「日本人の中に、なぜ日本の文化や社会を否定的に見る傾向の人が多いのか」について、今回は少し別の角度から考えてみたい。それは、日本の知識階級のあり方という側面からである。
5~6世紀の昔から、日本の知識人の役割は、大陸の進んだ文明を学んで日本に紹介することであった。書物によって学び紹介するということが多かったが、遣隋使・遣唐使のように危険を冒して、その地に渡って学ぶこともあった。いずれにせよ、自分たちより優れた文明をもつ国が、同時に自国への侵略者でもあるという経験がなかった日本にあっては、学び取られた知識や制度や技術は無条件に尊重され、それをもたらしたり、紹介したりする知識階級の役割も重視された。明治時代になって、学び取る相手が中国から西欧に代わっても、知識階級の基本的な役割は変わりなかった。
このように海外の文物を紹介していさえすれば尊敬された日本の知的エリートにとって、海外の文明がいかに素晴らしいか、それに引き替え日本の文化や社会がいかに劣っているかを強調することはぜひとも必要なことであった。その落差を強調すればするほど、自分の存在基盤が確たるものになり、自分の存在価値が上がるわけだ。そんな情報活動を日本の知識人は、千年以上必死にやってきたのだ。それが多かれ少なかれ庶民の感じ方にまで影響を与えたとしても不思議ではない。
しかし海外の「進んだ文物」を紹介するだけの知的エリートの存在基盤は意外と脆弱だ。世界中のほとんどどの国にも大衆をがっちり支配する知的エリート階級が存在する。しかし日本ではそのような階級はすでに崩壊してしまったか、崩壊寸前だという論者もいる。何とか自分たちの失地を回復したい日本の知的エリートは、日本について悲観論を繰りかえし、大衆を脅しつけることで支配したいのだ。あらゆる格差の中で知的エリートと大衆との間の格差ほど深刻で、根絶するのが難しい格差はない。ところが日本では、この知的能力格差が消滅寸前に近いという。政治家を一種の知的エリートと捉えれば、そのお粗末さは誰もが納得するだろう。 (増田悦佐『格差社会論はウソである
』)
確かに海外の「進んだ文明」を紹介しさえすれば知識階級といわれた時代は、すでに終わっている。にもかかわらず、自分たちの存在基盤を失うのが怖い知識人たちは、相も変わらず西欧を崇拝・礼賛し、日本を不必要に貶め続けるのだ。そうしないと不安を打ち消すことができないのだろうか。
日本のマスメディアも自分たちの国を貶めるのに忙しい。マスメディアにかかわる人々もいわゆる「知的エリート」として、上に述べたのと同様の心理を共有している面があるのだろう。
にもかかわらず近年、日本の若者の意識傾向に顕著な変化があらわれているという。以前、このブログで触れたこともある次のような記事がそれを物語る。(詳しくは日本人の誇り、静かに大きな変化が‥‥参照)
★★★~~~~~★★★~~~~~★★★
8割が「日本人」に誇り 5カ国の青年意識調査(大阪日日新聞:2009年3月28日)
内閣府が28日発表した日本など5カ国の青年に対する意識調査結果によると、日本で「自国人であることに誇りを持っている」と答えた人は、6年前の前回調査より9・1ポイント増の81・7%に上り、1977-78年に実施した調査で聞いて以来初めて8割を超えた。
自国で誇れるもの(複数回答)は「歴史や文化遺産」が59・4%で最も多く、「文化や芸術」が44・7%で続いた。一方、自国人が「国際的視野」を身に付けていると考えている人は、日本が27・8%で最低だった(以下省略)
★★★~~~~~★★★~~~~~★★★
こうした変化が起こっている意味を考えていくのも、このブログの課題だと思っている。
5~6世紀の昔から、日本の知識人の役割は、大陸の進んだ文明を学んで日本に紹介することであった。書物によって学び紹介するということが多かったが、遣隋使・遣唐使のように危険を冒して、その地に渡って学ぶこともあった。いずれにせよ、自分たちより優れた文明をもつ国が、同時に自国への侵略者でもあるという経験がなかった日本にあっては、学び取られた知識や制度や技術は無条件に尊重され、それをもたらしたり、紹介したりする知識階級の役割も重視された。明治時代になって、学び取る相手が中国から西欧に代わっても、知識階級の基本的な役割は変わりなかった。
このように海外の文物を紹介していさえすれば尊敬された日本の知的エリートにとって、海外の文明がいかに素晴らしいか、それに引き替え日本の文化や社会がいかに劣っているかを強調することはぜひとも必要なことであった。その落差を強調すればするほど、自分の存在基盤が確たるものになり、自分の存在価値が上がるわけだ。そんな情報活動を日本の知識人は、千年以上必死にやってきたのだ。それが多かれ少なかれ庶民の感じ方にまで影響を与えたとしても不思議ではない。
しかし海外の「進んだ文物」を紹介するだけの知的エリートの存在基盤は意外と脆弱だ。世界中のほとんどどの国にも大衆をがっちり支配する知的エリート階級が存在する。しかし日本ではそのような階級はすでに崩壊してしまったか、崩壊寸前だという論者もいる。何とか自分たちの失地を回復したい日本の知的エリートは、日本について悲観論を繰りかえし、大衆を脅しつけることで支配したいのだ。あらゆる格差の中で知的エリートと大衆との間の格差ほど深刻で、根絶するのが難しい格差はない。ところが日本では、この知的能力格差が消滅寸前に近いという。政治家を一種の知的エリートと捉えれば、そのお粗末さは誰もが納得するだろう。 (増田悦佐『格差社会論はウソである
確かに海外の「進んだ文明」を紹介しさえすれば知識階級といわれた時代は、すでに終わっている。にもかかわらず、自分たちの存在基盤を失うのが怖い知識人たちは、相も変わらず西欧を崇拝・礼賛し、日本を不必要に貶め続けるのだ。そうしないと不安を打ち消すことができないのだろうか。
日本のマスメディアも自分たちの国を貶めるのに忙しい。マスメディアにかかわる人々もいわゆる「知的エリート」として、上に述べたのと同様の心理を共有している面があるのだろう。
にもかかわらず近年、日本の若者の意識傾向に顕著な変化があらわれているという。以前、このブログで触れたこともある次のような記事がそれを物語る。(詳しくは日本人の誇り、静かに大きな変化が‥‥参照)
★★★~~~~~★★★~~~~~★★★
8割が「日本人」に誇り 5カ国の青年意識調査(大阪日日新聞:2009年3月28日)
内閣府が28日発表した日本など5カ国の青年に対する意識調査結果によると、日本で「自国人であることに誇りを持っている」と答えた人は、6年前の前回調査より9・1ポイント増の81・7%に上り、1977-78年に実施した調査で聞いて以来初めて8割を超えた。
自国で誇れるもの(複数回答)は「歴史や文化遺産」が59・4%で最も多く、「文化や芸術」が44・7%で続いた。一方、自国人が「国際的視野」を身に付けていると考えている人は、日本が27・8%で最低だった(以下省略)
★★★~~~~~★★★~~~~~★★★
こうした変化が起こっている意味を考えていくのも、このブログの課題だと思っている。
満足は進歩の敵だから具体的な目標があるなら
不満はある程度あったほうが良い。
それよりも今は目標となれる国家もしくは地域が存在しないのが問題だね。
古くは中国、戦後はアメリカと先進国の真似だけしていれば良い時期はとうに過ぎ去り
逆に他国の手本にならなければいけない立場。
日本が一番苦手なことですが、それができなければ未来はないと思います。
>日本が一番苦手なことですが、それができなければ未来はないと思います。
確かにその通りだと思います。そして東北大震災と原発の事故は、否が応でも日本に、新しい文明の形を模索することを強いているような気がします。