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★伊能忠敬 その生き様は何を語る!あなたの意見は多数派?少数派?
江戸時代の後期は、数学、天文学、暦学などが大いに発展した時代です。たとえば数学では関孝和が、現代で言う微積分近い理論を展開し、天文学でも、高橋至時らが西洋の天文学や暦法を取り入れて「寛政暦」を作り、従来の暦法の誤差を減少させました。彼らの観測と計算は極めて正確で、特に日食や月食の予測では従来の和暦よりも高い精度を誇りました。鎖国のもと制限があるなかで、これらの学問を独自に発展させたことは驚くべきことです。伊能忠敬の偉業もこうした流れの中で達成されたのです。
この動画ではまず、江戸時代に日本で初めて正確な日本地図を完成させた伊能忠敬の生涯を簡潔にまとめました。そして最後に、彼の人生をあなたはどう思い、自分はどう生きたいか、六つの選択肢で問いかけました。回答が一定数になれば、あなたと他の人々の回答を比較して感がえるきっかけとなるでしょう。動画の下からぜひ回答をお願いします。 伊能(いのう)忠(ただ)敬(たか)は、1800年から1816年まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本(だいにっぽん)沿海(えんかい)輿地(よち)全図(ぜんず)』を完成させ、初めて日本の国土の正確な姿を明らかにした人物です。
彼は1745年に、現在の千葉県九十九里町に生まれました。6歳の時に母親が亡くなり、家は母親の弟が継ぐことになりました。婿養子だった父親は忠敬の兄・姉を連れて、同じく九十九里浜に近い実家に戻りました。しかしなぜか忠敬はそのまま祖父母の家に残されました。やがて10歳の時に父に引き取られたましが、継母のいる父の家には長くとどまらず、いくつかの親戚の家に移り住みました。 忠敬は、このような境遇のなかでも学問への関心が強く、とくに数学が得意でした。また夜空を眺めては天体への関心を募らせました。そして、いつか大きな仕事をして名を成そうと心に誓ったのです。
1762年、17歳のときに千葉県香取市佐原の酒造家・伊能家の婿養子となり、伊能三郎右衛門(さぶろえもん)忠敬と称するようになりました。伊能家は酒造り、米、薪、燃料等などの取引きを行なっていましたが、その商売は順調とはいえませんでした。忠敬は結婚後20年たつ頃、その努力と手腕でようやく伊能家を盛り返したといいます。 36歳のときに村長(名主(みょうしゅ))に選ばれた忠敬は、飢饉のときにも飢えに苦しむ人々に手を差し伸べ、蓄えた米や金銭を分け与えました。各地区で、特に暮らしもままならない貧しい人々を調べ上げ、そのような人には特に優先して施しを与えました。
天明の大飢饉(1782年から1788年)のときに佐原からは一名の餓死者も出さなかったといいます。こうして、この地域では有名な名主として知れ渡るようになりました。一方では、堤防修理や新田開発の必要から測量の技術も身につけました。
当時の江戸時代は、平均寿命が40歳余りで、通常50歳を過ぎたら隠居生活をする者が多かったのですが、しかし忠敬は49歳で仕事を長男に譲ったあと、1795年、50歳でひとり江戸へ出て天文・暦学の勉強を始めました。少年の頃からの夢を実現するためです。この時に忠敬が弟子入りした師匠は、当時30歳の新進の天文学者・高橋至(よし)時(とき)でした。彼は、浅草にあった天文方(てんもんかた)(江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関)に勤務していました。忠敬は、自分よりも19歳も年下の若き学者を師とし、それまでとは全く違う道に挑戦を始めたのです。
彼は、師について天文・暦学を勉強するとともに、自宅に天文方に匹敵する規模の観測所を設けて、太陽や恒星の高度などを熱心に観測し、天体運行の計算に熱中しました。勉強中に、師の高橋至時が日食、月食の正確な予測のため、地球の大きさを知りたがっていることを知ると、忠敬はさっそく、深川―天文方間を歩測して緯度1分の距離を歩測で求めて提出しました。浅草の天文方と自宅の間に緯度1分半の差があることはわかっていたのです。
師匠は「深川―天文方間では近かすぎる。蝦夷地(えぞち)(北海道)くらいまで測ったら信頼できる値になるだろう」と述べ、その結果、幕府に蝦夷地測量の申請書を提出することになりました。 やがて忠敬55歳のとき、申請が許可されて北海道の測量のチャンスに恵まれました。当時北海道にはロシアの船がたびたび来航し、ときに襲撃などもあったので、幕府も北海道の正確な地図が必要だったのです。
忠敬の測量に連れ立ったのは息子、弟子、下男など計8人と馬2頭でした。この時の測量は一定の歩幅(70cm)になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法でしたが、それでも毎日40kmを移動したといいます。蝦夷地滞在は117日間にも及び、帰宅後は測量データをもとに3週間かけて地図を完成させました。しかも、こうして忠敬が実際に歩いて測定した緯度1度の距離は、現在の数字と比べてもほとんど誤差がなく、その結果、地球の大きさがほぼ正確につかめたのです。
出来上がった地図は、幕府から高く評価されました。忠敬はその後、幕府から、東北地方さら九州に至るまで、日本全国の地図を作ることを依頼され、70歳まで全国を測量して回りました。
測量作業を終えた彼は、江戸に帰ると弟子たちとともに地図作成にとりくみましたが、1818年に突然の病で亡くなりました。彼の死後も、後継者たちの努力により1821年ついに壮大な仕事は完成されたのです。 当時、蝦夷地に頻繁に姿をあらわすロシアの艦隊だけではなく、九州で暴れまわるイギリスにも手を焼いていた幕府にとって、忠敬が作った正確な日本全体の地図は海防の上でも貴重でした。日本に開国を迫ったペリーも、伊能図の精確さには驚嘆したといいます。実際この地図は、現代地図との誤差1000分の1の高い精度で、なんと70年もの間、公式に用いられ、明治17年に陸軍測量部作成地図の基本図になるなど、日本の近代化に大いに貢献したのです。
今の測量とは比べものにならない困難を乗り越えながら成し遂げられた偉業。伊能忠敬の名前は「日本地図を初めて作った人」として知られているものの、それが55歳を過ぎてから始められたこと、たくさんの苦難に見舞われながらの測量だったことなどはあまり知られていません。本当の日本の姿を映す科学的な日本地図が必要だ、何としてでもそれを作ろうという「高い目標」こそが、彼の生き方を支えていたのでしょう。
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