男性原理が生み出した、ひたすら機能だけを追求する工業製品に飽き足らなくなっているのというのが著者の判断のようだ。そして、自分が持つ機械や道具にオタク的な発想の付加を加える動きが、個人ではかなり行われ、製品のアイディアとしても、世界に先駆けて始まっているのが日本なのだ。そのような消費者の新しい傾向をうまくとらえた商品がこれからは大きく伸びていくのではないかと著者は主張したいようだ。

ただし著者が挙げているのは、あくまでも発想のヒントとなるかもしれない事例や製品であり、すでに大成功を収めたり、画期的だと評価されたものではない。

たとえば、カスタム車界で急激に拡大したジャンルである「痛車」(いたしゃ)。普通の人々が見ると痛々しいほどにオタク系の美少女キャラでデザインされた車だという。オタク系の文化が世界に広がっている流れの中で、従来のカスタムカーと違って、メジャーに近づく、少なくともマイノリティーに終わらない可能性を秘めているかもしれない。

もう一つ例を示すと、おもちゃとしての遊び感覚で工夫された「ツンデレ」テレビ。チャンネルや音量操作に女の子の声で対応するが、ふつうはツンツンしているのに、ある条件下になるとデレデレといちゃつくという声の態度の変化を楽しめる。ツンデレは、オタク用語から一般に浸透しつつある言葉だという。

こんな例だけ見ていると、これがほんとうに「メイド・イン・ジャパン」の未来を開くアイディアになるの(?)という感じだが、あくまでも、こういう発想の中に新しい商品を開発していくためのヒントが隠されているということである。私も、こういう流れの中で商品を開発していこうとする発想は、これからますます重要になっていうような気がする。

次回は、こうした発想を、これまで私がこのブログで考えてきた日本文化のユニークさや、マンガ・アニメの発信力の理由などと、関連づけて何がいえるかを、すこし補足をしてみたい。

『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1)

2010年12月07日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『「かわいい」論 (ちくま新書)』(四方田犬彦)

マンガ・アニメなど日本のポップカルチャーを特徴づける要素のひとつに「かわいい」があるのは間違いない。そして近年、世界に広まった日本語のなかでも、いちばんポピュラーなのが「かわいい」ではないだろうか。しかし、世界でこれほど人気の「かわいい」カルチャーを正面から論じた本は意外と少ないようだ。その意味でもこの本は貴重だ。

著者によると、日本語以外のいずれの言語でも「かわいい」に相当する単語にはいくぶんか軽蔑的で否定的な含みがあるという。だから日本以外では、美しいと呼ばれるとうれしいが「かわいい」と言われると子供扱いされたような不満を抱くという。

逆に日本では女性が男性に「美しい」と言われるとふき出してしまうだろうが、「君はかわいい」と言われれば、それを相手の男性の真意と受け止めるだろう。「美しい」という言葉は日常の日本語の中でそれほどこなれていないのだ。

この指摘を読んで感じたのだが、元来「かわいい」は二人称的な関係の中での相手に対する主観的な感情を表すが、「美しい」は、より客観的な評価に近いのではないか。「かわいがる」という日本語は普通に使われる、「美しがる」という言い方はかなり不自然だ。「かわいがる―甘える」というような親密な関係が、元々「かわいい」の背景にはある。親しい関係を成り立たせる場の存在が前提となっている言葉なのだ。

そんな「かわいい」が世界に広まるとき、客観的な真理よりもその場の状況を大切にする日本的な感性も同時に広まっているような気がする。「かわいい」人とは、成熟した美しさの持ち主ではなく、どちらかといえば子供っぽく、隙だらけで、たとえ頭の回転はよくなくとも、素直で無垢な存在なのだという。これはそのまま日本人が大切にしてきた価値観ではないか。まさにそうした日本人の価値観や感性が「かわいい」カルチャーを通して世界にひろまっているのではないか。

西欧との子供観の違いが、日本発の「かわいい」カルチャーが受け入れられる背景にあるかもしれない。西欧では、子供は未完成な人間であって、教え導かれ知性と理性を磨くことで、初めて一人前の「人間」に成ると考える傾向がある。子どもはその意味で「人間になる途上の不完全な存在」という文化が支配的であった。そういう文化圏では、「子供らしさ」や「かわいさ」に価値をおく日本のポップ・カルチャーが新鮮な驚きをもって迎えられたとしても不思議ではない。

《関連記事》
「カワイイ」文化について
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
子供観の違いとアニメ
『「萌え」の起源』(1)

《関連図書》
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
★『「かわいい」の帝国
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
★『「萌え」の起源 (PHP新書 628)

『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1)

2010年09月21日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』(アン・アリスン、新潮社)

アメリカの人類学者による、「クール・ジャパン現象」をめぐる本格的でアカデミックな研究書である。原題は、Millennial Monsters(千世紀の怪物たち)、先月末(8月30日)に出版されたばかりだ。日本的なものが、現在どのようにグローバルに普及しているのか、とくに米国市場で子供たちをどのように日本の遊びの美学に適応させたかを、様々な角度から詳細に分析する。この本が取り上げるのは、世界的なブームを引き起こした次の四つである。つまり、パワーレンジャー、セーラームーン、たまごっち、そしてポケモン。

個々のキャラクターグッズ等についての考察については、追って触れることにして、今回は、一読しての全体的な印象に触れておきたい。

まず感じるのは、きわめてアカデミックな研究で、ポストモダンを代表する哲学者にもさかんに言及しながら考察を深める。しかもアメリカの研究者としてはめずらしく、関連する日本語の文献にも相当にあたっいる。さらに、日本のキャラクターグッズを可能な限り多面的に考察しようとする意図的な方法論に貫かれている。コマーシャリズムに乗って投入される商品として、文化パワーの象徴として、楽しく親しみを生むファンタジーとして、ポスト産業化時代の不安をかかえた若者文化の一症状として等々。自分自身も、子供たちに「指導」されながらゲームに夢中になり、多くの子供や関係する人々にインタビューを行うなど、フィールドワークもしっかり行なっているようだ。

ただ、クールジャパン現象を日本の文化的伝統と関連づける考察はほとんどなされておらず、日本のアニミズム的な心性とポップカルチャーを結びつけて論じるところも、きわめて表面的で、むしろ誤解を生みやすい表現になっているところが気になった。

最近の「クール・ジャパン現象」について、日本人の本などではかなりの報告があるし、インターネットに接していれば、ある程度の実感はつかめる。しかし、米国の研究者が、アメリカの内側から、信頼できる研究を行なった成果として確認できるのは貴重だ。

「米国市場で売られている日本製品にファンがつくことなどは別段目新しいことではない。『ゴズィラ』や『スピード・レーサー』を見て育ち、中年になっても日本の作品の熱烈なファンだという人たちを私は大勢知っている。それが今では、日本のポップカルチャー製品は米国市場を席巻しているだけではなく、米国の国民的想像力や想像世界にも大きな影響を与えている。」

そのように大きな影響力を持ち始めた日本のポップカルチャーの秘密を、およそ10年のフィールドワークと、アカデミックな方法論に基づいて、徹底的に探ろうとした本書は、「クール・ジャパン現象」が一時的、表面的なものではなく、現代の世界文化にとってきわめて重大な影響力をもった出来事なのだとうことを認識する上でも、一読の価値があると思う。

『日本はアニメで再興する』(2)

2010年04月13日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本はアニメで再興する・クルマと家電が外貨を稼ぐ時代は終わった (アスキー新書 146)

前回も触れたよう著者は、「世界の若者の人格形成の日本のアニメやマンガがいかに大きなな影響を与えているかを、日本人自身もっとしっかり知らなければいけない時期がきている」と何度も強調する。実際に世界中の多くの若者やメディアに接した上で語る言葉なので説得力がある。いくつか若者の言葉を拾ってみよう。

「今の若いブラジル人の魂は日本のアニメで作られているんですよ」(ブラジル人、バーバラさん)
「夢中になったものは、これまですべて日本のものでした」「みな同じ人間。考えれば考えるほど、同じ結論(日本のものが好きになるということ)に世界の人たちが至るのは当然だと思います」(ブラジル人、カロリーナさん)
「友情、正義、人間関係に何が必要か、人生で大切なことの多くを、私はアニメやマンガから学びました」(イタリア人、シモーナさん)

ほかに、日本のアニメ・マンガから平和のメッセージを受け取り、「日本のアニメは平和のプパガンダとしてもっと活用すべき」と主張する若者もいた。こうした主張を日本人がもっと真剣に受け止め論じるべきではないかというのが著者の考えのようだ。

次に著者が強調していることに「コスプレとロリータの両立」ということがある。世界の「日本熱」にコスプレが与えた影響は、日本人が考えている以上に大きいと著者は考えている。アニメ・マンガのパワーに、コスプレ人気が重なって、その相乗効果で日本への関心がますます急上昇したらしい。

私もYoutubeで調べ、コスプレ関係の動画へのアクセス数が数百万規模になっていることから、それを実感した。さらに日本では、コスプレとロリータ・ファッションは別系統だが、海外ではアニメ・マンガ人気の延長線上で日本発のポップカルチャーとして、一人のファンが共に楽しんでいる場合も多い。

もう一つ著者が強調していることを挙げれば、アニメ・マンガが日本や日本文化のきわめて巨大な宣伝塔になっていて、そこから日本のファッションや食べ物だけでなく、日本語や様々な伝統文化への関心をすごい勢いで高める結果になっていること。にもかかわらず肝心の日本人がそれにあまり気づいておらず、日本人自身がもっと生の情報を知ってもらうと出かけていくような努力をほとんどしていない。さらにそこに隠されている膨大なビジネスチャンスも逃してしまっているのではないか、ということである。

ともあれ、世界中の日本発ポップ・カルチャー人気の実態をじかに体験し、精力的に取材を続け、それを公にしてくれる数少ない人として著者の活動は、重要であり、もっと多くの人が注目すべきであろう。