クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

アトムと縄文(2)

2012年06月08日 | マンガ・アニメの発信力の理由
『鉄腕アトム』のアトムは、幼い少年の顔をしている。どう見ても低学年の小学生くらいのかわいいイメージである。少年漫画の主人公なのだからそれは当然と思うかもしれない。しかし、それは日本人の感覚なのである。

『鉄腕アトム』を原作とした米国版のコンピューターアニメーション映画『ATOM』(アトム、米題:Astro Boy、2009年)では、制作にあたってアトムの幼い顔が大いに問題になったという。

アメリカの製作者側がデザインした最初のアトムは、かなり大人びたイメージだったようだ。アメリカ人には、手塚のアトムはあまりに幼すぎ、ヒーローとしては不自然さを感じさせてしまうというのでそうなったという。

しかし、これには日本側が納得しなかった。何度かの厳しいやりとりとデザインの変更の末、原作のアトムよりは少しあどけなかさがとれたくらいの顔に落ち着いた。小学生高学年くらいか。こうして日本側の要求がある程度受け入れられたのも、契約書に日本側の承認権を入れていたためという。おかげで、私もさほど違和感なく楽しむことができた。ハリウッド版のアトムのイメージは以下を参照されたい。

http://youtu.be/aJQ-bsGoG_8

日本人には、アトムの幼い姿形やかわいさが自然に受け入れられるが、アメリカ人には不自然に感じられる。その背景には、あどけなさやかわいさに対する日本人の独特の感覚がある。もちろん、現代の「カワイイ」文化の流行も、根は同じところにある。つまり、縄文時代以来の一貫した母性原理の文化が日本人独特の、かわいさへの感性を形づくっているのではないか。

元来「かわいい」は二人称的な関係の中での相手に対する主観的な感情を表すが、「美しい」は、より客観的な評価に近いようだ。「かわいがる」という日本語は普通に使われる、「美しがる」という言い方は不自然だ。「かわいがる―甘える」というような親密な関係が、元々「かわいい」の背景にはある。親しい関係を成り立たせる場の存在が前提となっている言葉なのだ。

日本人は未成熟で子供じみたものにひときわ愛着を示し、また自分の子供っぽいイメージを進んで周囲に示したがる傾向すらある。それは、幼稚であること、無害であることを通して隣人の警戒を解き、互いにその幼稚さを共有しあいながら統合された集団を組織していくからではないか。つまり、甘え合える親しさをよしとする母性原理の社会なのであある。

言い方を変えれば、日本は太古からほどんどずっと、子供っぽさ、幼稚さ、無害、素直さなどをどこかで互いに認め、共有しあって社会関係を結ぶことが許される平和な社会だったのである。逆に、成熟し独立した人格こそが、人間にもっとも大切な価値であるとする社会とは、個々が人が独立した主体として責任をもって判断しながら生きていかなければ、いつ殺されるかもしれない熾烈な社会なのではないか。「かわいい」ことが生き延びていくうえでプラスにもなる社会と、かわいかろうとなかろうと、殺されるときには殺されてしまう社会との違い。

この違いは、日本と西欧との子供観の違いとも重なっている。西欧では、子供は未完成な人間であって、教え導かれ知性と理性を磨くことで、初めて一人前の「人間」に成ると考える傾向がある。子どもはその意味で「人間になる途上の不完全な存在」という文化が支配的であった。一方日本では、「子供は人間らしさの原点」と考えられる。大人になるとは、その無邪気な人間らしさが何がしか失われていくことを意味する。

前回、テクノ-アニミズムと縄文の関係を見た。子どもイメージのアトムが不自然と感じられない日本人の感性も、「カワイイ」文化一般とともに、どうやら縄文以来の母性原理と関係が深そうだ。

《関連記事》
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
「カワイイ」文化について
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
子供観の違いとアニメ
『「萌え」の起源』(1)

《関連図書》
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
★『「かわいい」の帝国
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
★『「萌え」の起源 (PHP新書 628)
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アトムと縄文(1)

2012年05月31日 | マンガ・アニメの発信力の理由
アン・アリスンの『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』については、かつて書評という形でとりあげたり、この本の中のセーラームーン論をとりあげたりした。

『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1)
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)

今回は、この本の中の鉄腕アトム論をヒントにしながら、日本人の縄文的な心性と「鉄腕アトム」との関係を考えてみたい。

現代日本人の中に縄文的な心性が流れ込んでいるといっても、では、私たちの中の何が縄文的なのかいまひとつピンと来ない。しかし、私たち日本人の多くが、楽しんで読んだり見たりした作品の中にそれが表れているとすれば、これかと納得しやすいのではないか。

『菊とポケモン』の中で著者は、縄文時代とか縄文文化とかいう言葉はいっさい使っていない。しかし、鉄腕アトムなどを例にしながら、テクノ-アニミズムという言葉を使って現代日本のポップカルチャーのある一面を特徴づけている。アニミズムとはもちろん、巨石からアリに至るまであらゆるものに精霊が宿っていると感じる心のことだ。それがテクノロジーとどう関係するのか。

鉄腕アトムでは、たとえば警察車両が空飛ぶ犬の頭だったり、ロボットの形もイルカ、カニ、アリ、木まで何でもありだ。マンガ・アニメに代表される日本のファンタジー世界では、あらゆるものが境界を越えて入り混じっているが、その無制限な融合を可能にする鍵が、テクノロジーの力なのだ。メカと命あるものの結合によってテクノ-アニミズムが生まれる。

アトムそのものがテクノ-アニミズムのみごとな具体例だといってもよい。アトムはメカであると同時に、「心」をもった命とも感じられる。正義や理想のために喜んだり、悩んだり、悲しんだりするアトムの「心」に、私たちは感情移入してストーリーに胸を躍らせる。

手塚治虫によってアトムというロボットに「命」が吹き込まれた(アニメイトされた)が、アトム誕生の背後にある道は、かなたの縄文的アニミズムにまで続いている。手塚の作品には、メタモルフォーゼ(変身)に対する憧れのようなものが強く表現されている。『メトロポリス (手塚治虫漫画全集 (44))』など初期の作品からそういう傾向が強く出ている。この作品のミッチーという中性的人間型ロボットは、スイッチを押すことで男にも女にもなれる。男女差どころか、人間と機械の差も曖昧で、こうした変身の要素は、最初から手塚作品の根幹をなしている。こうした要素の根っこを探っていくと、縄文的アニミズムに至りつくはずだ。

『「萌え」の起源』(1)
『「萌え」の起源』(2)

そして、アトムやドラえもんなどファンタジー世界の「生き生きとした」ロボットたちが、ホンダ ASIMOのような人型ロボット開発への情熱を生み出した重要な要因になっている。つまり、縄文的アニミズムは、アトムなどマンガ・アニメの主人公たちを介して、最先端ロボットへと連なっているのだ。

《関連記事》
マンガ・アニメの発信力の理由:記事一覧
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マンガ・アニメと日本の伝統

2012年05月19日 | マンガ・アニメの発信力の理由
前回(15日付)の「日本人はクリエイティブ、なぜ?(4)」で、日本のマンガ・アニメに「相対主義的な価値観にたった作品」が多いことに触れたが、これについて、

「私はこれを先の大戦で負けたことによって,それまでの価値観が全否定されたことに対する反論であるのかと思っておりましたが,もっと昔から「相対主義的な価値観にたった作品」を作っていたのでしょうか?」

というコメントをいただいた。これも、とても興味深い問いなので、十分な答えになるかどうか分からないが、ここで触れてみよう。まず大戦中の価値観への反動として相対主義的な価値観の作品が作られるようになったという面も確かにあるであろう。しかし、相対主義的な価値観そのものが日本文化の伝統に属していることも確かだろう。

では、昔からそのような価値観にたった作品が作られていたのだろうか。その場合、昔とはいつの時代からを指して言えばよいのか。マンガやアニメについて言えば、映画的な手法も取り入れ、現代のような複雑なストーリーをもった作品が作られるようになったのは、手塚治虫などを中心とする戦後の現象だから、戦中、戦前やましてそれ以前については、あまり比較にならない。

もし「相対主義的な価値観にたった作品」がたんなる戦後の現象ではなく、日本の伝統に根ざしているのかどうかを問うなら、江戸時代以前の文学作品を参考にするほかないだろう。そして、その範囲でなら、絶対的な価値観や原理原則を重視しない日本文化の特徴が、かなり色濃く日本の文学作品に反映しているといえよう。

「日本文化のユニークさ」の5番目、「宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかった」であったが、それは日本人が宗教的な絶対的な正義に一種の拒否反応をもっていたことと重なる。

聖徳太子の神仏習合思想以来、日本人は絶対的正義感から自由になったのだともいえる。もちろん日本人も正義感を大切にするが、それは多くの宗教に見られるような絶対的なものではない。むしろそれは、自分たちが所属する社会や、居合わせる「場」の状況によって変化する。悪くすれば迎合主義になるかもしれないが、時代の変化に合わせて価値観や正義感が変わっていくという事実を日本人は抵抗なく受け入れる。そいいう相対主義的な物の見方を日本人は自然に身につけていたのではないか。

「永遠の絶対的な原理」などないという日本人の感覚は、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返されたという、日本の自然条件とも関係するだろう。それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」(『方丈記』)

という無常への詠嘆は、人の権力の盛衰を前にしても繰り返される。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。裟羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす。」(『平家物語』)

「盛者必衰の理」は、権力が人々に押し付ける「正義」の無常にもつながっていた。すべては滅びゆくという無常感や「もののあわれ」の感覚は、日本文学の底流をなす美学だった。それは、日本人の相対主義的な物の見方と深くかかわっていたはずである。少なくとも両者は、一神教世界に見られるような「絶対的正義感」や「永遠の美学」とは、もっとも縁遠いところに位置した。

現代のマンガやアニメが、日本人の伝統的な無常観をストレートに受け継いでいるというのではない。しかし、日本人が伝統的にもっていた自然観や人間観が、どこかでマンガやアニメに反映されているのも確かだろう。そのひとつが相対主義的な価値観なのである。

《関連記事》
日本人はクリエイティブ、なぜ?(1)
日本人はクリエイティブ、なぜ?(2)
日本人はクリエイティブ、なぜ?(3)
日本人はクリエイティブ、なぜ?(4)

《参考図書》
★『偶然を生きる思想―「日本の情」と「西洋の理」 (NHKブックス)
★『日本型ヒーローが世界を救う!
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
★『日本の曖昧力 (PHP新書)

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マンガ・アニメの発信力の理由:記事一覧

2012年04月06日 | マンガ・アニメの発信力の理由
カテゴリー「マンガ・アニメの発信力の理由」で、これまでに書いた記事の一覧である。

書評「『日本辺境論』をこえて」の中で、最近日本人が「辺境人」根性から脱しつつある理由のひとつとして、日本文化と一体となったハイテク製品が世界に影響を当てえている事実を挙げた。もう一つの理由は、言うまでもなくマンガ・アニメに代表されるポップカルチャーの発信力によることなのだが、これについては、その理由をこれまでかなり論じてきた。ここでその一覧を作成しておくのも、今後のためにも必要だろうと思う。参考にしていただければ幸いである。

日本のポップカルチャーの魅力(1)
日本のポップカルチャーの魅力(2)
子供観の違いとアニメ
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
マンガ・アニメの発信力の理由01
マンガ・アニメの発信力の理由02
マンガ・アニメの発信力の理由03
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1) ※1
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1) ※2
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(1)
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(3)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(1):「かわいい」
マンガ・アニメの発信力と日本文化(2)融合
日本発ポップカルチャーの魅力01:初音ミク
日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義
マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(5)庶民の力
マンガ・アニメの発信力:異界の描かれ方
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(3)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)
マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

※1と※2は、カテゴリー「マンガ・アニメの発信力の理由」ではく、「coolJapan関連本のレビュー」の中に入れたものを前後の関係の必要上ここに入れたものである。
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マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

2011年08月06日 | マンガ・アニメの発信力の理由
今回は、昨日も取り上げた櫻井孝昌氏の『ガラパゴス化のススメ』に触れながら、「マンガ・アニメの発信力の理由」を考えてみたい。これまでこのブログでこのテーマを扱う中でまとめたのは、以下の5点であった。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが豊かな想像力を刺激し、作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の独自性。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

⑤知的エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだりり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

櫻井氏が評価する日本の最大の魅力は「オリジナリティ」だという。「日本でしか生まれないものを次々に創り出していく」というのが、世界の若者がもっとも評価する点だというのだ。日本のアニメについていえば、その独創性のいちばんのかなめは、「日本のアニメだけが、アニメーションは子どもが観るものという世界の常識を無視して作られている」ことだ。これはもちろん上の5項目でいえば、③に関係が深い。もともと子ども文化と大人文化に断絶がなかったからこそ、マンガ・アニメが大人の表現形式にもなり得たのだ。

もちろん日本のアニメの強さは、他にもある。週刊マンガ誌という強力な母体から原作が生み出されること、在野のクリエーターのすそ野が広いこと、脚本やキャラクターの設定が深く、次の展開が読みにくいこと、制作上のタブーがきわめて少ないことなど。とくに最後のタブーが少ない点は、上の5項目の④と深くかかっている。タブーが少ないということは、マンガでもアニメでもファッションでも、何かを表現しようとするときに選択の自由があるということだ。

日本人はパリに憧れるが、逆にパリの若者たちはそこでの暮らしに満足していないという。そして彼らの眼は東京に向いている。「東京には選択の可能性がある」。パリをふくめ、ヨーロッパの若者たちは幼いころからアニメやマンガに囲まれ、日本への妄想に近いような思いを抱いているという。ヨーロッパの都市や人が意外と保守的なのは、その宗教に根ざした文化によるのかもしれない。

ファッションジャンルで日本の存在を急速に世界の若者に注目させたものに「ゴスロリ(ゴシック&ロリータ)」がある。ゴシックファッションは、もともとヨーロッパの伝統に根ざしているので、それをロリータと結びつける独創的な発想は、日本以外では生まれえなかった。上の5項目の②にあるような「かわいい」文化の独自性があったからこそ、こうしたユニークな結びつきが可能となったのだろう。

21世紀に入ってもっとも世界に普及した日本語は和製英語の「アニメ」だろうが、それに続く言葉が「カワイイ」ではないかと櫻井氏はいう。世界の若者が「カワイイ」といいう言葉を使うとき、そこには「東京的な」とか「日本的な」といった意味が含まれると語る女の子もいるという。確かに、キュートやミニョンを使わずわざわざ日本語のカワイイを使う以上は、そこに独自のニュアンスを込めたいからだろう。そこには日本や日本のポップカルチャー全体への憧れのようなものが反映されているのだろう。

カワイイという概念が急速に世界に広がったものまた、インターネットの力が大きい。ロリータファッションの愛好家に、その出会いを聞くと、やはりきっかけはアニメであることが多いという。アニメを通して、日本の生活やファッションに興味を持ち、インターネットで日本のものを次々にチェックしていく。櫻井氏の本を読んで知ったのは、どうやら世界では、日本のアニメ・マンガや日本の若者文化の魅力そのものが「カワイイ」という概念で特徴づけられる傾向が強いらしいということだ。「かわいい」文化のもつ発信力がますます大きな影響力をもちはじめているということか。

「かわいい」文化は、おそらく一神教的な父性原理の文化とは正反対の、アニミズム的ないし多神教的な母性原理の反映であり、一表現だ。だから、②の「かわいい」文化の独自性と、①のアニミズム的、多神教的な文化が生み出す想像力の魅力とが結びついている。今、世界は一神教的な文化の強大な影響力のもとに置かれ、しかもそれが行き詰まりを見せている。「かわいい」文化は、一神教的・父性原理的な文化に対する「反乱」の始まりを意味するかもしれない。

《櫻井孝昌氏の関連著作》
アニメ文化外交 (ちくま新書)
世界カワイイ革命 (PHP新書)
日本はアニメで再興する クルマと家電が外貨を稼ぐ時代は終わった (アスキー新書 146)

《関連記事》
『日本はアニメで再興する』(1)
『日本はアニメで再興する』(2)
アニメ文化外交 (ちくま新書):YouTubeでのJapan熱を裏付ける本(1)
「カワイイ」文化について
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マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)

2011年06月11日 | マンガ・アニメの発信力の理由
引き続き、アメリカの女性人類学者アン・アリスンによる、「クール・ジャパン現象」をめぐる研究書『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』の、セーラームーンに関する記述に触れながら進めたい。

ファンである子どもにとっても、また大人にとっても、セーラームーンの一番の魅力は、登場人物がアイデンティティを変化させるという点だろう。「少女がモンスターに、モンスターが少女になるという双方向の変化があり、どちらに変化してもそれぞれの特徴が出ている」 そして少女が、そのアイデンティティをファッションで表現するのと同じ感覚で、アクションシーンにおいても、装備やボディパーツを身に着けるのだ。登場人物は、服を変えるのと同じようにかんたんに、身体をアクションモードに切り替える。

セーラームーンが米国で放送されはじめた当初(1995年)は、登場人物のフレキシブルな変化など、米国にない特色が視聴者に違和感を感じさせ、それが一時的な失敗の原因になったかもしれない。しかし、2000年になると日本語、着物、侍、寺などはっきり日本とわかる要素を前面に出していくことは、ファンを失うどころか、むしろ「クール」とみなされプラスに働くようになったという。

しかし私は、そのような表面的な日本的要素が「かっこいいもの」として受容されるようになっただけではなく、日本文化の根元とつながる発想が受容されるようになったのだと思う。たとえば「登場人物のフレキシブル」な変化、つまり登場人物たちがアメリカのアニメに比べるとはるかに自由にいろいろなものに変身するということは、マンガ・アニメの発信力5項目の①に深くかかわっている。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別せず、またあの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

人間とほかのもの(動物でも、モンスターでも、機械でもよい)との区別があいまいだからこそ、いともかんたんにその境界を飛び越えて双方向に変化が行われるのだ。日本のアニメが、クールと受け止められる底流には、このような発想が米国のファンにも肯定的に受け入れられるようになったという事実があるのだと思う。

さて、セーラームーン人気とともにセーラームーン関連のキャラクター商品もまた世界各国に販路を広げ、何百万ものファンを獲得した。米国市場での評価は賛否両論あったが、それでもセーラームーンがバービー以外で女の子向け大衆文化として世界的人気を得たことは見逃せない。それは、アクションとファッションの両面で「女の子のロールモデル」にまでなった。

著者のアン・アリスンは、その魅力を「アクションがファッションとはっきり結びつけられ、しかもファションとして表現されていることにある」という。セーラームーンは、これまで女の子向け番組で描かれてきた「少女」の類型を変え、それを見て消費し、自分をそこに重ね合わせてきた「少女」のイメージをも変えたという。この点については、マンガ・アニメの発信力5項目の③「かわいい文化」の魅力とのかかわりで項を改めて論んじよう。

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マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)

2011年06月10日 | マンガ・アニメの発信力の理由
アメリカの女性人類学者による、「クール・ジャパン現象」をめぐる本格的で緻密な研究書である『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』については、かつて以下のエントリーでかんたんに紹介したことがある。

『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1)
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)

今回は、この本の数章で取り上げられている個々の作品や製品について、下のマンガ・アニメの発信力5項目に関連させながら紹介してみたい。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別せず、またあの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現と相対主義的な価値観。

⑤知的エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだりり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

まずは第5章で取り上げられている「セーラームーン」である。セーラームーンは1995年に初めてアメリカに上陸したときはまったく注目されず、1996年には商業的に失敗したと判断され、配信していたDICは放送を中止した。しかしそれまでに実は、米国内に数は少ないが熱狂的なファンが生まれていた。彼らが放送続行を訴え「セーラームーンを救え(SOS)」キャンペーンを展開したため、放送は再開され、2002年には、バンダイ製の人形もアメリカの玩具店にまた並ぶようになった。

アメリカのセーラームーンのファンは、この国に溢れているありきたりの男性スーパーヒーローとのちがいに惹かれていった。女性アクションヒーローの登場や、誰か一人を特別扱いしたり悪者にしたりするのではなく、さまざまな要素を絡めて描く複雑なストーリーが絶賛された。

アメリカのファンたちが繰り返し称賛したのは、「セーラームーンには、戦闘とロマンス、友情と冒険、現代の日常と古代の魔法や精霊とが混在し、並列して描かれている点だ」という。物語と登場人物をさまざまな方向から肉づけすることで、ほかのスーパーヒーローものよりも、「リアル」で感情的にも満足できる、というのだ。

この本で紹介される、ファンの代表的な声を抜き出してみよう。

「米国のテレビキャラクターのように無敵でないところがいい。」
「普通の女の子がスーパーヒーローに変身する物語に魅了された。」
「死や真実の愛といったテーマにさまざまな角度から向き合っている。」
「セーラー戦士は男性ヒーローよりも不器用だが、女の子でもヒーローになれるというまったく新しい視点を与えてくれた。」
「変身して人間を超えた力を授かり、戦士として戦う一方、アイスクリームを食べたりビデオゲームをしたりショッピングをしたりといった日常の描写が重要なのだ。」
「泣き虫でもヒーローになれるのよ」
「セーラームーンはごく普通の女の子だと思います。」
「何でもない女の子たちが宇宙を守るなんてすごい。」


こうして並べるとあきらかなように、これらの声は、日本のマンガ・アニメの発信力⑤にいちばん関連がある。意識的にそういうものを選んだこともあるが、全体としてそういう内容のものがかなり多かった。「ごく平凡な主人公」が、しかもアメリカでは従来ありえなかった普通の女の子が、スーパーヒーローに変身するというところに、ファンは強烈な驚きと魅力を感じたようだ。
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マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(3)

2011年01月06日 | マンガ・アニメの発信力の理由
「マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)」の最後で、「マンガ・アニメに古来の日本人のあの世観が反映されているとして、そこにどんな意味があるのか。このような日本人のあの世観が、マンガ・アニメを通して世界に発信されることにどのような意味があるのか」と自分自身に問いかけた。

事実として、太古からの日本人のあの世観が人気マンガやアニメに色濃く反映されていて、それが世界でも人気を博している。世界中の人々が、それを受け入れ楽しんで見ているうちに、その世界観に知らず知らずのうちに影響を受けていることは確かだと思う。それはどのような影響だろうか。私自身、この問題はじっくり考えていきたいのだが、とりあえずそのためのヒントとなる考え方を紹介しておきたい。

先に紹介した梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』と内容はかなりダブるのだが、もう少し本格的な研究書になっている本に同著者の『日本人の「あの世」観 (中公文庫)』がある。その中で著者は次のようにいう。

著者があぶりだしたような日本人の原「あの世」観が、キリスト教、仏教、イスラム教、古代シュメールやエジプトの宗教など世界の多くの宗教のあの世観と比し、どのような位置づけになるかは、本格的な研究を待たなければならない。ただ、著者の推測では、日本人の原「あの世」観は、人間の「あの世」観のごく原初的な形態をとどめており、おそらく旧石器時代に形成されたものなのではないかという。

日本人のあの世観に人類の原初的なあの世観の名残りを見るのは、そこに都市文明の成立以後に発展した世界宗教とは違う姿が見られるからである。日本人のあの世観には、天国と地獄、極楽と地獄の区別も、死後審判の思想も、因果応報の思想も認められない。現世の階級差の激しい社会で虐げられた人々の、願望の投影が見られない。とすれば、日本人の原「あの世」観は、階級や階層が生まれない旧石器時代の人類に共通な原初的な「あの世」観の姿をかなりとどめているのではないか。

この原日本的なあの世観は、決して日本だけのものではなく、かつては普遍的なものであったが、農耕牧畜文明の出現、それに伴って生まれた都市文明の発達によって失われてしまったあの世観だった。ところが日本列島では、世界の文明の流れとは合流せずに、高度に発達した漁撈採集文明が1万数千年も続いた(縄文時代)。しかも水稲農業文明を受け入れたのちも、旧石器時代や縄文時代の心性をそのまま残し、言葉も受け継がれていったため、旧石器時代以来のあの世観も存続していったのではないか。

旧石器時代や縄文時代に息づいていたであろうアニミズムや自然崇拝、生きとし生けるものとの同根・共生の心性は、もちろんあの世観とも一体となって存在していた。縄文遺跡から発掘される土偶は、縄文人たちの生への願望や死への恐れ、畏敬、祈りといった感情が強く反映されている。それらが全体として私たち、現代の日本人の心の深層にも受け継がれている。

そして現代のマンガやアニメ、『ブリーチ』にも、『犬夜叉』にも、『幽・遊・白書』にも、原日本的なあの世観、世界観が反映している。それらは、もしかしたら期せずして世界に、農耕文明以前の人間と自然、人間とその生死とのかかわり方を思い起こさせる役割を果たしているのかもしれない。

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マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)

2011年01月04日 | マンガ・アニメの発信力の理由
前回のアップからしばらくたってしまったが、続きを書きたい。

最近のマンガ・アニメのヒット作のかなりが、あの世や異界、異次元と深くかかわるテーマになっている点に注目し、ここから日本のマンガ・アニメの特徴や魅力の一端が見えてこないかと考えた。それでまず『ブリーチ』を取り上げてみようと思った。

そのために、縄文以来の日本人のあの世観の大まかな姿を、梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』を元にしてまとめ、『ブリーチ』のあの世観と比較してみたいと考えた。

梅原は、日本国家ができる以前に、沖縄、本土、北海道を含めて、一つの共通の基層文化があったと考える。そして、北においてその基層文化を色濃く残存させたのがアイヌ文化、南においてそれを残存させたのが沖縄文化だとし、アイヌ文化や沖縄文化を参考にしながら、『古事記』、『日本書紀』、さらに民俗学の研究などを照らし合わせて、縄文時代以来の古代日本人のあの世観を次のようにあぶりだしている。

1)あの世とこの世はあまり変わらない。極楽のようないいところでもなく、地獄のような苦しいところでもない。ただし、すべてがこの世と逆になっている(この考えは、現在も、弔いのとき死者の着物の合わせをあべこべに着せるなどの風習として残っている。)

2)原則的に、すべての人間があの世に行くことができ、あの世で神になる。ただし、この世で嫌われた人間は、あの世でも嫌われて受け入れてもらえない。またこの世に執着の強い霊は、なかなかあの世に行かない。

3)あの世に極楽も地獄もないから、どちらに行くべきかを決する裁判官もいない。キリスト教でいう最後の審判もなく、仏教でいう閻魔様もいない。

4)人間だけでなく、生きとし生けるものはすべてあの世へ行く。すべてが生と死の絶えざる往復をくり返す。太陽など天地自然もまた、生の世界と死の世界を往復する。

5)あの世とこの世は、それほど遠く離れておえらず、この世の裏側にすぐあの世がある。だからあの世の人たちはすぐにこの世にやってこれるのだが、年中来られてはこまるので、来れる日をお盆や正月やお彼岸に定めている。

6)お彼岸などでの短期の帰還だけでなく、もっと長い帰還がある。ある人が子どもを身ごもると、その一族の死んだ先祖たちが話し合って誰を帰すかを決める。よいことをした人は早く帰れて、悪いことをした人はなかなか帰れない。その基準で一人が選ばれると、あの世から魂が妊婦の腹にヒューッと移動して、この世への長期滞在となる。

こうして見ると、現代日本人の漠然とした最大公約数的なあの世観も、縄文時代の日本人が描いていたあの世観とそんなにずれていないのかもしれない。

そして『ブリーチ』で描かれるあの世も、大枠はこのようなあの世観の上に築かれている。尸魂界(しこんかい:ソウル・ソサエティ)と言われる霊界は、一見したところ、この世とそれほど変わらない家並みの中で、この世とそれほと変わらない生活をしているように見える。

ただし、尸魂界は、霊力を持つ貴族や死神達が住む瀞霊廷(せいれいてい)と、その周囲にある死者の魂が住む流魂街(るこんがい)に区分されていて、暮らし向きや待遇などに厳然とした差がある。この辺は、古代日本人のあの世観にはない差別待遇だが、しかし極楽と地獄、天国と地獄ほどの絶対的な違いがあるわけではない。

梅原は、極楽(天国)、地獄という区別がないのは、この世に階級とか差別がなかった社会の反映ではないかという。キリスト教や仏教のような世界宗教は、巨大国家が成立し、ひどい階級差別や奴隷制度が生じて、その差別に悩む人々を救おうとした宗教で、だからこそ、この世で富み栄えて贅沢三昧だった人々は、あの世で地獄の苦しみを味わうことが必要だったのだろうという。比較的に階級的な差が少なかった日本人には、縄文時代以来の平等なあの世観が受け入れやすいのかもしれない。

極楽(天国)と地獄の区別がないから、裁判官(閻魔)もいらない。『ブリーチ』ではないが、『幽遊白書』で閻魔様がジュニアのかわいい幼児になっているのも、そういう日本人の感覚にあっているのかもしれない。

古来の日本人のあの世観の2)、とくに後半の「この世に執着の強い霊は、なかなかあの世に行かない」という特徴は、『ブリーチ』の中でも重要な意味を持つ。この世の何かに強い未練を持ち、それに因果の鎖を絡めとられ、憑き霊や地縛霊となっている迷える霊を尸魂界(ソウル・ソサイアティ)に送るのが、死神の大切な役割の一つだからだ。成仏できなかった霊が、虚(ホロウ)になるというのは作者の創作だろうが、それもこのような日本人のあの世観を基礎にしてのことだ。

興味深いのは、日本の代表的な芸術のひとつである能も、霊についての同じような考え方を反映させているということだ。能の主人公シテは、多くの場合、怨霊であるという。つまり、この世に強い執着を抱いているために、あの世になかなか行けない霊なのである。そこにワキ(多くは旅の僧)が出てきて、シテの霊を慰めることによって恨みがゆるみ、無事あの世に行けるという筋たてが中心になることが多いのである。

こうして見ると、『ブリーチ』という作品も縄文時代以来の日本人のあの世観を下敷きにしていることは明らかである。ただ、私が「マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)」を書いて、なかなかその続編を書く気になれなかったのには、理由がある。マンガ・アニメに古来の日本人のあの世観が反映されているとして、そこにどんな意味があるのか。このような日本人のあの世観が、マンガ・アニメを通して世界に発信されることにどのような意味があるのか。そこまで突っ込んで何が言えるのかが、まだはっきりしないからである。

他の作品も検討しながらこのテーマを本格的に探るにはもう少し時間がかかるかもしれない。

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マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)

2010年12月25日 | マンガ・アニメの発信力の理由
日本のアニメ・マンガやポップカルチャーの発信力の理由、五項目の①と⑤の表現を変更し、その結果次のようなものになった。今後も、より適切なものに変更できるところは変更していきた。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。
②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。
③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。
④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現と相対主義的な価値観。
⑤知的エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだりり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

昨日、いくつかの作品を例としげ挙げたなかで、『BLEACH―ブリーチ― 』については、「日本的なイメージも強調されるが、その異界観は独特である。いずれにせよ、この世と異界との間に厳密な区別がなく、その自由な交流のなかでストーリーが展開するのが特徴だ」と書いておいた。

そのあとで『ブリーチ』の最初の方を少し見直したり、いくつかのサイトで確認したりした。そして縄文以来の日本人のあの世観を扱った本として、梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』をざっと読みなおしてみた。

それで改めて思ったことは、『ブリーチ』にも縄文時代以来の日本人の「あの世」観が、かなり色濃く反映されているのではないか、ということであった。具体的な習俗やイメージの描き方としてよりは、基本的な「あの世」観としてということであるが。もちろんそこに『ブリーチ』独特の「あの世」観が重ね合わされてはいるが。

『ブリーチ』では、死神は大切な役割を担っている。この世の何かに強い未練を持ち、それに因果の鎖を絡めとられ、憑き霊や地縛霊となっているの迷える霊を、この作品では整(プラス)と呼ぶ。これらの霊は、この世に迷っているだけで基本的には無害だが、彼らを尸魂界(しこんかい:ソウル・ソサイアティ)に送るのが、死神の役割の一つだ。

死神のもう一つの大切な役割は、虚(ホロウ)の浄化だ。死神によって成仏させられなかった霊は、ある一定期間が経つと虚(ホロウ)になってしまう。虚は、現世を荒らす悪霊となり、人間の魂魄(たましい)を主食とするので、生きた人間を襲っては命を奪う。

この作品の主人公の一人は、朽木(くちき)ルキアという死神だ。虚(ホロウ)と戦っているさなかに、主人公の高校生・黒崎一護と出会う。ルキアは、霊が見え優れた霊力を持っていた一護に、死神になるきっかけを与える。出だしのストーリーである「死神代行篇」では、彼ら二人が協力しながら、さまざまな虚(ホロウ)たちと壮絶な戦いを繰り広げる展開が中心だ。

『ブリーチ』の「あの世」観は、きわめて精緻に構築されており、そこに分け入っていったら切りがない感じだ。ここでは基本の一部を押さえただけだが、これを日本人にもともと伝わってきた「あの世」観と比較してみよう。その過程で必要に応じて『ブリーチ』の、もう少し突っ込んだ「あの世」観にも触れるかもしれない。

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マンガ・アニメの発信力:異界の描かれ方

2010年12月24日 | マンガ・アニメの発信力の理由
日本のアニメ・マンガやポップカルチャーの発信力の理由(下の五項目)のそれぞれが、日本文化のユニークさ四項目のとどんな関係があるかという観点から、何回かに分けて考えてきた。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。
②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。
③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。
④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現と相対主義的な価値観。
⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤にする。

その過程で、②の項目を追加したが、今他の項目でもいくつか表現を変える必要があると感じている。ひとつは昨日触れた⑤についてである。⑤は、コンテンツの魅力といいうより、そういう魅力が生まれてくる基盤を述べている。それでこんな風に変更をしたい。

⑤知的エリートにコントロールされない巨大な庶民階層の価値観が反映される。いかにもヒーローという主人公は少なく、ごく平凡な主人公が、悩んだりり努力したりしながら強く成長していくストーリが多い。

これも、まだあくまでも仮のものだが、こんな表現ではどうだろうか。なお「民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民」という特徴は、「日本文化のユニークさ」の方の一項目として新たに付け加えたいと思う。

さて次に、これは新たに項目を作るべきか、すでにある項目の一つに付け加えるべきか迷っていることがある。まず次の作品群を見てほしい。

BLEACH―ブリーチ―

涼宮ハルヒの憂鬱

DEATH NOTE デスノート

鋼の錬金術師

犬夜叉

幽・遊・白書

ヒカルの碁

ざっと思いついた主な作品だけでもこれだけ挙がるのだが、これらに共通する内容上の特徴は何だと思われるだろうか。

そう、これらのいずれもテーマが何らかの形で、あの世、霊、異界、異次元などに深くかかわるのである。もちろんそれぞれが異界を描く仕方はさまざまだ。ひとつの宗教に縛られないだけに、自由に多様な仕方で描かれている。しかし、この世界と異界が密接に結びついていたり、自由に行き来ができるところに大きな特徴があるような気がする。たとえば『デスノート』などはどちらかというとキリスト教的なにおいがする。『犬夜叉』などは純日本的である。『ブリーチ』は、日本的なイメージも強調されるが、その異界観は独特である。いずれにせよ、この世と異界との間に厳密な区別がなく、その自由な交流のなかでストーリーが展開するのが特徴だ。

こうした特徴も、ここにもこれまで見てきたような日本文化のユニークさが背景にあってのことなのだろうか。だとすれば、どんな背景がどのように関係するのだろうか。日本人の異界観や霊界観は、仏教の影響も受けているだろうが、しかしテレビ番組などでよく取り上げられる怨霊とか地縛霊とかは、もともとの仏教とは関係がないといわれる。キリスト教だったら、教義としてある程度はっきりした「死後世界」観があるだろうが、日本人はそういう「明文化」できるうようなあの世観をもっていない。でいながら、あの世や霊界を意外と近しいものと感じている。

日本人が漠然と無意識に受け継いできた「あの世」観とはどんなものだったのか。それが現代のマンガやアニメにどのように反映しているのか。今後は、個々の作品も取り上げながら、おいおい探っていきたい。

それで、この特徴を①に追加して以下のように文章を変えることも考えている。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

しかし、これもあくまでも暫定的なものである。あの世や異界と自由に交流するのが日本的な特色なのか、またそれを縄文時代以来の心性と結びつけていいのか、検討を要する。もしかしたらこのこの特徴は独立した一項目にするかもしれない。いずれにせよ、もう少し勉強し、じっくり考えたい。

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マンガ・アニメの発信力と日本文化(5)庶民の力

2010年12月23日 | マンガ・アニメの発信力の理由
マンガ・アニメの発信力の理由、5項目のうち最後⑤番目の「民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤にする」が、日本文化のユニークさ四項目とどうかかわるかを見ていこう。この項目は、コンテンツそのものがもっている発信力というより、発信力が生まれてくる基盤といっていいかもしれない。むしろ、日本文化のユニークさのひとつと言えるかもしれない。今後検討が必要だ。

この特徴についても、これまで折に触れ記事にしてきた。以下がそれだ。

日本の庶民文化の力
欧米にない日本の大衆社会のユニークさ
日本のポップカルチャーの魅力(2)

なお、その具体例といった感じで書いた記事も挙げておこう。

世界一の「一般人」がいる日本
平凡な日本人のレベルの高さ
自分の仕事に誇りをもつ日本人
日本の長所10:仕事への責任感、熱心さ、誇り①

「民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を」が存在する日本文化のユニークさは、その四項目のうち次に関係が深い。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となり、そういう信頼を前提とした庶民文化が江戸時代に花開いたのだ。

江戸の庶民文化が花開いたのは、武士が、権力、富、栄誉などを独占せず、それらが各階級にうまく配分されたからだ。江戸時代の庶民中心の安定した社会は世界に類をみない。歌舞伎も浄瑠璃も浮世絵も落語も、みな庶民が生み育てた庶民のための文化である。近代以前に、庶民中心の豊かな文化をもった社会が育まれていたから、植民地にもならず、西洋から学んで急速に近代化することができたのである。(中谷巌『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)

以下は、私の見解だが、幕末から明治初期にかけてヨーロッパとくにフランスを中心としてジャポニズムと呼ばれる現象が巻き起り、日本の浮世絵などが印象派の絵画に大きな影響を与えた。これもまた、江戸時代の豊かな庶民文化が背景にあり、庶民の生活から生み出された浮世絵や工芸品だったからこそ、当時のヨーロッパ市民階級の共感を呼ぶものがあったのである。

現代の日本も、江戸時代の庶民文化のあり方を引き継いでいる。世界中のほとんどどの国にも大衆をがっちり支配する知的エリート階級が存在する。しかし日本ではそのような階級はすでに崩壊してしまったか、崩壊寸前だという。何とか自分たちの失地を回復したい日本の知的エリートは、日本について悲観論を繰りかえし、大衆を脅しつけることで支配したいのだ。あらゆる格差の中で知的エリートと大衆との間の格差ほど深刻で、根絶するのが難しい格差はない。ところが日本では、この知的能力格差が消滅寸前に近いという。政治家を一種の知的エリートと捉えれば、そのお粗末さは誰もが納得するだろう。 (増田悦佐『格差社会論はウソである』)

日本のマンガがここまで受け容れられた背景には、欧米のコミックとのマンガのストーリーづくりの違いにある。顕著な相違点は、「強くもなく、特別でもない主人公が、試練と努力を重ね、強く成長していく」というところだ。 欧米のコミックの主人公は、特別な才能を持っていたり、タフだったりと、いかにもヒーローらしい主人公が多い。無敵の主人公に憧れるタイプのストーリー展開になっている。

その点、日本のマンガの主人公は、落ちこぼれだったり、不良だったり、ごく普通の学生だったり、と最初からヒーローでない場合が多い。普通の人間として、マンガに登場する主人公に共感できる。

日本の社会は、階層性のきわめて少ない、巨大な中間層が中心をなし、大衆を形成している社会だ。そのような大衆が生み出す価値観が、マンガの中に自ずと反映されており、それが日本のマンガが受け入れられるひとつの背景になっているかも知れない。マンガは、そうした巨大な「中間層」に消費され、そのような普通の日本人の意識や希望や挫折や喜びや悲しみを反映している。日本人には意識しにくいが、マンガには、外部から見た日本の社会の魅力が、自ずと反映している。だからこそ、それはクールと感じられ、好感ももって受け入れられるのだろう。

現代の庶民文化は、マンガ・アニメを代表とするポップカルチャーを生み出し、それらが世界に影響を与え始めた。ヨーロッパでフランスを中心にマンガ・アニメブームが起こったことは、第二のジャポニズムになぞらえることができるかもしれない。

なお、日本文化のユニークさ四項目の他の項目との関連はうすいと思われるので、ここでは取り上げなかった。

《関連図書》
★『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること
★『格差社会論はウソである
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
★『日本の曖昧力 (PHP新書)

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マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)

2010年12月21日 | マンガ・アニメの発信力の理由
マンガ・アニメの発信力の理由、5項目のうち④番目の「宗教的タブーのない自由な発想と表現、相対主義的な価値観の魅力」が、日本文化のユニークさ四項目とどうかかわるかを見ていこう。

なお日本アニメの相対主義的な価値観を表す代表的な作品に宮崎駿の『もののけ姫 』があるだろう。この作品がもっている文明観の深さについては『宮崎アニメの暗号 (新潮新書)』を紹介しながら簡単に触れた。(マンガ・アニメの発信力の理由03)

えみし(縄文人の末裔といわれる)の村のアシタカは、タタリガミに呪われた己の運命を見定めるため、西を目指して旅立つ。旅先で彼は、森を切り拓いて鉄を作るタタラの民とその長エボシや、森の山犬のとともに生きる少女サンに出会う。エボシたちは、生きていくためにシシ神の森を切り拓き、シシ神を殺そうとする。ヒロインのサンにとっては宿敵だが、一方でエボシは、女達や不治の病に苦しむ人々に生きる場を与え、頼りにされる指導者だ。ここには、単純に善や悪では割り切れない、人間の営みと、それによって失われていくものへの深刻な問いかけがある。

(1)狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。

縄文時代以来、日本人の心の中に無自覚に生き続けるアニミズム的、多神教的な心性が、日本人の相対主義的なものの見方の基盤となっている。

砂漠や遊牧を基盤とする一神教は、善悪を明確に区別し相対主義を許さない男性原理を特徴とするが、自然崇拝的な森の思考は、多様なものの共存を受け入れる女性原理、母性原理を特徴とする。西洋のような一神教を中心とした文化は、多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。

縄文的な心性を受け継ぐ日本神話では、対立する極のどちらか一方が完全に優位を獲得し切ることはなく、一見優勢に見えても、かならず他方を潜在的に含んでおり、直後にカウンターバランスされる可能性を持つ。例えばアマテラスとスサノオの関係は、どちらかを一方的に善か悪に決めつけることができない。スサノオが天上のアマテラスを訪ねたとき、彼が国を奪いにきたと誤解したのはアマテラスであり、どちらの心が清明であるかを見るための誓いではスサノオが勝つ。その乱暴によって天界を追われたスサノオは抹殺されるどころか文化英雄となって出雲で活躍する。この二つの極は、どちらとも完全に善か悪かに規定されず、適当なゆり戻しによってバランスが回復される。(河合隼雄『中空構造日本の深層 (中公文庫)』参照)

このような相対的な価値観が、現代のマンガ・アニメにも受け継がれ、世界に発信されるメッセージのひとつとなっている。

(2)ユーラシアの穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とで言うべき文化を形成し、それが大陸とは違うユニークさを生み出した。

牧畜文化が流入せず、遊牧民族との接触がほとんどなかったことが、また縄文人の心性が日本文化の深層に流れ続けた、一つの理由になっている。その結果、キリスト教の流入も拒まれ、自然崇拝的、相対主義的な世界観が伝統となり、マンガやアニメの世界観の背景になっていった。

(3)大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。

島国であり、ユーラシア大陸から適度が距離で離れているため、大陸の諸民族からの攻撃や虐殺、暴力的な支配をほとんど経験しなかった。それで、大陸の文化のうち自分たちに合う要素を抵抗感なく自由に取り入れ、自分のものにすることができた。かつては中国やインドから、近現代ではヨーロッパやアメリカから。日本人同士の紛争は多く経験しているが、同じ民族同士の戦争なら価値観を変える必要はない。しかし相手が異民族であれば、自民族こそが正義であり、優秀であり、あるいは神に支持されているなどを立証しなければならない。自分にとって都合のよい「普遍的な価値観」によって戦いを合理化しなければならないのだ。

他民族との戦争を通して、部族の神は、自民族だけではなく世界を支配する正義の神となる。武力による戦いとともに、正義の神相互の殺し合い、押し付け合いが行なわれる。社会は、異民族との戦争によってこそイデオロギー的になる。

ところが日本は、異民族との激しい闘争をほとんど経験してこなかったために、西洋的な意味での神も、イデオロギーも必要としなかった。イデオロギーなしに自然発生的な村とか共同体に安住することができた。昭和の一時期を除いて、強力なイデオロギーによる文化の一元支配が、長い歴史のなかでほとんどなかったから、多様な文化アイテムを外国から自由に吸収し、並存させることができた。その、一元的にしばられない何でもありのごった煮のような状態から、自由な発想や組み合わせが生まれてくるのではないだろうか。(G・クラーク『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)』参照)

(4)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかったこと。

西洋人は、そしてユーラシア大陸の多くの民族も、宗教やイデオロギーのような原理・原則の方が優れていると思っている。ところが日本は強力な宗教やイデオロギーによる社会の再構築なしに、村的な共同体から逸脱しないで、それをかなり洗練させる形で、大きくしかも安定した、高度な産業社会を作り上げてしまった。イデオロギー的な宗教支配なくして、とくにキリスト教なくして、キリスト教から派生したはずの近代国家を形成したということ、農耕文明以前の、自然崇拝的な精神を基盤としたまま高度産業社会を発展させたということ。この事実は、文明史的な観点からいってもきわめて特異なことだろう。その特異さは、文化的な観点からいってもきわだっている。宗教などによる一元的な価値観の支配なくして高度に現代的な社会を営み、しかも世界のあらゆる文化的アイテムを相対化して自由に使いこなしながら、相対主義的な価値観にたった作品を次々の生み出してく。

一元的な宗教を基盤とし、多少なりともハードな統合性をもった文化から見ると、日本のポップカルチャーはどこか無原則的に見えだろう。その何でもありの柔軟性や融合性に、自分たちがよって立つ文明原理を根底から揺さぶり動かされるような衝撃と、同時に魅力を感じるのかもしれない。たとえその衝撃がどこから来るのかい無自覚であるとしても。

《関連記事》
日本文化のユニークさ07:正義の神はいらない
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本の長所15:伝統と現代の共存
ジャパナメリカ02
クールジャパンの根っこは縄文?

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マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義

2010年12月20日 | マンガ・アニメの発信力の理由
再び、マンガ・アニメの発信力と日本文化のユニークさとの関係の話題に戻ろう。前回、③子ども文化と大人文化の融合という項目まで論じた。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する
②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力
③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している
④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現と相対主義的な価値観
⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤にする

今回は、④と「日本文化のユニークさ」四項目との関係についてだが、日本文化に見られる相対主義的な価値観については何か所かで多少は触れてきた。たとえば次のようなエントリーなどだ。

世界カワイイ革命(2)
日本文化のユニークさ07:正義の神はいらない
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化

このような絶対的なイデオロギーを嫌う日本文化とマンガ・アニメの関係は、増田悦佐が『日本型ヒーローが世界を救う!』のなかで論じている。

著者によれば、日本のマンガ・アニメの特徴は、集団的英雄像と善悪を相対化する視点だという。現実は、たったひとりの英雄が大衆の無気力や妨害をはねのけて巨悪と対決するおとぎ話ではない。また戦争状態にある集団同士は、一方が完全に正義を体現し、他方は完全に悪を体現するなどということはありえない。そのような相対的な現実を日本のアニメが語り始めた。

日本のアニメ・マンガは、人類全体にとっての優れた無形の財産を形成しつつある。それらが世界に発するメッセージは、「善と悪」、「敵と味方」といった二元論に振りまわされない物語展開の中に隠されているという。その素晴らしい実例が、『EMOTION the Best GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [DVD]』だという。そのラストシーンで草薙素子は、悪役人形つかいの提案を受け入れて、一体化していく。

日本のマンガには、たとえば『らんま1/2 (少年サンデーコミックス)』など、男性と女性の役割がコロコロと入れ替わることをネタにした名作が多い。この役割転換の発想は、戦争での敵・味方を相対化する視点につながるという。

この自由自在の視点の転換が、知識人主導型の社会(アメリカなど)では危険思想に感じられ、脅威になっているのではないかという。そういえば、アメリカン・ヒーローが一方的に正義を振りかざすのは、アメリカの国際社会での態度に似ているかもしれない。同じことは最近の中国にも当てはまるだろう。

では、このような日本のマンガ・アニメの特徴が、「日本文化のユニークさ」四項目とどのようにつながるのか。これについては、次回ゆっくり論じよう。

《関連図書》
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
★『日本の曖昧力 (PHP新書)

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日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き)

2010年12月18日 | マンガ・アニメの発信力の理由
引き続き、初音ミク現象について。より詳しい情報については、下の動画がおすすめ。part6まであるが、ぜひ追って見てほしい。

【HD】初音ミクの世界(World of HATSUNE MIKU) part1

初音ミクは、もともと音楽のソフトとして発売されたが、そのキャラクターをこれほど反響があるとは発売元の会社も考えてもいなかったようだ。しかしキャラクターはイラストや動画として二次創作され、予想もしなかった盛り上がりを見せていく。多くの初音ミクのファンが、音楽ソフトに添えられたキャラクターに命を吹き込んでいく、文字通りanimateしていくプロセスがすごい。ファン一人ひとりの並々ならぬ情熱が、ソフトによる固有の声をもったヴァーチャルアイドルを、あたかも実在するかのように作りあげ、そのアイドルのライブに熱狂し始めたのだ。そして日本のポップカルチャーに関心を持つ世界の若者たちが、日本で始まったこの現象に注目し、ライブの歌やダンスの質の高さに驚き、もっと詳しい情報を得たい、自分たちもライブに参加したいと待ち焦がれている。

日本のポップカルチャーの発信力の秘密という観点から、この現象を考えてみよう。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する
②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力
③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している
④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現と相対主義的な価値観
⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤にする

まさに①のアニミズム的なものへの親和性が、私たちの心に流れているからこそ、ファンの一人ひとりの力を結集してヴァーチャルなものに命を吹き込んでいこうとする動きが、こんなにも盛り上がるのではないか。

そしてヴァーチャルアイドルが、こんなにもファンの心をつかむひとつの理由が、動きがあれほどリアルでありながら、どこか現実ばなれした純粋無垢なかわいらしさの象徴のような表情をしていることにあるのではないか(②)。あれが、もっと生々しい現実的な顔をしていたら、これほどの盛り上がりはなかったかもしれない。

初音ミクらは、音楽ソフトにで作られた音声で自由に歌い、信じられないくらい上手にダンスをする「お人形さん」なのだが、もはや子どもではない若者たちがそれに熱狂することに何の違和感も感じない(②、③)。

おそらくキリスト教文化の本流は、こうしたすべてのことに本来抵抗感をもつので、ヴァーチャルアイドルに熱狂するというような動きは、その文化の内側からは生れて来にくいだろう(④)。

さらに日本語という共通の言語をもった、巨大で知的な庶民が、コンピューターテクノロジーを駆使して、協力しながら創作していったからこそ、ヴァーチャルアイドルのクオリティーの高いパフォーマンスが実現したのだ(⑤)。

こうして考えてみると、日本のポップカルチャーの発信力の秘密のすべてが、初音ミク現象の背後ではたらいているといえそうだ。


《関連図書》
★『ユリイカ2008年12月臨時増刊号 総特集=初音ミク ネットに舞い降りた天使
★『できる初音ミク&鏡音リン・レン VOCALOID2 & Windows Vista/XP 対応 (できるシリーズ)
コメント (2)
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