クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

なぜ日本は「希望の星」なのか

2014年03月24日 | 日本の長所
最近、何冊かを本を読んでいて気づいたことは、世界の様々な地域や国が、一様に日本から学びとりたいと切望していることがあるということだ。それは、日本が高度に近代化し経済的繁栄を謳歌しながら、どのようにしてそれらと自国の伝統や文化的アイデンティティを両立させることができたのかということだ。世界、とくに発展途上国から見ると、日本が日本らしさを失わずに近代社会を築いたことが奇跡と見えるらしい。生活水準は向上させたいが、伝統的な人間関係や共同体も失いたくない。日本はどのようにしてこの二つを両立させることができたのか。

その何冊かの本で、具体的にどのように言っているかを紹介したい。

☆『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力』より

著者は、外交官としてインド、タイ、キューバ、ウクライナ、モルドバなどに勤務したが、これらの国々が日本からぜひ学びたいと思っていることは、日本がどのようにして近代化とアイデンティティを両立させて経済的繁栄を達成したのかだという。 

たとえば、2007年に外務省がウクライナ最大の日刊紙『デニ』のイフナシ編集長を日本に招待した。彼女は帰国後、新聞に「ウクライナは日本の経験に学ぶことにより、近代化とアイデンティティの両立を達成することができると確信した」と書いた。ウクライナの国造りの最大の課題は、「ウクライナのアイデンティティを保持しつつ、近代化を計ること」だからだ。

☆『実は日本人が大好きなロシア人 (宝島社新書)』より

在日ロシア人、セルゲイ・グリス氏の言葉、「キリスト教が入る以前のロシアも神道のように多神教で自然崇拝をしていたし、そこにロシアと日本とを結ぶ精神的な繋がりがあると思っています」、「ロシアの伝統と文化は、共産主義者によって破壊されたため、ロシア民族としての伝統と文化は、ソ連から逃れて日本をはじめとする海外に亡命したロシア人たちによって受けつがれてきました。」

「ロシアはアジアとヨーロッパを繋ぐ橋です。すなわちロシアには、アジアとヨーロッパの良い部分を融和させる使命があります。日本文化もまた、伝統的な文化に、大陸を通して伝わった文化を融和させて独自な文化として発展させてきました。そこで私は、日本文化こそ、キリスト教が入る以前のロシア的な精神と通じるものであると思います。」

☆『日本の敵 グローバリズムの正体』より

著者(馬淵睦夫氏)によると、ロシアのプーチン大統領は、自国をいつまでも石油や天然ガスに頼るだけの経済から脱却させ、近代的な産業国家に育てようとしている。そして、ロシア的なナショナリズムに基づく近代国家を作るにあたって、日本をその参考にすべき国としているのではないかという。ロシアは、単なる欧米化を求めるのではなく、伝統的なスラブ主義との両立を目指している。ロシア的な産業国家の建設がプーチン大統領の悲願であり、そうした背景もあってプーチン大統領は、日本文化に関心をもっているのだという。

ちなみにプーチン大統領の次女エカテリーナは、サンクトぺテルブルグ大学東洋学部で日本語を専攻している。

☆『イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか』より

アラブ首長国連邦(UAE)]のムハンマド・エル・ターイブさんは言う、「2030年のイスラム世界を決めるのは若者たちです。日本は古い伝統、習慣を維持しながら、急速な経済発展を実現しています。我々は日本を教訓にしなければなりません」と。こうした視点から日本をモデルにしようとする国々が、イスラム世界でも増えているようだ。

☆『中韓以外、みーんな親日 ~クールジャパンが世界を席巻中~ 』より

これは著者が聞いた話として紹介されているのだが、日本の伝統と技術のバランスという点については、サハラ以南のアフリカ諸国でも、評価が高いということだ。この地域の国々では、日本が西欧によって植民地化されず、戦後経済成長を成し遂げながらも、日本古来の伝統や儀礼を残し、調和と融合がなされていることに驚嘆を示す人が多いようだ。たとえば、今生天皇の即位の礼を報道する日本の新聞でも、ガーナの指導者が、神道と近代が融合した日本の姿に強く感心していたという。

かつてほとんどの国々が西欧に植民地化され、発展が阻害されたアフリカ諸国にとっては、独自の伝統を守りつつも高度に産業化し近代化した日本の姿は、「羨望の的」であり、「希望の星」なのであろう。

私は、いくつかの本でこのような記事を立て続けに読んだので、世界がそういう眼差しで日本を見ているのだなと強い印象を受けた。自国内から見ると何が日本の良さなのか意外と分からない。しかし世界の発展途上の国々にとって近代化しつつ自国の伝統や伝統的な共同体を守るということは、抜き差しならぬ課題であり、日本はその見事な成功例に見えるのだろう。

日本の隣国である中国や韓国では、この課題に成功したといえるかどうかおぼつかない。日本が模範的な成功例とまでは言えぬにしても、多くの国が日本に学びたいと考えているのは確かなようだ。しかし今、日本ですらこの点で危機に瀕しているかもしれない。日本のなすべきことは、地域の伝統を無視する傾向にある経済のグローバル化に、日本が先頭を切って抗し、自国の伝統や良さを守り続けることだろう。

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自然科学と西欧の風土:風土と日本人(4)

2014年03月10日 | 自然の豊かさと脅威の中で
◆『風土―人間学的考察 (岩波文庫)

今回は再び和辻「風土」論に戻って、モンスーン、砂漠、牧場という三類型のうち、ヨーロッパの「牧場」的風土をどのように論じているかを紹介したい。そこから日本の風土と文化をどう見るかという問題に立ち返るつもりである。

和辻は初めてヨーロッパを訪れたとき、そこに「雑草がない」という事実に驚き、それを一種の啓示としてヨーロッパ的風土の特性をつかみ始めたという。ヨーロッパの風土は「湿潤と乾燥との総合」というべきものである。モンスーン地域と違い、夏は乾燥期であるが、砂漠地域ほど乾燥してはいない。そして冬は雨季であり、夏と冬のこの特性は、南北の気候の違いを超えてヨーロッパに共通している。

そして夏の乾燥が、ヨーロッパを「牧場」的な風土にしている。夏の乾燥は雑草を繁殖させる湿気を欠いており、それが冬の湿潤と相俟って全土を牧場にしてしまうのだ。秋には穏やかな雨に恵まれて、暑さを必要としない冬草の類が柔らかに芽生えてくる。野原にのみでなく、岩山の岩の間にさえもこういう柔らかい冬草が育つ、つまり「牧場」化するのだ。日本の農業では夏の草取りが最重要の労働になるが、ヨーロッパでは雑草との戦いが不要だという。一度開墾された農地は「従順な土地」として人間に従うので、農業労働には自然との戦いという契機が欠けている。

さらにヨーロッパでは、風は一般にきわめて弱く、その弱さは樹木に端正で、規則正しい形を与えるという。不規則な形の樹木を見慣れてた私たちには、その規則正しい形が人工的にさえ見え、さらにはきわめて合理的であるという感じすら与える。 規則正しい形は日本では人工的にしか作りだせないが、ヨーロッパではそれは植物の自然な形なのである。一方、日本では不規則こそ自然な形である。そしてこのような違いは結局、風の強弱によるのである。暴風の少ないところでは木の形が合理的になる。すなわちそこでは自然は合理的な姿で現れるのだという。

自然が従順であることは、自然が合理的で、自然の中から容易に規則を見出す事ができるということだ。そしてこの規則にしたがって自然に対すると、自然はますます従順になる。こうし和辻は「このことが人間をしてさらに自然の中に規則を探求せしめるのである。かく見ればヨーロッパの自然科学がまさしく牧場的風土の産物である事も容易に理解する事ができるであろう」と主張する。

ところで、上に示されたような夏と冬の特徴はヨーロッパにほぼ共通だが、地中海沿岸の南欧と西欧とではもちろん違いもある。西欧は、南欧ほど太陽の光が豊かではなく、冬の寒さも厳しい。和辻は、南欧と違う西欧の特徴を、たとえば日光の乏しい陰鬱さとして論じている。陰鬱な曇りの日には、すべてはもうろうとして輪郭を明らかにせず、それは同時にまた無限の深さへの指標である。そこに内面性への力強い沈潜が引き起こされる。主観性の強調や精神の力説はそこから出てくるのであるという。

ともあれ、西欧のこのように温順な自然は、人間にとって都合のよいものである。そこはかつて恐ろしい森におおわれていたかもしれぬが、一度開墾され、人間の支配下に置かれると、もう人間に背かない従順な自然となった。実際西欧の土地は人間に徹底的に征服されていると言ってよい。

これに対し日本の国土は急峻な山地が多いこともあって人間の支配を受けにくい。日本人はただ国土のわずかな部分のみを極度に利用して生きている。そのわずかな部分も決して温順な自然とはいえない。それは隙さえあれば人間の支配を脱しようとする。この事が日本の農人に世界中で最も優れた「技術」を与えた。しかし日本人はこの「技術」のなかから自然の認識を取り出す事ができなかった。そこから生まれてきたものは「理論」ではなくして芭蕉に代表されるような「芸術」であった。

一方、西欧の従順な自然からは比較的容易に法則が見出される。そして法則の発見は自然をいっそう従順にさせる。このようなことは突発的に人間に襲い掛かる自然に対しては容易でなかった。そこで一方にはあくまでも法則を求めて精進する傾向が生まれ、他方には運を天に委ねるようなあきらめの傾向が支配する。それが合理化の精神を栄えしめるか否かとの分かれ道であったという。

さて、以上のような和辻の論は、モンスーン的風土の湿潤性が、人間を受容的・忍従的にするという論に比べると説得力があるように思われる。自然が規則的であればそこに法則を見つけやすいことは当然だからである。なぜ西欧において近代科学が生まれたのかという問いは、多くの人々が問うてきた大問題であり、それを一神教と結びつけて理解しようとする説もある。いくら絶対唯一の神を信じようと、現実は過酷であり、人間は不可解な神の意志に翻弄さえる。その計り知れない神の意志を少しでも知りたいという願望が、自然や社会の法則性を探る努力につながっていったというのである。西欧の自然が比較的に従順で規則的だったために、その努力が結果を生み出しやすかったのかもしれない。

西洋史学者の会田雄次は『合理主義―ヨーロッパと日本 』で、和辻の風土論を発展させるような形で、西欧に合理主義や近代科学が生まれた背景を探り、さらに日本ではなぜ西欧の近代科学をいち早く取り入れることが出来たのかを問題にしている。次回は会田雄次の論を追いながら考えていきたい。

《関連図書》
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見


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泥と稲作の文明:風土と日本人(3)

2014年03月01日 | 自然の豊かさと脅威の中で


まずお断りしたい。「日本人の宿命」というタイトルのもと何回かに分けて書くつもりでいたが、シリーズとしてのタイトルを「風土と日本人」に変えた。ご了承いただきたい。

前回まで和辻哲郎の『風土―人間学的考察 (岩波文庫)』を読みつつ、若干の批判を加えた。この本については後にまた触れるつもりだが、今回は以下の本に触れなが話を進めたい。

◆『砂の文明 石の文明 泥の文明

この本で著者・松本健一氏は、「泥」の風土で農耕を生業とすることで「泥の文明」が生まれ、「石」の風土で牧畜を生業とすることで「石の文明」が生まれ、「砂」の不毛な砂漠を隊商をくんで生活する民が「砂の文明」を生んだとする。これらはそれぞれ和辻のいう「モンスーン」、「牧場」、「沙漠」という、風土の三つの類型に対応するであろう。

泥の文明は、泥土が多くの生命を生むという事実のうえに成り立つという。生命がたくさん生まれるということは、「畏(かしこ)きもの」(本居宣長)としてのカミ(神)がたくさん生まれてくるということである。ここでいうカミとは、ゴッドではなく小さくとも人間を超えるような力をもつといいう意味で「畏きもの」である。天然の恵みもそうだが、病気や天災もそうである。人間の力を超えるものはすべてカミなのである。

一方、砂漠の砂は生命力を含まない。むしろ生命を排除する。水を含まず粒状でバラバラの砂の中に生物が棲むことはできず、植物がその中に根を下ろすこともできない。石の場合はどうか。全体が固定され場所によって薄い表土があるから植物は育つ。しかし石もあまり生命力は含まない。堅い岩を砕いて開発することで何とか植物を育てることができる。

こうした違いに対応して、著者は「泥の文明」の本質を「内部に蓄積する力」と捉える。「砂の文明」の本質は「ネットワークする力」であり、「石の文明」の本質は「外に進出する力」であるという。ちなみに安田善憲氏は、松本氏との対談(『対論 文明の風土を問う―泥の文明・稲作漁撈文明が地球を救う』)の中で、これらを生業のあり方からそれぞれ「稲作漁撈文明」、「遊牧文明」、「畑作牧畜文明」に対応するとし、それぞれの文明の背後にある特徴を「持続型」、「交渉型」、「拡大型」と捉えなおしてる。以下、この対談の内容も参考にしながら見ていこう。

さて「泥の文明」の本質である「内部に蓄積する力」とはどのようなものだろうか。この本では「石の文明」の本質である「外に進出する力」との比較で考えられているので、まずは「石の文明」に触れる必要があるだろう。「砂の文明」については後に触れる機会があると思う。

あらゆる宗教には、裁く神と赦す神の両面がある。それは父性原理と母性原の違いに対応する。キリスト教も、ユダヤ教から裁く神を受け継ぐが、キリストはその両面をもち、マリアは赦しのイメージが強い。この二面性は、とくに自然が豊饒な南欧のカトリックの国々で顕著である。一方、北欧や西欧に広がったプロテスタントの国々には、マリア信仰はない。父性原理の面が強いのである。これらの国々で利潤を生むものは自然の豊饒ではなく、労働である。プロテスタントでは、労働によって得られた富や利潤は労働の正当な対価として人間の手に入る。

自然が南欧ほど豊饒ではない北欧や西欧では、牧場が広がっていても、その表土はきわめて少なく、牧草ぐらいの根の浅いものしか育たないという。表土の下はすぐ石や岩盤であり、そこで可能な産業は牧畜ぐらいなのだ。しかも牛100頭ぐらいの牧畜では一家をやっと養えるくらいだという。牧畜を産業とするにはかなり広大な規模の牧草地が必要となる。しかもその産業を発展させようと思えば、牧草地を拡大していかなければならない。こうして北フランスやイギリスなど石の風土に成立した牧畜業は、不断に新しい土地を外に拡大する動きを生むという。これが、いわゆるフロンティア運動を生み、アメリカ、アフリカ、アジアへの植民地獲得競争を激化させた。つまり西欧に成立し、アメリカで加速されるフロンティア・スピリットは、牧畜を主産業とするヨーロッパ近代文明の「外に進出する力」を原動力としていたというのだ。

近現代の世界史は、西欧による世界征服、世界の植民地化の歴史とってもよく、なぜそのような歴史が展開したかを探ることは世界史の最重要のテーマといってもよい。上に挙げたのはその解釈のひとつであるが、もちろんこの問題については様々な取り組みがなされている。次回以降、和辻の風土論にも触れながら、その一端を紹介していくつもりである。

とりあえず、「石の文明」の「外に進出する力」に対して、「泥の文明」の「内部に蓄積する力」とは何かというテーマに移ろう。西欧では、拠点としての農村都市があり、そこを中心に牧畜のためのテリトリーを拡大し、次々にフロンティアを探していく。しかし「泥の文明」に根ざす農耕は基本的に定住し、そこで富を蓄積するかたちになる。ひとつの田、ひとつの村の内側でどれだけ富を蓄積していくかに力を尽くす。

また「畑作牧畜文明」地帯での麦作は、麦を蒔いて、麦踏みをし、刈入れする程度で農作業が単純であるため、奴隷を酷使し農耕地の面積を広げていけば生産性が上がった。そのため森林を一方的に破壊して農耕地を広げ、家畜の頭数を増やしていった。これに対して水田稲作農業は、作業工程がはるかに複雑で、種籾選びや苗代作り、田植え、水の交換など、蓄積された高度な技術が必要である。だから稲作は、生産意欲のない奴隷には任せられない。

そこでの技術革新とは、生産力を高めるための品種改良、品質管理、あるいは家の維持のための貯蓄、教育水準の高さ、さらには村(共同体)の繁栄のための相互扶助的な経済システムといった分野で発揮される。これが「内部に蓄積する力」である。拡大というよりも持続と守りを特徴とする。

和辻は、モンスーン的湿潤性と人間のあり方を直接に結びつけて、その特徴を「受容的・忍従的」とした。モンスーン的湿潤性は「泥の文明」を生み、「泥の文明」は水田稲作を特徴とする。それは「石の文明」がもっている「外に進出する力」の能動性に比べればたしかに受動的と言えるだろう。しかし、持続的に内部に蓄積していく発展の仕方は、単純に「受容的、忍従的」とは言い切れない積極性や能動性をも隠しもっているのではないだろうか。和辻の風土論は、モンスーン的湿潤性と人間の性格とを余りに一元的に結びつけることで何か大切なことを見落としているのではないだろうか。

《関連図書》
森から生まれた日本の文明―共生の日本文明と寄生の中国文明 (アマゾン文庫)
対論 文明の風土を問う―泥の文明・稲作漁撈文明が地球を救う
砂の文明・石の文明・泥の文明 (PHP新書)

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