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平等社会の根は縄文か:現代人の心に生きる縄文03

2012年10月12日 | 現代に生きる縄文
引き続き、日本文化のユニークさ7項目にそってこれまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続ける。7項目は次の通りである。

日本を探る7視点(日本文化のユニークさ総まとめ07)

まずは(1)「狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている」に沿って、縄文文化に関連した記事を集約している。

日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
主に狩猟採集を生活の糧にしていた縄文人は、必要以上に獲物を乱獲すれば、やがてつけは自分たちに回ってくることを知っていた。大自然に畏敬の念をもち、土地を安易に傷つけることもなかった。そのため、土地を貪欲に開墾し、奪い合い、増殖していく稲作民の行動に、本能的に拒絶感をもつ縄文人がいたのではないか。

ただし最近の考古学は、稲作を積極的に受け入れた縄文人もいたことを明らかにしつつある。したがって単純に「弥生人=渡来人」なのではなく、「弥生人=稲作を選択した縄文人+弥生人」ととらえる方が実態に近いというのが著者の主張だ。文化的には、縄文系の風俗、習慣、信仰心などに溶け込んでいったので、縄文文化は抹殺されず、むしろ生き生きと後の時代に受け継がれていくことになったのである。つまり、日本の歴史はその原初から、従来の文化を基盤としつつそこに新しい文化を取り入れ、自分たちに適した形に変えていくという、その後何度も繰り返えされる歴史の原型を作っていたのである。

さらに日本列島は、国土の大半が山林地帯だ。水田稲作の長い歴史があるが、その特徴は狭小な平野や山間の盆地などでほぼ村人たちの独力で、つまり国家の力に頼らずに、灌漑設備や溜池などを整備してきたことだ。一方中国大陸では、広大な平野部で大規模なかんがい工事を推し進める必要から、無数の村落をたばね無数の労働力を結集させる力が国家に要求された。巨大な専制権力が必要だったのだ。それを可能にするのに政治的、文化的な統治イデオロギーも必要だった。そのイデオロギーをやがては儒教が担うことになる。こうしてしだいに農耕文明以前の精神性(日本でいえば縄文的・多神教的な精神性)が失われていった。

逆に、日本列島のように農耕に適した土地がみな小規模だと、強大な権力による一元支配は必要なかった。島国であるため外敵の侵入を心配する必要もなかったから、軍事的にも大陸に比べ小規模でよかった。そのため日本では、強固な統治イデオロギーによる支配も必要とせず、縄文時代以来のアニミズム的な精神性が消え去ることなく残った。

日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
ヨーロッパでマンモスは、1万3000年前に絶滅した。人類は、姿を消した大型哺乳類のかわりに、森の木の実や小動物を食べて森の中で生活を始めた。しかし1万1000年ごろ、突然気候が氷河時代に逆戻りして、森の資源が減少し深刻な食糧危機が訪れた。森の中で植物利用になれていた人々は、森の周辺に広がるイネ科の草木に着目し、そこで農耕を始めたのである。この西アジアの麦作農耕地帯は、初期から羊、山羊などの家畜をともない、それを貴重なタンパク源としていた。これに対して日本文化のユニークさの一つは、食糧源としての家畜を伴わなかったことである。

西アジアの大草原で人類が農耕を開始したころ、東アジアの日本列島では、ブナやナラの落葉広葉樹の森で、狩猟・漁撈採集民としての生活を開始していた。1万3000年前の日本列島の気候は、温暖化・湿潤化したのである。この頃日本列島でも、大型哺乳類に代わり、サケ・マスなどやドングリ類を食糧とする生活を開始する。これが縄文文化である。ブナ・ナラの森が拡大すると同時に土器も使用されるようになる。土器によって縄文人は、ドングリ、イノシシ、鹿、サケなどを煮て、アクヌキ、消毒、新しい味覚などを伴う新たな食生活に入ることができた。

西アジアの人々とは違い、日本列島の森の中は食べ物が豊富だった。森の中では、物を貯蔵し、人のものを収奪する必要がなかった。所有の概念は強化されず、社会的不平等も顕在化しなかった。大陸で農業が生まれ、都市文明が勃興し、異民族間の戦争が繰り返されていたころ、日本列島では縄文人が1万年近くの長きに渡って、貧富の差も、階級差も、他集団との間の大規模な殺し合いも知らず、森の恩恵の中で自然を崇拝しつつ生活していたのである。この一万年の経験が、現代の日本人の心にも脈々と受け継がれているはずなのである。

巨大な神殿や王宮は、強力な宗教によって可能となるが、もちろん縄文人はそのようものを知らなかった。大陸から仏教や儒教を学び取るときも、これまでの森の民としての経験や必要性に合わせて、自分たちにいちばんしっくりとくる形に変形しながら、それらを取り入れた。

日本文化のユニークさ31:平等社会の基盤
農耕民がもっていた富と余剰労働力が、牧畜民の文化と結びついて都市文明は誕生した。大陸の文明のルーツには農耕と牧畜がある。同じころ縄文人は牧畜をまったく知らず、牧畜民との接触もなく自然と森の恵みの中で生活していた。弥生時代に本格的な稲作農業が入ってきたあとも、牧畜はなかった。これが日本人の精神文化に与えた影響は大きい。

さて、メソポタミアなどで気候変動がきっかけとなり都市文明が生まれた5000年前、日本列島では気象変化によって寒冷・湿潤化に見舞われていたという。関東平野ではこの時代以降、海岸線が30キロメートル以上も沖合に前進した。そのため縄文時代前期の生活を支えた豊かな内湾が消える。代わって縄文時代中期になると、関東西部や中部山岳の八ヶ岳山麓などに遺跡が急増する。内湾の資源をあきらめ、内陸部のナラ、クリ林に依存するようになったためとみられる。

縄文中期には八ヶ岳山麓のような特定地域に、著しい遺跡の集中現象がみられるという。この頃、配石遺構や土偶・土面など呪術や儀礼に関する遺物が多く出土するようになる。しかも、ナラやクリの生育する東日本の落葉広葉樹林帯に急増する。土偶などの遺物が急増するのは、人口の集中や増加による社会的緊張をやわらげるための必要性からだったのではないかと推測する研究者もいる。

縄文時代に都市文明を誕生させるような土木技術がなかったわけではない。三内丸山遺跡の巨木遺構など、縄文時代の巨大な遺構が、最近次々と発見されている。これらの巨大遺構は、人口30人から50人のムラがいくつも集まって共同で作業しないと作れない。それは都市文明の一歩手前の段階とみなさる。にもかかわらず特定の権力をもった王は誕生しなかった。

縄文人たちは、不平等が顕在化したり、富が一部にのみ集中することを意識的に避けたのではないか、そして代わりに呪術や儀礼を発展させて、平和で安定した平等社会を維持したのではないかと、著者は考えているようだ。縄文人が、はたして「意識的に」不平等や富の集中を避けたのかどうかは分からないが、やはり縄文人が基本的には狩猟・漁撈採集の民であったことが最大の理由だったのではないだろうか。そして、日本列島という湿潤で森の豊かな環境のなかで、大陸からの農耕民が一気に大量に押し寄せることもなく、まして牧畜民との争いもなかったために、初期からの縄文人としての生活や文化を大きく変える必要性がなかった。そんな社会と文化を一万年も継続させた経験が、私たち現代日本人のこころの底に流れているのだ。この経験が、現代日本人のあり方に無関係であるはずがない。

《参考図書》
◆『森のこころと文明 (NHKライブラリー)
◆『日本人はなぜ震災にへこたれないのか (PHP新書)
◆『日本の曖昧力 (PHP新書)
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