『世界カワイイ革命 (PHP新書)』のなかで、原宿で話しかけたスウェーデンの留学生が言った言葉を紹介されている。
「日本人は『カワイイ』民族だと思います」
これはどんな意味だろうか。もちろんこの留学生は、日本の印象を直観的にそう表現したのだろうが、そこには日本人は「カワイイ」という言葉に表現されるような考え方や価値観を大切にする民族だという意味合いが含まれているようだ。
著者の櫻井孝昌氏はいう、「カワイイは、それを使用する若者たち、いや若者にかぎらず、それを使用する人にとって、価値判断の基準になっている。『カワイイ』か『カワイくないか』かが、彼らにとっては大事な判断基準なのだ」、と。
もっと言うと、日本発の「カワイイ」という視点からのものの見方が、世界の若者たちの心をとらえ、大きな影響を与えているということだろう。そして、「カワイイ」は、日本発のファッションやマンガ・アニメなどポップカルチャーの大切な一面を表す言葉であり、それら全体がクールなものとして憧れられているのだ。
日下公人氏も『あと3年で、世界は江戸になる!-新「風流」経済学』のなかで、世界が受け入れたオタクやカワイイといった言葉は、単なる表現ではなく、そこに日本人の精神性が反映されており、日本的な文化への憧れが含まれているという。
「カワイイ」という言葉には、もちろん日本人の精神性の一面が色濃く反映されているだろう。2009年09月13日の記事『子供観の違いとアニメ』で触れたような、子供を慈しみ、「崇拝」さえするような日本文化が、その背景にあるのかもしれない。
これもすでに紹介したが、上のような日本と西欧の子供観の違いは、『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』で、幕末から明治初期、あるいはそれ以前に日本を訪れた西洋人の観察の中で浮き彫りにされている。
「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたり、それに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭に連れて行き、こどもがいないとしんから満足することができない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている。毎朝六時ごろ、十二名か十四名の男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれの腕に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。」(イザベラ・バード)
イザベラ・バードの目には、日本人の子どもへの愛は、ほとんど「子ども崇拝」にすら見えたのではないか。まさに子どもの無邪気さのなかに神性を見る日本文化と日本人の特性が、遠い昔からあって、その子育ての姿が、西欧人には驚くべきものとして映っていたようなのだ。
このような日本の伝統が、現代の「カワイイ」文化と無関係であるはずはない。「カワイイ」という言葉が世界の若者のあいだで使われるとき、その背景にある日本人の子供観も、多かれ少なかれ伝わっている可能性があるのだ。
この「カワイイ」論というテーマも、折に触れて続けていきたい。
《関連記事》
★子どもの楽園(1)
★子どもの楽園(2)
★子供観の違いとアニメ
★『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1)
《関連図書》
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)』
★『「かわいい」の帝国』
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』
「日本人は『カワイイ』民族だと思います」
これはどんな意味だろうか。もちろんこの留学生は、日本の印象を直観的にそう表現したのだろうが、そこには日本人は「カワイイ」という言葉に表現されるような考え方や価値観を大切にする民族だという意味合いが含まれているようだ。
著者の櫻井孝昌氏はいう、「カワイイは、それを使用する若者たち、いや若者にかぎらず、それを使用する人にとって、価値判断の基準になっている。『カワイイ』か『カワイくないか』かが、彼らにとっては大事な判断基準なのだ」、と。
もっと言うと、日本発の「カワイイ」という視点からのものの見方が、世界の若者たちの心をとらえ、大きな影響を与えているということだろう。そして、「カワイイ」は、日本発のファッションやマンガ・アニメなどポップカルチャーの大切な一面を表す言葉であり、それら全体がクールなものとして憧れられているのだ。
日下公人氏も『あと3年で、世界は江戸になる!-新「風流」経済学』のなかで、世界が受け入れたオタクやカワイイといった言葉は、単なる表現ではなく、そこに日本人の精神性が反映されており、日本的な文化への憧れが含まれているという。
「カワイイ」という言葉には、もちろん日本人の精神性の一面が色濃く反映されているだろう。2009年09月13日の記事『子供観の違いとアニメ』で触れたような、子供を慈しみ、「崇拝」さえするような日本文化が、その背景にあるのかもしれない。
これもすでに紹介したが、上のような日本と西欧の子供観の違いは、『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』で、幕末から明治初期、あるいはそれ以前に日本を訪れた西洋人の観察の中で浮き彫りにされている。
「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたり、それに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭に連れて行き、こどもがいないとしんから満足することができない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている。毎朝六時ごろ、十二名か十四名の男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれの腕に二歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。」(イザベラ・バード)
イザベラ・バードの目には、日本人の子どもへの愛は、ほとんど「子ども崇拝」にすら見えたのではないか。まさに子どもの無邪気さのなかに神性を見る日本文化と日本人の特性が、遠い昔からあって、その子育ての姿が、西欧人には驚くべきものとして映っていたようなのだ。
このような日本の伝統が、現代の「カワイイ」文化と無関係であるはずはない。「カワイイ」という言葉が世界の若者のあいだで使われるとき、その背景にある日本人の子供観も、多かれ少なかれ伝わっている可能性があるのだ。
この「カワイイ」論というテーマも、折に触れて続けていきたい。
《関連記事》
★子どもの楽園(1)
★子どもの楽園(2)
★子供観の違いとアニメ
★『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1)
《関連図書》
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)』
★『「かわいい」の帝国』
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)』