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今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

母性社会日本の意味(2)

2020年10月17日 | 母性社会日本
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。今回は、その後半である。

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西洋近代における自然科学の急速な発展は、「近代的自我」の目覚めと無縁ではない。自我を自然対象と切り離し、客観的な観察対象とする姿勢は、観察の意志を持った自律的な主体の成立と分かちがたく結びついている。そして観察者の状況に左右されない「普遍性」をもった科学的な知は、その応用である科学技術と相俟って、全世界を席巻する強大な力となり、その結果、非西欧世界の大部分が植民地化されていったのである。

西洋のような父性原理の一神教を中心とした文化は、母性原理の多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。そして父性原理を背景とする西欧の「近代的自我」も同様の危機をはらんでいると言えよう。それは、ひたすら科学の進歩や経済の発展を目指して突き進む男性像が中心的なイメージとなっている。そのような自我のイメージと相容れない要素が、抑圧され排除される傾向が強いのだ。具体的には、女性的なもの、異質な文化、無意識、そして病や死だ。

これに対し日本人の精神性の根底には母性的なものが横たわり、物事を区分したり一つの極を中心して堅く統合しようとする傾向は弱い。むしろ両極端をも包み込んでいくような融合性、曖昧性を特性とする。父性原理の伝統に根差した近代西欧は、自我を対象から切り離し、客観的に分析する方法を徹底的に洗練させていった。それに対し母性原理の伝統に育まれた日本文化は、融合性や曖昧性、自然との一体性や、仏教で説かれるような宇宙との融合というあり方を洗練させたのである。

このような日本文化や日本人のこころの在り方は、その独特の美学とも結びついている。それが「曖昧の美学」だ。「曖昧」は成熟した母性的な感性であり、母性原理と結びついている。単純に物事の善悪、可否の決着をつけない。一神教的な父性原理は、善悪をはっきりと区別するが、母性原理はすべてを曖昧なまま受け入れる。能にせよ、水墨画にせよ、日本の伝統は、曖昧の美を芸術の域に高めることに成功した。それは映画やアニメにも引き継がれ、一神教的な文化とは違う美意識や世界観を世界に発信している。また日本が、かつては中国文明、さらには欧米の文明をほとんど抵抗なく吸収できたものこの融合性によるのかもしれない。

重要なことは、「日本的自我」の在り方を「近代的自我」と比較し、劣ったものとして批判することではない。むしろ、日本人の自我の在り方の特性を歪めずに、優劣の判断から自由に、事実として正確に把握することである。我々は、すでに西欧で生まれてた科学技術や社会制度を大幅に受け入れ、これからも受け入れ発展させ続けるだろう。それは父性原理も基づく制度を受け入れ、それを枠組みとする社会に生きているということなのだが、自分たちの特性を充分に理解しないまま受け入れたため、あちこちで混乱を生じているのも事実だ。その混乱を少なくするためにも、自らの在り方への十全な自覚がますます大切になる。その自覚によってこそ混乱への正しい対処法が生まれてくるのだ。

また、現代の国際関係は、父性原理の力学で動いているもの厳然たる事実だろう。そこに自らの母性原理を充分に自覚しないまま関わることで無用な混乱や不利益が生じている場合がある。国際関係で不利益を被らないためにも、彼我の違いを明確に認識しておくことが必要だ。先進7ヶ国首脳会議(G7)において、非キリスト教圏からの参加、つまり母性原理の国からの参加は日本だけである。その意味を自覚して行動すべきだろう。さらに言えば、自らの母性原理の在り方を充分に自覚し、それをこれからの世界にどう生かせるか、その積極的な意味を認識することが、今後の日本にとってきわめて重要な課題なのではなかろうか。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画もご覧ください。

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

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《関連図書》
日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)


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母性社会日本の意味(1)

2020年10月16日 | 母性社会日本
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。

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戦後における日本人論、日本文化論は、R.ベネディクトの『菊と刀』で、日本の文化を「恥の文化」とし、西欧の「罪の文化と比較したのに始まると言ってよよいが、それは同時に二類型による比較文化論の代表例でもあった。この本は今日まで読みつがれ、またこの本に影響を受けたり、それを批判的に乗り越えようとするなどして、その後様々な日本人論が生まれた。母性原理の日本を論じる本稿とこの本の主題は、直接関係しないのでその内容にまでは立ち入らない。しかし、ベネディクトが、日本を「恥の文化」と捉え、西欧の「罪の文化」は内面的な行動規範を重んじるのに対し、恥の文化は外面的な行動規範を重んじるとしたとき、そこに価値判断が忍び込んでいたのは確かなようだ。恥という外面的な行動規範より、罪という内面的な行動規範のほうが優れているという密かな価値判断が見え隠れするのである。さらに言えば、「罪の文化」には、内面的で自律的な行動規範を重視する「近代的自我」に対応し、「恥の文化」は、外面的で他律的な行動規範に影響される「非近代的自我」が対応する。そしてベネディクト以来の、欧米人による多くの日本人論がまた、このような欧米的な価値観を基準にした分析だったのも確かである。

欧米の研究者だけではなく日本人の研究者が日本の社会や文化、そして日本人のこころの在り方を論じるときにも、西欧的な価値基準を絶対視し、それによって日本の在り方を論評するという姿勢から自由になっていない場合がいまだに多い。特に「近代的自我」は、近代民主社会の基盤としてほとんど絶対視される傾向があった。近代的自我を唯一の正しい在り方として捉えるかぎり、日本人の自我の在り方が批判的にしか見れないのは当然であろう。そこから「日本人には自我がない」とか、自己主張が弱く集団に埋没するだとかいう批判が生まれる。

しかし、日本人の自我が西欧人の自我に対して発達が遅れた劣ったものする見方は危険である。すでに見たように日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっている。日本人のアイデンティティは、その個人が所属する「場」によって支えられる傾向がある。そして日本人の自我は、つねに「場」に開かれており、「場」との相互関係のなかで変化する。自他の区別は弱く、自我は曖昧な全体的関連のなかにあり、また自らの無意識との切り離しも強くない。そしてこの事実は、すでに確認してきたように、日本が縄文時代に深い根をもつ母性原理の強い社会を歴史的に形成してたことと深く関係し、この母性原理の社会こそが、日本人の自我形成の基盤となっている。

一方、西洋で生まれた「近代的自我」は、父性原理の一神教、とくにキリスト教の伝統を背景にして生まれたと言えよう。「包含」よりも「切断」を特徴とし、物事を明確に区分する父性原理の思考法は、個の独立という考え方と結びつきやすい。しかし、もちろん最初から個人主義や近代的自我が確立されていたのではなく、キリスト教の伝統が根強かった中世には、個人の意思や欲望が尊重されていたわけではない。父性原理の宗教の基盤の上に、絶対的な神との長い関係と戦いの中で、徐々に人間の自由意志や主体性を確立するに至った。父性原理的な宗教の伝統の中にあり、それに支えられていたからこそ、「個人」の重要性を認識するようになったのだろう。

ここで、本稿の冒頭近くで触れたことをもう一度確認したい。「母性原理」と「父性原理」にしても、あるいは「母性宗教」と「父性宗教」にしても、それは価値的な優劣を意味するものではない。現実の宗教そして文化は、両要素がさまざまに交じり合い融合しており、ともに重要な働きをなしている。どちらが強く働いているかの違いがあるだけである。だとすれば、父性原理をその背後にもつ「近代的自我」を基準として、母性原理に根差す「日本的自我」を一方的に批判するのは、あまり生産的とは言えないでろう。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画もご覧ください。

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

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《関連図書》
日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
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日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
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母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)


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YouTubeで英語による日本文化の発信、チャレンジは始まった!

2020年10月10日 | 全般
SNSを使って英語でどれだけ日本文化を発信できるかというのが、最近の私の活動の中心で、このブログの更新が途切れているのも、私の関心がそちらに変化しているのが主な理由だ。これまでは、TwitterやFacebookが主な活動場所であった。とくにTwitterは、フォローも1万人を超え、私のtweetも毎回1万人前後の人が見てくれるようになった。

→ Tokyonobo 

ここでいろいろ交流できたことは、日本文化論をまとめるにあたっても、何かしら役に立つのではないかと思っている。

ここ数か月は、Youtubeにもチャレンジし始めた。Youtubeでは、音声も英語なのでよりハードルが高くなる。私の英語での動画をどれだけ外国の人々に見てもらえるか、大変だが挑戦のし甲斐はある。チャンネル登録者がようやく100人を超えた程度だが、継続していれば必ず爆発的に増加するときがやってくると信じている。

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

YouTube チャンネルはこちら → Spiritual Japan

コンテンツは、ツイッターへの投稿などでこれまでに蓄積した写真と、これから撮る動画の組み合わせてで、とりあえず東京の日本庭園や大公園を紹介していくことだ。前回は清澄庭園でアップロード、次回は上野公園ということで準備している。この方式だと、これまでに撮りためた写真を再利用して比較的気軽に一つの動画を作れるという利点がある。神社と寺の違いを説明しながら、日本の宗教の特質に迫るという企画も考えている。ここでも、これまでに撮りためた写真が大いに利用できる。東京やその周辺の紹介が終わったら、東京以外の名所にも対象を広げていくことができるだろう。

これまでの活動で、世界中に日本や日本文化のファンが信じられないほと多く存在することはわかっているので、日本文化の紹介という企画は、やり方次第では、かならず伸びるコンテンツだと思う。問題は、英語力をどれだけ高められるかだ。

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Youtubeで英語で日本文化を世界にどれだけ発信できるか

2020年10月03日 | 全般
このブログを、ほとんど更新しなくなって久しいが、最近、ここに書き溜めたものをまとめる形で、短大の紀要に発表するための論文を書いている。実は昨年、「日本文化の相対主義的性格とその現代的意味」という論文を同じ紀要に発表したが、それはこのブログの9項目の視点のうちのひとつ、「(1)日本文化は一貫して、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。 その相対主義的な性格は、以下の項目と密接に関連して形成された」に対応するものだった。これは残りの項目を概観する意図も込めてまとめられた。

現在は、「(3)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し,縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に関連す論文を書いている。タイトルは「日本文化の母性的性格とその意味」。やはり、このブルグに書き溜めたものを整理して書いている。小まめにこのブログを更新していたころの蓄積が大いに役に立っているわけだ。

そんなわけで、日本文化論全体への関心も、再び高まり始めており、全体の構想を一冊の本にまとめるためにも、このブログの更新を再び活性化する意欲が湧いてきている。

ただ、この数年は、日本文化についての英語による世界への発信に私の関心が向いており、もっぱらそちらにエネルギーを注いていた。活動場所は、ツイッターが中心であった。

→ Tokyonobo 

ここでいろいろ交流できたことは、日本文化論をまとめるにあたっても、何かしら役に立つのではないかと思っている。

さらに最近は、英語によるYoutubeでの発信も始めた。初心者で不慣れだから動画作りに時間がかかり、まだチャンネル登録者もほとんどいない状態だが、徐々に工夫して発信力をたかめていくつもりだ。

今日は、久しぶりに東京、江東区にある清澄庭園という日本庭園を約6分の動画にしてYoutubeにアップした。今後、日本の庭園や寺社を英語で解説した動画をいくつかアップしていく予定だ。英語での発信がどれだけ通用するか、チャレンジし続けたいと思う。

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

YoTube チャンネルはこちら → Spiritual Japan

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