『鉄腕アトム』のアトムは、幼い少年の顔をしている。どう見ても低学年の小学生くらいのかわいいイメージである。少年漫画の主人公なのだからそれは当然と思うかもしれない。しかし、それは日本人の感覚なのである。
『鉄腕アトム』を原作とした米国版のコンピューターアニメーション映画『ATOM
』(アトム、米題:Astro Boy、2009年)では、制作にあたってアトムの幼い顔が大いに問題になったという。
アメリカの製作者側がデザインした最初のアトムは、かなり大人びたイメージだったようだ。アメリカ人には、手塚のアトムはあまりに幼すぎ、ヒーローとしては不自然さを感じさせてしまうというのでそうなったという。
しかし、これには日本側が納得しなかった。何度かの厳しいやりとりとデザインの変更の末、原作のアトムよりは少しあどけなかさがとれたくらいの顔に落ち着いた。小学生高学年くらいか。こうして日本側の要求がある程度受け入れられたのも、契約書に日本側の承認権を入れていたためという。おかげで、私もさほど違和感なく楽しむことができた。ハリウッド版のアトムのイメージは以下を参照されたい。
http://youtu.be/aJQ-bsGoG_8
日本人には、アトムの幼い姿形やかわいさが自然に受け入れられるが、アメリカ人には不自然に感じられる。その背景には、あどけなさやかわいさに対する日本人の独特の感覚がある。もちろん、現代の「カワイイ」文化の流行も、根は同じところにある。つまり、縄文時代以来の一貫した母性原理の文化が日本人独特の、かわいさへの感性を形づくっているのではないか。
元来「かわいい」は二人称的な関係の中での相手に対する主観的な感情を表すが、「美しい」は、より客観的な評価に近いようだ。「かわいがる」という日本語は普通に使われる、「美しがる」という言い方は不自然だ。「かわいがる―甘える」というような親密な関係が、元々「かわいい」の背景にはある。親しい関係を成り立たせる場の存在が前提となっている言葉なのだ。
日本人は未成熟で子供じみたものにひときわ愛着を示し、また自分の子供っぽいイメージを進んで周囲に示したがる傾向すらある。それは、幼稚であること、無害であることを通して隣人の警戒を解き、互いにその幼稚さを共有しあいながら統合された集団を組織していくからではないか。つまり、甘え合える親しさをよしとする母性原理の社会なのであある。
言い方を変えれば、日本は太古からほどんどずっと、子供っぽさ、幼稚さ、無害、素直さなどをどこかで互いに認め、共有しあって社会関係を結ぶことが許される平和な社会だったのである。逆に、成熟し独立した人格こそが、人間にもっとも大切な価値であるとする社会とは、個々が人が独立した主体として責任をもって判断しながら生きていかなければ、いつ殺されるかもしれない熾烈な社会なのではないか。「かわいい」ことが生き延びていくうえでプラスにもなる社会と、かわいかろうとなかろうと、殺されるときには殺されてしまう社会との違い。
この違いは、日本と西欧との子供観の違いとも重なっている。西欧では、子供は未完成な人間であって、教え導かれ知性と理性を磨くことで、初めて一人前の「人間」に成ると考える傾向がある。子どもはその意味で「人間になる途上の不完全な存在」という文化が支配的であった。一方日本では、「子供は人間らしさの原点」と考えられる。大人になるとは、その無邪気な人間らしさが何がしか失われていくことを意味する。
前回、テクノ-アニミズムと縄文の関係を見た。子どもイメージのアトムが不自然と感じられない日本人の感性も、「カワイイ」文化一般とともに、どうやら縄文以来の母性原理と関係が深そうだ。
《関連記事》
☆『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1)
☆『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
☆「カワイイ」文化について
☆子どもの楽園(1)
☆子どもの楽園(2)
☆子供観の違いとアニメ
☆『「萌え」の起源』(1)
《関連図書》
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
』
★『「かわいい」の帝国
』
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
』
★『「萌え」の起源 (PHP新書 628)
』
『鉄腕アトム』を原作とした米国版のコンピューターアニメーション映画『ATOM
アメリカの製作者側がデザインした最初のアトムは、かなり大人びたイメージだったようだ。アメリカ人には、手塚のアトムはあまりに幼すぎ、ヒーローとしては不自然さを感じさせてしまうというのでそうなったという。
しかし、これには日本側が納得しなかった。何度かの厳しいやりとりとデザインの変更の末、原作のアトムよりは少しあどけなかさがとれたくらいの顔に落ち着いた。小学生高学年くらいか。こうして日本側の要求がある程度受け入れられたのも、契約書に日本側の承認権を入れていたためという。おかげで、私もさほど違和感なく楽しむことができた。ハリウッド版のアトムのイメージは以下を参照されたい。
http://youtu.be/aJQ-bsGoG_8
日本人には、アトムの幼い姿形やかわいさが自然に受け入れられるが、アメリカ人には不自然に感じられる。その背景には、あどけなさやかわいさに対する日本人の独特の感覚がある。もちろん、現代の「カワイイ」文化の流行も、根は同じところにある。つまり、縄文時代以来の一貫した母性原理の文化が日本人独特の、かわいさへの感性を形づくっているのではないか。
元来「かわいい」は二人称的な関係の中での相手に対する主観的な感情を表すが、「美しい」は、より客観的な評価に近いようだ。「かわいがる」という日本語は普通に使われる、「美しがる」という言い方は不自然だ。「かわいがる―甘える」というような親密な関係が、元々「かわいい」の背景にはある。親しい関係を成り立たせる場の存在が前提となっている言葉なのだ。
日本人は未成熟で子供じみたものにひときわ愛着を示し、また自分の子供っぽいイメージを進んで周囲に示したがる傾向すらある。それは、幼稚であること、無害であることを通して隣人の警戒を解き、互いにその幼稚さを共有しあいながら統合された集団を組織していくからではないか。つまり、甘え合える親しさをよしとする母性原理の社会なのであある。
言い方を変えれば、日本は太古からほどんどずっと、子供っぽさ、幼稚さ、無害、素直さなどをどこかで互いに認め、共有しあって社会関係を結ぶことが許される平和な社会だったのである。逆に、成熟し独立した人格こそが、人間にもっとも大切な価値であるとする社会とは、個々が人が独立した主体として責任をもって判断しながら生きていかなければ、いつ殺されるかもしれない熾烈な社会なのではないか。「かわいい」ことが生き延びていくうえでプラスにもなる社会と、かわいかろうとなかろうと、殺されるときには殺されてしまう社会との違い。
この違いは、日本と西欧との子供観の違いとも重なっている。西欧では、子供は未完成な人間であって、教え導かれ知性と理性を磨くことで、初めて一人前の「人間」に成ると考える傾向がある。子どもはその意味で「人間になる途上の不完全な存在」という文化が支配的であった。一方日本では、「子供は人間らしさの原点」と考えられる。大人になるとは、その無邪気な人間らしさが何がしか失われていくことを意味する。
前回、テクノ-アニミズムと縄文の関係を見た。子どもイメージのアトムが不自然と感じられない日本人の感性も、「カワイイ」文化一般とともに、どうやら縄文以来の母性原理と関係が深そうだ。
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☆子どもの楽園(1)
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☆子供観の違いとアニメ
☆『「萌え」の起源』(1)
《関連図書》
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
★『「かわいい」の帝国
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
★『「萌え」の起源 (PHP新書 628)