初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(最終話)

2007年09月30日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?


今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(最終話)です。

≪作曲家の肖像≫
バッハ フルート・ソナタ全集
ブリュッヘン(フランス),レオンハルト(グスタフ),バッハ,ビルスマ(アンナー),ディール(ルーシー・バン)
ソニーミュージックエンタテインメント

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【Johann Sebastian Bach】

ちょっと空きましたが、バッハのつづきは今日が最後です。

(第13話)【ベルリン訪問】
1741年、バッハはベルリンを訪れます。息子が宮廷チェンバロ奏者を務めていたからのようですが、息子の仕えるフリードリヒ大王に会おうとしていたのかもしれません。
しかし、大王はオーストリア継承戦争でベルリンにはいなかったため、バッハが面会する事はできなかったようです。

同年、11月にはドレスデンに旅行しており、このときにカイザーリンク伯爵から作曲依頼を受けてゴールドベルク変奏曲を作曲したと言われています。

1747年、戦争が一段落すると、(っていうのも何ですが)バッハはフリードリヒ大王からベルリンへ招待を受けます。おそらくカイザーリンク伯爵が間を取り持っていたとも言われています。

喜び勇んでベルリンへ向かったバッハは、ポツダム宮殿へ案内され、大王自慢のフォルテピアノ(当時は最新だった)で御前演奏を行うことになり、大王並びに宮廷の一族たちからも絶賛されるのでした。

フリードリヒ大王から絶賛を受けたバッハは、ライプツィヒに戻ると、フルートの演奏がすきだった大王のためにソナタを作曲して、献呈するのでした。

こうして、熱心に各方面に売り込んでいくバッハでしたが、このころから徐々に視力を失っていきます。1749年になると仕事ができないほど重体に陥ってしまうのでした。

これではどうにもならないと、イギリスの著名な眼科医の手術を翌1750年4月と5月に2度受けるのでした。ところが、眼科医と言っても当時の医療ではさしたる回復もする事ができず、結局、その手術によって著しい体力の消耗をしてしまう事になります。

1750年7月、憔悴したバッハは高熱を出し倒れてしまいます。ライプツィヒでも医者が懸命に治療を行ったようですが、その甲斐もなく、そのまま帰らぬ人となってしまいます。享年65歳の生涯でした。


今でこそ「音楽の父」との異名を誇るバッハでしたが、こんなに各地の宮廷や楽団を転々としていたなんて、ちょっとビックリでした。それでも、当時からその実力があってこそ、どこへ行っても、ある程度の地位を得ることができたという事ができるのかもしれません。
音楽家の地位がまだまだ高いとは言えない中で、教会における音楽の地位をそれまで以上に強く意識して、それ以上に音楽自体の価値を大きくしていった作曲家なのかもしれないですね。

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第12話)

2007年09月28日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第12話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
バッハ:イタリア協奏曲
グールド(グレン),バッハ
ソニーミュージックエンタテインメント

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【Johann Sebastian Bach】

さて、「このつづきは明日」と言って中2日空いてしまいましたが、ようやくその続きからです。スミマセン。

(第12話)【ライプツィヒでの苦悩】
1730年10月、平行線をたどるライプツィヒとの関係に業を煮やしたバッハは、若き日にリューネブルクにともに旅立った友人エールトマンに手紙を送ります。

出世していたエールトマンに対して宛てた手紙にはライプツィヒでの不遇を語り、彼を頼って新たな職を求めていたのかもしれません。

しかし、エールトマンから職を紹介してもらえる事は無かったようです。
1731年バッハは、新しい就職先としてドレスデンに目を向け訪問します。ドレスデンの教会で演奏を行うと、大好評を得ることになり、演奏家としてはその名を高めますが、それが即就職に結びつくのは難しい状況だったようです。

更に1733年、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世が亡くなると、これに乗じてバッハはミサ曲を作曲し、後継者のアウグスト2世に献呈します。もちろんこれも選帝侯からお呼びがかかるのを狙っての事でしたが、これも思い通りにはならなかったようです。

更に選帝侯に売り込むため、一族の誕生日や祝典の度にカンタータなどの曲を送り、どうにか取り入ろうとするのでした。

その間、ライプツィヒでの仕事を続ける訳ですが、1734年、ライプツィヒのトマス学校の校長に就任すると、バッハと彼との対立が深刻にになっていきます。副指揮者の任命を巡って激しく争ったりもしていたようです。

また、バッハへの批判はそれのみに留まらず、1737年ハンブルクで新しく発行された音楽雑誌からも、その作風に対して批判される事になります。

こうして、ライプツィヒでは日に日に肩身が狭くなっていくのでした。
一方、それまで売り込んでいたザクセン選帝侯から1736年にようやく「宮廷作曲家」という称号を受ける事ができたようですが、これはあくまでも“肩書き”のみに留まり、バッハがライプツィヒから離れることはできなかったようです。


ライプツィヒから新しい士官を求めて、ザクセン選帝侯に売り込むバッハでしたが、なかなか思うようにならないバッハのようですが…このつづきはまた明日?!(たぶん)

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第11話)

2007年09月25日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第11話)です。


≪作曲家の肖像≫
究極の3分間バッハ
オムニバス(クラシック),ベッカー・フォス(ハンス・クリストフ),バッハ,クラフト(ウォルター),スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団,アドルフ(ヘンリー),ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団,シーゲル(ローレンス),マインツ室内管弦楽団,ケール(ギュンター)
ビクターエンタテインメント

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【Johann Sebastian Bach】

さて、ちょっと間が空いてしまいましたが、バッハの続きです。

(第11話)【ライプツィヒでの対立】
ライプツィヒでカンタータの作曲を熱心に行うバッハでしたが、2・3年すると、どうにかこれも落ち着いてくるのでした。

ようやく落ち着いてくると、バッハもカントル(音楽監督)の仕事に本腰を入れようとします。それまで、礼拝で歌うコラールの選曲は本来カントルの仕事だったはずでしたが、バッハにはこの権限が与えられず選曲は教会の牧師に委ねられていたため、まずはこれを取り戻そうと画策します。

ところが、結局バッハのこの動きは認められず、それまで通りの権限に留まる事になります。

一方、1729年からはこれに代わってコレギウム・ムジクムの指導という新しい職務が課せられる事になります。

コレギウム・ムジクムとはライプツィヒにある学生を中心とした演奏団体の事ですが、これは1702年、テレマンによって設立されたようですが、その後バッハがライプツィヒに来た際には当地のオルガニストが指導を行っていました。しかし、そのオルガニストが1729年にライプツィヒから西の都市ゴータに赴任したため、その後任としてバッハがその任を引き継ぐ事になるのでした。

コレギウム・ムジクムの指導を行いながらこの楽団の定期演奏会で、自作の演奏を行っていたようです。演目としては、チェンバロ協奏曲や管弦楽組曲などが演奏されていたようです。

そんな中、1730年にライプツィヒ市からバッハに対するカントル(音楽監督)としての資質を問うような職務怠慢を指摘した議題が上ってしまいます。バッハはその多忙から、その職務のひとつである授業を別の人物に任せていたため、その事を指摘され、更に、それまでと同様、許可なしに旅行に出かけたりする事を非難さるなど、その他諸々の理由により減法処分をくらってしまうのでした。

これに対抗すべくバッハも市に対して上申書を書き送るのでした。その主な内容は「市の予算不足により演奏に本来必要な人員を確保できず、それを補うために自分は奔走しているが、これを自分ひとりのせいにするのは不当だ。」というものでした。

バッハのこの対応はライプツィヒ市にとっては、当然受け入れ難いものであり、お互いへの理解は進まず、両者の対立が返って浮き彫りになるという結果になってしまうのでした。


ライプツィヒで多忙な生活を送るバッハでしたが、実務は多いものの権限が与えられず、あまり満足できない生活になっているようですが…このつづきはまた明日。

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第10話)

2007年09月21日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?


今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第10話)です。


≪作曲家の肖像≫
バッハ:管弦楽組曲2&3番
ミュンヒンガー(カール),バッハ,シュトゥットガルト室内管弦楽団,ランパル(ジャン=ピエール),シェルバウム(アドルフ),クロツィンガー(ヴェルナー),グラス(ヴィリー),フィッシャー(フリッツ)
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【Johann Sebastian Bach】

いつの時代も男性が女性に影響されてしまうのは同じなのかもしれません。レオポルト侯も、その例に漏れず妻の「音楽嫌い」に影響を受けてしまいます。このままでバッハは大丈夫なのか?!今日はその続きからです。

(第10話)【ライプツィヒへ】
ケーテンのレオポルト侯がフリーデリカと結婚し、宮廷楽団への関心が薄れていくのを感じたバッハは、いよいよ本格的にケーテンを去ることを考え始めます。

1722年、ライプツィヒの聖トーマス教会でカントル(音楽監督)を務めるクナーウが他界すると、バッハはこれに注目します。

しかし、聖トーマス教会が最初に目星をつけたのは、当時ハンブルクに居たテレマンだったのです。ところがテレマンとは、条件面で折り合いがつかず、結局この話は途中で流れてしまいます。

聖トーマス教会は募集を更に続けたため、バッハもこれに応募します。後任の候補者に教会が目をつけたのは、またしてもバッハではなくダルムシュタットの宮廷楽長でした。しかし、ダルムシュタットの君主が宮廷学長を引きとめたため、学長もこれを辞退します。

その後、1723年ようやくバッハも採用試験に漕ぎつける事になりますが、このときは他に2人の候補との競合になります。選考の結果バッハが採用となり、5月にケーテンからライプツィヒに移ることになります。

ライプツィヒに移ったバッハは、音楽監督の仕事と聖トーマス教会付属の学校でラテン語を教えるという仕事もしなければなりませんでした。これは採用時に含まれていた契約で、この契約が辞退者を続出した要因のひとつだとも言われているようです。

そのため、ケーテン時代とは違いかなり多忙な日々の生活を送ることになったようです。教会音楽の盛んだったライプツィヒでは毎週行われる礼拝のためのカンタータの作曲が復活し、音楽監督を務める楽団の練習、教会で歌うカンタータの指導、更にはラテン語の授業等々、めまぐるしいまでの多忙さだった事が想像されます。

こうして、ライプツィヒに来てから2・3年はカンタータの作曲を熱心に行っていたようですが、落ち着いてくると、別の教会に勤めていた従兄から送られてきたカンタータを演奏したり、ライプツィヒに来る前に書いていたカンタータを流用することで、その作曲にもようやく、解放されることになるのでした。


ケーテンから新天地ライプツィヒに来てはみたものの、カンタータの作曲に毎日を費やすバッハ。数年でそれも落ち着いてきたようですが、このつづきはまた来週。

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第9話)

2007年09月20日 | 作曲家の生涯
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今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第9話)です。

≪作曲家の肖像≫
アダージョ・バッハ
オムニバス(クラシック),バルヒャ(ヘルムート),バッハ,リヒター(カール),ルツェルン祝祭弦楽合奏団,フランチェスカッティ(ジノ),パスキエ(レジス),バウムガルトナー(ルドルフ),フルニエ(ピエール)
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【Johann Sebastian Bach】

ハンブルクからのオルガニスト契約を断ったバッハ、ケーテンではその後もうまくやっていけるんでしょうか?今日はその続きからです。

(第9話)【再婚】
結局ハンブルクには行かなかったバッハでしたが、この頃には作曲でも多くの名曲を残していたようです。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ」や「無伴奏チェロ組曲」などの有名な作品の他、器楽作品を多く生み出していたようです。

翌1721年、妻マリアが亡くなってから1年が過ぎようとしていたこの頃、バッハには新しい出会いがあります。

アンナ・マグダレーナは宮廷トランペット奏者の娘でソプラノ歌手をしていた女性です。どのようないきさつかは分りませんが、2人が知り合うと急接近するのでした。
4人の子供を抱えたバッハは、子供たちに母親の存在の必要性を感じたのか?マリアが去った後、自分自身が寂しかったのか?

1721年12月、アンナと再婚するのでした。この時バッハは36歳、アンナは20歳のかなりの年の差婚だったようです。結婚式はバッハの自宅で行われるのでした。

アンナは結婚後もケーテンの宮廷でソプラノ歌手を続けていくのでした。(キャリアウーマンですね。)更にマリアは、バッハの作品の筆写楽譜作業(楽譜を清書したり、パート譜を作成したりする)も熱心に行っていくのでした。

印刷技術がまだまだ発展途上で高価な存在だったこの頃、アンナは夫である作曲家としてのバッハを支えていくのでした。

そして、バッハの結婚から8日後にレオポルト侯も従妹の公女フリーデリカと結婚する事になります。

しかし、レオポルト侯のこの結婚がバッハにケーテンを去る決意を固めさせるのでした。公女フリーデリカは「音楽嫌い」とバッハに呼ばれる程、音楽に興味が無かったようです。

元々規模縮小に傾いていたケーテン宮廷楽団でしたが、このフリーデリカにモロに影響を受けたレオポルト侯は、音楽に対する興味も次第に薄れていくのでした。


ケーテンで再婚相手を見つけ、音楽活動を続けるバッハでしたが、レオポルト侯が結婚したフリーデリカは音楽嫌い。ケーテンでの雲行きが怪しくなったバッハ。このつづきはまた明日。


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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第8話)

2007年09月19日 | 作曲家の生涯
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有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第8話)です。

≪作曲家の肖像≫
バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ全曲
シェリング(ヘンリク),バッハ
ユニバーサルクラシック

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【Johann Sebastian Bach】

ケーテンのレオポルト侯と、保養地カールスバートへ向かったバッハ。その頃ケーテンでは一体何が?!今日はその続きからです。

(第8話)【ケーテンの苦悩】
1720年、レオポルト侯と供にカールスバートを訪れていたバッハが、ケーテンに戻ってみると…、なんと妻のマリアが急逝してしまっていたのでした。
バッハを待っていたのは10歳前後の4人の子供たちだけ、おそらく帰ってきた父親のバッハをすがるような目で見つめていた事でしょう。

このときバッハは35歳、急逝したマリアもまだ36歳ですから当時としても決して天寿をまっとうしたとは言えない若さでした。

バッハが妻マリアを失ったちょうどこの頃から、ケーテンの宮廷楽団は規模縮小に向かっていくのでした。レオポルト侯の音楽に対する興味が薄れてきたのか?あるいはケーテンの財政が悪化していたためなのか?原因は定かではありませんが、宮廷楽団に対するレオポルト侯の力の入れ方が以前よりなくなってくるのでした。

こうなると、バッハのいつもの腹のムシがウズウズと首をもたげてきます。
そしてちょうど同時期にタイミングよく、ハンブルクでは聖ヤコビ教会のオルガニストが亡くなり、その後任を探していたのでした。

これまでの経緯からしても、今のバッハがこれに飛びつかない訳もなくバッハは聖ヤコビ教会オルガニスト採用試験を受けるべく、ハンブルクへ向かいます。

ハンブルクのオルガニスト選考試験は11月末に行われる予定でしたが、12月にはレオポルト侯の誕生日を祝う行事があったため、試験当日ハンブルクに滞在する事が困難な状態だったバッハは、試験前にケーテンに戻る前に、オルガンの演奏会を行います。

この演奏会には当時、巨匠と呼ばれていたオルガニストのラインケンも聴衆として参加していたのでした。そしてこのラインケンがバッハの演奏会を絶賛するのでした。

試験には参加できないまでも、当時97歳のラインケンが絶賛したバッハをハンブルクの試験官も無視する事は出来なくなり、更に試験当日に集まった他のオルガニストの演奏がイマイチだった事も重なり、ハンブルクの後任オルガニストはバッハに大きく傾くのでした。

ところが、ところが、ほばバッハに決まりかけていたこの話を、バッハは断るのでした。
その理由は、後に決まった聖ヤコブ教会の後任オルガニストが教会に対して多額の礼金を支払っていた事から、バッハがこの慣習を嫌っての事ではないかと言われているようです。


妻の突然の死という、急な出来事に加えてケーテンでは何故か宮廷楽団の規模縮小、新たな道を模索するバッハのつづきはまた明日。

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第7話)

2007年09月18日 | 作曲家の生涯
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今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第7話)です。


≪作曲家の肖像≫
ノン・ストップ・バッハ
オムニバス(クラシック),ベッカー・フォス(ハンス・クリストフ),バッハ,ヴェルテンブルグ室内管弦楽団ハイルブロン,フェルバー(イエルク),マインツ室内管弦楽団,ラウテンバッハー(スザーネ),ヴォルホルツ(ディーター),ケール(ギュンター),ジャコッテ(クリスティアーヌ)
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【Johann Sebastian Bach】

ケーテンから宮廷楽長として迎えられますが、ワイマール公からのお許しが出ないバッハ。今日はそのつづきからです。

(第7話)【ケーテンへの道】
ケーテンの宮廷楽長の話がおあずけになったまま、バッハはドレスデンから招待を受けて出かけます。

しかし、帰ってきてもワイマール公の意思は変わらず、バッハのケーテン行きを認めず、ワイマールでの日々を過ごすのでした。

ところが、どうしてもケーテンの宮廷楽長に魅力を感じていたバッハが1717年11月、再度ワイマール公にその話を切り出すと…、

バッハは「解任の強要への固執」を罪とされ、投獄されてしまうのでした。やがて同年12月になると、ようやく解任され解放されるのでした。(要するにクビって事ですね。)

こうして、ワイマールをクビにはなってしまったものの、同時にようやく自由の身になったバッハは家族とともに一路ケーテンを目指すのでした。

1週間後に、ケーテンにたどり着くと、バッハは宮廷楽長として迎えられます。
ケーテンの領主レオポルト候も音楽を愛し、幼い頃から音楽を学び自らも楽器をたしなんでいたのでした。

ワイマールでは教会音楽を中心に、もっぱらオルガンのための音楽を書いていたバッハですが、ケーテンでは信仰上の理由により、教会音楽があまり重視されていなかったため、バッハの音楽も変わっていくのでした。器楽作品を中心に作曲を進めていきます。

また、自ら楽器をたしなむレオポルト候は、ベルリンに豪華なチェンバロを注文し、これを、おそらくバッハ自身も演奏していたのでしょう。ケーテン時代にはこうしたチェンバロを含む作品や協奏曲などを多く作曲しています。

また、音楽好きだったレオポルト候は、当時ヨーロッパ有数の保養地だったボヘミア地方のカールスバートにも、バッハをはじめ、愛用のチェンバロまで持ち込んで、いたという程ですから、よっぽど音楽が好だったようです。

こうして、ともすればワイマール時代以上に厚遇を受けるバッハでしたが…、保養地カールスバートで過ごしている間、ケーテンでは予期せぬ事態が起きていたのでした。


ケーテンの宮廷楽長にこだわるあまり、ワイマール公から投獄の憂き目にあってしまうバッハでしたが、その甲斐もあって?!ようやくケーテンにたどりつきます。
ケーテンで満足のいく生活を手に入れたかに見えたバッハでしたが・・・、この続きはまた明日。

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第6話)

2007年09月17日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第6話)です。


≪作曲家の肖像≫
バッハ フルート・ソナタ全集
ブリュッヘン(フランス),レオンハルト(グスタフ),バッハ,ビルスマ(アンナー),ディール(ルーシー・バン)
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【Johann Sebastian Bach】

宮廷楽師長としてワイマールでカンタータを作曲するバッハですが、少し間があきましたが、今日はそのつづきからです。

(第6話)【宮廷楽長】
さて、ハレ移籍に伴うひともんちゃくがあったものの、ワイマールで活動を続けるバッハでしたが、1716年4月、ハレに大オルガンが完成すると、バッハも招待されてハレを訪れるのでした。ハレでは大歓迎を受けたようですが、このときにもひょっとしたら移籍話があったのかもしれません。
しかし、このときは特に移籍せずにワイマールに戻っています。

同年12月、ワイマールでは宮廷楽長のドレーゼが他界します。ちょっとややこしいんですが、バッハはこのとき“宮廷楽長”ではなくて“楽師長”だったんですね。
例えが正確かどうかはわかりませんが、野球でいうと監督ではなくて選手会長みたいな感じだったんでしょう。

ワイマール宮廷では楽長のドレーゼの後任を決める訳ですが、当然バッハもこの“楽長”のポストを狙っていたようです。
ところが、ワイマール公はまず、アイゼナハで宮廷楽長を務めていたテレマンに後任の話を持ちかけます。しかし、この話がうまくいかなくなると、ワイマール公は亡き楽長の息子ドレーゼ(副楽長だった)を楽長に任命するのでした。

楽長人事が決まった直後、バッハはカンタータの作曲を止めてしまいます。もちろん楽長になれなかった事もあるようですが、ワイマール公のお家事情も少なからず影響していたようです。(一族で仲たがいしてたようです・・・)

1717年そんな中、そんなバッハのいきさつを感じた一族のひとりの姻戚関係のあったケーテンの宮廷からバッハを宮廷楽長に迎えるという話が持ち上がるのでした。

この話はワイマール公(ヴィルヘルム・エルンスト)の甥エルンスト・アウグスト公が持ちかけたようですが、この叔父・甥の仲がかなり悪かったらしく、せっかくのケーテン宮廷楽長就任の話にワイマール公(ヴィルヘルム)が“待った”をかけるのでした。

優秀なバッハを手放すのが惜しかったのも、一因でしょうが、恐らくあてつけがましくケーテンの話を持ちかけたアウグスト公の介入を受け入れたくは無かったんでしょう。バッハのワイマール宮廷辞任を拒否するのでした。(ちょっと大人げないかも?)


ワイマールで厚遇されていたバッハですが、ワイマール公の身内の仲たがい?!から、宮廷音楽家を辞められず、ケーテンにも行けず…、抜き差しならない身動きのとれない状態になってしまいましたが、この続きはまた明日。

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CMのクラシック(その6)

2007年09月16日 | CMのクラシック
たまには、クラシック音楽を聴いてみてはいかがですか?

今日はCMのクラシック(その6)です。

さてテレビでは連日たくさんのコマーシャルが流れていますが、そんなTVCMの中にもクラシック音楽は結構使われています。それをクラシック音楽と意識しなくても知らず知らずのうちに聴いてしまう愉快なメロディを思わず口ずさんでいる事もあるんじゃないでしょうか?

※曲目のリンクはこのブログで書いた記事のページにつながります。

という訳で、次々に登場する新製品と共に現われるテレビCM。そこにクラシック音楽が使われていると、このブログとしても非常にありがたいです。
各社広報担当の皆さん、今後とも是非ヨロシク!


コカ・コーラ:ジョージア:ビンテージレーベル
【曲目:交響曲第25番:モーツァルト】
「やっと会えましたね。」と渡哲也さんと中山美穂さんが意味深に登場するこのCM。
最近よく見かけます。「熟成ついに登場」だそうです。

ハーゲンダッツ:ビターキャラメル
【曲目:パガニーニの主題による狂詩曲(第18変奏):ラフマニノフ】
:「甘いだけの恋は終わりにしよう、ほろ苦い大人のキャラメル。」最初はモノクロの映画みたいな映像が流れ、キャラメルのしずくが落ちるとカラーに変わりスプーンに乗ったアイスを女性が口に含むという、とてもしっとりとしたCMです。

森永製菓:カレ・ド・ショコラ
【曲目:ベルガマスク組曲から「月の光」:ドビュッシー】
商品のパッケージが画面に12分割されたスライドパズルのようになっていて、ひとつずつがスライドすると、そこに映像が現れるというちょっと変わった感じのCMです。
ドビュッシーの曲も手伝って、幻想的なオシャレなCMになってると思います。

ライオン:ストッパ下痢止め
【曲目:ハンガリー舞曲第5番:ブラームス】
このCM、結構前からやってたと思いますが、そう言えばこの曲はブラームスだったな!と思って紹介してみました。
CMではメロディをギターでアレンジしてやってるみたいです。「水なし一錠で効く」突然の下痢にという薬ですね。
(この曲は有名なんですけど、未だに記事書いてないんですね。またそのうちに…)


すっかりおなじみになってしまったこの「CMのクラシック」のコーナー。毎回書いてますが、よもやCMにこんなにクラシック音楽が使われているとは…、知らずにCM見てても実はクラシック音楽だったりするんですね。
今回は、「ハーゲンダッツ」とか「カレ・ド・ショコラ」とかCMを見てて、「この曲なんだろう?」なんて思った人も結構多いんじゃないでしょうか?


【前回紹介したCMのクラシック】



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もくじ (作曲家別J~P 曲名リンク)

2007年09月15日 | ♪ も く じ
おかげさまで結構つづいてきたので、またまたもくじを増やしました。というよりは、ABCの割り振りを変えてみた感じです。

頭文字J~Pの作曲家別です。

A・Bの作曲家・もくじはこちらから
C~Hの作曲家・もくじはこちらから

☆JESSEL【イエッセル】
おもちゃの兵隊の行進曲

☆JOHANN-STRAUSSⅡ【ヨハン・シュトラウスⅡ世】
ワルツ「美しく青きドナウ」 喜歌劇「こうもり」序曲 ♪喜歌劇「ジプシー男爵」序曲
皇帝円舞曲 ♪ウィーンの森の物語 ♪ウィーン気質 春の声 
♪ピチカートポルカ ♪ポルカ「雷鳴と電光」♪田園のポルカ ♪ポルカ「狩り」 
♪トリッチ・トラッチ・ポルカ ♪ペルシャ行進曲 ♪ポルカ「観光列車」
♪アンネン・ポルカ

☆KREISLER 【クライスラー】 愛の喜び ♪愛の悲しみ ♪美しきロスマリン

☆LALO【ラロ】スペイン交響曲

☆LEHAR 【レハール】♪ワルツ「金と銀」

☆LISZT 【リスト】ピアノ協奏曲第1番  ♪ピアノ協奏曲第2番  交響詩「前奏曲」

☆MAHLER 【マーラー】
交響曲第1番「巨人」 交響曲第2番「復活」交響曲第5番

☆MASCAGNI【マスカーニ】♪カヴァレリア・ルスティカーナ「間奏曲」

☆MASSENET【マスネ】タイスの瞑想曲

☆MEACHAM【ミーチャム】♪アメリカンパトロール

☆MENDELSSOHN【メンデルスゾーン】 
♪交響曲第3番「スコットランド」
 交響曲第4番「イタリア」 ♪交響曲第5番「宗教改革」
♪弦楽のための交響曲第1番 ♪弦楽のための交響曲第10番
ヴァイオリン協奏曲 ♪ピアノ協奏曲第1番劇音楽「真夏の夜の夢」

☆MOZART【モーツァルト】
歌劇「魔笛」 歌劇「フィガロの結婚」 歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」
♪交響曲第25番 ♪交響曲第29番 ♪交響曲第31番「パリ」交響曲第35番「ハフナー」
交響曲第36番「リンツ」♪交響曲第38番「プラハ」 ♪交響曲第39番
交響曲第40番交響曲第41番「ジュピター」
♪ピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」 ♪ピアノ協奏曲第10番(2台のピアノのための)
ピアノ協奏曲第20番 ピアノ協奏曲第21番
♪ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」
♪ヴァイオイン協奏曲第4番 ♪ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」 
♪ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲
クラリネット協奏曲 ♪フルートとハープのための協奏曲  ♪ホルン協奏曲第1番
♪オーボエ協奏曲 ♪ファゴット協奏曲
ピアノソナタ第11番「トルコ行進曲付」♪ピアノソナタ第12番 ♪ピアノソナタ第13番 
ピアノソナタ第15番
♪2台のピアノのためのソナタ
♪ヴァイオリンソナタ第25番♪ヴァイオリンソナタ第32番
♪弦楽四重奏曲第17番「狩」 ♪弦楽四重奏曲第19番「不協和音」 ♪弦楽五重奏曲第3番
♪フルート四重奏曲第1番♪クラリネット五重奏曲 ♪ピアノと木管楽器のための五重奏曲
セレナーデ第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 ♪ディヴェルティメントK136
 
♪音楽の冗談  きらきら星の主題による変奏曲

☆MUSSORGSKY【ムソルグスキー】組曲「展覧会の絵」

☆NECKE 【ネッケ】 クシコスの郵便馬車

☆OFFENBACH【オッフェンバック】
喜歌劇「天国と地獄」序曲  
ホフマンの舟歌

☆PACHELBEL【パッヘルベル】カノン

☆PAGANINI【パガニーニ】
ヴァイオリン協奏曲第1番  
♪ヴァイオリン協奏曲第2番 24のカプリース

☆PROKOFIEV【プロコフィエフ】
♪交響曲第1番「古典交響曲」

ピーターと狼  
♪バレエ音楽「ロメオとジュリエット」 ♪組曲「3つのオレンジへの恋」
♪組曲「キージェ中尉」


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