クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

日本人の人間観・その長所と短所(1)

2009年07月30日 | 日本文化のユニークさ
岸田秀の『日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)』という本を読み直して、ノートをとっていた。すると彼の興味深い日本人論に出会った。ブログでクールジャパン現象を追うようになったので、その日本人論に以前より強く興味を引かれた。まず岸田の議論を追ってみよう。

日本人は、ある種の人間観を前提として行動しているが、その前提についてはほとんど無自覚だというのだ。それは一言でいえば「渡る世間に鬼はなし」という性善説。人間は、本来善良でやさしく、そして一人では生きることのできない弱い存在だから、互いにいたわり合い、助け合って生きていくしかない。中には裏切ったり悪いことをする人間もいるが、それはそうせざるを得ない事情があってのことで、根っから悪い人間はいない。だいたいこんな人間観を前提にして日本の社会や規範は成り立っているというのだ。

人間の誠意や真情を互いに信頼することで、社会の「和」や秩序が保たれる。自分のわがままを抑えることで、相手も譲ってくれ、そこに安定した「和」の関係ができるという性善説を前提として日本の社会はなりたっている。このような日本人の人間観の致命的な欠陥は、それが言語化されていないということ、言葉で確認できる形で日本人に意識化されていないということだ。

みんな仲良く「和」を保つ社会は、逆によそ者やはぐれ者、はみ出し者に対しては残酷な「いじめ」を行うことが多い。「和」といじめは、一体不可分なのだ。

さらに日本人の問題は、このような人間観を他国や他民族にも共有される普遍的なもとの信じ込んで、行動することだ。しかし、日本人のような性善説に立つ人間観はむしろ例外的で、世界の大部分はそういう前提に立っていないから、日本の他国への期待は裏切られることが多い。だから対立や紛争がたえない。しかもやっかいなことに自分たちが前提とする人間観に無自覚で、その人間観を言語化して意識することがないから、問題を議論によって解決することもできず、こじれるケースが多いというのだ。

岸田の説は、ざっとこんな感じで、日本人の性善説の人間観のマイナス面を意識的に強調しているように見える。このブログでは、外国人の目から見た日本人の良さとは何かを、クールジャパン現象という視点とからめて追いかけている。私は、岸田が指摘するように、日本人がかなり特異な人間観をもっているらしいことに賛成するが、その点こそが今、クールジャパンの一面として世界に評価されているのではないかと思う。

次回はその点をさぐってみたい。岸田がいう日本人の人間観のプラス面を考えてみたいのである。(続く)

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『日本の「世界商品」力』

2009年07月25日 | coolJapan関連本のレビュー
◆『日本の「世界商品」力 (集英社新書)

世界が、日本のサブカルチャーに魅せられ、日本が想像する以上にクールジャパン現象が広がっている。アニメ、マンガ、ゲームや映画だけでなく、商品のデザインのセンスのよさ、さらに歌舞伎などの伝統文化の華麗さ、優雅さにも関心が強まっている。クールという言葉を広く、上品、上等といった視点で見ると、日本には上質、上等な文化的産業や、商品がきわめて多い。

日本の産業、企業がめざす次のターゲットは、世界中の中流層の人々にマッチしたクール製品を提供することにあるのではないか。著者・嶌信彦は、それらがこれからの日本経済の成長エンジンとなる可能性があるとし、成長戦略としてのプレゼンテーションを、本書で試みている。

おりしも7月15日付けのニュースで国内で食品最大手のキリンホールディングスと2位のサントリーホールディングスが経営統合の交渉を始めたというニュースが流れた。 「世帯の可処分所得が年50万~350万円くらいのアジアの中間層は、ここ20年で6倍以上に膨らみ、9億人規模と言われる。縮小する国内市場に引きこもらず、高成長のこの新市場を「わが市場」ととらえて活路を開かねば、日本企業の飛躍はあり得ない。 典型的な内需型ビジネスだった飲料業界の両雄がその先駆けとなれば、日本にとって心強いモデルになる。」(同日、朝日新聞社説)  増大しつつアジアの中間層はまさに本書が提示する狙いと同じである。

本書の最初の5章までは、クールジャパン現象を主なジャンル毎に、その歴史的な経緯から現代の興隆まで適確に概観しており、それぞれの分野のクールジャパン現象への入門的な読み物としても価値がある。

たとえは第2章の「世界に誇る日本の美」は、200年前のフランスでのジャポニズムと呼ばれる日本ブームから始まり、現代の最先端の日本発のファッションにまで言及される。つづいて第3章「世界を席巻する日本のコンテンツ」では、手塚アニメのアメリカ進出から、日本アニメ輸出の歴史、アニメからマンガへの広がり、和製ホラーから村上春樹までが語られる。同様に第4章では和食文化と農業製品が、第5章では日本の伝統技術分野でのクールジャパン現象が語られる。

第6章以下では、それらのクールジャパン現象が、「世界商品」戦略にとってどれだけ可能性があるかが、やはり分野ごとに語られる。しかしそれは可能性に留まる場合が多く、これだけ世界に注目されているのに、それらが戦略的な企画として世界に発信される力が弱い。著者の提案をひとつだけ挙げれば、クールジャパンの諸要素を個別に売り込むのではなく、大きなショー、展示、イベントとして世界へプレゼンテーションを行うという構想だ。様々なクールジャパンを束ね、日本発の国際的イベントとしていくつも発信する。たとえば、日本の代表的な祭りをいくつか東京などに集めて二日間ほどの祭中心イベントを行えば、それがクールジャパンの総合的な一大発信力になるだろう。

世界のクールジャパン現象を受身でいい気持になっているだけではなく、いくつもの分野を束ねてイベント化するなど、みずから打ち出していく構想力もって世界に発信する姿勢が今、問われている。


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クールジャパンの文明史的な意味(2)

2009年07月11日 | 現代に生きる縄文
前回、最後にふれた町田宗鳳の『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)』は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教が、歴史上どれほどの愚行を繰り返してきたかを多くの具体的な事実によって徹底的に暴く。

たとえば、アマゾンのインディオたちにキリスト教を布教するために、ヘリコプターでインフルエンザのウィルスを沁み込ませた毛布を上空からまく。それを使ったインディオが次々と発熱する。そこへキリスト教の宣教師がやって来て、抗生物質を配る。たちどころに熱が下がり、自分たちの土着の神々よりも、キリストのほうが偉大な神である説き伏せられてしまう。インディオが改宗するとクリスチャンを名乗る権力者たちが土地を収奪していく(P51)。ヘリコプターとあるから、これはコロンブスの頃の話ではない。現代の話だ。このようなことがキリスト教の名の下に実際に行われているのだとしたら、赦しがたいことだ。

ところで近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することなのだ。日本が、国際政治のパワーポリティクスの場で生彩を欠くのは、一神教的な政治原理による駆け引きが苦手だからかもしれない。

ともあれ日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。ハンチントンは日本の独自性の中味までは指摘しなかったが、それは一神教的なコスモロジーに染まらない何かを強烈に残しているということであろう。他のアジア地域では、アニミズムそのものが消えていったが、日本ではソフトな形に変化しながら、信仰とも非信仰ともいいがたい形をとりつつ、近世から現代へ、一般人の間から文化の中央部にいたるまでそれが残っていったのでる。

日本列島で一万年以上も続いた縄文文化は、その後の日本文化の深層としてしっかりと根をおろし、日本人のアニミズム的な宗教感情の基盤となっている。日本人の心に根付く「ソフトアニミズム」は、キリスト教的な人間中心主義とは違い、身近な自然や生物との一体感(愛)を基盤としている。日本にキリスト教が広まらなかったのは、日本人のアニミズム的な心情が聖書の人間中心主義と馴染まなかったからではないのか。

アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。「日本は20世紀初頭、アジアの国々に対して、欧米列強の植民地主義を打ち負かすことができることを最初に示した国だが、今度は21世紀初頭において、多神教的コスモロジーを機軸とした新しい文明を作り得るということを、アジア・アフリカの国々に範を示すべきだ。日本国民が自分の国の文化に自信をもつことは、そういう文明史的な意味があるのである」と著者はいう。(P134)

もし、アニミズムや多神教的コスモロジーという言葉を使うことに抵抗があるなら、「宗教の縛りが少なく、多様化をよしとする価値観と文化」(伊藤洋一『日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! (講談社プラスアルファ文庫)』)と言い換えてもよい。

世界がクールジャパンに引かれる背景には、現代文明の最先端を突き進みながら一神教的コスモロジーとは違う何かが息づいていることを感じるからではないか。日本のソフト製品に共通する「かわいい」、「子どもらしさ」、「天真爛漫さ」、「新鮮さ」などは、自然や自然な人間らしさにより近いアニミズム的な感覚とどこかでつながっているのではないか。そして、そのような感覚は今後ますます大切な意味をもつようになるのではないか。

世界がなぜ日本のポップカルチャーに魅了されるのかを「文明史的な視点」からとらえなおし、日本人がもっと自信をもって自己を評価すること。そして自信をもって自分たちの文化を世界に発信すること。そのためにもクールジャパン現象を追い続ける意味があるとあらためて思う。

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クールジャパンの文明史的な意味(1)

2009年07月05日 | 現代に生きる縄文
このクールジャパン★cool Japan というブログを始めたは、マンガ、アニメといった日本のサブカルチャーが、私自身考えるよりはるかに広く深く、海外に浸透し始めていることに、興味を持ち、また日本人としての「自尊心」がくすぐられたからだ。

しかしこのブログを続けていく中で、いろいろな本に刺激されて、クールジャパンという現象を探るうちに、そこには当初考えていたよりもはるかに重要な意味があると認識するようになった。大げさな言葉を使えば、そこには「文明史的な意味」すらあるのかも知れない。

サミュエル・ハンチントンは『文明の衝突と21世紀の日本 (集英社新書)』の中で、文化と文明という視点から見れば日本は孤立しているとしている。それは次のような理由からである。

①西欧文明、中華文明、イスラム文明など八つの主要文明のなか、日本文明だけが一国のみでなりたつ独立の文明だからである。他のすべての文明には複数の国がが含まれる。

②日本は、最初に近代化に成功した重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかった国だからである。

だから日本が孤立しているとは必ずしも言えないと思うが、今考えたいのは②の方である。サミュエル・ハンチントンは、日本が西欧化しなかったために失わなかった中味にまでは言及していない。しかし、日本が失わなかったものにこそ大切な意味があり、そこに日本が発信するポップカルチャーを世界がクールと受けとめことの、重要な秘密があるかもしれない。

そう感じるようになったのは、以前にも紹介した呉善花の『日本の曖昧力 (PHP新書)』や『縄文思想が世界を変える―呉善花が見た日本のミステリアスな力 (麗沢「知の泉」シリーズ)』などによる。とくに前者は、縄文的なソフトアニミズムが日本文化の背景にあり、それが日本発のポップカルチャーの魅力となって世界に広がっていると明確に主張している。

ところで、最近読んだ町田宗鳳の『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)』は、縄文文化もそうであったような「多神教的コスモロジー」の復活に、一神教文明行きづまりを打破する重要な意味があるかも知れないと主張する。(続く)

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