クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)

2010年09月25日 | マンガ・アニメの発信力の理由
引き続き『菊とポケモン』に触れながら話を進めるが、レビューというより、この本を参考にしながら、このブログのテーマにそって論じていくという形をとりたい。つまり、「日本文化のユニークさ」として四項目を挙げたうち、

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

と関係させながら、「マンガ・アニメの発信力」の①「生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する」という視点から論じる。

◆『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』(アン・アリスン、新潮社)

著者は、日本のポップカルチャーがポストモダン的な最先端の美意識を表現しているのはなぜかと問い、それを戦後日本の歴史的な要因と、日本文化の伝統的な側面から考えている(第2章および第3章)。今回はとくに後者にのみ触れたい。

「民族的で宗教的な伝統によって育まれた日本のアニミズム的な感性は、米国にはない日本独特のポストモダンの時代背景のなかににじみ出ている」と著者はいう。たとえば日本人はケータイに、ブランド、ファッション、アクセサリーとして多大な関心を払い、ストラップにも凝ったりする。そうしたナウい消費者アイテムにも、親しみ深いいのちを感じてしまうのが日本人のアニミズムだというのだ。そうしたアニミズム的な傾向は、『鉄腕アトム』に代表される多くの作品に見られるような、生命のあるものとないものとがたえず交わり、絡み合う世界を描く、マンガ、アニメ、ゲームなどにも現れている。

このように機械と生命と人間の境界があいまいで、それらが新たに自由に組み立て直されていく、日本のファンタジー世界の美学を著者は「テクノ-アニミズム」と呼ぶ。日本では、伝統的な精神性、霊性と、デジタル/バーチャル・メディアという現代が混合され、そこに新たな魅力が生み出されているのだ。

このブログでもしばしば触れたように西欧に共通するキリスト教的な世界観では、人間が世界の中心であり、人間、生物、無生物は明確に区別される。日本人の感覚は、現代の日常生活の場面でも、モノに生命を与え、そこに精神性を見出す。日本のポップカルチャーに表現されるファンタジー世界は、日本に深く根ざした特有の文化、美的感覚、超自然的なものに対する鋭敏さを表現しており、世界中の人々がその魅力に惹きつけられるようになった。ポケモンをはじめとするファンタジー製品の人気は、そこに日本人のやさしさや感性が表現されているからで、そうした日本の精神の特徴が、現代世界の子供たちたちに伝えられ、生きる力となっている。

ここでは、日本文化のアニミズム性にかかわる一面だけを取り上げたが、著者の考察は多岐にわたり、複雑である。ただ前回も述べたように、日本文化のアニミズムがどのような歴史的な経緯のなかで残り、どのような性質のものかという考察はなく、誤解を呼ぶような単純化された表現が見られるだけである。

《関連記事》
マンガ・アニメの発信力の理由01:ソフトアニミズム
マンガ・アニメの発信力の理由02:手塚治虫、性の垣根
マンガ・アニメの発信力の理由03:『宮崎アニメの暗号』

子供観の違いとアニメ

日本文化のユニークさ03:今息づく縄文の心性
日本文化のユニークさ04『肉食の思想』
日本文化のユニークさ05『日本人の価値観01』
日本文化のユニークさ06『日本人の価値観02』
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓

『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1)

2010年09月21日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』(アン・アリスン、新潮社)

アメリカの人類学者による、「クール・ジャパン現象」をめぐる本格的でアカデミックな研究書である。原題は、Millennial Monsters(千世紀の怪物たち)、先月末(8月30日)に出版されたばかりだ。日本的なものが、現在どのようにグローバルに普及しているのか、とくに米国市場で子供たちをどのように日本の遊びの美学に適応させたかを、様々な角度から詳細に分析する。この本が取り上げるのは、世界的なブームを引き起こした次の四つである。つまり、パワーレンジャー、セーラームーン、たまごっち、そしてポケモン。

個々のキャラクターグッズ等についての考察については、追って触れることにして、今回は、一読しての全体的な印象に触れておきたい。

まず感じるのは、きわめてアカデミックな研究で、ポストモダンを代表する哲学者にもさかんに言及しながら考察を深める。しかもアメリカの研究者としてはめずらしく、関連する日本語の文献にも相当にあたっいる。さらに、日本のキャラクターグッズを可能な限り多面的に考察しようとする意図的な方法論に貫かれている。コマーシャリズムに乗って投入される商品として、文化パワーの象徴として、楽しく親しみを生むファンタジーとして、ポスト産業化時代の不安をかかえた若者文化の一症状として等々。自分自身も、子供たちに「指導」されながらゲームに夢中になり、多くの子供や関係する人々にインタビューを行うなど、フィールドワークもしっかり行なっているようだ。

ただ、クールジャパン現象を日本の文化的伝統と関連づける考察はほとんどなされておらず、日本のアニミズム的な心性とポップカルチャーを結びつけて論じるところも、きわめて表面的で、むしろ誤解を生みやすい表現になっているところが気になった。

最近の「クール・ジャパン現象」について、日本人の本などではかなりの報告があるし、インターネットに接していれば、ある程度の実感はつかめる。しかし、米国の研究者が、アメリカの内側から、信頼できる研究を行なった成果として確認できるのは貴重だ。

「米国市場で売られている日本製品にファンがつくことなどは別段目新しいことではない。『ゴズィラ』や『スピード・レーサー』を見て育ち、中年になっても日本の作品の熱烈なファンだという人たちを私は大勢知っている。それが今では、日本のポップカルチャー製品は米国市場を席巻しているだけではなく、米国の国民的想像力や想像世界にも大きな影響を与えている。」

そのように大きな影響力を持ち始めた日本のポップカルチャーの秘密を、およそ10年のフィールドワークと、アカデミックな方法論に基づいて、徹底的に探ろうとした本書は、「クール・ジャパン現象」が一時的、表面的なものではなく、現代の世界文化にとってきわめて重大な影響力をもった出来事なのだとうことを認識する上でも、一読の価値があると思う。

日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓

2010年09月20日 | 現代に生きる縄文
今回は、日本文化のユニークさのうち、

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

に関して、さらに考えてみたい。(『日本の文化力が世界を幸せにする』を続けて考えると予告したが、これまで語ってきたことと重複するので、やめる。)

今回、あらたに取り上げるのは『ケルトと日本 (角川選書)』の中の「現代のアニミズム-今、なぜケルトか」(上野景文)という論文である。

万葉から近現代まで、そして文学(志賀直哉、大江健三郎、中上健次など)、映画、絵画、音楽にいたるまで、日本文化のアニミズム的特質について、多くの専門家が語っている。しかし上野は、そうした芸術領域よりも、もっと日常的な場面でアニミズム的なものが観られるかどうかをチェックすることが大切だと考える。

そこで上野は、日本人や日本社会の思考、行動様式を以下の七点の特質にまとめる。

イ)自分の周囲との一体性の志向
ロ)理念、理論より実態を重視する姿勢
ハ)総論より各論に目が向いてしまう姿勢
ニ)「自然体的アプローチ」を重視する姿勢
ホ)理論で割り切れぬ「あいまいな(アンビギュアス)領域」の重視
ヘ)相対主義的アプローチへの志向(絶対主義的アプローチを好まず)
ト)モノにこだわり続ける姿勢

これらの特質は偶然に並存しているのではなく、それぞれの根っこに共通の土台として「アニミズムの残滓」た見て取れると、論者はいう。たとえば、ロ)やハ)についてはこうだ。自然の個々の事物に「カミ」ないし「生命」を感じた心性が、今日にまで引き継がれ、社会的行動のレベルで事柄や慣行のひとつひとつにきだわり、それらを「理念」や「論理」で切り捨てることが苦手である。それが実態や各論に向いてしまう姿勢につながる。

だた私は、これらずべてをアニミズムを根拠にして語るよりも、このブログで繰り返し示してきたような、四項目の「日本文化のユニークさ」から総合的に考えた方が無理がないと思う。異民族との激しい闘争がなかったから、宗教やイデオロギーによる絶対主義的思考で対抗する必要がなかった、というような観点も含めて考えた方が、より現実的だろう。

ともあれ、日本社会においては「西洋文明」と「土着文化」は同居し、むしろ土着文化の法が前者を大幅に薄めているのではないか。つまり、アニミズム的、縄文的心性の方が、現代日本文化のメジャープレイヤーなのではないか、と論者は主張する。

どちらがメジャープレイヤーかは、現代日本の文化のどこに基準をおいて見るかによって答えが違ってくるであろう。すくなくとも、制度や表層で自覚される価値観の深層で、自覚されにくい縄文的な心性が、かなり生き生きと活動しているのは確かだろう。その辺をはっきりと自覚することが、今後ますます重要になると思われる。

日本文化のユニークさ16:自然環境が融和を促した

2010年09月18日 | 侵略を免れた日本
日本文化のユニークさのうち

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

については、このから日本人のユニークさを論じた グレゴリー・クラーク の『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)』などを紹介しながら、

日本文化のユニークさ07

日本文化のユニークさ08

日本文化のユニークさ09

日本文化のユニークさ11

などで、すでに論じてきた。多くの論者が、日本文化のユニークさの理由のひとつとしてこの点を挙げており、すでに共通認識といってもよいかも知れない。今回とりあげる『日本の文化力が世界を幸せにする』という本も、この点にかなり言及している。

◆『日本の文化力が世界を幸せにする』(日下公人、呉善花)

日下公人、呉善花の本は、それぞれかなり読んできたし、そのいくつかはこれまでにも取り上げてきた。ところがなぜか、二人の対談であるこの本だけは見過ごしていたことに気づき、さっそく読んでみた。

日下も触れているように、この対談は、呉の日本論を中心に展開し、日下がそれに対し、「できるだけ乾いた論評」で応じるという形になっている。「乾いた論評」とは、呉の日本論に対し、「そうだ、そうだ」と喜んで応じるのではなく、できるだけ客観的に冷静に対応し、ときにはすこし違った角度から応ずるというようなことだろう。日下のそうした配慮が、この対談に深みを与えていると思う。

たとえば、呉が、島国日本の狭隘な地形から、対立よりも融合に向かった日本人の特徴を説明する。山の人が降りていって海草をとったり、海岸の人が山で木をとったり、海の人が山の神を祭ったりなど、融和していくほかない自然環境があった。これに対して大陸では、山の人々、平野の人々、沿岸の人々の生活がまったく別で、融合よりも対立しながら生きてきた。これに対して日下は、そうした自然環境の影響を認める一方、たとえば中国の客家(はっか)は、団結し、円形の城のような集合住宅で暮らし、ながく独立を守り、日本のように集団のメンバーが固定していて、相互信頼が厚い例を挙げる。つまり、自然環境だけではなく、独立を守ろうとする意志の側面も無視できないと指摘るすのだ。

とはいっても二人とも、大陸のように異民族同士の紛争の中で展開した歴史が日本になかったことを、日本文化のユニークさが形成される大きな理由と考えていることは確かなようだ。大陸が異質な共同体同士の敵対的な関係を軸に歴史が展開したのに対し、日本では農耕民と非農耕民が互いを必要とする相補関係をなし、その歴史が相互信頼社会を育んだといえよう。

闘争の歴史の中で生きてきた大陸の人々は、「力の信奉者」とならざるを得ない。人間関係をどちらが強いか、上か下かで判断し、可能なら支配しよう、略奪しようと考えることが習性になってしまう。そこから、信頼を前提とした人間関係は育ちにくい。戦争が絶えないと、それが社会の常識になってしまうのは当然かも知れない。しかし、現代、まがりなりにも平和に暮らせる人々が多くなると、平和を前提とした文化である日本文化の良さが、広く受け入れられるようになる。そこに、日本のマンガ・アニメが世界に普及する理由のひとつがあるかも知れない。

この本には、まだいくつか紹介したい論点があるので、引き続き次回も取り上げたい。

日本文化のユニークさ15:キリスト教が広まらなかった理由

2010年09月14日 | キリスト教を拒否する日本
日本文化のユニークさの根底をなすものを何かを、これまでの三点から、四点にすることを述べた。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

(4)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかったこと。

そして前回、前の三点がすべて、(4)の特徴の理由になっていることを示唆した。というよりも、これまでも折に触れて述べてきた。もう一度ここにまとめておこう。

《1》現代日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、アニミズム的、多神教的な傾向が、無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教など一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。

日本列島で一万年数千年も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。日本人の心に根付く「ソフトアニミズム」は、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。

西洋文明は、キリスト教を背景にして強固な男性原理システムを構築した。それはしばしば暴力的な攻撃性をともなって他文化を支配下に置いた。男性原理的なキリスト教に対して縄文的な基層文化は、土偶の表現に象徴されるようにきわめて母性原理的な特質を持っている。その違いが、日本人にキリスト教への直観的に拒否反応を起こさせたのだともいえよう。

《2》キリスト教は、遊牧民的ないし牧畜民的な文化背景を強くにじませた宗教であり、牧畜文化を知らない日本人にとっては、根本的に肌に合わない。絶対的な唯一神とその僕としての人間という発想、そして人間と動物とを厳しく区別する発想の宗教が、縄文的・自然崇拝的心性には合わない。

この点については、すでに日本文化のユニークさ04で、『肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公新書 (92))』などを中心にして論じたとおりだ。

《3》ユーラシア大陸の諸民族は、悲惨な虐殺を伴う対立・抗争を繰り返してきたが、それはそれぞれの民族が信奉する宗教やイデオロギーの対立・抗争でもあった。その中で、自民族をも強固な宗教などによる一元支配が防衛上も必要になった。キリスト教、イスラム教、儒教などは多少ともそのような背景から生じ、社会がそのような宗教によって律せされることで「文明化」が進んだ。

しかし、日本はその地理的な条件から、異民族との激しい対立・抗争にも巻き込まれず、強固なイデオロギーによって社会を一元的に律する必要もなかった。だから儒教も仏教も、もちろんキリスト教も、社会を支配する強力なイデオロギーにはならなかった。

日本にもキリスト教は伝来したが、この宗教は日本列島にはほとんど定着することができなかったもうひとつの理由は、この時期に日本がキリスト教国による植民地化を免れたからだろう。つまり暴力的な押しつけができなかった。である以上、キリスト教が日本に広まることは不可能であった。キリスト教は、日本の基層文化にとってあまりに異質なために受け入れ難く、また受け入れやすく変形することも難しかったのである。

したがって、日本文化には農耕・牧畜文明以以前の自然崇拝的な心性が、圧殺されずに色濃く残る結果となった。要するにユーラシア大陸に広がった「文明化」から免れた。ヨーロッパで、キリスト教以前のケルト文化などが、ほとんど抹殺されていったのとは、大きな違いである。

一神教は、砂漠の遊牧文化を背景として生まれ、異民族間の激しい抗争の中で培われた宗教である。牧畜・遊牧を知らない縄文文化と稲作文化とによってほぼ平和に一万数千年を過ごした日本人にとってキリスト教の異質さは際立っていた。キリスト教的な男性原理を受け入れがたいと感じる心性は、現代の日本人にも連綿と受け継がれているのである。

日本文明は、母性原理を機軸とする太古的な基層文化を生き生きと引き継ぎながら、なおかつ近代化し、高度に産業化したという意味で、文明史的にもきわめて特異な文明なのである。

日本発のマンガ・アニメは、その特異さ、ユニークさを何らかの形で反映した、不思議な魅力を放つがゆえに、世界に受け入れられたという面があるのではないか。

日本文化のユニークさ14:キリスト教が流入しなかったこと

2010年09月12日 | キリスト教を拒否する日本
これまで「日本文化のユニークさ」の由来を三つの特徴からまとめ、それぞれについていくつかの面から考察してきた。最近、この三つにもう一つ加えた方がいいような気がしてきた。

まず、これまでの三つとは以下の通りである。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

これに加えて、もう一つ以下のような特徴を加えたい。文言は、今後変えるかも知れない。

(4)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかったこと。

この特徴についても詳しくは項目をあらためて、ゆっくり考えていきたいが、ひとつだけ言うと、前の三つがすべて、(4)の特徴の理由になっているということである。この点についてはこれまでも、まとまった形ではないが、触れてきた。次回は、この辺を中心にまとてみたい。

日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化

2010年09月10日 | 相対主義の国・日本
前回、アイルランドのケルト文化に触れ、「いま、ヨーロッパの人々が、キリスト教を基盤とした近代文明の行きづまりを感じ、ケルト文化の中に自分たちがそのほとんどを失ってしまった、古い根っこを見出そうとしている」と紹介した。この問題や日本の縄文以来の文化にも関連するが、一神教と多神教、あるいは男性原理と女性原理の対立という、より一般的な視点から論じているのが、同じ河合隼雄の『中空構造深層』だ。

この中で河合は、「唯一の中心と敵対するものという構造」を持つ一神教と、「二つの極が、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される」日本文化とを比較し、日本文化の「中空性」を浮き彫りにしているが、その特性は日本神話だけではなく、現代のマンガ・アニメにまで受け継がれているようだ。そのひとつが宮崎駿の『もののけ姫』かもしれない。

こうした視点と、たとえば増田悦佐が『日本型ヒーローが世界を救う!』のなかで主張する、日本のマンガ・アニメの特徴とを、比較検討し、総合して考えていくことが重要だろう。彼はいう、日本のアニメ・マンガが世界に発するメッセージは、「善と悪」、「敵と味方」といった二元論に振りまわされない物語展開の中に隠されている。その素晴らしい実例が、『EMOTION the Best GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [DVD]』だという。(そのラストシーンで草薙素子は、悪役人形つかいの提案を受け入れて、一体化していく。)

◆『中空構造日本の深層 (中公文庫)

日本文化がもつ長所と短所、あるいは世界の文化の中で日本文化がどのような意味を持つかを考える上で、きわめて重要な洞察を含む本だと思う。

無意識は、意識化された自我の一面性をつねに補償する働きをもつ。そのような無意識の世界を自我に統合していくプロセスが、ユングのいう「個性化の過程」だ。ユングの患者たちは、キリスト教文化圏の人々だから、彼らの無意識から産出される内容は、正統キリスト教の知を補償するものであることが多かった。

父なる神を天に頂く彼らの意識を補償しようするのは、母なるものの働きである。ユングはそのような観点からヨーロッパの精神史を見直し、正統キリスト教の男性原理を補うものとして、ヨーロッパ精神の低層に、グノーシス主義から錬金術に至る女性原理の流れを見出していった。

西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。

唯一の中心と敵対するものという構造は、ユダヤ教(旧約聖書)の神とサタンの関係が典型的だ。絶対的な善と悪との対立が鮮明に打ち出される。これに対して日本神話の場合はどうか。例えばアマテラスとスサノオの関係は、それほど明白でも単純でもない。スサノオが天上のアマテラスを訪ねたとき、彼が国を奪いにきたと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るための誓いではスサノオが勝つ。その乱暴によって天界を追われたスサノオは抹殺されるどころか文化英雄となって出雲で活躍する。二つの極は、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される。

男性原理と女性原理の対立という点から見ると、日本神話は、どちらか一方が完全に優位を獲得し切ることはなく、一見優勢に見えても、かならず他方を潜在的に含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性を持つ。著者はここに日本神話の中空性を見る。何かの原理が中心を占めることはなく、それは中空のまわりを巡回しながら、対立するものとのバランスを保ち続ける。日本文化そのものが、つねに外来文化を取り入れ、時にそれを中心においたかのように思わせながら、やがてそれは日本化されて中心から離れる。消え去るのではなく、他とのバランスを保ちながら、中心の空性を浮かび上がらせる。

非ヨーロッパ世界のなかで日本のみがいちはやく近代文明を取り入れて成功した。男性原理に根ざした近代文明は、その根底に先に見たような危機をはらんでいる。日本の文化は、近代文明のもつ男性原理や父性原理の弊害をあまり受けていないように見える。それは、日本が西洋文明を取り入れつつ母性的なものを保持したからだろう。しかし単純に女性原理や母性原理に立つのではなく、中空均衡型モデルとでもいうべきものによって、対立や矛盾をあえて排除せず、共存させる構造をもっていたからではないのか。

日本が、男性原理の上に成り立つ近代文明を取り入れて、これだけ成功しながら、なおかつ男性原理の文明のもつ弊害を回避しうる可能性をもっているということが、今後ますます重要な意味をもっていくような気がする。

日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化

2010年09月04日 | 現代に生きる縄文
今回は、「日本文化のユニークさ」というカテゴリー書くが、内容は前回アップした「マンガ・アニメの発信力の理由03」ともつながる。前回、最後に「宮崎アニメは、充分に意図的に、縄文・ケルト的な森の思想を表現している」と書いた。まず冒頭で、『となりのトトロ』にも、そして宮崎が影響を受けた『ミツバチのささやき [DVD]』という二つの映画には、ヨーロッパならローマ帝国以前のケルト人の森の文化、日本なら縄文時代やそれ以前の文化への敬愛が底流に流れている。キリスト教や産業文明以前の、自然と人間が一体となった世界への敬愛。森や森の生き物に共感し、生き物と交流できたり、森から異界への入り込む森の人への共感。今回は、縄文文化と比較されるケルト文化に触れながら、日本文化のユニークさを考えてみたい。

世界中の産業文明の国々は、ヨーロッパがケルト文化をほとんど忘れ去ってしまったと同じように、「前農耕的な」時代の文化の精神的な遺産をほとんど残していない。(ケルト人は、牧畜・農耕を営んでいたが、都市は発達せず、森との共生の中に生きていた。)日本の縄文文化は、一部農耕を取り入れながらも、狩猟・漁労・採集中心の豊かな文化で、それが約1万5千年も続いた。しかもその精神的な遺産が、強力な統一国家やそれに伴う、強力な宗教などによって圧殺されずに、現代にまで日本人の精神の中に生き生きと生き続けている。そこに「日本文化のユニークさ」の基盤がある。世界がほとんど忘れ去ってしまった、文明の古層が、現代の日本人および日本文化の中に息づいているのだ。

以下、河合隼雄の『ケルト巡り』を取り上げて、考えてみたい。

◆『ケルト巡り』(河合隼雄)

かつてケルト文化は、ヨーロッパからアジアにいたる広大な領域に広がっていた。しかしキリスト教の拡大に伴いそのほとんどが消え去ってしまった。ただオーストリア、スイス、アイルランドなど一部の地域にはその遺跡などがわずかに残っている。とくにアイルランドはケルト文化が他地域に比べて色濃く残る。ローマ帝国の拡大とともにイングランドまではキリスト教が届いたものの、アイルランドに到達したのは遅れたからだ。

この本は河合隼雄が、そのアイルランドにケルト文化の遺産を探して歩いた旅の報告がベースになっている。なぜ今、日本人にとってケルト文化なのか。それはケルト文化が、私たちの深層に横たわる縄文的心性と深く響き合うものがあるからだ。

私たちは、知らず知らずのうちにキリスト教が生み出した、西洋近代の文化を規範にして思考しているが、他面ではそういう規範や思考法では割り切れない日本的なものを基盤にして思考し、生活を営んでいる。一方、ヨーロッパの人々も、日本人よりははるかに自覚しにくいかもしれないが、その深層にケルト的なものをもっているはずだ。

ケルトでは、渦巻き状の文様がよく用いられるが、これはアナザーワールドへの入り口を意味する。そして渦巻きが、古代において大いなる母の子宮の象徴であったことは、ほぼ世界に共通する事実なのだ。それは、生み出すことと飲み込むことという母性の二面性をも表す。また生まれ死に、さらに生まれ死ぬという輪廻の渦でもある。アイルランドに母性を象徴する渦巻き文様が多く見られることは、ケルト文化が母性原理に裏打ちされていたことと無縁ではない。父性原理の宗教であるキリスト教が拡大する以前のヨーロッパには、母性原理の森の文明が広範囲に息づいていたのだ。

日本の縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多い。土偶そのものの存在が、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。アイルランドに残る昔話は、西洋の昔話は違うパターンのものが多く、むしろ日本の昔話との共通性が多いのに驚く。浦島太郎に類似するオシンの昔話などがそれだ。日本人は、縄文的な心性を色濃く残したまま、近代国家にいちはやく仲間入りした。それはかなり不思議なことでもあり、また重要な意味をもつかも知れない。ケルト文化と日本の古代文化を比較することは、多くの新しい発見をもたらすだろう。

いま、ヨーロッパの人々が、キリスト教を基盤とした近代文明の行きづまりを感じ、ケルト文化の中に自分たちがそのほとんどを失ってしまった、古い根っこを見出そうとしている。これは河合が言っていることではないが、日本のマンガ・アニメがこれだけ人気になるひとつの背景には、彼らがほとんど忘れかけてしまったキリスト教以前の森の文化を、どこかで思い出させる要素が隠されているからかも知れない。