日本人は、ある種の人間観を前提として行動しているが、その前提についてはほとんど無自覚だというのだ。それは一言でいえば「渡る世間に鬼はなし」という性善説。人間は、本来善良でやさしく、そして一人では生きることのできない弱い存在だから、互いにいたわり合い、助け合って生きていくしかない。中には裏切ったり悪いことをする人間もいるが、それはそうせざるを得ない事情があってのことで、根っから悪い人間はいない。だいたいこんな人間観を前提にして日本の社会や規範は成り立っているというのだ。
人間の誠意や真情を互いに信頼することで、社会の「和」や秩序が保たれる。自分のわがままを抑えることで、相手も譲ってくれ、そこに安定した「和」の関係ができるという性善説を前提として日本の社会はなりたっている。このような日本人の人間観の致命的な欠陥は、それが言語化されていないということ、言葉で確認できる形で日本人に意識化されていないということだ。
みんな仲良く「和」を保つ社会は、逆によそ者やはぐれ者、はみ出し者に対しては残酷な「いじめ」を行うことが多い。「和」といじめは、一体不可分なのだ。
さらに日本人の問題は、このような人間観を他国や他民族にも共有される普遍的なもとの信じ込んで、行動することだ。しかし、日本人のような性善説に立つ人間観はむしろ例外的で、世界の大部分はそういう前提に立っていないから、日本の他国への期待は裏切られることが多い。だから対立や紛争がたえない。しかもやっかいなことに自分たちが前提とする人間観に無自覚で、その人間観を言語化して意識することがないから、問題を議論によって解決することもできず、こじれるケースが多いというのだ。
岸田の説は、ざっとこんな感じで、日本人の性善説の人間観のマイナス面を意識的に強調しているように見える。このブログでは、外国人の目から見た日本人の良さとは何かを、クールジャパン現象という視点とからめて追いかけている。私は、岸田が指摘するように、日本人がかなり特異な人間観をもっているらしいことに賛成するが、その点こそが今、クールジャパンの一面として世界に評価されているのではないかと思う。
次回はその点をさぐってみたい。岸田がいう日本人の人間観のプラス面を考えてみたいのである。(続く)